ワラル事件 1991.7.12 Huaral  Peru
 JICA ペルー 「ワラル事件 1991.7.12 Huaral  Peru」 

故・中西 浩氏を偲ぶ
ワラル野菜研究センター 

ワラル事件
 
  1991年7月12日 ペルーの郊外ワラルにある、日本のODAの支援で建設され、JICAから野菜栽培技術の専門家が派遣されていた「野菜栽培研究センター」をゲリラが襲撃し、三人の日本人技術者を殺害した。これは当時のフジモリ政権にゆさぶりをかける犯行であった。事件は「センデロ・ルミノソ」の犯行とされて、13人の犯人たちは全員捕らえられ収監されたが、現在は全員刑期を終えて出獄している。しかし、消息筋では、「センデロ・ルミノソ」犯人説は当時のペルー政府のでっち上げで、実は反フジモリ派の政府高官が真犯人で、実行犯は政府要人のボディガードだという説もある。ペルーはカトリックの国で、死刑はなく、民族和解から刑期も短く設定されており、凶悪犯は逮捕時に射殺されることが多い。 新聞では「日本人処刑」とか「日本人射殺」と書かれているが実際はそんな生易しいものではなかった。中西氏の遺体は頭蓋骨が陥没して、小鼻が両方とも裂けていた。そして、死因は頭から顎にかけての貫通銃創である。散々に暴力を受けて痛めつけられて、気を失って倒れたところを銃で頭を撃たれてとどめを刺されたのである。それでも遺体の説明では 「中西氏の遺体は抵抗していないので比較的綺麗だ」 という説明だった。
 



問題点は、ジャイカが事件の真相を説明せずに隠していることだ。遺族にも事件の顛末を説明していない。
国はペルーの実情をろくに調査もせず、危機管理もなく、三人を生き地獄に送り込んで死なせ、誰も責任を取らず、
事件を風化させてお終いにしようとしている。要はパンドラの箱を開けたくないのだ。
だから日本では慰霊祭を行わず、現地でひっそりと行われている。


ペルー政府もサタン・センデロに罪を擦り付けて、責任逃れをしているヨナ。三人がかわいそうだョ。
三人がペルーで暴行を受けて殺されるような何か悪いことでもしたというのか? 
どこがセンデロ・ルミノッソ「輝ける道」だ。聞いて呆れる。正体は「サタン・センデロ」だろう。



「志雄塾」生達による
追悼文集




オリジナルクッキー
彼の好きだった
豆・たこ焼き・スイカ



中西君の実家の墓碑








ワラル事件の被害者 故・中西氏の生い立ち

 故・中西氏は昭和26年9月29日に兵庫県で出生した。 二歳の時に父母が離婚して父は一年後に再婚し弟が生まれた。彼は祖母の手で育てられた。幼かった彼は祖母と一緒に寝て、祖母が母代わりだった。小学生の頃、彼は祖母に尋ねた「ぼく、だれに生んでもろたん」。祖母は困った顔で「おかあちゃん(義母)やないか」と言ってごまかしたが、唯 「ふーん」とだけ答え、それ以上祖母を困らせたくなかったので深くは聞かなかった。 小学1 , 2 年生の時に、一度だけ夜になっても家に帰らなかったときがあった。祖母だけが近所を探し回ったが、父も義母も祖父も探さなかった。子供心に家族の愛を試したのだった。やはり自分には祖母しかいないと感じた。 9月29日は聖ミカエルの祝日だが日本では苦の月の二重苦の日と忌み嫌われている。

 中学生になるとテニス部に入り、スポーツに明け暮れた。義母は弟にべったりで、一度だけ彼は義母に「貴方は俺の何なんや、女中みたいなことをしてるが・・・」と言ったことがある。言われた義母は何の反応も示さず、それからは僕には祖母がいれば充分だと思うようになり、もう実母のことには関心がないそぶりだった。当然、父にも実母のことを尋ねることもなかった。

 高校へ入学してもテニスに打ち込んで県大会にも出場した。テニス部全員が体力と精神力を鍛えるために、自転車通学ときめて、ドシャ降りの雨の日でも、4キロ余りの道を三年間自転車で通学した。 


中西君の誕生日9月29日は「大天使聖ミカエルの記念日」でもある。



中学生の頃

  大学は東京農大拓殖学科に入った。宿舎は大学付属の農場に「志雄塾」という寮があり、そこで模擬海外移住の実践を体験した。宿舎は自分たちで家畜小屋を改築した粗末な建物だった。農場では農作物と家畜を育てて、それらを食料としていた。ある日、自分たちが可愛がっていた子牛をとして食べようということになった。可愛そうだと言っていたのでは、海外では生きていけない。皆は涙を呑んで子牛を屠して肉にした。そして、畑の野菜をいれてすき焼きにしたが、食べる段になると皆で肉を取り合って食った。普段肉を食べることはあまりなかった。彼は子供の時から肉や魚はあまり食べなれていなかったのでむしろ肉や魚は苦手だった。主に家で産する芋や豆で育った。子供の頃はカレーライスの中の肉の欠片も食べなかったのに、肉でも魚でも何でも食べるようになったのは大学生になってからである。こんなわけで東京での生活費は、あまり親に負担をかけなかった。黙々と働く父を尊敬していたが、実母について何も説明してくれない父とはあまり口をきかなかった。盆と正月には祖母に合うために帰省した。帰省はいつも東京・大阪間をヒッチハイクで往復した。早朝東京を出ても、家に着くのは真夜中で、家の鍵が閉まっている。朝まで物置で過ごして、朝にひょこっと顔を見せて家族を驚かせたが、家族の者はそのわけを聞こうとしなかった。帰りには、父親が旅費と小遣いやと言って、ポケットに札をねじ込むが決して受け取らなかった。


農園でサツマイモの収穫


友人たちと

  大学を卒業すると、久留米の農業試験場で一年間研修した。久留米では老婆と老娘2人が住む家に寄宿した。彼は2人に大変可愛がられて、研修を終えて帰る時には、二人の母娘から、このまま婿養子になつてあとを継いで欲しいと懇願された。その後、彼は海外青年協力隊に入り、アフリカのケニヤに赴任した。


久留米の下宿の前で

 ケニヤではウンダニで活動した。始めは中々現地の責任者に受け入れてもらえず苦労した。せっかく植えた野菜の苗を副所長に引にき抜かれたこともあったが、頑張って野菜栽培を続けた。その内、村人の相談にものるようになり、村の父親が出稼ぎに出て蒸発してしまった母子家庭の面倒もみていた。村の子供達には日本の家族から贈られてきた古着を着せた。ある時、マラリアに罹って高熱がでた。動けないのを無理して、首都ナイロビの病院まで唯一人でおんぼろバイクで行った。途中でいつ故障するかわからない。ガソリンタンクは紐で結わえてあるというしろものだった。何とか病院まで行き着き入院して回復することができた。帰りにはとうとうおんぼろバイクのガソリンタンクが壊れて乗れなくなったので、ヒッチハイクと徒歩でウンダニまで帰り着いた。ケニヤでは髭をそる暇もなく、仲間たちから「ウンダニの仙人」と呼ばれて、培った精神力で二期六年の任期を過ごした。

赴任当初は髭を剃っていた。

               パラグアイへ家族で赴任

 ケニヤで二期六年過ごして帰国し、今度は帯広の十勝農業試験場で大豆の育種の研修をし、一年後には再び海外青年協力隊でパラグアイに赴任した。その時、研修先の十勝農業試験場で知り合った女性と結婚した。結婚を機会に一度別れた母親に会おうと考えて、探して会った。実母は再婚して子供もいた。「今は幸せに暮らしているのでそっとしておいて欲しい」と言われ、ガッカリして帰ってきた。実母に愛を感じることもなかったが、折々に文通をしていたようだ。パラクアイには夫婦で赴任し、首都アスンシオンに住み、長女が生まれた。長女には祖母と同じ名前を付けた。宝物のように可愛がった。子煩悩だった。日系人たちとも交流した。スペイン語も堪能だった。一期目三年を終えて帰国した時に長男が生まれた。そして、二期目もパラグアイに赴任して、アルゼンチンやペルーのマチュピチュに家族旅行もした。一生で一番幸せな六年間だった。

大事な宝物だった

 
クスコにて                大好きなおばあちゃんと

 
パラグワイにて大豆の育種

パラグワイにて



 
                ペルーへ赴任

 二期目の青年海外協力隊の任期を終えて帰郷して、JICAの農業専門家の受験準備をした。その時には愛する祖母は死の床についていた。受験準備をしながら祖母の看病をした。二回目の専門家試験にようやく合格した。そして、祖母の野辺の送りを済まして上京した。千葉にローンで自宅を購入し、JICA国総研に籍を置き、ブラジルやインドネシアへ調査旅行に行った。そうこうしている内に赴任先が決まった。ペルーである。四月にペルーに下見に出かけた。当時ペルーは治安が悪く伝染病も流行して、不安もあったが行くしかない。「海外支援」は彼の天職でもあった。天職とは「神から与えられた仕事」である。三か月後の七月に家族四人で赴任した。出かけるときに二歳の長男は「行きたくないと大泣きした」という。虫の知らせだったのだろうか。十日後の、1991年7月12日の早朝、センターに出勤すると、センターは既にゲリラに占領されていた。ペルー人の所長は殺すと脅されて、三人のJICA専門家を何食わぬ顔で招き入れ、三人はゲリラたちに捕まった。所長はイスカリオテのユダの役目をはたした。現地の職員たちは全員釈放されて現場から逃げ去った。三人は事務所前に立たされてさんざん暴行を受け気絶したところを射殺された。現地報道によると、ゲリラたちは初めにJICAが同時に進めていたチャンカイ・ワラル灌漑復旧工事(大成建設と内外エンジニアリング)の事務所を襲撃したが、日本人技術者がいなかったので、次に野菜センターを襲撃したという。ワラルでの野菜栽培は灌漑設備 の充実と野菜の栽培技術の確立、両方が計画的に進められていた。しかし、消息筋によると日本のゼネコンはゲリラに身代金を払い、ゲリラたちが野菜センターに向かったことを知っていながら、ワラルから一目散に逃げ去ったと言う話もある。中西君は愛する妻と四歳の長女と二歳の長男を残して旅だった。しかも愛する妻は身ごもっていた。愛する家族を残して死んでいかなければならなかった。彼の命を奪った連中はたとえどんなイデオロギーをもっていたとしても、彼らは殺人者であり、サタンの操り人形である。 ペルーでは裁判で判決が降りて収監されて、決着がついているというが、日本の遺族は決して納得していない。


 

  


  



ペルーのために協力したいという人物をなぜ殺す必要があったのか?





 中西君は本当にバカがつくほど真面目な奴だネ。二歳でお母さんとも生き別れて、苦労して、努力して自分の人生を切り開き、これからというときに殺された。こんな真面目な人間を殺す奴らはどーせろくな死に方はしないゼ。地獄行きだ。ペルー政府も最低だが、ペルーの国民もかわいそうだネ。ペルー人はみんなキリスト教を信じているらしいが、きっとイエス様はお前らのこと知らねーと云うだろうナア。






ペルー政府はセンデロ・ルミノソの犯行としているが・・・?真犯人は・・・?


布がかけられた三人の遺体


犯人とされるセンデロ・ルミノソのメンバー         刑期
フェリペ・テノリオ・バルバラン 主犯 すでに出獄
ファン・アルベルト・ビリャヌエバ・エスピノサ 主犯 すでに出獄
ダニエル・アンヘル・ラミレス・マルテル 主犯 すでに出獄
エロイ・ネルソン・ラミレス・ファレロ 主犯 すでに出獄
マリア・ヴィクトリア・ファハルド・クアドロス 実行犯 すでに出獄
ペドロ・ドミンゲス・カント 実行犯 すでに出獄
プラシド・バルディアル・アルバ 実行犯 すでに出獄
セサル・セルバンテス・エスピノサ 実行犯 すでに出獄
ペドロ・アルモンディ・エスパダ・アルファロ 実行犯 すでに出獄
アンヘル・カチャス・コラス 実行犯 すでに出獄
エディルベルト・フェルナンデス・ヒロン 実行犯 すでに出獄
ベルナルド・ラオス・バレンシア 実行犯 すでに出獄
エウドシオ・ガルシア・マサ 実行犯 すでに出獄


苦しくともサタンに魂を売るな

 地球上の人間には貧富の差がある。どの家庭に生まれるかは自分で決めたはずだ。生まれた家庭が大金持ちだから幸せだとは限らないし、又、貧乏だから不幸だとは限らない。生まれてくる時に、使命を果たして御国に帰ってくると神様と約束したはずだ。たとえ人生に不満があっても、今の境遇は生れる前に自分が選んだものであることを忘れてはならない。あなたは一人で苦しんでいるのではない。いつも聖霊と共にいることを忘れないでほしい。



1995 HUARAL PERU での慰霊祭


慰霊碑

「聖母マリア、恵みに満ちた御方、
主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、
御胎内の御子イエズスも祝福されています。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、祈りたまえ。アーメン」




事件現場


青木盛久全権大使


参列者


研究棟には中西氏の名前が冠された。


中西浩研究棟内部


中西浩研究棟群


パラグアイでも中西氏の記念碑が建てられた



在ペルー日本大使公邸人質事件

 1996年12月17日から1997年4月22日にかけて反政府ゲリラ組織ツパクアマルによって公邸が占拠された。1995年7月の慰霊祭の翌年のことである。青木大使ら、天皇誕生日の祝賀パーティに招かれていた約600人が人質となった。フジモリ大統領の指揮のもと、軍隊が突入して、ゲリラ13人は全員射殺された。

 

  センデロ・ルミノソは毛沢東の共産主義を掲げているが、ツパクアマルはチエ・ゲバラの共産主義を支持し、お互い対立している。ツパクアマルとはインカの最後の皇帝で、「ホセガブリエル・コンドルカンキ」をさしている。ペルー独立の父とされ、スペインの植民地支配に抵抗して立ち上がり、捕えられて生きたまま馬で引き八つ裂きにされて殺されたという。


ホセガブリエル・コンドルカンキ
Jose Gabriel Condorcanqui Noguera


EL CONDOR PASA
「コンドルは飛んで行く」は
コンドルカンキを讃えるオペレッタの序曲である。



2002年には新しい記念碑が事件現場に建てられた。















 ペルーでは毎年慰霊祭を行っているらしいが、東京のジャイカ本部でも毎年慰霊祭をやってやれヨ。日航のジャンボ機墜落事件や広島・長崎の原爆慰霊祭や終戦記念日では毎年手厚く介抱しているじゃないか。

  

「志雄塾」同期の松下有喜男氏が発行人となって出版された追悼文集である。
涙無しには読めない。


実家のある兵庫県川西市中央図書館で閲覧可能



ワラル事件の真実
FACEBOOKの書き込みから
「世界の半分を旅して」

 【ワラル事件の真相】    ある facebook の書き込み

 
琉球大学時代の友人・金良清文が、ペルーで銃弾に倒れてから早23年の月日が流れました。事件は、1991年7月12日首都リマ北方80kmのワラルにある、ODAで建設された「野菜生産技術センター」で発生、センデロ・ルミノソと名乗るゲリラ13人が襲撃し、3人のJICAの農業専門家を殺害したと報道されました。しかし今回思いも掛けず、ガイドとの話で、その真相を知る事となりました。「実行犯3人の内ひとりは私の友人でした。怒らないで聞いて下さいね」「私はペルー三世の日系人。日系人が多く住むワラルで生まれ、彼は小学校の同級生。日系人ではありませんが、日系人、日本人の事は良く理解していたはずです。そんな彼がどうして?と思われるかも知れませんが、彼も被害者なんです」「彼は優秀なガードマンで、政府要人のSPまで上りつめました。当時はフジモリ政権。フジモリ大統領は辣腕をふるい、旧体制の打破に取り組んでいました。それに反発した旧勢力の要人達が、フジモリ政権に打撃を加えるために、あの事件を起こしました。その実行犯として白羽の矢が立ったのが、SPを勤めていた友人でした。彼は要人からの依頼を一度断ったのですが、家に帰ると、銃を突きつけられ椅子に縛られた妻と子どもを人質に、実行犯になる事を強要され、やむなく依頼を受け入れたそうです。現場では3名が銃撃を行うことになり、最初に銃撃を強いられたのは彼でした。銃撃をためらった彼は、被害者を殴打し、
足に銃弾を撃ち、殺したと見せかけて難を逃れさせようとしたのですが、後方から他のふたりの実行犯が銃の引き金を引き、被害者3名は銃弾に倒れたといいます。翌日彼は警察に自ら出頭し、今でも刑務所に収監されています」これが日系人の間で知られている真実だそうです。事件はテロリストのセンデロ・ルミノッソの仕業だとして、裁判は結審しています。犯人たちは収監され、家族に危害が及ぶため、今後も真実が公になる事はないでしょう。実際は反政府の要人の起こした事件にも関わらず、テロリストに責任を負わせ、巨悪は今も眠り続けています。

(世界の半分を旅して)


筆者コメント:三人の遺体は夕方成田に到着し、宮川さんの遺体は直ぐに千葉の実家に帰られたが、二人の遺体は一夜千葉の施設に安置され、翌朝、伊丹と那覇に飛んだ。その時の説明によると、被害者の中西君の遺体は頭蓋骨が陥没しており、両方の小鼻が裂けていた。そして頭から顎にかけて貫通銃創があった。気を失うほど暴行を受けて、銃で頭を撃たれてとどめをさされたようだ。金良さんの遺体は片目がえぐり取られていた。抵抗したためだと説明があった。相当酷たらしい暴行を受けており、人のやる行為ではなくサタンそのものである。


 
このような写真に魅せられて安易にペルーに出かけない方が良い。まさか自分が殺されるとは誰も思わないだろう。ペルーでは殺人と強盗は日常茶飯事である。お金を持っている観光客は標的にされる。
 


 

ワラル事件はTHE PASSION だった。


「今は神の国にいる」
  
クスコの聖ミカエル

 
 今、神の御心にそって生きている人々が選ばれて集められている。これが終わると、火と洪水で世の人々は滅びさり、聖なる人々は聖霊となり未確認飛行物体で新しい地球へと誘われる。世の終わりの時には悪魔サタン達は身体も霊体も滅ぼされることが分かっているから、今サタンはやっきになって人々の心を洗脳して、神を冒涜して罪を犯させ、強力なサタンの世界を構築しようとしている。悔い改めない人と霊はサタンの支配となり滅ぶ地球に置いて行かれる。生きているうちに悔い改めないと、死後はもっと厳しく、悔い改めても許されない、神の光のとどかないサタンの世界に連れて行かれて、この世の終わりを待つことになるだろう。三人のような無償の愛が身体は滅んでも、聖霊となって神の国に誘われるのだ。口先だけで「主よ、」と呼びかけても通じない、主は私達の肉体ではなく心をいつも見ておられるのだから。神様の御心にそって生きていると、サタンからこちらの姿が見えない。だから色々と誘惑するようなことや、心を乱すような事件を起こしてこちらの姿を捕えようとする。悪心を起こした時には直ぐに悔い改めないと、その内サタンの手先にされてしまう。これが今地球で起きている真実だ。全員が自分で播いた種を自分自身が刈り取るのだ。


7spirits

 「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。不義なる者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なるものはさらに義を行い、聖なるものはさらに聖なることを行うままにさせよ」(ヨハネの黙示録)

 彼の死後、天使が現れて預言があった。さらに彼自身も「今は神の国にいる」と霊界通信で伝えてきた。サタンとその協力者はいずれ滅んでゆく。




殺人犯たちへ

 俺はとっくにこっちにきてるが、落語家の俺にも言葉では言い表せないような楽しいところだゼ。こちらがあまりにも良い所だと分かると、皆殺にたがるから分からないようになっているんだよ。そちらで生活に困ったり、人間関係で悩んだり、苦労するのは修行のようなものだ。そちらで苦労していることは神様はよーく分かっておられる。しかし、いくら困っても修行だから手出しはされないんだよ。見守っておられるだけだ。邪悪な心でいるとサタンに目を付けられていつの間にかサタンの手先にされちまうヨ。普通の人は死んだら皆こちらの綺麗なお花畑にきて楽しく暮らすんだ。こちらに持ってこれるのはそちらで得た知識と優しい心だけだ。そちらで幸せになろうとお金をしこたま貯めても物はこちらには持ってこれないんだよ。いつまでバカなことばっかりやってるんだ。死んで怖ーい閻魔様の前に出たら、もうどんなでたらめも嘘も通じないんだヨ。心の中まで見通されちまって、地獄の鬼に怖ーいところへ連れていかれて、昼夜なく苦しめられて、辛くていっそのこと殺してくれーと言っても、もう死んでいるのだからどうしようもない。そのうち、助けが来て、助かったーと思うだろうが、次にお前さんは瓶詰にされて、瓶ごとドロドロの溶岩の中にほうり込まれて溶けてしまうのさ。そうなると、もう誰とも会えねえ。煙のように蒸発して消えてしまうのさ。生きてる内に「すみませんでしたー」と早く謝ることだね。それ以外に助かる道はないよ。



 








LINK

ワラル事件第31回忌追悼式

豆の育種のマメな話


世界の半分を旅して
ワラル事件の真実





衆議院会議録情報
第120回国会外務委員会



『テロ!ペルー派遣
農業技術者殺害事件』



ニッケイ新聞
ワラルを訪ねて



外務省ODAとは?
ペルーに生きる日本の農業技術



☆秘露備忘録☆


センデロ・ルミノソ
公安調査庁



在ペルー日本大使公邸
占拠事件




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