北摂多田の歴史 

   多田 秋庭氏


 この本は多田院にお住まいの秋庭氏が家にある過去帳や古文書から遡り家系図を作り、且つ「多田院文書」から「摂津守護代秋庭備中守元明」の書状を見つけ、秋庭備中守元明は先祖ではないかと探求する過程が記述されている。






 この本から纏めた「多田秋庭氏の家系図」である。秋庭家は多田院村に10軒程度あったそうだが、秋庭氏の家は多田院西門の側にあり、母屋は多田院東門側にあるという。母屋の「秋庭治郎兵衛」が寛政八年(1797)の「多田院長谷川侍一統申合」に名前があり、又、文化五年(1808)の「多田院長谷川侍一統申合」に「秋庭喜左衛門」の名があるところから、秋庭家は江戸時代には、多田院別当に仕え多田院の諸行事に供奉していた武士(年俸10石)であったことが分かる。

家紋は「三つ引両 」だという。

  

 『かわにし川西市史』にある、(左)は寛政八年(1796)の長谷川侍 (右)は文化五年(1808)の長谷川侍である。

 余談だが、(左)の「寛政八年(一八九六)とあるのは(一七九六)の間違いである。又、「平井九郎左衛門、今中平蔵、中西次郎右衛門、牛谷理右衛門、西村喜兵衛、清水平七、前野善兵衛(以上東多田村)」とあるのも間違いで、「平井九郎左衛門、今中平蔵、清水平七、前野善兵衛」は(新田村)とするべきであり、校正ミスと思われる。



 『かわにし川西市市史』から「多田院文書」の「守護代秋庭元明書下」の活字化である。秋庭氏はこの摂津守護代「秋庭元明」が先祖ではないかと調査してまとめたのがこの本である。





 『高梁市史』


「高梁市史」


 『高梁市史』によれば、相模国の三浦氏の一族である秋庭三郎重信が「承久乱(1221)」で戦功があり、備中国上房郡有漢郷の地頭に補せられた。秋庭重信は有漢郷貞守に「台ヶ鼻城」を築き居館とした。延応二年・仁治元年(1240)には臥牛山の大松山に城(松山城)を築き、本拠地としたという。

秋庭三郎重信-------又四郎重村宝治元年(1247)三浦泰村追討時有戦功-------平六重連-------小三郎重継-------三郎重智元弘(1331)

家紋は三つ引き両

                                           
 『高梁市史』によれば、秋庭三郎重信は秋庭二郎義方の弟ではないかとしている。

「桓武天皇---高望王---良文村岡五郎--忠頼 ---平忠通(源頼光に仕える)---為通---義継---津久井義行---三郎義光---秋庭二郎義方---義高」と続く。

『高梁市史』のこの系図の「忠瀬」は「忠頼」の間違いと思われる。

『高梁市史』より




 『高梁市史』によれば、秋庭肥後守重明は備中の守護で備中松山城主だった高師氏の曾孫高越後守師秀の守護代であったが、正平17年(1362)山名時氏が備中に進出してくると、山名方に属し、城主の高師秀を備前德倉(こくら)の城に追いおとし、松山城主となった。

秋庭三郎重明(不詳~1384)-----八郎頼重(不詳~1414)-----平之允頼次(不詳~1428)-----備中守元明(不詳~1475)-----元重(不詳~1509)


家紋は三つ引き両

秋庭備中守元明

 正長元年(1428)備中松山城主となった。嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍足利義教を殺害する事件が発生した。「嘉吉乱」である。秋庭備中守元明は細川勝元の赤松討伐軍に加わり播州蟹坂から白旗城へと赤松満祐を追い詰め戦功をあげた。文安二年(1445)細川勝元が管領になると、秋庭元明は京に屋敷を構え細川勝元に重用されたという。「応仁乱」では東軍細川勝元方に付き、浦上則宗と共に「京都東山岩倉の戦い」で戦功をあげた。この頃には備中の守護代に加え、摂津の守護代に任命されたという。この時の摂津の守護は細川勝元である。

秋庭備中守元重
 父の後を継ぎ、管領細川政元に仕え、長享元年(1487)将軍足利義尚の佐々木討伐に従軍した。明応元年(1492)将軍足利義材の佐々木討伐にも従軍し、永正六年(1509)に没した。


「秋庭氏関係の施設を示した有漢町の地図」 『高梁市史』より







『應仁別記』 東山岩藏合戦之事



東山岩倉合戦之事
 山名方の大内介正弘が上洛すると聞こえければ、「摂津国に於いてこれを相支えるべし」とて、細川方は時の摂津守護代である秋庭備中守元国(元明)に赤松衆を相そえて差し下す。故に、所々に要害を構えて挑み禦ぐといえども、内藤が如く無勢なりければ、大内介は洪水に小堤を切るが如く、押し破って上洛しける。その時、伊予の河野が後陣をつとめていたので、赤松衆は「井鳥野」にて河野衆と一戦を交えたところ、先陣がこれを聞き引き返して小勢の赤松軍を包囲したが、一方へ斬り抜けて脱出した。先度、環橋の合戦を為勝し人、皆称美して云う「赤松衆なればこそ、わずか三百ばかりにて四、五千の敵に取り巻かれては切抜けたれ」と称美した。この時、魚住は討たれにけり。その後、摂津衆は大内を禦ぎ得ずといえども、そのまま国に留まるべくもなく、敗北した赤松衆と示し合わせて京都へ向けて追撃する。東寺より大宮を上り、讃州河野陣へ攻めかかろうと五条まで前進したが、讃州陣もこれに気づき攻めかかってきた。山名方も加勢して攻めきたので、防戦しょうとしたが、相手方は五条の東、六条河原へとなだれ込んできたので、細川方は三十三間堂の北に退却して、汁谷を超えて、山科を経て、南禅寺の上なる東岩藏に陣をとった。日も既に暮れたので辺りの材木をくべて数万の篝火を炊いたので、京中は昼間のように明るくなった。山名方はこれを見て「皆の衆、彼方へ攻め寄せて撃ち落とそうではないか」話し合い、九月十八日の夜明けを待ちかね押し寄せた。兵書に「相図違則無利軍」と云うが如く、諸勢の攻め口がバラバラで諜わずして、最前に大内方、




南禅寺より攻め登る。山の上には寄せ来たる大勢の敵を見て、既に「藤の尾」超えに三井寺へ取りうばおうとし、嶮難をつたいただ一筋に攻め登る間、細川方は「いざや石を頽さん」とて、大内方めがけて大石を投げかければ、さしもの剛なる大内衆もたまらず谷底へと潰えにける。その次に、山名衆は粟田口日岡峠から攻め登る。これも一ヶ所から登ってくるので前のように磐石を崩しかける。これも留まらず引き退く。三番に畠山の一族衆、遊佐・誉田を先として、山科口より攻め登る。城の中には前両度の敵を追い落として心勝にのる故に、嶮しき峰より切り崩す事は、さながら龍田・泊瀬ノ山下風に紅葉を散らすごとく也。その後、半時ばかりあって、甲斐・朝倉衆は如意ヶ嵩より下しけり。谷深く隔たれば下り渡りて潜むところを、石礫にてぞうち退けにける。「若し、諸口同時に攻め登るものならば、城中は一支えささえまじきものを」とぞ申しける。その時、猛勢につきて洛中洛外の物盗り・悪党共乱れ入て南禅寺を壊りとり、粟田口には花頂・青蓮寺等の諸門跡、北は元応寺・法城寺・岡崎の諸寺院なり。去れば、「京中こそ戦場となりぬるとも、東山南禅寺辺りは何事かあるべき」とて、京中の重宝財産をは皆東山へ隠し置きしに、計らずこの如く成り行く事、洛陽同時に滅亡の時節とぞ見えにける。去るほどに、諸大名の軍勢と京中辺土の乱暴人、乱れ入て数日を経てとる間、諸商人これを受けて、奈良と坂本には日市を立ててぞ売買しける。就中、岩藏山の城衆は勝鬨をあげて神楽岳を経て温玉御霊口へと入りける。去るほどに、右京大夫勝元は八月十八日に香川・安富・秋庭等長者の衆を花ノ御所の四足へ喚んで曰く、「旁々は未だ聞かれずや、殿中の中に、敵と




同意の族ら数輩これ在り。密々に案内を通じ、筹策を廻すと聞く。然らば、この趣が将軍の耳に達し、彼怨みを殿中に出さずんば、必ず不思議出来と覚ゆなり。この分、如何か有らん」と申されければ、その時、長者ども仰天して曰く、「談合も評定も子細による事に候。そもそも、この義は弓矢を取る程の火急の事に候はずや。若し、これを擬議する所ならば、必ず列火の中を隻履(片方の草履)を履いて走ること、案の内(計画通り)なるべし。去れば、天が与えるものを取らぬは反ってその咎を受けることになる。時至って行わずば、反ってその災いを受けることにて候、片時も猶予致さず、すばやく上意を軽んずることなく、かの反逆の衆を追い出されるべきなり、いざや人々、諸卒を相催し、まず、公方の警護を致さん」とて、相ふれにければ、半時の間に極めて優れた具足衆五、六千こそ馳せ寄りけれ。その衆をもって則、花の御所の四方を取り巻き、諸人の出入りを選り分けて、この御所の中におわせ給う公家・上﨟女房衆・外様の人々は「何事ぞや」とて、肝を潰し、魂を失い給うところに、勝元より民部丞教春をもって、くだんの子細を上意の御耳に入れられる。しかれと雖も、誰かの身の上に何かあるのではないかと、上下共に息を詰め、気を込めて侍らわれける。ややありて、上意より三条大納言公春卿・吉良右兵衛佐義信両人を以て仰せ遣わしけるは、「今日殿中祗候の仁、数輩これあり。然るに、この衆ことごとくもって勝元に野心を含むか、否や。若し、ことごとく野心を含まざれば、早速謀反人の交名(記名リスト)を記し言上せしむれば、上意によってその出せし叛人を退かされるであろう。故無く、清花雲上の賓客とも謂わず、見目麗しい淑女の上﨟衆と謂わず、雑人原が狼藉を振るまうの条、これ何事ぞや。すべて敵一味のたぐいらの姓名を書いて言上し、速やかに出入りの障りを停止すべしと云々。


【考察】
 秋庭氏は三浦氏の傍流で、清和源氏ではなく桓武平氏であるこことが分かった。多田秋庭氏の家紋も高梁秋庭氏と同じ「三ツ引き両」であり、多田秋庭氏は高梁秋庭氏の秋庭備中守元明(不詳~1475)、元重(不詳~1509)父子の傍流と考えられるが、秋庭次郎兵衛(1796長谷川侍)、秋庭喜左衛門(1766宗門改帳)までの260年間位の流れが明確ではない。この間の史料が発見さることを期待したい。

桓武天皇--葛原親王--高見王--高望王--村岡良文--忠頼--忠通--三浦為通--義継--津久井義行(仕源頼朝)--義光--秋庭重信--重村--重連--重継--重智---(不明)---重明--頼重--頼次--元明--元重------(約260年)------

--重市郎--治郎兵衛-- 治郎兵衛-- 治郎兵衛-- 治三郎
--喜左衛門--喜左衛門--喜左衛門--喜左衛門--治兵衛



【Episode1】

 上司小剣の短編集『生々抄』の中の「笙の怪異」という短編に「秋庭榮司」という人物が登場する。多田神社の北東に当たる場所に「祢宜町」というところがある。多田院の八人の禰宜がすむ屋敷があった。福本氏、清水氏、秋庭氏、山本氏である。・・・抜粋「昔の社家は一件も離散せず、貧しいながらも神社の近くに八件の長屋門を並べて、大祭には一人残らず手傳いに來て、祭員や樂人を勤めるのである。」

 短編のあらすじは、彼らは多田院の祭礼で楽士も努めていたが、あるとき笙を担当していた秋庭榮司が熱をだして他に笙を吹ける者がなく、神主である父が武丸(著者がモデル)を呼んで代わりに笙を吹くようにと言いつけるのだが、武丸は神主の学校でサボっていたために笙が吹けないのであった。父には笙が吹けないとは言い辛く、榮司に相談すると、榮司は祭礼の時に吹く真似をしていろという・・・」。・・・抜粋「お鶴は片手で眼を拭き、長屋門の外まで送って來た。母屋は疾くに賣り拂ひ、門に附属した六畳の一室に住まって、お鶴は麥稈編みの内職を、榮司は一日一囘の郵便配達をしてゐるのである。八軒の社家で母屋を保存してゐるのは。五件しかなかった」。明治になって、朱印地の五百石が召し上げられて、多田院別当は多田神社の神主になり、社家の手当も削られた。多田院別当に仕えていた長谷川侍もお役御免になり、10石の扶持米もなくなり、借金で暮らしを支えていた家もあった。

 

上司小剣は『生々抄』に当時の多田の人々をモデルに小説を書いている。「梅ノ坊物語」「石合戦」「老僧」「山寺の和尚さん」「寺の客」「思い出の僧の群像」である。




【外部リンク】

高梁歴史人物辞典 秋庭重信(1) 秋庭重明(2) 秋庭頼重(3) 秋庭頼次(4) 秋庭元明(5) 秋庭元重(6) 参照

秋庭氏累代の墓 左のメニューから「台ヶ鼻城」も参照

備中松山城




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