北摂多田の歴史 

藤原仲光と幸寿丸

藤原仲光は美女丸の身代わりとして嫡男幸寿丸(源華正洞大居士)の命を絶ったために、娘婿である塩川満任を嗣子としたが、主君満仲公は仲光の忠義を知ると、早世した長男満正公(まんしょうこう)の遺児である源次丸と源蔵丸を仲光に授け、満正公の遺領波豆を含む十五か所の領地と虚空蔵菩薩を与え、多田仲満と名のることを許した。さらに、実弟太宅光正の次男幸若丸と一族の井上氏から満井仲正が仲光の猶子となった。源次丸は多田(上津)姓を名のり、源蔵丸は藤原(藻井)姓を継いだ。(摂州多田塩川氏と畿内戦国物語)


『前太平記』より



「満仲公、公達の中の一人出家なさしめんと思ひたち給ひ、十五歳の美丈丸を出家さしむべきとて、近き中山寺の善観と云う貴き僧に預け置き給ふ。日を経て満仲宣ひけるは、「久しく美丈を見ず。学問能く勤めけるや相見てん」とて召されけるに、案に相違して一字をだにも得給はず。斯かりし程に、以ての外に悪行盛んにて其の挙動僅か十五歳の子腕にて為すべき事とも見へざりけり。何様にも天狗の見入れたるにこそとて恐れ合えり。満仲やがて仲光を召して、「今当然の罪を罰せずば頗る国家違乱の兆し、之を忽せにすべからず。早く美丈の首を見すべきなり」と宣ひければ、仲光「御言葉を返す条、恐れ有る事に候へども、仲光預かり進らせて、頻りに至諫を納れ候べし」とて御涙咽び給ふ。満仲聞こし召し「仲光慥かに承れ。父子の慈愛深切なりと雖も、豈一人の為に法を乱さんや。今、美丈を誅すに非ず、唯其の不孝不義を誅す。重ねて申す事なかれ。疾くとく首を見すべし」と奥にぞ入らせ給ひける。美丈御前は仲光が帰り来たるを待ち受けて「御気色は何と有りつるぞ」と問い給ひければ、「甚だ御憤り深く、御勘当の事ご容赦の御詞なく候。横川の源信少僧都の御弟子と事へさせた給ひ、時節を以て、父上の御前好きに沙汰いたすべきにて候」と勧めば、美丈御涙の下よりも我が悲しみの余り打ち塩垂れてぞ坐しける。斯かりける処に、満仲御使いを建てられ、「生害の事何とて猶予仕るぞ」と責め給ひける。爰に仲光が一子の幸寿丸と云う者有り。幸寿嬉し気に「幸いかな、君のため、父のために、忠孝を存じ死なん命。戦場に臨んで敵と死を争ふ。今君父の為に頸を伸べて命を致す。其の用異なりと雖も、共に以て同じかるべし。早く我が首斬って若の御首と陳じ申され頭殿の御憤りを止め給へ」と。(前太平記)


美丈丸狼藉


仲光、幸寿丸の首を美丈丸の首と偽り差し出す。

 満仲、仲光を召して、「久しく幸寿を見ざりし故、如何にと尋ねつれば、病死せりと申せしすを、少心に勇にも義を守って命を致す。汝父子が節義に過ぎず。称嘆するに言なし。而るに一人の愛子失ひ、㷀独となれり。茲に出羽介満正の子汝が子とし一家相続せしむべし」とて、波豆川庄を割き分けて仲光にぞ下し賜りける。(前太平記)


源賢阿闍梨(美丈丸)親子対面の儀







『源花山 正洞寺誌』熊谷忠興著より




源花山正洞寺の幸寿丸の像


源花山正洞寺の幸寿丸の辞世の句

 君のため 命にかはる後の世の 闇路をてらせ 山の端の月

 あだし野に 終におくべき露草の 身は幸いの 命なりけり



【参考文献】源花山正洞寺誌 熊谷忠興著

 

『高代寺記』

高代寺は天徳四年庚申七月建立、二月廿四日より事始、七月廿四日ニ本堂脇坊悉建、開山寛空、満仲此比は天台宗ヲ崇給フトイヘ共、御父真言宗にて御座候故、以寛空開山とセラル、本尊薬師ヲ安置、大師之作ト云伝フ、十二坊有り、第一ヲ薬師院、二杉本、三東之坊、四教覚、五橘、六常覚、七閼伽井、八尾崎、九一人、十福寿、十一大膳、十二井ノ上、是薬師之十二天ヲ表ス、十二之内、四・五・六・十一・十二は満仲公譜代之侍、紀ノ三郎ノリスミ、橘五常スミ、大膳四郎アキサタ、井上六郎ムネノフ、皆藤原仲満一族也、幸寿丸の別れを悲ミ発心シ、爰カシコニ有ヲ招キ寄、十二坊ニ加入セラル

 

延祚三年春、満仲ノ御夢中ニ思ひ事アリ、幸寿丸三十三回ニ当ル故、昔ヲ思ひ出サレ、当山中ニ幸寿丸の弔ヲ罷建、祥月毎ニ文殊堂ニ代参被遊、経読被仰付、或曰、幸寿丸弔ハ圓覚院にて被行故、当寺にてハ略之、或伝ニ、正暦二年辛卯春也云伝フ、其後又長元二己巳ノ其時ノ看主橘坊夢ノ告有トテ、典厩之御弔、山ノ尾谷ノ間ニ拵、是モ三十三回ニ当リタモフ、是よりい後毎年ノ御命日ニ十二坊畫ク其弔ノ処ニ罷参、且ツ大日堂にて経読有之ト云伝フ、典厩満仲公ノ御事、又曰六孫王ノ七宝ハ六宮ノ蔵ニ納メ玉フ、一説ニ本堂之後に宝蔵ヲ建、蔵サセ玉フトモ申、七宝ニ口伝有り、略之、寺務凡如先トイヘ共、其後代々住持且地頭之忌日修之、替故不委、幸寿丸忌日ハ天徳三己未年四月廿五日也、或伝ニ十一月廿三日トモアリ、

 

幸寿丸ハ天徳三己未(九五九年)四月廿五日、更リテ美女御前ニ死滅ス、寂後ニ母ノ方ヘトテ、満願寺ノ僧中ヘよミテ遣シケル、

君か為命にかはる後の世の やミをハてらセ山の端の月

 

『高代寺日記』上

十二坊ヲ建ラルゝ、其第一坊ヲ薬師院ト名、二杦本坊、三東ノ坊、四教覚坊、五橘、六常覚坊、七閼伽井坊、八尾崎坊、九一人坊、十福壽坊、十一ハ大膳坊、十二井上坊、皆是十二天ヲ表ス、但十二坊ノ内四・六・十一・十二坊ハ皆、典厩ノ譜代士紀ノ三郎教覚・橘五郎常覚・大膳助四郎秋定・井上ノ六郎宗延、各々中務カ一族也、香寿丸カワカレヲ悲歎シ爰カシコ山寺ニ居ケルヲ呼寄、十二坊ニ加入シタマフ、其外院ニ社家()田仲光一族アリ

 

長承元年(一一三二年)壬子、正月、忠実内覧ヲ蒙ル、如恒例、傳曰、去年義綱子共佐渡ニ亡、父ハ前ニ病死スルト云傳フ、三月十三日、得長壽院成ル、故十三日供養、導師地主権現ノ應化ナリ、平忠盛(正盛子・清盛父)奉行ス、故ニ但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス、同月、頼重多田院赴、皈ニ源傳カ宅ニ枉駕玉フ、四月、頼重金竜寺ニ参、五月、信教ト云賣僧死ス悪人、六月、頼重愛宕詣、七月十四日、普賢堂(仲光)百五十回、誓岩勤、

 

保延四年(一一三八年)戊午、正月三日、正東(仲光)・小童(幸寿丸)ニテ百五十回弔門中

 

満仲卿左馬寮ノ頭タルトキ、藤原中務ヲ信濃ニ遣シ、此ヱンコウ牧支配サセ給フ、後仲光ヲ主代殿ニ置タマ井、其号塩河ト改タマイシ、比ヨリ仲光カ妻ノ弟紀四郎ト云者又塩河ノ牧ヘ遣シ、終ニ其辺ニ一庵ヲ立、猿猴ト云字ヲ音ニ合テ、前ノコトク塩河寺ト付ラルゝ、又或説ニ中務(貞信)馬芸ヲ大ニ得タル故年老ノ比遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧ニ赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一庵ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云、代々此ヱンコウノ牧ヘハ順行セラレケルトソキコヘシ、コレ當家名字発起ノ牧ナリト云傳、

 

『高代寺日記』下

藤原長光カ家ヲ主代殿トシ、源賢ヨリ続傳スヘシト云ル、源賢沙門ナル故ニ血流ナシ、依テ頼仲ノ家ヲ源賢一同ト定ム、長光カ一族悉沙門トナリ、高代寺・仲山寺・勝尾寺・聖道寺ニ住ス、長光ヲ後仲光ト改ム、コレ両卿ノ名乗ヲ一字ツゝカタトリテナリ、委細別傳ニアリ故略ス、





満願寺三廟名塔

藻井氏が供養されている。
 

 




摂州多田神秀山満願寺幸寿丸畫像略縁起

抑も幸寿丸の由来は世に知る処なれ共、異説をお簡びて述べ伝える。奥に其れ満仲卿、天禄元年の頃御遁世の御志ありけれ共、帝ゆるし給はねば、年十五歳の若君美丈丸を出家させんとて中山寺の善観と申す僧に預け置れけるに、学問を嫌い武芸を好み、悪行さかんなりぬれば御父満仲御勘当ありて家臣仲光に失い申すべきよし、再三きびしく仰せられければ、仲光思慮をめぐらし、郎党浦辺の小太郎を召して、密かに美丈殿を叡山へ落し、若君と同じ年なる我が子幸寿丸を身代わりにたてんと、妻にもかくしはからひける、幸寿丸は父の心をくみて、いさぎよく切つれば、その首打て、美丈丸の身代わりにとぞたてられけれ、幸寿丸世に残しける文の奥に

 君のため 命にかはる後の世の 闇路をてらせ 山の端の月

 あだし野に 終におくべき露草の 身は幸いの 命なりけり

死後に母は是を見て嘆きくどきける事云はうわなし、御台所は美丈丸の御最後と思召し、愁いに沈みて両眼しい給ひけり、かかりて後は美丈君たちまち発心し、恵心院の源信僧都の御弟子となり、法名を満賢と号す、四年後、天延元年五月、御存生にて出家堅固のよし、御父満仲聞しめされ御勘気御ゆるし御対面あり、仲光を賞美しあつく幸寿丸の忡死を感涙し給ひける、扨、美丈法師満賢は御母の盲目となり玉ふをいたはれ申し、當寺金堂の本尊、勝道上人御作の弥陀如来に参詣いたし給ひ、御立願あり、それより御母弥陀を念じ給ふ、天延二年八月彼岸の入りより、殊更一心不乱に称名し給へば、一七日にあたる暁、弥陀の白毫あり光出て、御額を照らし玉ふと覚えて、両眼たちまち明らかに成り給ふ、故に眼あきの弥陀と号し奉る、今も眼を煩ふ人祀誓するに利益多し。誠に類稀なる忠死の幸寿丸なれば、恵心僧都その姿を畫きて、末代忠臣の鑑とし玉ふ、且つ当国西畦野と云う所に幸寿丸親子の名塔を立て少童寺と申せしに、数百年星霜積りて、寺も廃れ、名塔も埋もれたるに、その頃、当国の守護大内修理の大夫に、仲光幸寿丸の霊告げ有るによって、右少童寺跡等を当山に寄進せられたり、その書面證文等今に有り、されば幸寿親子の忠義によって美丈君発心修行有に、共に菩提に入しかば成仏いたがひあるべからずとしかいふ。













多田美談幸寿丸の献身 福本賀光著

 後に幸寿丸の首は藤原仲光が貰い受け、源頼光が信濃の善光寺に納め冥福を祈られた。戦国時代、善光寺付近が武田氏と上杉氏の合戦の場になった時に、高梨摂津守は善光寺の本尊と仏具経巻を持って越後の上杉氏に加担し、それらを謙信公に進上した。謙信公は御堂を建てそれらを安置した。上杉氏が会津、米沢と国替えになった時にその御堂も米沢城本丸の一隅に再建された。明治になって上杉伯爵邸内の如来尊堂の御厨子の中から一個の白木の箱が見つかりその中に幸寿丸の髑髏が納められていた。大正八年、米沢の上杉茂憲公の碑の側に髑髏は埋葬され「幸寿丸の墓」として祀られているという。








能 『仲光』 別名「満仲美女御前」




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