北摂多田の歴史 

摂州池田氏

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『高代寺日記』『荒木村重研究序説』等から作成した摂州池田氏略系図

【参考文献】

①『城主池田氏略記』等より

 紀貞範:多田満仲公六代、豊島姓を名のる。

 紀維実:摂州池田氏の遠祖は平安朝後期の宮内少輔維実である。維実の母は美濃池田郡の領主で本郷城主左衛門尉維将の娘であり、承平二年(932)頃、維実が美濃池田庄に移り住み、池田氏を称した。

 池田公貞:維実の曾孫公貞の母は摂州多田庄の源頼信の娘であり、公貞は摂州豊嶋郡に来住し、摂州池田氏の始祖となった。

 池田奉貞:池田蔵人大夫豊島冠者

 池田泰政:実者源仲政子是源姓四代

 池田奉光:平家追討之時戦死

 池田望政:公貞の玄孫望政は豊嶋冠者を称し、文治元年(1185)多田蔵人行綱と共に都落ちの源義経と戦った。

『尊卑分脈』


『清和源氏氏族系図』





『池田町史』


池田市建石町森萬之助氏所蔵写本「池田氏系譜」




 池田時景:望政の孫の時景は藤原時景と名のった。

 池田景正:時景の子である。神田の常福寺に石塔の基石に「願主右衛門尉藤原景正 正応6年癸巳」とある。尊鉢の釈迦院の宝篋印塔にも「正安元年己亥12月24日 藤原景正建立」とある。

 池田教依:景正の子である。兵庫介、右京進を称した。建武二年五月山麓に池田城を築き、貞治の頃に没した。

尊鉢の釈迦院の宝篋印塔(池田町史より)



 池田教正:楠正行に嫁していた能勢の内藤満幸の娘は、正行が正平三年四條畷合戦で討死した為に実家の内藤家に戻った。内藤の娘は楠正行の子を妊っていたが、池田教依はその娘を内室として迎え、生まれた子(教正)を嗣子とした。

『東郷能勢村史』




 伊丹兼正:伊丹兼列が足利尊氏に寝返った為、楠 正成は兼列を暗殺した。兼列には嗣子がなく、家臣達は池田教正の次男を請うて伊丹家を再興した。



池田民部丞壽正 池田民部丞綱正

②『新撰菟玖波集・明応本』
「池田綱正父 藤原壽正」「細川内池田民部丞壽正子 藤原綱正」とある。

 


③『高代寺日記』より

「畠慶尼再南都ヘ被行、コレハ昌光(塩川秀満)ノ古室ナリ、永正3年(1506)丙寅、3月4日、畠慶尼頓死、甘蕗寺ニ葬、春賀妙慶信女ト申、65才、継子吉川長満克弔申サルゝ、或曰、池田(壽正)娘ト云傳、」

「明応七年(1498年)戊午、11月、彦太(種満)婚禮、室者池田民部丞綱正ノ娘ナリ、今年種満34歳、慎玉フ年成故ニ所々立願セラル、」

永正二年(1505)乙丑、正月11日、高代寺杦本坊以使僧タリ、3月、池田八郎三郎元服基且ト名、

大永元年(1521年)辛巳、2月、池田八三良基且男子生ス、八郎三郎(勝正)ト名、是代々ノ宗領家タリ、

大永5年(1525年)乙酉、9月、辰女(塩川種満次女)池田山城守(基好)ニ嫁ス、横川橘助・薗田兵助・飯高七之丞以下相添ラル、女房11人、此時池田氏ハ伊丹留守居ト云リ、


④『応仁別記』より
応仁元年(1467)山名方の大内介政弘が長門・周防・豊前・筑前、伊予の河野氏等を率いて上洛の時、池田筑後守(充正)・同遠江守(克正)は降参するとある。




⑤『摂州多田塩川氏と畿内戦国物語』より

摂津では細川六郎澄元の唯一の味方であった池田筑後守貞正が池田城に籠城したので、細川高国は細川尹賢に命じてこれを攻めた。戦いは五月三日に始まり、7日に城内の池田遠江守正盛が寄せ手の池田民部丞綱正に懐柔され降参すると、10日、城主池田筑後守貞正は自害し、同名二十余人は城を枕に討死した。池田貞正の嫡男信正は父の首級を抱えて母と弟池田勘右衛門尉正重と叔父池田帯刀允正能の案内で城を脱出し、五月山の峰伝い豊嶋郡東山村の山中に父の首級を埋葬し仏僧を呼んで供養した。池田帯刀允正能は東山村にて山脇氏を名のり一族は代々貞正の墓を守った。信正はさらに有馬の山中に逃げた。この池田城攻めには、池田民部丞八郎三郎綱正、塩川三河守三郎兵衛一家同息伯耆守孫太郎信氏、仁邊新左衛門尉国連らは細川高国方として参陣し、池田筑後守貞正が討死した後には池田民部丞綱正が池田城主となった。

「永正16年(1519)の秋、細川典厩尹賢に攻められて自害した池田筑後守貞正の嫡男池田三郎五郎信正は阿波の細川澄元に使いを送り、今度の上洛の節にはぜひ先陣を承りたいと伝え、有馬郡の下田中城に軍勢を集結させていた。それを聞きつけた高国方の河原林對馬守正頼、池田民部丞八郎三郎綱正塩川伯耆守孫太郎信氏らは夜襲をかけた。その夜は暗く雨が降っていたうえ裏切り者があり、夜襲の情報が洩れて、塩川衆と河原林衆は散々に討たれて逃げ帰った。池田三郎五郎信正は三十首余りをあげ阿波の澄元に注進した。細川澄元は池田三郎五郎信正に豊嶋郡を安堵し弾正忠にした。」

大永2年(1522)この頃、池田民部丞八郎三郎綱正は亡くなり、池田弾正忠三郎五郎信正が池田城主となった。

「大永6年(1526)7、高国の命により細川右馬頭尹賢の尼崎城築城の節、右馬頭の人夫と香西四郎左衛門の人夫が争いをお越し、管領細川高国は細川右馬頭尹賢の讒言によって香西四郎左衛門元盛を自害に追い込むと、これに反発した香西元盛の兄弟である波多野稙通と柳本賢治は同年十月、細川高国に叛旗を翻し、波多野は八上城(篠山市)に、柳本は神尾寺城(亀岡市)に立篭もり、四国の阿波衆と手を結んだ。11月13日、管領細川右京大夫高国は細川右馬頭尹賢に命じて波多野の八上城と柳本の神尾寺城(神尾山城・本目城)を攻めた。柳本の立篭もる神尾寺城へは内藤弾正、長塩民部丞、奈良修理亮、薬師寺九郎左衛門、同三郎左衛門、波々伯部兵庫助、荒木大蔵少輔高村らが攻め寄せた。丹波の赤井氏は波多野に加勢して神尾寺城の寄せ手に斬り込み薬師寺・荒木勢と合戦になり、高国方は敗れて京へと引き上げた。戦いには負けたが、このときの軍功で薬師寺は備後守に、荒木大蔵は安芸守に任じられた。八上城へは河原林修理亮、同弾正忠、塩川伯耆守孫太郎信氏、池田弾正忠三郎五郎信正らが派遣され、12月朔日、高国方は敗れた。池田弾正忠三郎五郎信正は元来阿波の細川澄元方であり、高国方の池田民部丞八郎三郎綱正の歿後に池田城主となり、摂津衆として心ならずも高国に従っていたが、池田信正は波多野の甥でもあったので波多野方に寝返り河原林・塩川勢の引き上げる道を遮り、矢戦をしかけた。有馬源二郎は高国方であったので、河原林・塩川勢は有馬路へ迂回して引き上げ、池田弾正忠三郎五郎信正は池田城に篭城した。」

 管領細川高国は伊勢国から近江の佐々木六角氏、越前の朝倉氏、出雲の尼子氏を頼ったが皆同心を得られず、ようやく備前の浦上掃部助村宗の力を借りて上洛することになった。
「享禄3年
(1530)6月、柳本賢治は播州三木の別所氏に請われ、同心して浦上方の依藤ノ城(小野市)を攻めたが、夜半に何者かに刺殺されてしまった。それに勢いづいて浦上村宗は、小寺の城、三木別所の城、有田城を攻め落とし、八月には細川高国・浦上村宗勢は西宮の神咒寺に布陣した。細川晴元方は、高畠甚九郎が伊丹城に、池田筑後守三郎五郎信正が池田城に、薬師寺三郎左衛門国盛が尼崎の富松城それぞれ陣取った。細川高国・浦上村宗勢は富松城を攻め落とすと、それに対峙して薬師寺三郎左衛門、山中遠江守、和泉衆が尼崎大物・久々地・坂部に陣を張った。伊丹城の高畠甚九郎は討って出て細川高国・浦上勢と南富松で合戦になり、高国・浦上勢は益々勢いづいて、大物の山中遠江守と河原林左衛門尉は欠郡中嶋まで退却した。その時、薬師寺三郎左衛門国盛は高国方に寝返ったために、堺に人質に出していた七歳の子息が生害された。細川高国・浦上勢は高畠甚九郎の伊丹城を落とすと、高畠は堪らず池田城に逃げ込んだ。」

「享禄4年(1531)3月、細川高国・浦上勢は池田城に攻め寄せると、池田筑後守三郎五郎信正が守る池田城はその日のうちに落城してしまった。この池田城攻めに塩川伯耆守孫太郎信氏と嫡男信光は高国方として出陣した。6月、三好筑前守元長勢が打って出ると、細川高国方は浦上掃部助村宗と嶋村弾正は討死し、伊勢六郎左衛門貞能、伊丹兵庫助国扶、河原林日向守、薬師寺三郎左衛門、波々伯部兵庫助正盛らも討死した。高国勢は敗れて野里川の水は真っ赤に染まり死人の山と化した。三好山城守一秀は逃げる敵を追捕し、浦上内蔵助と同六郎右衛門らが生瀬口(宝塚市)へ落ちて行くところを赤松勢と晴元の御馬廻衆が渡り合い討取った。高国は尼崎町内の紺屋に潜んでいたところを見つかり捕えられて、6月8日、尼崎大物の廣徳寺で自刃した。享年四十八歳であった。」

「天文10年(1541) 多田庄では先年塩川豊前守彦太郎種満が76歳で逝去し、塩川弾正忠太郎左衛門尉国満は41歳で家督を継いだ。9月6日、三好孫四郎範長(長慶)、三好政長、政長の娘婿池田筑後守三郎五郎信、波多野備前守秀忠らが多田一蔵城に押し寄せた。一蔵城主塩川伯耆守政年(満定)は多田一蔵城に篭城した。三好孫四郎範長らは9月6日から27日まで城を取り巻き、塩川政年の御根小屋(一蔵亭)を含め辺りを焼き払った。

「天文14年(1545)、細川氏綱方の丹波の内藤備前守国貞は関というところに山城を構えて立篭もった。波多野備前守秀忠は娘婿である三好孫四郎範長(長慶)に加勢を頼み、三好範長と三好政長が出陣し内藤の山城は落城した。5月24日、細川晴元勢と細川氏綱勢が南山城で合戦した。細川晴元勢は三好範長(千五百)、香西與四郎(五百)、柳本又二郎(三百)池田筑後守信正(千五百)、三宅出羽守国村(五百)、三好政長(三百)、伊丹親興(三百)、多田塩川()、山城諸侍(四百)、その他合わせて一万計とある。」

「天文15年、遊佐長教は年若い畠山政国を巻き込んで、細川氏綱に加勢して挙兵した。細川晴元はこれを聞きつけ、8月、三好孫四郎範長(長慶)に出陣を命じたが、相手方多勢に付き堺会合衆の助けで一旦退却し、阿波、讃岐、淡路に援軍を要請し、安宅摂津守は淡路衆を率い、十河民部大輔は阿波衆を率いて攻め上ってきた。細川氏綱と遊佐勢の攻撃を受けている山中又三郎が立篭もる天王寺の大塚城を助けるために三好政長と淡路の安宅勢が向ったが、摂津の三宅出羽守国村と池田筑後守三郎五郎信正が細川氏綱方に加勢し、中嶋で足止めを喰らっている間に、天王寺の城は奪われてしまった。ただ一人伊丹次郎親興だけが三好に味方したので、後日その忠節により細川晴元は伊丹親興を大和守に任じた。池田勢が池田城に帰陣すると三好勢、淡路衆、伊丹勢が池田城を攻め池田市場当りを焼き払った。」

 「天文16年(1547)丁未、昨年の末に細川讃岐守持隆と三好豊前守實休(長慶の弟)を始め四国衆・淡路衆二万騎悉く上洛して、明けて1月、細川晴元は太平寺合戦で失脚した畠山上総介在氏を味方に引き入れ、まずは細川氏綱方の摂津の諸城を攻めるべきと決し、四国衆、淡路衆、三好勢、畠山上総介、遊佐越中守、木澤大和守らが三万騎で攻め懸り、摂津原田城、三宅城、薬師寺與一の芥川城が落城した。芥川城には芥川孫十郎が入った。池田筑後守三郎五郎信正は細川氏綱方についたが、舅の三好政長を通じて晴元に詫びを入れ開城した。」

「天文17年(1548) 4月、六角定頼の仲介で細川氏綱ら河内衆と細川晴元の間に和議が整い、河内若林の陣は開陣し、四国勢は帰国し、三好筑前守範長(長慶)は越水城(西宮市)に帰城した。公方は進士美作守を通じて細川晴元と六角定頼に出仕するようにと申され、将軍父子らが帰洛すると細川晴元は公方に出仕した。池田筑後守三郎五郎信正は帰参を願い出たが京で自刃させられ池田筑後守長正が城主となった池田筑後守信正は三好政長の娘婿であり、三好政長が孫の池田長正の後見人として池田城に入ったが、池田勘右衛門尉正村、池田山城守基好、池田十郎次郎正朝、池田紀伊守正秀(清貧斎)ら池田四人衆は城主池田信正の助命嘆願もできなかった三好政長に愛想を尽かし、池田の家政を意のままにしようとする三好政長と激しく対立した。池田四人衆は三好筑前守範長(長慶)に相談すると、範長(長慶)は細川晴元の奉行人垪和(はが)道祐、波々伯部左衛門尉、田井源介、高畠伊豆守、平井丹波守に宛て、同年八月十二日付けの書状で三好政長が池田の家政を乗っ取ろうとしていると激しく讒言した。

天文24年8月に池田八郎三郎且正(勝正・35五歳)は筑後守を名のった。摂州池田城では池田四人衆(池田勘右衛門尉正村・同山城守基好・同十郎次郎正朝・同紀伊守正秀)の合議により、池田基且の嫡男池田八郎三郎且正(勝正)が筑後守を称した。城主池田筑後守長正は隠居したものと思われる。本来ならば池田筑後守長正(池田三郎五郎家元来阿波方)の嫡男知正(11~16歳)が継ぐべきところ知正は元服前だったので池田八郎三郎家元来京方の且正(勝正)が池田長正の嗣子となり阿波の三好に味方することを条件に池田四人衆に推挙され城主となった。」

『南郷今西家文書』に池田四人衆である池田勘右衛門正村池田山城守基好池田十郎次郎正朝池田紀伊守正秀の署名がある。


 「永禄6年(1563) 2月、ある伝にこの頃、池田前筑後守長正が逝去した。この時、長正の嫡男知正は19~20歳位であった。池田筑後守八郎三郎且正(勝正)の叔父池田山城守基好池田勘右衛門尉正村を誅した。『足利季世記』に「池田山城守カ同名勘右衛門尉ヲ自ラ誅伐シケル如何ナル子細有ケルソト人々申シケル従是池田ノ名字中一和セス」、『細川両家記』にも「3月22日、池田山城守、同勘右衛門尉を同内輪にて被誅也」とある。三郎五郎家の出である池田勘右衛門尉正村は八郎三郎家の出である城主池田且正(勝正)と対立した為に且正(勝正)の叔父である山城守基好に殺害されたものと思われる。

大廣寺の地蔵尊 「永禄七(1564)甲子三月十五日」「逆修」
  

「永禄9年(1566) 2月、松永久秀は畠山政頼、紀州衆、遊佐衆、安見衆、和泉衆、根来衆ら七千余騎を率いて堺南北、遠里、小野の里に陣を張り、畠山勢は河内に乱入し、三好方も高屋城から足軽衆を出し鉄砲戦となり双方退却した。数日後、三好左京大夫義継は一万三千人を率いて高屋城から出陣した。畠山勢も堺から出陣し、和泉衆は家原城から討って出て双方和泉上野芝というところで合戦になり、畠山方が負けて堺へ逃げ込み、和泉衆は岸和田城へ退却した。丹波の八上城には松永弾正久秀の甥松永孫六が立篭もっていたが、波多野與兵衛尉晴通は城を取り戻そうと八上城の松永孫六を攻めた。城の水の手を断たれて丹波の別所勢が八上城から城抜けすると、松永孫六も城抜けし、波多野與兵衛尉晴通は弘治三年(一五五七)に奪われた八上城を十年ぶりに取り返した。永禄8年に丹波八木城の内藤宗勝 (松永長頼)は黒井城の赤井氏を攻め討死したため、丹波国は波多野氏の支配となった。5月、松永弾正久秀は大和多聞城を出て摂津中嶋・野田から喜連、さらに堺南北に陣を進め畠山勢と合流した。さらに伊丹大和守親興、松山彦十郎、瀧山城衆、越水城衆らが堺へ渡り合流して六千余騎に膨れ上がった。これに対し、三好方は高屋城の三好左京大夫義継を大将に三好山城守康長、三好日向守長逸、三好下野守政康、石成主税助、三好備中守、同久助、同帯刀左衛門尉、加地権助、塩田采女正、篠原玄番、加地六郎兵衛、矢野伯耆守、吉成勘介、松山安芸守、中村新兵衛尉、淡路十人衆、池田筑後守勝正ら摂津上郡下郡衆合わせて一万五千余人が対峙したが、能登屋、べに屋ら堺会合衆は松永・畠山勢が不利とみて松永・畠山勢を堺に引き入れ戦いが回避された。」

禄10年(1567) 2月、三好左京大夫義継は若年ながら三好家の当主であるにもかかわらず三人衆の意見に従わねばならず、三人衆に反発して彼らを殺害しようとさえ考えていたところ、この度の公方足利義栄公の上洛について三人衆から何の相談もなかったので怒り、家老金山駿河守の奨めもあり、ついに三人衆と絶縁して高屋城を出で松永弾正霜臺久秀と結んだ。松永弾正は大いに喜び三好義継に供奉して、4月、信貴山城(生駒郡平群町)から山城国を処々放火して多聞城(奈良市)へ入った。三好三人衆は松永久秀を討取るために奈良へ発向した。10月、東大寺大仏殿に本陣を取っていた。松永衆は多聞城から夜討ちをかけると、三好方が慌てて敗軍して逃亡するところを追撃し雑兵三百余人を討取った。この戦いで大仏殿が炎上してしまった。池田筑後守勝正の陣所だけは夜討ちの備えをしていたので持ち堪えた。この時、三人衆に味方して氷室山に陣取っていた別所大蔵少輔安治と郡山辰巳衆らは自ら陣に火を放って退いた。

「永禄11年(1568)信長は9月30日に三好方である池田筑後守勝正の池田城を攻めた。信長は城の後方の山に登って戦いの様子を眺めたという。双方死者を出して激しく戦い、織田勢が町中を焼き払い、10月2日に池田勝正は降参して所領を安堵された。」

「永禄12年(1569)正月3日早朝、阿波勢一万余騎は河内・山城と攻め上り、5日に東福寺から六条の本圀寺御所に攻め懸かった。御所方細川右馬頭、三淵大和守、細川兵部大輔、織田左近、野村越中守、二階堂駿河守、飯河山城守、牧島孫六、曽我兵庫頭、赤座七郎、赤座六助、津田左馬、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、明智十兵衛、森弥五八、内藤備中、山縣源内、宇野弥七らは散々に戦う。三好義継は正月5日に若江城を出陣し、伊丹勢・池田勢も駆けつけたが、高槻の入江左近は阿波方に寝返り三好為三と同兵庫頭を呼び込んで、京へと駆けつける伊丹・池田勢の道を阻んだ。伊丹・池田勢は忍頂寺越えで西岡へ入り、三好義継と池田衆は桂川南方に陣を取る。明くる6日、三好日向守、同下野守、同為三入道は六条本圀寺へ押し寄せ、三好山城守、石成主税、阿波衆は桂川の三好義継、池田衆と合戦に及び阿波三好勢が勝って、三好義継と池田衆は敗軍して嵯峨へと退いた。明くる7日、池田筑後守勝正は家臣を見捨てそのまま丹波路を通って池田城に篭城した。三好義継、和田惟政、伊丹親興、池田清貧斎正秀池田周防守池田豊後守荒木村重、中川清秀、萱野長門守重政、菅出雲守、下村市之丞勝重、池田助次郎、高山藤蔵、曾根崎喜三郎、能勢左兵衛尉頼高らは嵯峨から本圀寺を取り巻く阿波勢と再び合戦に及び、細川右馬頭、三淵大和守藤英、細川兵部大輔、野村越中守、二階堂駿河守、飯河山城守、牧島孫六、曽我兵庫頭、野村、内藤五郎、森弥六ら公方の近習も本圀寺から討って出で、阿波衆を鳥羽伏見まで押し戻した。 伊丹兵親興は傷を負い同勘左衛門は討死し、西岡勝龍寺城に陣取った。阿波衆は負けて淀・八幡・伏見・木幡に退き散陣した。9日朝、信長は五万の兵を率いて上洛し忠功の輩に褒美を与えた。池田紀伊守正秀(清貧斎)は信長からこの度の手柄を賞玩された。」

 「元亀元年(1570)阿波衆は勝瑞城集り畿内に攻め上る計略を立て、摂津中嶋の野田・福嶋に立篭もることになった。野田・福嶋は、西は大海に接し、海路で淡路・四国へ通じ、北南東方は淀川で囲まれて、周りは沼地が広がり篭城に恰好の場所であった。6月18日、池田では池田八郎三郎勝正(50歳)を城主に据えていたが、池田勝正は公方を支持するようになり阿波衆を支持する池田衆らは池田勝正に叛き内紛があった。池田勝正は池田豊後守池田周防守に腹を切らせて城を出て原田城に移ると代々阿波衆を支持していた池田三郎五郎家の嫡男池田知正(27歳位)が城主となった。この頃、池田21人衆の筆頭池田紀伊守正秀(清貧斎)荒木村重(35歳)が池田家の家政を掌握して、村重が池田姓を名のり陣代となっていた。池田衆は阿波へ使者を出し三好に味方するので上洛を待つと注進し、三好日向守長逸の嫡男三好兵庫助久助(長虎)を池田城に迎えた。7月29日、淡路の安宅衆は一千五百余騎で兵庫津に着き、8月9日に尼崎に陣取り、13日には伊丹へ攻め寄せた。原田城の池田勝正が百騎余りで伊丹方に加勢して猪名寺に討って出て高畠で淡路安宅衆・池田衆(池田知正・荒木村重)百騎余りと合戦になった。淡路衆と池田衆は負けて淡路衆は尼崎に退いた。伊丹衆と池田勝正衆は敵の首ども少々討取り池田知正らを蹴散らして帰陣した。10月になって信長から荒木村重のもとに密使が訪れ、摂州を束ねた暁には摂津守に任ずるという。その言葉に村重の野心が掻き立てられた。当主池田知正はあくまでも三好を支持すると主張したが、池田清貧斎の才覚により信長に味方することになった。池田城では多くの重臣たちが反対したが、池田清貧斎の説得により急に方針転換がなされ、荒木村重が池田家の陣代となり織田信長から摂州討伐の命を蒙り、中川清秀、萱野長門守、下村市之丞、粟生兵衛尉、安威三河守らを幕下に置き、出仕遅参の輩を攻め滅ぼした。」

【湯山年寄衆】池田三郎五郎家当主池田知正に従っていた池田家重臣達は三田の湯山(有馬温泉)年寄衆と呼ばれる池田清貧斎を筆頭に池田(荒木)村重(三十五歳)、荒木志摩守卜清(元清)、荒木若狭守宗和、神田景次、池田正慶、高野一盛、池田正遠、池田正敦、安井正房、藤井敦秀、行田賢忠、中川清秀、藤田重綱、瓦林加介、菅野宗清、池田勘介、宇保兼家らである。池田勝正追放後の池田家重臣達である。

元亀元年(1570)10月に池田では荒木村重が大将となり、織田信長から摂州討伐の命を蒙り猛威を震い、中川清秀、萱野長門守、下村市之丞、粟生兵衛尉、安威三河守らを幕下に置き、出仕遅参の輩を攻め滅ぼした。それに対抗して高槻城主和田惟政は池田領に属するところに宿久城と里城の出城を築き高山父子を入れた。茨木城の茨木重朝、郡山城の郡兵大夫正信らが和田惟政に味方して池田衆と対峙し、ついに元亀3年(1572)9月28日、摂津国島下郡白井河原に於いて合戦となった。池田方は荒木村重を大将に、池田久左衛門知正中川清秀山脇源大夫、粟生兵衛尉、熊田孫七、下村市之丞、鳥養四郎大夫ら三千余人、郡山から馬塚にかけて陣を敷いた。一方、和田方は和田伊賀守惟政を大将に、茨木佐渡守、郡兵大夫正信、十河杭之助ら七百余人が糠塚に陣を敷き、嫡男和田伝右衛門惟長(愛菊)和田主膳佑惟増、高山ダリオ飛騨守重房ら三百余人が後詰として控えていた。敵勢あまりにも多く後詰が来るまで待つようにと郡兵大夫は進言したが大将の和田惟政は聞き入れず、精鋭二百騎を率いて猛烈に突撃すると、後陣の茨木重朝、郡兵大夫らも五百余人を率いて後に続いた。荒木方は三千余人を三隊に分け、荒木隊一千余人をめがけて突進してきた和田惟政隊を引き付けると、池田知正と中川清秀が率いる二千名の伏兵が取り囲み、三百丁の鉄砲が発射され和田隊は総崩れとなった。『中川史料集』によれば、中川清秀が和田惟政を討取り、山脇源大夫が名馬金屋黒に乗った郡兵大夫正信を討取り、荒木村重が茨木重朝(和田惟政甥)を討取り、下村市之丞が十河杭之介を討取ったとある。『フロイスの日記』には「和田惟政と遭遇した敵の一人は惟政から重い傷を受けたていたが、惟政はそれより先すでにずたずたに切り裂かれ、多くの貫通銃創を受けていたので、ついに惟政は首を刎ねられ、刎ねた相手は5~6歩その首を手にして進んだのちに死を遂げた」とある。後詰の和田惟長は高槻城に篭城した。高山父子は芥川城に逃げ返ったが、この時、高山父子が荒木村重とまともに戦う気があったのかはなはだ疑問である。フロイスは洗礼を受けぬまま亡くなった切支丹の熱心な庇護者であった和田惟政のために主なるゼウスに祈りを捧げた。9月朔日、荒木勢は茨木重朝の父翫月斎が立篭もる茨木城を落とした。茨木城は中川清秀に与えられた。荒木衆は高槻城を取り囲み周辺を破壊し焼きはらった。公方足利義昭は三淵大和守藤英(細川藤孝実兄)を高槻城の援軍として派遣した。9月9日、信長は村重に撤兵を勧告し、同月24日、信長の命を受けた明智勢一千人が高槻城に差し向けられると村重は兵を引いた。『フロイスの日記』では1571(元亀2年)の事としている。池田衆には淡路安宅衆千二百余人が含まれていたと言う説もある。

「和田惟政の死後高槻城主となっていた惟政の嫡男和田太郎惟長(愛菊)は17歳であり、母と叔父和田主膳佑惟増と共に高槻城に籠城していたが、惟長は何かにつけて口煩い叔父主膳を殺害した。元亀4年、芥川城代高山ダリオ飛騨守重房と同息ユスト右近長房は高槻城の和田惟長に出仕すると、二人はすでに荒木方に寝返っていると見抜いた惟長は二人を殺害しようと家臣達を配置していた。夜になり暗闇の部屋の中で双方が斬り合いになり右近と惟長の双方が致命傷を負い、惟長は母の部屋に逃げ込んだ。高山飛騨守は惟長の母に「城を開け渡せば命は助ける」と言明した。惟長の母は致命傷を負った子息を連れて三淵大和守藤英の伏見城へ退いた。和田惟長は3月15日に伏見城で亡くなったとする説もあるが、甲賀郡和田村に帰郷し、後に秀吉・家康に仕えたと言われている。右近は首に刀傷を負って死に瀕していたが伴天連の西洋医術のおかげで一命をとりとめた。荒木村重は高槻城を高山右近に与えた。荒木村重と中川清秀と高山右近の三人は従兄弟であり摂津国は荒木村重の一族で固められた。高山氏一族は「重」を通字としている。高山飛騨守重房は和田惟政に取り立てられいたが裏切った形となった。」

「天正2年(1574)11月15日、荒木村重は伊丹城を攻め、伊丹城は落城し、伊丹兵庫頭親興は自害し嫡男忠親は姿をくらました。荒木村重は伊丹城を改築して有岡城と改め居城とし、池田城は廃城となった。このときに荒木村重は三田城主有馬出羽守国秀をも滅ぼして荒木平大夫重堅を入れた。平大夫重堅は荒木村重の宿老で荒木姓を与えられた。村重は信長の命により花隈城を築き荒木志摩守元清(卜清)を、瀧山城には池田泰長を入れた。吹田城には弟の村氏を入れ、尼崎城を改築して子息の村次を入れた。」

有岡城と尼崎城
 


「天正6年(1578) 正月朔日、五畿内衆は安土に出仕した。御茶会・御節会などが催された。正月、宇喜多直家は上月城の尼子勝久と山中鹿之介を追いはらい上月景貞を入れた。2月23日、羽柴秀吉は播磨へ出陣し、加古川の賀須屋内膳(糟屋武則)の城に人数を入れ、書写山に要害を構えた。3月、羽柴秀吉は再び上月城を攻め、上月景貞は自刃した。秀吉は上月城の兵を「蓑笠踊り」の刑で焼き殺し、女子供二百余人を捕えて子供は串刺しにし、女は磔に架け、再び尼子勝久と山中鹿之介を入れた。尼子勝久と山中鹿之介は別所定道の利神城(兵庫県佐用町)を攻め落とした。4月中旬、毛利勢は大軍を催し上月城を取り巻くと、羽柴筑前守秀吉、荒木摂津守村重、中川清秀らは高倉山に対陣し、信長に援軍を要請した。別所小三郎長治と叔父の別所山城守吉親(賀相)は三木城に立篭もると、東播磨の諸将達も別所に與し、御着城の小寺政職まで同調し羽柴秀吉に反旗を翻した。」

「天正6年
(1578)10月、荒木摂津守村重が逆心を企てたと方々より信長の元へ注進があり、信長は宮内卿法印、惟任日向守、万見仙千代を村重の元へ遣したところ、村重は「少しも野心御座なく候」と申し、お袋様を人質に差し出した。信長は村重父子に出仕するようにと直筆で書面を認めたが一向に参上しない。去る元亀元年6月、元来京方であった池田民部丞家の池田八郎三郎勝正は阿波の三好を支持する約束で城主となったが、信長に帰順すると京の公方を支持するようになり、阿波の三好を支持してきた三郎五郎家を中心とする池田衆らは池田勝正を池田城から追放し、阿波の三好と手を結んだ。しかし、元亀3年8月、池田衆は村重を大将として白井河原の合戦で和田惟政を討取ると池田衆は勢いづいて、天正2年11月、伊丹氏を滅ぼして伊丹城を改築して有岡城と改名すると、信長は村重の実力を認め摂津守に任じ侍大将にした。しかし、池田衆らは信長の播磨攻めや丹波攻めに駆り出されても恩賞も与えられず、中川清秀、高山右近、荒木元清ら村重の一族だけが城と領地を与えられて摂津国は荒木一族の支配する国となり、譜代の池田衆らは不満を募らせていた。池田三郎五郎家の惣領である池田知正は村重の臣下となり、荒木久左衛門と称していたが、備前の鞆に匿われていた公方や大坂石山本願寺は代々阿波衆を支持してきた池田三郎五郎家の嫡男池田知正に再三に亘り誘いをかけていた。村重は信長と池田家中の間で板挟みになっていたが、頼みの池田清貧斎も隠居(或は逝去)してもうこれ以上池田家中の不満を抑えることが出来ず、本願寺と阿波衆に味方することになったのである。

高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀、尼崎城の嫡男村次、花隈城の荒木志摩守元清、三田城の荒木平大夫重堅、吹田城の吹田村氏ら一族はその対応に苦慮した。塩川伯耆守長満は信長の直参であり、信長から多田銀山の経営と能勢の攻略を任されていたので村重の與下ではなかった。六瀬衆を束ねていた塩川古伯吉大夫国満は荒木の縁者であったが、信長に人質を差出し伯刕長満の与力に付けられていたので村重には與しなかった。しかし、多くの多田院御家人衆は多田院が織田信澄に破却されたために荒木村重に味方した。
安土の村重屋形の留守居である菅野弥九郎が急ぎ戻り「村重参着次第召し取れ」という指示が出ていると注進した。

高槻城主高山右近は村重謀反と聞くとすぐに有岡に赴き村重を説得した。第一に、今の村重の地位は信長から与えられたものであること。第二に、有岡城がいかに堅固な城であっても信長の強大な軍事力には到底かなわないこと。第三に、今謝れば信長の許しを得られるだろうが、後になればその怒りは計り知れないだろうと述べた。右近は高槻のキリシタン衆を守らねばならず、村重に連座して領地を失いたくはなかった。村重の心は揺らいでいた。右近は長男と妹を人質として有岡城に入れると、村重も同意して安土に出仕するために右近と共に茨木まで来ると中川清秀は「今となってはこのまま安土に行けば腹を斬らされ犬死となる」と反対した。驚いた有岡の重臣たちの使者がやってきて、このまま安土に行くというのなら帰ってきても城門を閉じて城には入れぬという。右近は清秀の態度に猛反発したが、村重は仕方なく有岡城に戻り謀反を決意した。
中川清秀は祖父清村が摂州池田弾正忠三郎五郎家に介抱され、後に中川氏は池田家の重臣となった。中川清秀は村重とは母方の従兄弟であり村重から茨木城を与えられて破格の出世をしていたが、清秀は池田二十一人衆の一人でもあったので摂州池田家の内情は良く承知しており村重の心の内もよく理解していた。出来ることなら己も今の領地を失うことは避けたかったが、信長の気性と摂州池田家の内情を考えると村重に義理立てするしかなかった。

荒木村重の嫡男新五郎村次
(村安)は惟任日向守光秀の娘婿であり、明智光秀は娘を救うために再び単身で有岡にやって来た。光秀は村重とは本音で話をすることができた。村重は「信長公に従い信濃・越前・丹波・播磨・紀州・河内へと転戦してきたが、池田知正ら池田衆はもうこれ以上信長公に従う謂れはないと不満を募らせていたところ、安国寺恵瓊から密書が参り、内議評定の末、公方に御味方することになった」と述べた。さらに村重は光秀に独自の正論を説いた。「今の地位は信長公のお蔭で手に入れたものではあるが、最近の上様は喜怒哀楽が益々激しく気の病を患っておられるようだ。余りにも多くの人々を殺したので世間から恐れられ、憎まれ、怨まれ、或いは調伏されて夥しい死霊と生霊に取りつかれて、普段は人情深い人柄で儂も好いているが、豹変した時の顔は恐ろしい別人であり信長公の前に出るのが正直恐ろしい」と言った。光秀もその点に於いては心当たりがある。さらに村重は「このまま生涯信長公の野望のために戦いに明け暮れ、罪のない人々を情け容赦もなく殺害するのはもう御免蒙りたい。多重人格の信長公が天下を平穏に治められるわけがなく、天下を平定した暁にはキリシタン宣教師と手を組み加羅をも征服し王となるという。正気の沙汰ではなく、もう誰かが謀反を起して止めるしかない。私が志を遂げることは到底叶わぬので後は貴殿に託す。娘御のことは御心配ご無用」と言い放った。光秀は「お心遣い痛み入る。実は、私も信長公に仕え破格の城と領地を給わっている身ですが、嫡男は未だ元服しておらず、最早初老の身となり、戦いに疲れ果てて先々不安を感じておりまする。しかし、・・・私には村重殿のような勇気はござらぬ。どうか犬死となり荒木家を絶やさぬようになされよ」と述べた。村重は光秀の娘を離縁して返した。

石山本願寺でも考えは二分していた。一向宗徒数万人が惨たらしく殺され、門跡光佐(顕如)は戦いに疲れて、食べるものにも不自由し、密かに石山本願寺を抜け出し、摂州島下郡高山庄の光明寺にしはらく隠棲していたという。門徒衆も戦いに明け暮れて「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽浄土に行けると信じていたが、平和な暮らしを求めるものも多く、一揆の無いキリシタンに改宗する者も多かった。




羽柴秀吉も有岡城へ説得と称してやって来た。秀吉は「それがしが安土に同道して命乞いをして進ずるゆえ、今から安土へ参ろうではないか」と言った。村重は秀吉に感謝の気持ちを伝えたが、内心ではすでに覚悟を決めていた。そして、秀吉にも謀反について正論を語った。「今の信長公は気の病を患っておられ正気ではない。信長公を恐れて誰も諫める者はいない。信長公が一旦豹変すれば貴殿でさえ如何することもできないでしょう。さすれば誰かが上様を亡き者にして代わって天下を取るべきである」と大胆に述べた。秀吉は村重の言葉をうなずきながら聞き「それならば、儂はどうじゃ」と笑って言った。これは村重の一種の言葉の調略のようなものであった。自分は到底信長を倒すことはできないが、光秀か秀吉ならばできるかも知れない。秀吉が毛利と手を與み謀反を起し世が乱れれば再起の機会も訪れると考えていた。秀吉は説得をあきらめて帰って行った。秀吉は説得のためと称して黒田官兵衛に有岡城の内偵を命じた。秀吉は村重の「誰かが信長公を亡き者にして代わって天下を取るべきである」という意味ありげな言葉が妙に気になったのである。勘兵衛がやってくると村重は腹の内を洗い浚い打ち明けた。そして「儂は今、この城の中で孤立しており話相手もいない。摂津国を吾が一族で支配したために譜代の池田衆らは怒っておるのじゃ。暫くこの城に留まり儂の話相手になってはもらえぬか。いや是非ともそうして頂く」と言い官兵衛を有岡城の座敷牢に幽閉した。池田衆は官兵衛の殺害を村重に強く迫ったが、村重は殺す必要はないと強く言明し、
伊丹又左衛門に官兵衛の警護と世話役を命じた。吹田城の荒木村重の異母弟吹田村氏は一族を連れて有岡城に入った。

11月、毛利の舟六百余艘が木津表へ乗り出し、大坂へ兵糧を運んできたが、九鬼右馬允はくだんの大船に乗り大鉄砲を撃ちかけて大勝し、見物の者共を驚かせた。11月9日、信長は滝川、惟任、惟住、蜂屋、氏家、伊賀、稲葉らを率いて、摂州表へ出陣した。中将信忠は信雄、信孝、越前衆、不破、前田、佐々、原、金森、日根野らを率いて天神の馬場から高槻へ向った。信長は高槻の安満に陣を据え、佐久間、羽柴、宮内卿法印、大津傳十郎を同道して、伴天連を呼び強く脅迫して高山右近の説得を命じた。オルガンティーノは信長の意向を右近に伝えた。右近は信長に帰順する意思はあるが、有岡城に嫡男と妹を人質に取られているので態度を決めかねていた。信長はキリシタンを救いたければ、右近が村重と交渉して人質を解放させるか、あるいは村重が降伏するように説得せよという。信長は互いの人質を交換しても良いと譲歩した。右近は有岡から数人の家老を呼んで村重と交渉にあたると、家老たちは今までの旧領を安堵するならば降伏してもよいというところまで話がまとまり、信長に伝えると、信長は不承知で滝川、惟任、惟住らを先陣として有岡に向かわせた。15日、信長は高槻の安満から茨木の郡山城へ陣を移した。十六日、高山右近は郡山へ祗候し信長に帰順し、金子廿枚、家老二人に金子四枚と御道服が与えられた。右近の父ダリオは有岡城に入り孫たちの命を守り、村重が人質を殺すのであれば自分も孫たちと運命を共にしようと考えた。すなわちダリオの行動は信長を裏切ったことになる。右近の裏切りを知った有岡の重臣の一人が右近の人質を殺そうと村重に迫ったが、村重は右近の子供たちを殺す必要はないと言明した。18日、信長は惣持寺へ陣を進め、古田左助(清秀の妹婿)福富、野々村らを通じて中川清秀を調略した。清秀は信長の意外な寛容さに驚き、村重に事の次第を告げて相談した。村重は清秀に降伏を進め、自分はもはや信長に従うつもりはないと伝えた。24日、中川清秀は荒木方の渡辺勘大夫と石田伊予守を追い出し、翌25日、家老田近、熊田、戸伏らを連れて信長に参向し、所領安堵され、黄金三十枚、家臣三人に黄金六枚と御道服が与えられ、信長は清秀の嫡男長鶴丸(秀政)に娘鶴姫を嫁がせ婿とすると述べた。これを知った高山右近は清秀の身勝手さに愛想を尽かし、是により右近と清秀は互いに反目し合うことになる。」

「天正7年(1579)9月2日の真夜、荒木村重は5~6人召し列れて伊丹城を忍び出で、猪名川を舟で降り嫡男村次の尼崎城へと城抜けした。村重は信長に背く気はなかったが、池田知正(荒木久左衛門)ら阿波の三好を支持する池田衆らに大将として担がれたのであった。しかし、この頃になって村重は謀反を推進した池田知正(荒木久左衛門)ら池田衆にほとほと愛想を尽かし嫡男村次と花隈城の荒木志摩守ら一族と共に安芸に逃亡する決意をした。9月12日、中将信忠は伊丹表の人数半分を召し連れ尼崎へ陣を移し、尼崎城に近い七松(尼崎市七松町)という所に砦を設けて塩川伯耆守長満と高山右近を定番として置き、中川瀬兵衛清秀、福富平左衛門、山岡対馬、一與某らを古屋野の陣へ帰した。9月24日、信長は山崎から古池田に陣を据え、27日、伊丹の付城を見舞い、古屋野の滝川一益の陣に逗留し、塚口の惟住五郎左衛門の陣で休息し、晩に池田に帰り、翌日茨木に立ち寄って帰洛した。10月15日、滝川左近一益は調略を以て有岡城内の中西新八郎を味方に引き付け中西の才覚により足軽大将星野、山脇、隠岐、宮脇らに謀反を進め、上臈塚(城の西側)へ滝川の人数を引き入れた。岸ノ砦(城の北側)を守っていた渡辺勘大夫は多田の舘まで逃げ戻ったところを討取られた。又、ひよどり塚(城の南側)を守っていた野村丹後守と雑賀鉄砲隊も悉く討死してしまった。 城代家老荒木久左衛門(池田知正)は尼崎と花隈の城を開け渡せば父母妻子の命は助けるという約束を織田方から取り付けて、城の家来衆を集めて相談し、11月24日、荒木久左衛門ら三百余人は妻子を人質として城に残し、尼崎城の村重に降伏するように交渉に行った。それと入れ替わりに織田信澄が有岡城へ入った。11月28・29日、荒木久左衛門らは城内から鉄砲を射掛けられ城に近づくこともできず、三百余人は有岡城の妻子を見捨て皆何処かへ逐電してしまった。」

荒木村重の内室は北河原三河守(藤原仲光末裔)の娘と池田長正の娘とされているが、後添えの「だし」は謀反のとき政略結婚により石山本願寺の寺士の娘を娶り、生まれた息子岩佐又兵衛は落城の時に乳母が石山本願寺に連れて逃げたという。嫡男村次と次男村基は後に秀吉に仕え、「だし」と二人の娘は信長に誅された。12月14日、荒木の妻子ら30人は京に連行されて、佐々、前田、金森、不破、原らが奉行となり六条河原で首を刎ねられた。有岡城に残された人質達(老いたる母・いとけなき子・女房達)は泣き崩れ、命乞いをしたが許されなかった。12月23日、有岡の家来衆の妻子と女子供122人は滝川・惟住・蜂屋らによって尼崎の七松で磔に架けられて殺された。『フロイスの日記』には、「幼児は母親の胸に縛りつけ、ともに十字架に懸けた。全員が十字架に磔にされると、刑吏たちは下から槍や銃弾で殺した。一人一人を処刑して行くたびに、見守っていた親族、友人、知人たちの慟哭と呻きと叫びが起り、この光景にショックを受けた人々は幾日も放心状態で過ごしたという。次に、下女388人、下男124人、合わせて五百十余人は家四ツに押し込められ、周りに大量の乾燥した草や柴を積み上げて火をかけて生きたまま焼き殺された」という。荒木久左衛門(知正)の子息自念(十四歳)は六条河原で斬首され、荒木久左衛門は舎弟光重とその子息三九郎らと淡路の岩屋へ逃げた。後に池田知正は秀吉・家康に仕えた。有岡城に入った高山ダリオ飛騨守と右近の息子たち人質は解放されて、飛騨守は死罪を免ぜられ北国の柴田にお預けとなったが、後に信長は飛騨守を許し牢から出て妻子を呼んで市中で暮らすことを認めた。寝返った中西新八郎、山脇勘左衛門(山脇源大夫コト勘右衛門尉正吉)、星野左衛門尉、宮脇又兵衛尉、隠岐土佐守の五人は池田勝三郎恒興の与力となった。黒田官兵衛は有岡城に捕えられていたとき荒木方の加藤重徳(伊丹又左衛門)から優しく世話を受けていた。官兵衛は有岡城落城後に助け出されて再び秀吉の軍師となり、加藤重徳父子は黒田家に召抱えられた。摂津国下四郡と伊丹城は池田紀伊守恒興に与えられた。山脇源大夫と弟山脇市大夫安吉は池田恒興に召出され、以後、大坂ノ陣や岐阜攻めに参陣した。天正7年10月13日、摂津木代庄石清水八幡宮善法寺領代官職を荒木村重にかわり塩川伯耆守長満に与えられた。有馬郡の高平谷に池田三右衛門正茂池田筑後守勝正の墓と伝わる五輪塔がある。館跡や廃寺もあり池田氏の田中城があったとされている。池田勝正は荒木村重に攻められ高野山に逃げ、後にこの谷に隠棲し、池田三右衛門も有岡城落城後にこの谷に隠棲したという。」
 「花隈城には渡辺藤左衛門ら根来衆と鈴木孫市ら雑賀衆を合わせ九将と侍衆六百余人、百姓衆千人余が篭城していた。天正8年2月27日、池田紀伊守恒興、同勝九郎元助、同古新輝政父子は諏訪嶺に付城を置き、3月2日、池田紀伊守恒興らは花隈城を攻め石山本願寺に味方していた兵庫の寺院や町中を焼き払い、僧中・町衆を殺害した。塩川伯刕長満は池田山城守正永(基好嫡男)、多田茂助、飯尾、宮川以下士卒雑兵200人を率いて参陣した。塩川運想軒も大賀塚ノ兵350人を繰り出した。7月に花隈城は落城した。荒木志摩守元清らは既に毛利氏の領地である備後国鞆へ逃れていた。後に荒木村重、村次、村基、荒木志摩守元清らは豊臣秀吉に仕えた。荒木志摩守元清は荒木流馬術の開祖となった。

「天正11年、この頃、池田知正は池田恒興幕下にて山崎ノ合戦に参陣し、秀吉から摂州豊島郡に2700石を与えられ、小牧長久手の合戦、九州島津攻めに参陣し、後に徳川家康に仕えた。荒木村重は堺に移り住み茶人として余生を送り、天正14年5月4日逝去した。嫡男村次は中川清秀幕下にて賤ヶ岳の合戦に参陣し負傷し歩行困難になり、村次の長男村光は福岡の黒田家に仕官した。」

「慶長5年(1600)庚子、正月小丙午6日、今宮亭に於いて中書頼一は弓始めを務めた。西之丸衆三十余人が折々に来た。4月27日、塩川中書頼一の長子が生まれ源太(基満)と名づけられた。二月、小尾仁左衛門(伏見番士)関次郎兵衛、伊丹兵庫頭忠親、神保長三郎、三好為三、田中、中村ヨリ運想軒に書状がきた。則、簡調を返す。皆旧好之人であり、今後の身の振り方について其々が報告し合ったものと思われる。伊丹兵庫頭、神保長三郎相茂、三好為三は徳川に味方した。同年6月16日、家康は会津城主上杉景勝を攻めるために大坂を進発し、能勢頼次、神保長三郎相茂、池田知正(久左衛門重成)も人数に加わった。会津攻めの先陣徳川秀忠は7月19日に江戸城を出陣した。その勢三万九千二百七十余騎とある。御大将家康は7月21日に江戸を進発し、同24日、下野国小山に着陣し、石田治部少輔三成の挙兵を知ると江戸へ引き返し、9月朔月、家康は再び江戸城を進発した。その勢都合三万二千七百三十騎とある。同13日、家康軍は岐阜に着陣し、慶長5年9月15日、関ケ原にて石田光成軍と合戦あり、辰刻に始り午の刻に終る。」

『信長公記』の荒木久左衛門は池田知正であり、久左衛門の子自念は天正7年(1579)12月、14歳で斬首されているので、久左衛門(知正)は少なくとも天文12年(1543)~13年(1544)頃の生まれと思われ、池田勝正よりも凡そ22~23歳年下、荒木村重よりも凡そ8~9歳年下と思われる。大廣寺の池田知正肖像画には「慶長9年(1604)3月18日卒」とあり、凡そ享年61~62歳位と思われる。『中川氏御年譜』森田系図に「森田吉俊の娘は池田備後守知正室」とあり、「細野尚寛考ニ、池田備後守重成(知正)一万石関ヶ原役関東ニ属ス、慶長8年卒、初荒木村重臣タリ、荒木久左衛門ト名ノル」とある。


その他『池田町史』『旧家地士中西孫左衛門』

『池田町史』によれば、池田家の系譜として「其一は池田町建石町、池田熊治郎氏、其二は池田町尊鉢、池田新祐氏、其三は池田町東山、山脇弁治郎氏、其四は箕面村新稲、池田助右衛門氏等である。」としている。また『旧家地士中西孫左衛門』によれば「天正年間摂州池田城主池田筑後守正久の子・八郎三郎勝政、荒木村重に押領せられ、其子吉兵衛勝恒、当村に遁れ居住す。慶長年間海部郡小雑賀村中西氏を養子として氏を改む。」とある。


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