大昌寺・曹洞宗鶴林山大昌禅寺塩川氏所縁の寺


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大昌寺梵鐘

 

大昌寺梵鐘の大銘

 原文
摂州河邊郡多田村立川里鶴林山
大昌寺鐘銘曰夫當山開祖心崇
良專禅師者越中之人也并引
受業於大徹禅師嗣法於良專
禅師而得法之後長養于多田
山中道風浄顯緇素向風時塩
川伯耆守秀仲公服師道
()宝徳
年中於笹部村創大昌寺請為
第一開祖世傳師專有慕立川志
故字地立川云到其玄孫世属戦
國寺法倶微矣永禄之間秀仲公
八世孫塩川伯耆守國満公服膺
其四世庵和尚而殿有皆一新之
其嫡長満公歿後失外護之資
百事皆廃焉寛永之初有積
翁禅師有再披其荒興其法
百廃復古是以称中興延宝丙
辰冬故其嗣白室禅師之欽化
予尋續其芳塵遂幻寄矣
今冬将結制法器不可不備以故
勧化諸家奔走門下陶鋳一鐘
以箰籚於楼上銘曰


 鋳成鐘 晨昏呂能鳴

 諸檀力 吾門之典則
 爾懿徳 不可得而識
 海變田 鯨音無盡時

  延宝第八歳舎庚申春時正月
  洞山正宗鶴林山大昌禅寺
    義峰節走筆
  鶴林山大昌寺現住麟峯禅師

改鋳洪鐘銘并序

麟峯禅師語序曰本寺開山心崇和尚
者實出越之人立川開山大徹和尚之
嗣闇堂大和尚之門故以立川名本
寺舊址及下流盍欲令学徒観無
弧之有源且知自心ノ霊源亦不嘗
掲也至寛延間法兄大圓来主院
事移寺於此増其所未有者新
其所己壊者然不曽更其舊址
之名是立川者乃本寺肇基也
盍迢開闢以来延宝初禅林所宣有
者大都無不備而唯
洪鐘是以
延寶間住僧義峯作之資禅誦
益力佛事歳月既消磨所作之
鐘将毀声沙焉劣徒獲麟欲改
鋳之早己作古因昌其衣鉢且
捐予衣資以其志乃改作之以
資其冥福也雖既有義峯之所
撰銘及引不可無再造之銘乃請
於予禅師者予ノ舊知也
不應辞因序其所語以為之銘曰


 立川出世  如日湧東
 心崇継之  其化彌隆
 金剛正體  空而不空
 全滅即生  音聲最雄
 来扣不盡  應合無窮
 遂入寂定  能所倶融
 在声性中  声振幽顯 
  聞者不同    冥途停苦
 人間発蒙  発心大土
 親證圓通  無心利生
 不宰其功
  
  安永三年甲午春正月

  鳳林沙門 大心撰
  天満緝熙
  丞民壽考
 安永三甲午四月十一日
  鶴林山大昌十五代
  麟峯獨趾
  願主獲麟玉蹄上座
  治工大阪西高津住
  大谷相模藤原正次

摂津国川邉郡多田村立川の里鶴林

大昌寺鐘銘に曰く、それ当山開祖心崇
良專禅師は越中の人也、大徹禅師から教えを受け
その法統を嗣続して、仏法の真理を会得して後
さらに修行に励まれた、ここ多田山中に宗祖
道元禅師の教えが浄顕し、僧侶も世俗も帰依した、時に塩川伯耆守秀仲公その教えに従って、宝徳年中笹部村に大昌寺を創建されて、禅師は請われて
第一開祖と為された。世に伝う、師は専ら立川の
志を慕い、故に、字地を立川と云う、その玄孫に
至り、世は戦国に属し寺法ともに衰えてしまった、永禄年間、秀仲公八世の孫塩川伯耆守国満公は当山第四世庵和尚を常に心にとめられ寺殿を改修一新された、国満公の嫡男長満公没後は庇護を失い、皆全て
廃れてしまった。寛永の始め、積翁禅師と云う人
有り、師は廃れていた寺を再興し、再び法統を興す、これを以て中興と称す、延宝四年丙辰年冬、其の
嗣白室禅師がお亡くなりになり、私は禅師の芳塵
を尋ね続け遂にその遺徳が現実となって顕れた、
今冬、将に中興されたとは云え、結制の法器は未だ
揃っていないので、諸家を勧化し、門下を奔走して、鋳一鐘を陶し、以て鐘楼を建てる、その銘曰く、

 
鐘を鋳成し朝に黄昏に呂よく鳴れり
  諸壇の力は吾が門の典則なり
 汝の懿徳(いとく)は得べからずと知る

  海は田に変じ鯨音は時尽きることなし

  延宝八年
(1680)庚申春正月
   洞山正宗鶴林山大昌禅寺
     義峰節走筆
  鶴林山大昌寺現住麟峯禅師

大釣鐘改鋳の銘並びに序
麟峯禅師語序曰く、本寺開山心崇和尚は実に出越の
人である、立川開山大徹和尚の嗣弟子闇堂大和尚の
門故に立川と名づく、本寺の旧址と後の先人達禅門を
学ぶ徒は無孤の身の生まれ出でたる仏の世界を観ぜし
めんと欲し、且つ自心の霊源を知るも亦、元よりそれを
内に秘めるたる也、寛延年間、法兄大圓禅師来院し

寺務をとる、寺として未だ足りないもの多くあるも、
おのずから壊れたものもなく、旧址の名である
立川は乃ち本寺の礎なり、なんぞ遥か開闢以来

延宝の初めまで、禅林と宣べる所有るは概ね不備無
も、唯ここに大鐘が無かった、是を以て延宝の

住僧義峯之を作り、禅誦のもととなし、益々仏事に
励む、歳月が流れて、つくるところの鐘の音にくも

りあり、劣徒獲麟和尚すでに早改鋳しようと、大
鐘作られた意に鑑み、さかんにその衣鉢を改めんと
欲し予の衣資を以て絹を差し出す、その志のち改め
て、義峯禅師の冥福の資を用いて作る也、既に義峯
禅師の撰する銘有るも、新たに銘を引くに及んで
再造の銘を師に請ふたが固辞された、師と予は旧知
であり、因って師の語る所を以て序と為す、銘曰く

 立川の出世とす  東に湧く日のごとく
 心はこれを崇めつぎ その弥弥(いよいよ)隆と化し

 金剛の正体は空にして空ならず
  すべて滅すれば即ち生ず 音声最も雄たり
  来り扣(たた)けど尽きず まさに無窮と合すべし
  終に寂定に入り よく倶(とも)に融する所
  声は性仲にあり 声は幽顕を振るう
  聞者は不同なり 冥途は苦を停め
  人間は蒙昧より発し 発心は大土なり
  親しく圓通を證す 無心は利生なり
  その功宰らず
  
  安永三年甲午春正月

  鳳林沙門 大心撰
  天満緝熙
  丞民壽考
  安永三年(1774)甲午四月十一日
  鶴林山大昌十五代
  麟峯獨趾
  願主獲麟玉蹄上座
  治工大阪西高津住
  大谷相模藤原正次 

梵鐘絵図
 大鐘を太平洋戦争の弾丸作りに仕方なく供出したが、奇跡的に助かり持ち帰る。昭和二十年九月頃、大昌寺の大鐘が神戸港に残っているとの事、早速、洞上源透和尚と一庫の臼谷太一郎氏は暑い中探しに行く。神戸港の砂浜にあると苦労して分かった。大喜びして、早速手続済み次第持ち帰った。




大昌寺の観音さん



金銅救世観音の尊像
境内西手の観音堂は鉱山師観音として信仰を受けていた。山下銅吹時代は大繁盛して、遠く山師は参詣した。





大昌寺観音石仏巡礼

大昌寺裏山から善源寺にかけて観音石仏が配置されている


案内書が作られました。

 
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三十一番
 
三十二番
 
三十三番
 
 
番外
 
番外
 
番外
 
役行者像
 


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