北摂多田の歴史 

多田平野湯

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温泉薬師庵由緒
『多田庄平野邑 薬師佛並温泉略縁起 摂州多田庄平野邑薬師庵』岡本寺蔵版
  
摂州川目河邊郡多田庄平野ノ温泉ハ往古源満仲公住吉大明神ノ御託誼ニヨリテ此山中ニ住ケル九頭ノ毒蛇ヲ退治シ給ヒテ峯巒高聳ヲ平地トナシサシモ上古ヨリ涸ル事ナカリシ池水忽チ丘トナリケレバココニ城ヲ築クニ及ビ池水四方ヘ散流シテ多ク山田ノ助ケト成リケル故多太ノ文字ヲ改メ多田ト書キ又平野ト名付ケ給フ天禄元年三月御入城アリテ是ヲ新田ノ城ト号セラル又鬼門ノ災竈ヲ除カンガ為ニ艮ニ当ル山嶺ニ行基菩薩作ノ地蔵尊ヲ安置セシヨリ此山を地蔵山ト唱ヘケル然ルニ満仲公或時不測ノ霊夢ヲ蒙リ給ヒ遍ク此山中ヲ歩䌫アリシニ山岳奇岖トシテ恰モ仙境ニ入リタルガ如シ渓ノ奇岩窟今ノ天竜石ノ中ヨリ霊光赫然タリケレバ急ギ其ノ源ヲ尋ネ給ヘバ薬師如来ノ尊像ヲ得タリ今薬師堂ノ内佛本尊是ナリ爰ニ於テ直ニ地蔵山ニ移シテ舎堂ニ納メ奉ル但ノ渓間ヨリ温泉涌キ出ルニヨリ是ヲ汲差シ味ハヒ給フ處頗ル五味ヲ帯ビテ所謂中華光武帝ノ時涌キ出ル霊泉ニ似タリ是偏ニ神佛ヨリ授與セルノ霊湯ナルコトヲ感ゼラレテ諸人ニ教ヘテ入浴セシムル所諸病治セズトイフ事ナシ蓋シ其レ此ノ霊湯ヤ五臓ヲ養イ六腑ニ応ジ三焦ヲ和シ百脈ヲ補イ骨髄を温メ筋骨ヲ盛ニシ肌肉ヲ長シ魂魄ヲ定メ記憶を強クシ痰を去リ瘀血ヲ除キ瘡毒ヲ解スルノ功アリココニ浴スルノ老幼男女或ハ疾病ヲ憂フルノ輩医王ノ霊佛ヲ拝セント欲スルノ登嶺ノ労ヲ慮リテ後世ニ至リテ地蔵堂ヲ平野邑ニ移シ奉ル加之ノミナラズ此地ハ山肥エ泉秀デ青龍玄武白虎ノ三方山巡リテ豊ニ朱雀の方平地ヲナシテ遥ク海ニ盡ク伊名川ノ流レ清ク誠ニ四神相応ノ地ト謂フベシ入湯ノ衆人カカル霊地ニ寓居シ共癒エズト云フコトナシ誠ニ醫王ノ應験今ニ於テ厳然タリ仰グベシ尊ムベシ


  
温泉薬師庵跡 小野氏の墓


『高代寺日記』
傳曰、御祖母主代殿満仲卿ニヲクレサセ給ヒテ後、常ニ眩暈ヲナヤミ玉フ、故ニ院内ノ薬師如来ヘ立願ナサレ七日参籠アル、満スル夜半ニ告夢、汝常ニワレヲ念スル故今是ヲ告ル、河水ヲ以テ塩ニ焼セ、其塩ヲ以行水ノ湯ニ入、百ヶ日ノ間行水ヲシ玉フヘシ、眩暈本復シ、長命タルヘシ、且子孫ノ称名ニモナルヘシト在リアリト告有、依テ近キ辺ノ江ニテ水ヲ汲セ、其水ヲ塩ニ焼セ玉フ、其水始ハ沸水ナルカ一七日焼セ給ノ内塩水トナレリ、其時又告曰、其水ヲ以直ニ行水ヲナスヘシト、此コトクニシ玉フテ御病本復在ス、始ハ近辺ノ沢ニテ汲セ玉フ、後ニ告有、御庭中ノ井ヘ塩水涌出タリ、其井ノ奉行ヲナセシ者ヲ本井ト名付玉フ、此本井ト云者ハ信濃國黒川ノモノニテ、松尾丸ト云、満仲童ワニシ仕玉フ者ナリ、今名ヲ改本井ト号、此時庄内ノ諸民貴賎無ク郡集
来ル、村々ニ止宿セシメ、水塩トナリタルヲ見ル、多人集故ニ隼人ト云者奉行セシメ、此群且村々ヲ治ム、村ヲ能安ンスルト云理ヲ以テ安村ト号ス、其後御病癒テ件ノ井水佛水ナル故ニ江ノ本ニ反ンコトヲ祈ル、其時又亀甲山住僧ニ告在シ、彼井水ヲ反ンコトヲ加持ス、三日ノ内ニ本ノ井トナル、此所ニ水ヲヨリスルコト可ナリト云理ヲ、亀甲山ヲ吉河山ト付給ヒテ、其ヨリ子孫ノ血脉ヲ以吉河山高代寺ノ住持トス、彼江ニ塩水涌出ル所ヲ塩我平江ト名付、塩ヲ以ワレヲ平ニスル江ト云心()リ又井トモ書、且又河水塩ニナリタルト云理ヲ以テ、主代リ殿ヲ塩川殿ト号ス、又後室ノ御字ヲハ河味サマト申ス、河ニアチワイ出タリト云心ナリ、夫ヲ文字ニ直シ、上サマト云、塩川殿ノ上様ト申ハ満仲公ノ御台所ヲ申ナリ、天下ニ一本ノ称名故他人コレヲツゝシム、世俗満仲ノ塩川ト云ハ此理ナリ、獅子牡丹紋ノコトモ、六孫王ノ御傳ト文殊本尊ナル事ト又薬師・弥陀・普賢・文殊代々ニ尊佛ナル故ナリ、古語ニ云、漢ノ獅子ト云ハ住吉・八幡・普賢・文殊ノ召レタリト、住吉神体コレ薬師、八幡神体コレ弥陀如来ナレハナリ、其上源氏武士ノ根元者六孫王ナリ、獅子ハ萬畜ノ頭、則獅子王ト云、牡丹ハ萬花ノ王ナリ、故ニ此紋ニナラヘル紋ナシ、末代ニ到テモヲロソカニスヘカラサルハ此紋ノコトナリ、傳記末ゝコレヲ記ス、

【解説】満仲公の御台所が眩暈で悩んでおられたところ薬師如来のお告げにより、塩川の塩ヶ平井で水を汲み塩に焼いてその塩水で行水すると眩暈が本復したと云う。塩ヶ平井は平野湯の当りである。屋敷は現在の東多田村字御所垣内にあった。



「攝津名所図絵」




多田荘平野湯 平野湯本町の中間にあり。浴室の廣さ方五丈ばかり中を隔て男女を分かつ後ろに釜あり是より薪を焚きて温湯とす其時旅舎の人に入湯の期を觸る町の北に薬師堂あり其岸の本より水勢沸々として霊泉涌出す其色鶏卵を解たるが如し上に釣瓶を設てこれを汲み上げ筧より浴屋へ流れ通ふこれを湯にして諸人浴す又幕湯といふは自身入浴の時暫く他の人を禁ず又此霊泉を旅舎へ運ばし居風呂を建て入湯するもあり皆好に随ふなり入湯の旅舎両側に建はらびて壱町余あり家数二十四戸あれも寄麗に座敷を設て諸方の客を宿す入浴人ここに泊まりて日毎に三度ばかり浴し其間は好に随い碁双六生花に小哥三弦の類をもてあそぶ旅舎乃中にも桝屋が家には鞠懸り数寄屋を設て蹴鞠の興茶湯の娯しみ自在なり鮮魚を尼崎より日毎に運送す

夫れ平野湯は中華益陽縣の金泉にひとしく多田荘乃山中に金山ありて金取抗所々にあり其脈ここに通して水精あらはれ全き冷泉にもあらず完き温泉にもあらず其中間にして涌出する事滔々たり味はしおからく渋味を帯たりこれを焚火して湯とし入浴す或人多田温泉記を著し其文曰これ醴泉也光武帝中元年中醴泉出つ京師の人これを飲ば痼疾みな除くと東観記を引書し又本州に醴泉出る所は常處なし王者徳もし清平に至る時は醴泉涌出して老を養ふへしと書り抑(そもそも)本朝に於て醴泉といふは美濃国養老瀧山城国醍醐水なるベし多田の霊泉は金気に明礬の気味を兼たりこれを服する時は必害あり又これを浴する時は効能多し先第一陽明經の病因を治し五臓六府を養ひ百脈を補ひ骨髄を堅し筋骨を盛にし皮肉を肥し精気を増下元を培し血海を潤し耳目を明にし心神を安し気憶を強くし五積を治し痰飲をさり瘀血を除き瘡毒を解次其外諸疾に益ある事神の如し里諺曰原此金泉は始源満仲公明神の告によつて感得し給へるより涌出次中頃洪水に山崩れて滅び又現れあるひは隠れし事数度にをよふ元和年中より天下清平なれば又現れ涌出す元禄乃頃官家に願ふて浴屋を建遠近ここに入浴す功験著しかれば日に増繁盛の地となる事是攝陽風土の霊泉なるべし


攝陽郡談」巻第八 湯の部

平野湯 河邊郡平野村祭神平野の社、衡門の下にあり。土俗の傳云、往昔の温泉山也。今わずかに水涌き出す。然りといへとも、病を治すること古に同じ。知る者設之沐浴す。宗玄開之。依洪水退轉せり。




「摂州多田温泉記」 馬淵醫圭偏

一際大きな旅舎が土肥氏の桝屋



 

 多田温泉記序

津の国多田の庄平野の温泉は往昔 満仲公神的の告に依り威得し給へる所の醴泉と云ふ名湯なる故に 其味あまく 酸く  しほハゆく 少ししぶみありて人家に造る醴酒に同く其功能萬の難病を治するに日本無双なること古今世に知る通りなり 則温泉考に詳なり 然るに近来薬の性味も知らず多田の温泉は醴泉といふ名湯なるも知らぬ俗醫自らの名利を求んが為 埒もなき書をあらわし ぬるき温泉を火にて再焙たるは功能うすき様に記せるは大なる誤也 然れ共未だ其訳を知らぬ人は都近き多田にある霊湯あれども 是まで自身多田へ入湯せぬ人は知ぬも多く 依て予二十年来毎歳入湯して自身浴り 試たる功能と見及たる数萬の入湯人の功験を記し 温泉考と題し 湯元客舎やへ贈り侍れと 長文ゆゑに此秋入湯のつれづれ 其温泉考の趣を記し一読にして其大略を知らしむるを序とすと云爾

于時安永八亥の季秋日      高圭石牛居士誌


多田温泉記

               湖東  馬淵醫圭 編
                   男 駿齋 校

醴泉之説

摂州多田の温泉は太平の御代に出る醴泉と云ふ出所を考るに瑞應圖曰く醴泉は井の精なり味醴の如く流の及ぶ所草木しげり是を飲ば人をして長命ならしむと又東観記に曰く後漢の光武中元元年醴泉出京師の人是を吞み難病みな癒ゆと此の二書に記するを見れば誠に多田の温泉の味わひあまくすこししほからく少ししぶみありて人家造る処の醴酒の味に少しもかはる事無し諸国の温泉に此の味あるは無く又流れの及ぶ処草木よくしげる事は此の多田の数十ヶ村土地肥えて一切の花木草花の実植苗木早く生長して土地に相応せる故当時日本諸国へ此の多田の庄より実生植木の苗を出する事世の知る通り也又一切の難病此の湯にて癒る事日本第一の良湯なる事世に知る処也悉く記するに及ばず全く醴泉の妙也入湯してしるべし

醴泉の事本草に考にれいせんの出るは王者の徳淵泉に至りその時代太平なれは醴泉出と記せり多田の湯泉も最初満仲公御威得ありてより後も乱世の時は涌出せざりし事おわりしとかや今や御代太平たらん御恵の化に帰せるしるしには此の温泉の功能も近比別して霊験多き事諸国入湯人の普く知る処なり

多田の湯土中より出たる処直に入れば少しぬるく火にて焙に依りてあたためず入湯に熱ば猶宜しからんと云人あり醴泉は元来熱湯ならぬ事を知らぬ人の云う事也元微温にて大熱湯ならぬを火にてあたためる故熱湯となり人肌に宜しきなり諸国の温泉大熱湯にて直には入りがたく水を加へて入り湯の涌く処にて野菜をゆでる程の大熱湯は多く砒霜石よ石沼の大熱毒に硫黄の精気ある毒湯なるゆへ人の気血をへて寿命を損なひ瘡腫物たとひ硫黄の気にて一旦癒ても毒のこる故毒内功して頓死等の卒病出て長生する人稀也多田の湯は醴泉ゆへ難病のいゆるのみならず無病乃人常々入り元気をつよくし無病長生する事他所の湯に無き事也

多田の温泉功能の大略

多田の温泉予二十年来毎歳入湯していよいよ醴泉なる事身を覚へたると又数多の入湯人に端的見届たる功能慥なるを左に記す他處の温泉は入るに従い一日一日手足惣身肌目あれ□色か□け色黒に成り是までになき鮫肌鳥肌に成人多く是気血へる故也瘡腫物一切きりきず等癒ても□何とくぼみ紫色に成り或は黒くなりなまずはげの様に成る諸人世にしる所也是瘡しゆのへ毒ぬけずいゆる故也多田の湯は入に従ひ手足惣身肌目こまやかに成り面躰色白に年若に見へ是まで鳥肌鮫肌の人も二まはり三廻りの内にいゆる事妙也是醴泉の気血益す故也扨又一切瘡腫物きりきずいゑて其のあとくぼむ事無く假令面躰にても肉あひ外とかわる事少しも無くうつくしく癒事醴泉の妙也是気血は益して毒は残らぬしるし也多田の湯人をつよくし五臓六府を補しるしは入湯二三日に至と一日一日食よく進む事妙也二廻り三まはり入湯すると積気ある人も胸のつかへほどけて食よく進み嘔とき無く腹痛はらくだりの類次第に心よく生質下部冷経水不順或いは帯下深き女おとこは腰痛疝しゃく或いは精気弱く陰茎立がたく交合にはやく精もれ保がたき男女皆下部よはき故なり是等の症速にいゑ出生是なき男女も夫婦共入湯すると早速出生あらしむ事妙也又冬よりも夏腰ひざ氷の様に冷えを覚えるは元気弱き故也此の醴泉は根本を補う故右の症いゆる事他所の湯になき神功也当時世に虚労傳尸労と云ふ病諸人知る通りにて難治の症也昔後漢の張仲京と云名醫の書丹波流に伝来の書には冬春病出を血痹と名付け夏秋病出を血労と名付け元二因二病にて血痹発病より三十余の変症ありて三十余の主方あり血労も亦発病より三十余の変症有りて三十余の主方ありそれ一に用心三日に皆いゆる事を唯今のごとく死に至は稀也然を西晋の王叔和と云醫仲京の書を撰次して血痹血労の二因二病を虚労と改名し病症も主方も虚労の病名にあたらぬは皆削り去り今漸く十ヶ条に足らず夫より一千五百年余虚労を病名ちし治方昔にかわりて和漢共叔和の誤りにしたがひ治療の仕方大に誤故今此の病を煩う人皆死する故必死の病といふ也今も仲京の金匱要略の目録には昔の古名残りて血痹血労と記せりと雖も丹波流の傳書見ぬ人は知らぬ故今此の症の病人快気するは無し別して早く虚労ときずき早く虚労薬を用ひ灸治等をする冨貴の家に此の病気多く薬も用ひかねる貧家に却って少なきを以て後世の虚労の灸も薬も毒と成事知るべし然るに此の多田の湯に早く入湯すればすらすらと快気する事妙也此の症の病人必ず後世の虚労薬吞むべからず千五百年以来の書に有る程の薬皆毒と成り四花患門等の灸皆大毒と心へ只はやく此の病にかかる病人は勿論諸々の大病後又肥立速産後にて薬を止めはやく此の温泉に入り始め四五日の間は湯より上がりたらは湯かたのうへに衣服を厚着して湯の温りさめる迄臥して居ると少し汗出て床を出べし四五日もすると気色はればれと快成り食もすすみ身力付く事妙也是多田の醴泉の人を強くし長命ならしむるしるし也他處の温泉に嘗て無き奇妙の神功也

世に中風類中風と云う病始て發る時或いは倒れ或いはくろき手足不可ないにて舌どもりし症人により軽きはあれど大がいは薬にて癒され共全快する人稀也仮令一旦全快しても二三年の内再發して其の時はいびき許りに成り二三日へて死す事世の知る通り也夫れ故此の症を煩うと貫入の入りたる茶碗也と称し二三年四五年の内には再發して砕けてしまふ事とせり然るに此の症を煩いて六七分は薬にていゑ残る二三分全快せぬ人此の温泉に入り薬も兼ね用いると全快する事妙なり其の上此の湯にて全快し其の後も迎湯年々入湯の人は決して再發する事なく達者にて長命なる事妙也又いまだ中風を病まぬ人中風の兆しにて手足しびれ不可ないにて舌どもり或いは肌肉の動く事や又は轉筋等のまひ中年になると必ず中風の病出るもの也ヶ様の人或いは目口引きつりゆがみたり様はやく此の湯に入ると諸症速やかに癒え一生中風を煩う事なく達者にて長生する事多田の湯の妙也他所の温泉は中風類に大に悪し依りて記してしらしむる者也疥世にいふひぜん癬たむし也臁瘡はぐきがさ雁瘡がんがさ楊梅瘡とうがさ頭瘡うみくさ陰瘡男女いんうんいんきやうのくさ下疳瘡いんいんいんきゃうのはれものなり目瘡めがさ月蝕瘡□□くさ右の外いもは□□のより癒えたり此の湯に入れは毒気ぬけていゆる事他所の湯に無神功也他所の温泉で一旦いゑ□□瘡腫物のあとくぼみ或いはむらさき色になり黒く見苦しきあと附く事是毒の残りて癒えたる故也多田の湯にては毒気ぬけていゆる故あと附く事なく色のかわる事無く再発する事無し是醴泉の奇妙なり

腸㿗 陰痒 陰臭 陰挺 此の四しなのやまひ治しがたき病にて薬にても他處の温泉にてもいゆる事なし多田の湯にてはうゆること妙也

五淋 嚢癰 結毒 附骨疽 穿踝疽 痰核 瘰瀝 右七種の腫物あれも難治の症なり元来元気の弱きより出来る腫物故多田の湯ては久敷いえる事妙也他所の癒ゆる事無と知るべし

手気 麻木 痿癖 遺溺 白濁 白淫 夢遺 經閉 赤白帯下 鼻淵 盗汗 陰汗 右十二品の難病一躰元気弱き人大病後より病出すもあり又しぜんと元気出ともなしによりて右の症を煩うもあり薬にても灸治にても他所の温泉にても痿ゆる事無く多田の湯は元気を補ひ人をつよくする故是等難病皆痿ゆる事神の如く全く醴泉の功能なり

怔忡 驚悸 健忘 痴症 右四品の病も元気弱く心血不足して出るやまひ也心つかひ常に多く□□にくたびれると此の病出也薬にてはかばか敷くいゑぬは此の湯なくては全快せず肺痿 虚損 此の二病薬治にて一旦いへても又再はつして全快しずらし多田の湯では元気を補ふ故全快する事妙也

痛風 風毒腫 白虎歴節風 鶴膝風 右四品の病元は元気弱きゆへ風と寒と湿との三気にあたり出来たる病故薬治ばかりにては全快遅し多田の湯は元気を補う故はやく全快し始め入湯年を挽きたる病人帰りのは達者に歩行して帰る人多し是れいせんの妙也

打撲 跌僕 此の二症も若く達者なる人は癒えやすく老人と弱い人は薬功遅し此の湯へ入り薬も兼ね用いるとはやく全快する事神の如し

金瘡 是も血の多く亡びる手をひ老人虚人は薬ばかりでは癒ゑじ肉あがり兼ねるは元気弱く気血めぐり悪しき故也此の湯へ入り薬を兼ね用いるといゆ也

疝気 積聚 偏墜 以上三品のやまひ人によりおこり様かわれど度々食をさまたげ次第に気力弱るほど度々發り難儀なる病也勿論何程久しくおこらぬ上にても二度をこらぬ様に根を切る事成りただし只此の多田の湯に度々に入りておこり遠のけば次第に元気盛んに成り再びおこる事無き事妙也誠に醴泉の元気を補ひ無病長命ならしむるしるし也

久泻 此の症数年いゑず次第に脾胃弱り大便調ひ兼る事有り惣て久泻久咳は何程元気を補う薬にても薬ばかり用いてはいゑぬものなり是は病をいやす薬で元気を補う事ならず元気を補う薬で病癒えぬ故也かゆみの時多田へ入湯して薬も用いて早速いゆる事醴泉の妙也

頭痛 肩背痛 臂痛 胸痛 脇痛 腰痛 股腿痛 膝膕痛 經痛 踝骨痛 跟痛 足痛 右の十二種の痛み年つきをかさね痛むもあり俄に痛み出るもあり皆薬力の届きかねる処故服薬ばかりでは全快しがたき病症也多田の湯は醴泉故服薬にていゑぬ人早く多田へ入湯全快の人を見る事多し依って記してしらしむるものなり

骨痛 是は下疳瘡楊梅瘡よこ祢等いゑて後毒気筋骨に残り痛症にて癒えがたきは多田の湯にては十人が十人入湯三廻り五まはりにて全快する事妙也他所の湯は幾度入湯しても嘗てしるし無し是多田の湯醴泉にて日本の湯にすぐれたる神功也

痔瘡 脱肛 此の二症癒えがたき症なれ共多田の湯にては漸く快く成り迎湯度ごとに快くて全快する事妙也

右七十餘の病症は数千人此の多田の温泉へ浴くせ慥か成る功能を見届けたるを挙げ記す者也委しくは湯元編録遣わし置く温泉考に記す求め見るべし此の書には其の大略を記するをこれにもれたる病症は湯元客屋主人に問い合わせ入湯有るべし

温泉浴法並養生の法

まつ湯へ入には湯ぶねの中だんに腰をかけ柄杓にて湯をくみ肩より惣身へかかり漸くあたたかくなるを覚えふねの内へ入り安座して又湯をかかり両手にて惣身をなでこすり気血をめぐらし心をへその下へをさめ又湯をかかり長入りせずゆかたのうへに衣服を着て宿屋へ帰り枕を高くし厚着して安臥をすれはむね顔少し汗出ると湯のあたたまりさめて床出てそろそろ立居歩行するがよく食後は必ずあるく事四五町宛遊行すべし

一、入湯中過酒過食すべからず諸勝負事に心をこらすべからず

一、入浴中服薬せぬがよく病症により醫師の指図の薬は各別也

一、入浴中食物の禁好宿屋へ渡置く温泉考に詳らかに尋ね問ふ用いるべし

一、入浴中四五日十日の内はら下るが湯の相応也服薬せず湯も休まず入るべし

一、何病にても二廻り三まはり入湯して端的はしるしなく共食の味よく常よりすすむ方ならば湯は至極相応としるべし四廻り五まはり入湯あらは上湯帰国有るべし国後廿日卅日立とそろそろ快く成り全快する事妙也

一、むかい湯油断なく早く翌年春入湯有るべし一切の古き病其他積気疝気中風労症産後の病むかい湯二三年入湯すれば再發無しと知るべし

安永九年庚子孟秋  摂州多田平野村湯元 萬屋幸右衛門


この書物を読むと多田の湯は万病に効くようであるが、全国温泉番付に「多田の湯」は載っていない。





 香川修徳著『一本堂行余医言』によると、「多田の冷泉」と「城崎の瘡湯」は「瘡」即ち楊梅瘡(梅毒の瘡)を直す湯として最たるものとしている。「城崎の瘡湯」とは城崎温泉外湯の楊湯のことである。梅毒は中世、大航海時代に中米辺りの地方病であったものが、キリスト教伝播と共に世界中に広まった。日本にも鉄砲伝来と共にもたらされた。加藤清正・浅野長政等は梅毒で亡くなったとされている。江戸時代にはかなりの感染者がいたと思われるが、史料は残っていない。

 


摂州多田平野湯 浴室
 現在は各旅館に立派な内風呂があるが、昔は中央に浴室があった。今でも道後温泉のように浴室施設が残され維持されている。城之崎温泉は現在「外湯」と呼ばれているものが主な温泉施設であった。昔は大きな旅籠には内風呂もあったが、通常は大きな共同浴室に入った。


道後温泉(道後温泉公式サイトより)


城崎温泉 7つの外湯 - 柳湯(城崎温泉観光協会より)











苧羅山人
宇崎壽美子氏の『多田源氏の末裔 苧羅山人を追って』を紐解くと、苧蘿山人(ちょらせんじん)は本名を原康?または多田玄介と言い、享保十六年(1731)~天明八年(1788)、享年五十六歳で没したとある。父は石川県能登鳳至郡鵜河村の人で、加賀藩十村役(大庄屋)であったが、職を辞して金沢に移り澄み荻生徂徠の門人となった。玄介は三男で、金沢で育ち、儒学・絵画・篆刻(てんこく)を学び、後に京都で山脇東洋に医術を学んだ。明和の中頃に平野温泉に移り住み医者・として文化人として暮らした。多田蔵人行綱の末裔で、行綱は鎌倉幕府から勘当を受けた後に、越中国礪波郡鷹栖村に隠棲したと考えられていると述べている。
岡本寺に墓がある。

 




岡本寺にある墓碑と略年譜


「多田平野湯」考 高垣定光著
 

『攝津名所図絵』には二十四戸の旅宿があったとある。和泉屋岡田千太郎氏が調べたところ十七戸の名前が判明した。
①和泉屋 岡田千太郎 ②山城屋 藪野孫太郎 ③大和屋 池本 ④杵屋 土肥 ⑤萬屋 福田 ⑥多田屋 下仲 ⑦中野屋 中野 ⑧河内屋 武山 ⑨菊屋 下仲
⑩大坂屋 ⑬丹波屋 ⑭平野屋 ⑬若狭屋 ⑭近江屋 ⑮京屋 ⑯丸屋 ⑰津村屋



『文化7年 村田千代女旅日記』多田平野湯湯本和泉屋権右衛問に泊まった。


 


中央の屋敷が和泉屋岡田氏の屋敷
 


この書には「一庫湯」と「西畦野の湯」もあったと記されている。


桝屋土肥氏 多田家文書
源頼信三男頼季を元祖とする井上掃部介頼季廿代井上景正は山崎合戦で敗北し、その子宗長は叔父土居氏が住む攝北平野に蟄居し、家名を土肥氏に改めた。紋所は丸ノ内ニ橘を附ス、仕官を止めて農を業とする。宗長の孫土肥滋覺(なりあき)は享保年間平野邑の温泉を再興したと井上氏系図にある。





『攝津名所図絵』一庫の湯
多田荘一庫村の山中一庫川の側にあり此の所に取金抗(かねとりまぶ)あり土人銀水といふ功能平野湯に相同じ少陽經の病因を治す第一身體疼痛骨節疼痛腰痛心下満痛小便自利厥冷の性戦傈の性孤惑の病中風脚気あるひは血虚妊妊娠耳可也山の麓に方一丈許りの浴槽をしつらひ其の中より霊泉涌出これを浴屋へ汲み入れ湯にして浴さしむ傍らに入浴の人止宿の家あり川辺に耬造りにして風流也凡て此のほとり幽𨗉閑寂にして静座悠々塵埃を隔るの勝邑なり


近代の平野湯
  
戦前の住宅地図 「平野温泉」「サイダー工場」がある。


平野温泉場

『攝北温泉誌』 大正4年1月1日発行
 平野鉱泉は多田村の内平野字湯の谷にあり、泉源は湯の町の北方なる沙羅林山麓の崖下にありて湧出すること滔々たり、満仲多田にありて遊猟を楽み一日鷹を城外に放つ、偶[たまたま]崖下に至り霊泉を発見し、之を汲むに甚だ味異なるに依り霊泉たるを知りしと云う、元禄年間始めて官に請いて湯の町の中央に浴舎を建て、樋を泉源に架して水を引き、熱を加えて温湯となし、旅舎亦据風呂に湧し盛んに客を呼べり、其名世に聞え来浴するもの頗る多し、旅舎は街道の両側に比[なら]び其最も隆盛時には二十四戸に及び、諸旅館は美を競い妍を争い軽佻児女集り来り、昼夜歌吹の巷なりしが、其後衰退して浴場は遂に廃絶に帰したるも、明治十七年十月始めて鉱泉を以って飲料を製するに至る、是れを平野水と名けて販売せり、云々。鉱泉汲所は数ヶ所ありて、此れが許可を請けし者は神戸内田幸三郎、大阪井上源三郎、豊能郡植村重左衛門川辺郡原田慎三、同久保久三等にして期間満了或は譲与等をなし盛に飲料水を製造せり、商標名は左にジーヒラノ・ゼネラルウオーター・カンパニーの平野鉱泉と帝国鉱泉株式会社の平野水とす、ジーヒラノゼネラルウオーター、カンパニーは明治三十七年に資本金十二万五千円の株式組織とせり、一ヵ年の産額二万箱にして一箱二合壜四打入とす、大抵上海、香港、南洋諸島、及び魯米の方面に輸出し、帝国鉱泉会社は明治四十年資本金六十万円を以て組織せり、一ヵ年の産額十万箱にして一箱二合入り四打とす、半ば内地に売り半ば浦鹽斯徳[ウラジオストク]支那及び南洋諸島へ搬出す、この鉱泉の特徴は天然瓦斯を使用するにあり。

ジーヒラノゼネラルウオーター、カンパニー 
 明治17年10月、資金12萬5千圓を投じて涼飲水の製造に着手し、主として海外輸出向きのものを産出し、逐年(ちくねん)盛況を呈しつつあり。帝国鉱泉株式会社平野工場亦同村にありて、明治40年3月の創立に係り其の製出する三ツ矢印平野水、孔雀印平野水、三ツ矢サイダー、三ツ矢シナルコ等は今や牧童走卒にすら其の名を知られ、広く海外に名声を博して実に年産額九百萬本、価額六十萬圓を超え、是亦、年と共に隆盛を重ねつつあり。(川邊郡誌)

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源泉井戸                                  御料品製造所
 


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