北摂多田の歴史 

歴史史料の活字化

もくじ

 1. 高代寺記   2. 大昌寺文書   3. 今中家蔵 多田院御家人由緒書   4. 大昌禅寺梵鐘の大銘 

 


髙代寺記                  (東京大学史料編纂所蔵書本)

徒不連申候段歎ヶ敷奉存候儀、七百年以前ハ、御当家之御元祖多田満仲公御建立之処、仁和寺御門跡様御末寺ニテ、千石余之寺領被為付、国家鎮護之道場にて御座候ニ付、遺跡数多御座候御検地御奉行方様ニも御崇敬被遊候山を吉川村々押取、百姓とも刻取可申、たくミニ何角と申上候、則十三年いニも様之我儘申上候而、其時之訴状同景運返答事、 仁和寺御門跡様御了簡并中村木工右衛門殿被仰付候通之御返状等御座候事、

一、唯今吉川村と争論ニ罷成候山ハ高代寺墓山并横道切、保ノ谷道より上、長者屋敷おんぼうかいちと申処にて御座候、高代寺境内ニ紛無之証拠とも慥ニ御座候御事

右之趣少も偽り不申上候、御新検帳面之通ニ高代寺相談仕候様ニ被為、仰付被下候ハは有可奉候以上、    能勢郡高代寺 秀順  

元禄六年酉(一六九三年)三月八日

御代官様

吟味之帳

御代官所設樂喜兵衛殿御支配

一、摂州能勢郡吉河村八幡之社

一、境内 たつ六拾三間 横弐拾壱間 四反四畝三歩 文禄延宝両度之御検地共ニ除地

一、社 梁行四尺 桁行五尺 桧皮葺也 

別当七宝山高代寺薬師院 外ニ神主禰宜神子無之御座候

申伝来之訳

右社は多田満仲公より第四代正五位上源越後守頼仲公、初て吉河村ニ御在城之時、源氏之氏神たるによりて御崇敬被遊御建立之宮也、年号治暦之比也ト云々、或曰、源満仲御在世之時御建立ト云々、両説不知、其是非故ニ兼記者也、馬場町と云処有り、是ハ神前之馬場崎たるのゆへニ如斯、八幡之華表(とりい)、往古は斯処ニ有之、

一、小社布留宮 一座 同境内ニ在之 横弐尺五寸 竪三尺

同弁財天社 一座 同境内ニ有之 竪横ともニ弐尺

同稲荷大明神社 一座 同断 横八寸 竪壱尺

此社は吉川村甚兵衛山ノ上ニ有之、寛文四年正月造営也、其後に八幡宮境内へ遷シ申者也、施主吉川村角右衛門也、右之外ニ八幡御本地堂一宇今之高久寺阿弥陀如来是也、往古は八幡之森近所ニ御座候へとも、中古より唯今ノ屋敷へ遷申者也、

一、高久寺 阿弥陀堂 梁行三間 桁行三間 萱葺也、

境内 たつ拾三間壱尺八寸 よこ四間壱尺弐寸 壱畝廿六歩 除地

一、観音堂 一宇 同境内ニ有之 是ハ貞亨之比建立と申候

墓所 壱ヶ所 同境内ニ有之 是ハ吉川村旦那内墓にて、五輪塔婆等有之、則真言宗高代寺旦那之内も右之墓にて相勤申候、後ニ山林有之、

申伝之訳 右高久寺は氏神八幡大菩薩之御本地堂ニて御座候故、八幡宮と一所ニ代々高代寺より別当相勤申候、則此堂は八幡之本地、供式ハ正月修正天下安全之為ニ相勤候処ニ、去ル延宝九年酉ノ年、吉川村旦那浄土宗ニ改宗仕候、以後彼堂之後ニ寺を建テ浄土之坊主を置、宗旨判形事彼僧ニ相勤させ、八幡御本地之事、天下御祈祷之儀共取、先以申候、但如来香花を備へ、掃除等仕候、持主ハ丗四五ヶ年以前より置申候へとも、それハ師旦村中相談之上にて懸申候、今のことく浄土寺にてハ無御座候、右高久寺ニ付テハ重々子細御座候御事、

一、吉河村山神社 一座 鎮守無之、是ハ八幡宮之境内ニ有之、上村之年振処也、正月八日高代寺より修行之、依之山林田地有之、

一、同山神社 一座 鎮守無之 是ハ平居町之年振処也、正月六日ニ高代寺より修行之、山林田地有之、

一、同山神社 一座 鎮守無之、是ハ下町年振処也、正月六日高代寺より修行之、年振料山林有之、

一、保ノ谷氏神熊野大権現社 一座 たて二尺、よこ一尺五寸、すや、四尺四方 境内山林有之、別当高代寺、

一、同氏神八幡之社一座 横竪すや、右同シ、境内山林有之、別当高代寺、

右両社正月十日年振、霜月十日、神祠有之、毎年自高代寺相勤申候、

一、同高福寺阿弥陀堂 一宇 梁行弐間、桁行弐間、萱葺、境内有之、別当高代寺、毎年正月六日修正勤之申候、別に天下泰平ノ御祈祷法則ニ見えたり、

古老伝テ云ク、往古多田満仲公ノ御子息ニ□□□有之、陰陽師カ曰ク、居を鬼門ニ移して、三宝ニ祈らバ愈ベしと、よって此谷におらしめ給ふ、鬼門の方の谷といふを以テ処の名とす、奥の子といふ処有之、満仲常に奥の子と宣ふ、みともの谷といふ処有り、満仲公彼子息の領内を問ひ給ヘバ、是よりしてミともの谷と答たまふといふ、もちのきといふ処有り、彼子息初て一家所持の道具を持来す故ニ、持来といふ、其後高代寺其外近隣之諸山ニ仰テ、彼病を祈らしめ給ふ、効験有之、其時之焼香石今尚在り、俗は此山を香座の志里といふ、今横路村立領山也、幸寿丸之石塔といふ有之、今ハ高福寺境内ニ置之、其後本復を祝し字を改テ保ノ谷と書ク、蓋吾々子孫四海を保候事無窮ならんと也、後又彼病人を吉川に移住す、故ニ保ノ谷ハ吉川之本郷也といふ、氏族其病をにくんて是を山谷に捨つ、其処をかつたいくぬぎといふ、尓今□□□に□□□多キハ此因縁也と申伝ふ、或曰、満仲公之六男頼範公を保ノ谷殿と号ト云々、亦曰、満仲公御子ニヨリクズト云アリ、是癩病者ノ事也と、又萱原殿ト号ト何か是なる事をしらす、

保ノ谷村三ヶ所之寺社境内、吉河村之帳ニハ御除地と有之、御検地帳ニハ長く寺社にて御座候、右之外ニ愛宕・稲荷・山神三ヶ所、唯今ハ社無御座候とも、慥ニ有之様ニ被書上候、又吉河村ニ庵二ヶ寺、文右衛門、勘兵衛庵也、文右衛門庵ハ先年より有之、勘兵衛庵ハいまは見不申候事、

一、仁和寺御門跡様末寺七宝山高代寺

 一本堂 薬師如来 梁行三間 桁行三間 萱葺

 屋敷 たつ拾間半 よこ六間一尺八寸 弐畝六歩 御検地帳ニハ御願堂屋敷と御座候

一、十王堂 梁行二間桁行二間 萱葺

 屋敷 たつ六間 よこ三間半 弐拾壱歩

 御検地帳ニは薬師堂屋敷と在之、右二ヶ所文禄三年木下与右門殿御検地ニ御除被成候と吉川村之者とも申上候故、永井市之正様新検御帳面ニも御除被為成候事、

一、六社()権現社 一座 たつ三尺五寸 よこ三尺

一、弁財天女社 一座 竪横共ニ弐尺

 右二社は御除地之外ニ御座候、

一、寺 壱ヶ寺 唯今住居之寺にて御座候、

 梁行二間半 桁行四間 萱葺 

台所一軒 梁行二間 桁行三間

物置辺屋(かわや)一軒 梁桁行同前

風呂屋壱軒 梁行壱間半 桁行弐間半

申伝来訳

塔屋舗 御影堂 観音堂 大日堂 文殊堂 普賢堂 鐘楼 経蔵共屋舗御座候へとも山林ニ罷成御座候、

大坊屋舗 閼伽井坊屋敷

 右弐ヶ寺近年迄御座候へとも、唯今は畠と成候、墓山壱ヶ所、此山吉川道麓ハ吉川村之墓、尾崎ハ古墓にて御座候、又嶺つゝき高代寺籔の隣ハ横路村並ニ高代寺墓にて御座候、古墓ハ今少峯吉川之方ニ御座候、高代寺開基の時、寛空僧正并満仲宣候は此山も墳墓の地によろしく、高野ニなそらへ可申上候、高代寺と号し、近国近里之者墓所と定め死骸を送り塔婆を立置可申とて伽藍を建立被遊候、依之、数千の石塔に今御座候、黒河村の北丹波能勢口には不休のたわと申処、多田口には休石経塚灌頂懸ヶと申処御座候、又境内之中ニ、おんぼうかいち、長者屋舗、砥之尾と申処も御座候事、

一、境内山北浦ハ横路村へ之宛山、四至ハ慶長十二丁未年卯月十七日、證文のごとく南西浦ハ篠部保ノ谷への横道切、永禄七甲子十二月吉日證文のごとく東墓山切にて御座候、

一、御年貢地 田畑四反弐畝廿九歩 竪六拾間 横弐拾壱間弐尺九寸

一、開基 仁和寺寛空僧正  建立人 多田満仲公 天徳四庚申歳十一月廿四日

一、再興 治暦四年春造営初テ、翌年延久元己酉年成ル、

本願人六孫王ヨリ第五代正五位上越後守源頼仲公

一、御願堂建立 慶安元戊子年六月

願主権大僧都法印秀栄

一、住持 開基寛空僧正 寛運 慶朝 快實 勝實 頼賢 頼尊 專快 寛清 □智 

  宗信 (宗玄) 快清 快專 秀全 快賢 快意 快善 秀栄 景運 秀順

一、日本(ヤマト)書紀(フミ)(マキ)第一(ツイテ)神代(カミヨノ)(カンノマキニ)

一、書曰ク、伊弉諾ノ尊ト伊弉冉ノ尊與共ニ大八(オホヤ)(シマ)(クニ)(ウミ)玉フ、然テ後伊弉諾ノ尊ノ曰ク、我カ所(ウメル)之国唯朝ノミ霧有リ、而(カホリ)(ミテ)()(カナ)トノ玉ヒテ、乃チ吹撥之(フキハラウノ)(イキ)為神ト()ル、(ミナ)()(ナカ)(トマノ)(ミコト)(マフ)ス、亦ハ級長津彦命ト(マフ)ス、是風ノ神也、又飢時(カハシカツシトキ)(ウメル)(ミコ)(ウカ)()(ミタマ)ノ命ト(マウ)ス、又海神尓(ワタツミノカミタチ)()ム、少童(ワタツミ)ノ命ト號ク、山神(タチ)(ヤマ)(ツミ)ト號ク云々、

一、稲荷(イナリ) 此神ノ社ノ建立権輿詳未、社家者流ノ説、和銅年中ニ此神始テ于伊奈利山ニ現ル、

空海東寺ノ門前ニ於テ稲ヲ負ヘル老人ニ逢フ、()海之ヲ祭テ、以テ東寺ノ鎮守ト()ス、其稲ヲ(オヘル)ヲ以テ故ニ稲荷ト號ス、

一、布留(フル)大明神 日本紀神代巻曰ク、素盞鳴尊所帯ル十握ノ剱ヲ祓テ、八岐ノ大蛇ヲ斬ル、又云、其蛇()ル剱ヲバ號テ、蛇之(ヲロチノ)(アラマサ)(マフ)ス、此ハ今石上(イソノカミ)ニ在也、

初雪の布留(フル)ノ神杉うずもれて しめゆふ野辺ハ 冬古も里けり

一、説云、大和國添ノ上ノ郡礒ノ上布留ノ明神()昔シ布留ノ河上ニ一ノ剱流、之ヲ觸ル者ハ石水ト雖モ碎截不无ト云フ、河ノ畔ニ賎ノ女布ヲ(ナカ)ス、剱干布ニ留テ而不流、因テ布留大明神ト神名以()ス、

一、八幡本地事 桓武帝延暦二年五月八幡ノ大神記曰ク、我無量劫来(ヨリコノカタ)、於三有ヲ化生シ、善巧方便ヲ修シ、諸ノ衆生ヲ済度ス、我名ヲ大自在王菩薩ト(マフ)フ、

石清水行教傳ニ(イワ)ク、世ニ云フ教カ見ル所、大神本身於是弥陀観音勢至ノ三像袈裟上ニ現ル、是ニヨリテ殿内ニ三像ヲ安ス、

廿二社順礼次第(イワ)ク、八幡大菩薩本地、中阿弥陀如来、左神宮皇后観音、右女躰勢至也、云々、

一、熊野権現 神名帳ニ曰ク、紀伊國牟婁郡熊野早玉ノ神社今案ルニ、(ハヤ)玉ノ之()(コト)解之(サカノ)()、伊弉冉ノ尊、是熊野(クマノ)三所権現也、

 咲匂ふ花のけ色をみるから耳 神乃古ゝ路 そ良に志ら類ゝ

           白河院熊野にて御詠歌

三好筑前守長慶

修理ノ大夫トモ云フ、河内飯森山城主、室町殿ノ御時天下ノ執権也、元来は細川ナレ共、三好威を振テ、細川ヲ越執権トナルヨシ、石田大蔵大夫頼長ト云ハ天文年中より天正ノ初迄三好家ノ郡代也、

一、高代寺は天徳四年庚申七月建立、二月廿四日より事始、七月廿四日ニ本堂脇坊悉建、開山寛空、満仲此比は天台宗ヲ崇給フトイヘ共、御父真言宗にて御座候故、以寛空開山とセラル、本尊薬師ヲ安置、大師之作ト云伝フ、十二坊有り、第一ヲ薬師院、二杉本、三東之坊、四教覚、五橘、六常覚、七閼伽井、八尾崎、九一人、十福寿、十一大膳、十二井ノ上、是薬師之十二天ヲ表ス、十二之内、四・五・六・十一・十二は満仲公譜代之侍、紀ノ三郎ノリスミ、橘五常スミ、大膳四郎アキサタ、井上六郎ムネノフ、皆藤原仲満一族也、幸寿丸の別れを悲ミ発心シ、爰カシコニ有ヲ招キ寄、十二坊ニ加入セラル、正月廿四日、三月廿一、六月廿四日、七月日、十一月廿四日、此五度之外、常ニ女人無参詣、是ヲ五度之参詣と申伝フ、寺務ハ毎月、四日、八日、十二日、廿一日、廿四日、廿七日、廿八日、此ノ日十二坊ともニ経読供物ヲサゝケル、五月十一日ハ貞純親王之忌日、八月廿七日ハ文徳天王之御忌日、十一月廿四日ハ御父孫王之御忌日、此三日ヲ外三ノ法事日と申、毎月廿四日ニ御屋形御参詣也、午ノ刻過ぬれハ御参詣之無例、十二坊已下麓迄下り御供申、隋ワン者権現堂辺迄出向迎ひ給と申伝り、

一、満仲御小名亀王殿と申故、亀甲山と付タモフ、然ルニ小野氏ノ某と申高家之庶流長徳年ノ始メ蒙勅勘ヲ、満仲御預り被成、則多田ニ来り()免レ多田家ノ家子トナル、其刻、満仲之室家ケンウンノ御煩有り、高代寺薬師如来ヘ御立願御座ス処ニ、夢ノ御告有テ、御屋敷之井ヲ堀タマヒ、必塩水可涌出、以其塩水御行水毎日被成り候ハ、御病可本復と御告有故、如其被成去、本復有り、然処ニ右塩水之井平生之御用水ナル故ニ、本ノ清水ニナサン事ヲ願給ふ、然処、右小野氏ノ某シ其節高代寺ノ坊中タル故、御台所ニ召サレ、則加持被致、右之水清水トナル、水ヲヨクスルこと可也ト云フ道理ヲ以テ、亀甲山ヲ引替吉川山ト改ム、其後麓ニ有邑ヲ吉川村ト申儀、高代寺ノ山号ヨリ発レリ、其後右六宮権現ヘ六孫王ヨリ以来御重宝被成シ御物七種ヲ御蔵被成、吉河山を引替七宝山ト申、小野氏ハ元来橘氏ナル故ニ、末々ニ至り継此家伝者源家ノ氏族タリトイヘ共、屋形破風之紋ハ三ナリノ橘ヲツクル也、惣領家ヲ大吉河左京家ト云フ、庶子家ヲ小吉河右京家ト云フ、

高代寺建立之節、地祭ノ司僧ハ東大寺ノ明祐、圓宗寺ノ増友、同仙賀、高野山元果、同明香、小原慈念、仁和之寛空、七人之僧修之、或曰、圓宗寺ノ増友重宝セラレ、空海ノ作薬師佛ヲ満仲ヘ被寄進、云フ増友ハ満仲ノ家頼藤原ノ保昌カ家人妹尾ノ某と云フ者ノ嫡子也、幼少之時より六孫王ニ奉公、其後出家シ圓宗寺ニ居ト云フ、右高代寺之領、摂津国牧横邑、西市場、桜井ノ庄、山ノ辺ノ庄、平田之庄、見井ノ保、野間、以上七郷内にて千弐百石也、満仲公、頼光公、頼国公迄無恙処ニ、承暦ノ年中、美濃国司治部丞正五位下、源ノ国房逆心之刻、国房之一族ヲ、高代寺ニカイハウ致し、此義ハ再興頼仲公ト、国房ハ兄弟ナル故、其ヨシミヲ以テ、馳走申処ニ、還テ不届ニ罷成、地領七百石余被召上テ、四百石余ニ罷成、其後八十余年過、保元平治之乱之後、平清盛公再寺領ヲケツラレ、わずかニ五十石ニ罷成候処ニ承久ノ乱之後火事出来、一山寺社坊中盡炎焼シ、其時寺務之法式且経文皆焼亡シ退転ス、時之住持色々御訴訟申トイヘ共、鎌倉殿御許容ナク、寺領盡ク空亡セリト申伝フ、

一、本堂薬師如来 鎮守六宮権現 大日堂 文殊堂 普賢堂 護摩堂 惣テ七堂其外本坊脇坊十二且鐘楼法塔其外屋亭多シ、其後天延年中ニ影堂ヲ罷建、加是ニハ開山より以後代々ノ住持旦御地頭吉河殿宝号ヲ置カルト申伝フ、

永―三承―之ニ当ル、是説非就ト、

延祚三年春、満仲ノ御夢中ニ思ひ事アリ、幸寿丸三十三回ニ当ル故、昔ヲ思ひ出サレ、当山中ニ幸寿丸の弔ヲ罷建、祥月毎ニ文殊堂ニ代参被遊、経読被仰付、或曰、幸寿丸弔ハ圓覚院にて被行故、当寺にてハ略之、或伝ニ、正暦二年辛卯春也云伝フ、其後又長元二己巳ノ其時ノ看主橘坊夢ノ告有トテ、典厩之御弔、山ノ尾谷ノ間ニ拵、是モ三十三回ニ当リタモフ、是よりい後毎年ノ御命日ニ十二坊畫ク其弔ノ処ニ罷参、且ツ大日堂にて経読有之ト云伝フ、典厩満仲公ノ御事、又曰六孫王ノ七宝ハ六宮ノ蔵ニ納メ玉フ、一説ニ本堂之後に宝蔵ヲ建、蔵サセ玉フトモ申、七宝ニ口伝有り、略之、寺務凡如先トイヘ共、其後代々住持且地頭之忌日修之、替故不委、幸寿丸忌日ハ天徳三己未年四月廿五日也、或伝ニ十一月廿三日トモアリ、

一、元祖開山之時は本坊薬師のみにて其外之十一坊はめいめいの名ナク、其坊々ニ居り玉フ住僧ノ名ヲ呼、何番目ノ坊ト云フ、メイメイニ名ヲ付ラレシハ、越後守殿時代ナリト云伝、

一、頼光公七月廿四日、頼国()十一月廿四日、越後守殿七月廿四日、惣て元祖より代々廿四日ヲ崇メ玉フ、薬師如来は御元祖清和天皇より代々尊ミ玉フ、愛宕山大権現、地蔵薩、八幡大菩薩、何モ当家ノ尊崇タリ、六宮ノ御神躰、薬師・弥陀・観音・勢至・文殊・普賢、一躰ニツゝメル時ハ地蔵サタト拝ミ申、是愛宕山大権現也、末々ニ至ル迄武士誓紙ニ申出ス、愛宕八幡ト修據申、六宮権現ノ尊霊ヲタトヘタリト申伝フ、故ニ高代寺ノ坊号ハ愛宕山石清水ノ坊号ト一所ニ付ヶ玉フト申伝フ、

一、吉河ノ元祖ハ満仲公ノ六男多田ノ蔵人従五位下左衛門尉頼範ト号、是多田家ノ惣領也、六男にて惣領ト云フコト不審ナレ共、貞純親王ノ第六御家より発リシ源氏ナレハ、其例ヲヒイテ、多田家ノ惣領ニ六男ヲ用ヒ玉フト申伝フ例モ有リ、

一、六宮権現祭りハ往古より正月廿四日、六月廿四日、毎度ニ行ハルト申伝フ、

一、多田ノ大政所殿ト申ハ、満仲公ノ御台所也、是ハ近江守源優公ノ御娘也、優公ハ嵯峨天皇御孫右大弁源ノ唱フ公ノ二男也、時御政所殿ヲ唱子様ト申事、御祖父ノ御名ヲカタトルト云々、世俗ノ云フ女房年長ケタルヲカミサマト申事、川水塩ニ成ル故ニ河ニ味有りト云フ義里ヲ以テ上様ト申、此字其時ハ河味ト書トイヘ共、其後上ノ字ヲ多田家ニテ書ナラハシ候よし申伝フ、常式ノ者ニカミ殿トイフ道理ニハアラスト申伝フ、

一、山城高雄山ハ愛宕ノ別峰也、本尊薬師如来・鎮守・八幡大菩薩故ニ、源家尊崇タリ、多田院ヲ鷹尾山ト付玉フ故ハ右之山号ヲ以テ名付玉フ、一説ニハ鷹ノ尾ヲ以テ、先々(はき)高名ヲ顕シ申、鷹ハ諸鳥ヲトリヒシク故、武勇ノ義ヲ以テ名付ラレタリ、又一説ニ鷹ノ留リタル如キノ山ナル故、鷹尾山ト付ヶ玉フトモ申伝フ、

一、頼光公ヲ地蔵サタト悦ヒ毎月往古は高代寺にて経読シ奉ルト申、或曰、頼光ノ□館ハ京松原通ノ堀川西ニ行処百□間沢方ノ地、往古ノ御屋形也ト申伝フ、唯今ハ京都ニテ頼光堂ノ町ト申伝ル由ト云々、

一、天徳四庚申年(九六〇年)ヨリ応和二年壬戌(九六二年)八月マテハ寛空僧正寺務

一、住持職ノ事

応和二年壬戌(九六二年)八月寛運住持ト成ル、寛空ノ弟子ト云フ、

天元五年壬午(九八二年)八月右寛運法眼タリ、

永延四年(九九〇年)九月寛運権大僧都タリ、此時六十七才、

正暦二年(九九一年)五月十二日寂ス、此・・・・坊中相論有故ニ住持定マラス、圓宗寺ノ圓明坊・法性寺ノ慶命唱ニテ看住トナル、此時二代ノ常覚、延久四年壬子(一〇七二年)、此年迄、八十二年住持定マラス、十二坊より順々に看主タリ、故ニ一山中破壊ス、依之、越後守之御代ニ再興シ玉フ、同延久五年癸丑(一〇七三年)六月下旬、高代寺造畢ヌ、成尊僧正再興ノ導師タリト云伝フ、或曰ク、七月廿四日供養、仁覚僧正導師タリト、二説ヲ兼タリ、

承保三年丙辰(一〇七六年)六月、慶朝高代寺ノ社僧トナル、

承暦五年(一〇八一年)九月高代寺慶朝以下京都ニ召サルゝ、是ハ前ニ記ス美濃守国房ノ事ニ付テ也、永保三年癸亥(一〇八三年)正月慶朝住持ヲ辞退ス、有職八年、

応徳弐年乙丑(一〇八五年)二月、快実高代寺ノ社僧トナル、

康和五年癸未(一一〇三年)七月、勝実社僧ト成、快実住持スルコト十九年()()

保安元年庚子(一一二〇年)九月十三日、勝実遷化七十才、有職十八年、自是天治二年(一一二五年)迄六年看坊、同年十一月、寛実住持タリト云伝フ、

長承二年(一一三三年)三月、寛実圓宗寺ノ執行司ル、是より四年看坊、

保延二年丙辰(一一三六年)七月頼賢入院、是ハ初菩提院ノ僧也ト云フ、

仁平四年(一一五四年)十二月、頼賢閑居、寛詮入院、年三十五才、有職十九年、

応保二年(一一六二年) 壬午十二月、寛詮仁和寺ニ上着故ニ頼尊住持タリ、

治承三年己亥(一一七九年)二月、頼尊遷化、有職十八年、年六十余才、以全快住職ス、是ハ越後守殿ノ一家ノ後胤藤原ノ重光子仁ノ覚法ノ弟子、或曰、大僧都寛快ノ弟子トモ云フ、

建仁四年甲子(一二〇四年)十二月廿三日、全快七十才(遷化)、定快ヲ住持トス、是ハ越後守一家ノ後胤判官代源ノ隆常ノ弟也、

承元二年(一二〇八年)迄五十六年看坊、同年己未四月、仁ノ寛信住持タリ、寛信ハ紀氏タリ、越後守殿末孫仲義ノ養子タリト云伝フ、

弘安二年己卯(一二七九年)二月、寛清閑居、頼乗住持タリ、或此僧看主トモ云フ有職廿二年、

延元二年丙子(一三三七年・建武四年)三月、頼乗隠居、光智住持ト成ル、有職五十八年、但建武三年ニ当ル、但光智ハ越後守殿末孫源太頼久ノ子也、

文和四年乙未(一三五五年・正平十年)、光智隠居、有職廿年、宗信住持タリ、或曰、宗信は貞治四己巳(一三六五年・正平廿年)八正寺ノ看坊トナル故ニ、宗玄看坊、

応安六年癸丑(一三七三年)十二月ニ右宗信再住持タリ、明徳元年庚午(一三九〇年・弘和七年)宗信寂カ、是より先七年至徳元年甲子(一三八四年・元中元年)宗玄住持、是ハ勝宝院ノ玄快弟子、但、越後守末孫吉河判官代源ノ頼元子、

応永三年丙子(一三九六年)十二月、宗玄閑居、以玄清住持ト為ス、同十三年丙戌(一四〇六年)、玄清隠居、快清住持タリ、是ハ東畝野池田修理亮ノ弟ニテ越後守殿末孫ト云伝フ、有職十一年、

正長元年戊申(一四二八年)十二月、快清閑居、快全住持、嘉吉三年癸亥(一四四三年)十二月、快全隠居以専順ヲ看主ト為ス、文明十四年壬?(四八二年)二月十九日、尊順寂ス、此時は尊海ト云フ、七十余歳、有職三十一年、或曰、文明三年(一四七一年)ニ隠居トモ、同年以秀全ヲ住持ト為ス、

天文十四年己巳(一五四五年)十月、吉河殿三十三回、右秀全ハ見エタリ、

一寛空 二寛運 三慶朝 四快實 五勝実 六頼賢 七頼尊 八専快 九寛清 十光智 

十一宗信 十二快清 十三快専 十四秀全 十五快賢 十六快意 十七快善 十八秀栄 十九景運 尭識 賢長 二十秀順

吉河ノ落城

天正元癸酉(一五七三年)十月廿三日ヨリ塩河伯耆守長満以二軍勢ヲ一、吉河城ヲ採リ巻ク、二十三日ヨリ十一月四日マデ、十二日カ間毎日合戦無レ止ムコト、則十一月四日ニ落城ス、吉河豊前守定満、同左京亮両人ハ囲ヲ切抜ケ退ク二丹州ニ一、其夜吉河ノ同名六人違性之一族以上四十余人上下三百余人一時ニ亡フ、塩河伯耆守知行シ之ヲ、落城之跡諸事支配スト、伯耆守馬納ルコト十一月十四日トモ云フ、翌年二月古伯国満吉河権現被二建立一、是去年八月大風ニゴンゲン社破損、其後今年度□合戦ノ時権現宮ノ鳥居ニ汚レ血故、建立ト云々、

同二年甲戌閏十一月豊前守定満於二丹波ニ一自害セラルゝ、十二月左京亮赴二河州ニ一、運相軒ミ玉フ、此ノ運相軒ハ織田信長公御旗下ニ属シ、河州大ヶ塚ノ侍大将也、領地八千石、

天正四年(一五七六年)十月ヨリ吉河運相軒ニ吉河邑ヲ以テ、塩河伯耆守之ヲ譲リ玉フ、運相軒ハ右京進頼國ト云人也、或ハ満國トモ云フ、吉河左京太夫頼長ノ養子ト云フ、吉河定満ノ家筋ハ代々吉河下ノ屋形右京屋敷ト云フ、

天文廿一年(一五五二年)ヨリ、塩河吉河不和トナル、定満息希太郎ト云フ、元亀元年七月十四日ニ早世一歳ト云々、

永禄八年乙丑(一五六五年)正月十一日、高代寺恒例太神宮会、或曰若宮八幡宮御供日也、若宮ト云フ多田能勢両郡ノ内ニ十一宮アリ、往古勧請ノ時、正・五・九月ノ十一日御供日トシ、正・五・八・九・十一月十五日ヲ神拝日トス、祭礼ハ庄内ニテ吉河ノ若宮一社、九月十五日一度也、榊ノ鉾ヲ渡シ、弓矢長刀カツカセ、旗ヲタゝミテ、祢宜亦行事馬ニ乗リ凱陣ノ躰ヲ似セタリ、其外ノ十宮ハ湯?ヲ捧ゲ参詣シ敬スノミ也、其後年々ニ事替ルト言伝フ、

文明十三辛丑(一四八一年)六月(六日)、高代寺ヲ五坊ニ定ム、従是ハ十二坊也、

文和三甲午(一三五四年・正平九年)二月廿一日、吉河源ノ仲頼卒ス、八十三歳、澤岸頼潤ト号ス、

運相軒ハ二代伯耆守長満異母ノ兄也、次男源二郎小名愛蔵ト云フ、以レ彼欲レ立レ世ニ、異母ノ源太ヲハ遣シ二多田院ニ一、令ト二出家一也、源太忌レ之而至二吉河一一味ス、於二高代寺ニ一元服ス、吉河落城後行二河州大ヶ塚ニ一、知行八千石、花田・小寺・蔵ノ前ト云所也、

幸寿丸ハ天徳三己未(九五九年)四月廿五日、更リテ二美女御前ニ一死滅ス、寂後ニ母ノ方ヘトテ、満願寺ノ僧中ヘよミテ遣シケル、

君か為命にかはる後の世の やミをハてらセ山の端の月

一、文明三辛卯年(一四七一年)以秀全為高代寺ノ住持、然テ後文亀ノ比マテ有職スト見エタリ、年数三十余、

一、永正年中ヨリ以二快賢ヲ一為二住持ト一、羅謹講勧請伽陀奥書ニ云、依レ欠二當用事ヲ一、書写シ畢、雖二外見其憚多候ト一、墨付畢、

永正二年(一五〇五年)十二月十三日、高代寺少貳快賢()、自是永禄七年甲子(一五六四年)マデ六十年、是ハ快意代也、

天正十二甲申年(一五八四年)五月十三日ニ快意逝去ス、以二快善一為ス二住持ト一、

寛永十一甲戌年(一六三四年)五月廿三日、快善死去、八十余歳、天正十二年ヨリ五十一年務職者也、

一、寛永十二年乙亥年(一六三五年)秀栄入寺、寛文五乙巳年(一六六五年)十二月十日、遷化六十六歳、寛永十二ヨリ三十一年有職以景運為二後住ト一、延宝六戊午年(一六七八年)隠居ス、有職十四年、以二弟子尭識ヲ一為二後住ト一、延宝九辛酉年(一六八一年)尭識奔レ外ニ、有職四年、景運為二住持ト一、貞亨年久安寺北之坊甥以テ二賢長ヲ一為ス二弟子ト一、譲ル二薬師院ヲ一、処ルコト一両年シテ、賢長出寺、景運司ル二住持ヲ一、貞亨四丁卯年(一六八七年)四月依リ二病気ニ一隠居ス、是マテ七年、

一、貞享四丁卯年五月因テ二仁和寺御門跡様仰何ニ一、秀順入寺ス、今年元禄六癸酉(一六九三年)マテ七年、

明治二十年二月攝津能勢郡高代寺蔵本ヲ写ス、

立花敬勝写

山下新介校

 

大昌寺文書【塩川家 木田家 大昌寺 略歴】

塩川家ノ祖先ハ源頼光ノ嫡子頼仲数代後吉川越後守文和元年(一三五二年・正平七年)四月拾六日辰山へ来城シ、其後三拾三年ノ後山下城ト改メ、塩川伯耆守ト改ム、

二百三拾五年、天正拾四年十月七日、国乱ノタメ落城、其ノ間凡六百六拾年、落城後九拾九年目ノ貞貮年丑(一六八五年将軍綱吉)ノ拾壱月、塩川頼元(国満-長満-頼一-基満-頼元)殿ヨリ平野御寶殿ノ祈願書ト塩川家系図トヲ持来リ、安村五郎衛門家ヘ預ケ置カレタリ、菩提所ハ徳倉領天王山薬師寺トサレタリ、

木田家ノ祖先ハ安村勘十郎ト申シ、吉川越後守ノ家老職ニテ、文和元年、辰山ヘ来城ト同時ニ當地に来リ、今ノ立川ノ地ヲ開墾シテ其ノ名ヲ立川(たてこ)ト称ス、三町有余ノ地ハ全部公部地ナリ、其ノ一部ヲ分譲シテ、同家ノ屋敷ヲ設ケタルナリ、其処ヨリ城内之奉仕ヲシタリシニ、落城後農家トナリ、安村勘十郎ヲ安村五郎兵衛門ト改名セリ、現今音吉ノ家一戸アリ、其ノ家ハ五兵衛ト申ス者ナリシガ、寄リ株トシテ今ニ親戚トシテ交際シ居レリ、大道ヨリ西ニハ二百五十年経タル家屋ハ二軒ノミニテ寺一ヶ寺ナリ、

元禄初年ニ伊勢大神宮大夫木田新左衛門殿常宿トセラレ其ノ縁故ニ依リ、同姓セニヨトノ事ニ依リ、木田弥市兵衛と改名ス、

大昌寺ノ歴史ヲ申サバ安村家ニテ成立シタルモノナリ、

越中立川龍象寺ノ弟子ニシテ、兄ハ池田ノ大廣寺ノ住職トナリ、弟ハ安村家ヘ寄寓シ、安村之レヲ援助シテ、拾ヶ村ヲ廻り皈依者ヲ得、安村宅ノ西小高キ所ヲ切開キ、一ヶ寺ヲ建立シ、之レヲ鶴林山大昌寺ト名ヅケ、寶徳二年(一四五〇年)入佛成リ、本寺ハ遠隔ナルニヨリ、大廣寺ト相互ノ本寺ト約束シアリシモ、其後大廣寺ハ総持寺ノ直末トナル由申シ来タリ、大昌寺ハ大廣寺ノ客末トナレリ、今ニ大廣寺ヘ行ケバ別室ノ待遇ヲ受ケ、又大昌寺ヘ来山セバ別格ノ待遇ヲナセリ、

猶慣例トシテ大昌寺住職ハ正月年始盆ノ棚経ノ際ニハ出立チヲ安村家ニテ饗ケ、其レヨリ各檀家ヲ廻レリ、

現今モ棚経ノ出立チ饗応ハ木田氏之レヲ継続シツゝアリ、

文禄三年古検地ニ屋敷ハ壱反四畝九歩、北南六拾壱間、巾四尺八寸ノ地所西ト東ニアリ、

延宝七年新検地ニハ屋敷壱反四畝九歩、田八畝九歩、畑七畝十二歩ト続ニ畑二畝七歩トアリ、是レハ高附除地ニテ明治三年取上ゲニ成リ、其後父弥市兵衛村用ニテ県庁ヘ行キ払下洩レニ付キ金拾弐円也ニテ買ヒクレトノ事にて買受ケ皈リテ第廿五世宣道方丈ノ浄財ニテ買ハセタルモノナリ、

 


摂津国多田院御家人由緒書
        今中家蔵

一源満仲公奉仕従相模鎌倉至摂津国多田庄源家之枝葉御譜代之侍号多田院御家人

一康保五年二月  満仲公住吉江御参籠依神託妖を平、多田徳栄屋舗御賜り被成候、則此所新田ト申候、此外御家人屋舗跡御座候、

一従安和元年 満仲公自ラ木像作給、其時発大願曰、

   於我滅後末世擁護朝家  於我滅後末世擁護武家

   於我滅後末世降伏諸魔  於我滅後末世擁護三宝

  我没後廟所ニ一ノ不思アラハ此願成就セント也

一安和二年法華三昧院御建立、今多田院之儀鷹尾山廟所ト御唱被成候、

一寛和二年八月十五日、於法華三昧院満仲公七拾歳為御出家、法名称多田院満慶公、此時御家人之老臣致出家、御近習相勤申候、

長徳三年八月廿七日、満慶公薨逝、御年八十六、末期御記文曰、吾没後神留此廟窟可守弓馬家加之以鳴動可知見四海安而左者也ト、御家人等ニ御遺言、諸成候也、

従先祖傳置申候付、

満仲公之奉拝 尊躰ト存曰く御祀文御願文拝見仕候、

別而念御自作之甲冑帯釼之尊像備寶殿神ト祭、其後御鳴動度々之有日本之令知善悪賜古者鳴動之度々 奏問由記録御座候、然尓今御鳴動之毎度日記書留置申候、

一治安元年七月廿四日、頼光朝臣薨、六十八歳、神象尊廟多田院ニ御座候、

一先年御家等ニ被下置候給領地之事、多田庄内能勢郡諸国ニ有、源家御代々御教書被成下多田庄能勢郡之内に小城并御社奉守護候先例は禁裏守護番等被仰附候儀も御座候、

一康平二年九月朔日、頼信公薨、七十三歳、神ト祭

一承保二年十一月三日、頼義公薨、八十八歳、神ト祭

一長治二年八月十八日、義家公薨、六十七歳、神ト祭

先御代寛文四辰年、多田院御建立被為仰附五代之将軍一宇御勤清被為、成源家長生より守護神ト難有奉許候、

一多田満正公は満仲公之嫡男、天延元年八月廿四日卒ス、多田庄内波豆村号奥殿八幡、

一新田政所原郷政所ト申多田御家人之内政所建置申候、此儀は多田院ニ旧記数通御座候、且亦於三河国御家人知行御座候ニ付新田政所新田五郎家氏三河江被罷越被致住居候其節御家人上津村兵部丞福武美作八橋ノ社若取備植置尓今栄御座候、

一御家人之内塩川伯耆信長公之御息ヲ請振威勢罷連候ニ付、御家人等ヲ手下ニ相随可申尚、企悪心候、依去、相隋不申候、依之御家人等之面々失威罷有候処、秀吉公御代罷成候、時分、塩川知行被取上其節社領御座候、御家人知行被召上候ニ付、又々大坂御陣之節、御當家之御旗下ニ参上可仕より存、摂津国中嶋江出張仕り此第大阪江相聞多田銀山奉行ニ被仰附御家人悉兵具被召上候、翌年夏御陣之働大坂より銀山ニ三百余人伏勢有之由、御家人は及義以右之恨彼等ヲ討取御注進可申上旨存、元和元年五月六日銀山江馳向候処に明ル七日後巻ニ合イ打死仕其勤□ニ罷成候、依之残ル御家人弥流浪仕候聞申傳候、

一古より多田院堂□表御法事等之節は御家人守護仕候ニ付此度御社堂御修復被為仰附御迂宮御法事等も唯今流浪之御家人共ニ御座候得ば罷出自古御吉例之験ト守護仕候、先年勤番旧記傳図等多田院ニ御座候、就は私共筋目之者御座候得ば必必御願申上度十三年以前多田庄兵衛、八年以前石道仲右衛門、四年以前脇田四郎右衛門・谷内蔵右衛門、去年安福柳軒、其後長谷平左衛門・山田弥兵衛、替々参府仕罷有候儀御座候以上

元禄十年丑二月十七日

多田院御家人

奉願候名前

西山杢之丞

上津村十良平

能勢村右衛門

寺倉清右衛門

吉川勘兵衛

森本弥兵衛

出口与市兵衛

一樋杢左衛門

山庄司武兵衛

山本勘兵衛

松山□右衛門

黒田権兵衛

小笠原新之丞

西冨小左衛門

八代平左衛門

前西小左衛門

西村伊右衛門

本射源右衛門

目加多伊兵衛

黒川泰庵

下堂三之助

原 七左衛門

平井三郎右衛門

野村儀右衛門

中田傳右衛門

久々知善兵衛

福田与右衛門

田中八兵衛

安村源蔵

井上源右衛門

大塩祖元

中西五郎左衛門

國津利右衛門

細谷十郎兵衛

川辺新平

三矢籏兵衛

右三拾六人

多田庄兵衛

脇田四郎左衛門

谷内蔵衛門

安福柳軒

石道仲右衛門

長谷平左衛門

山田弥兵衛

以上四拾三人

元禄十年丑二月十七日

寄進    多田院

摂津国多田庄内猪渕村事

右當庄は御家人等為勲功之賞拝領地也、而今為祈天下太平庄内安穏以件村元一圓所奉寄附於院家也、仍任扇之儀之趣、

評定衆加判之状如件

建武四年四月八日

沙弥 西光

僧  快賢

沙弥 浄蓮

沙弥 康心

沙弥 道秀

源  有仲

橘   道直

沙弥  道蓮

小野  為時

源   頼仲

御判アリ

下多田院御家人中

可令早領地摂津国

多田庄地頭職事

右為勲功之賞所宛行也者隋忠之□深名可配分知行状如件

文和元年十月四日

新田山ノ図

教氏 世良田次郎

持親 源太新田政所沙彌

景満 次郎満氏 瀬川合戦打死    満義 三河太郎 清徳院

親季 寺倉右京           右親 四郎 林鐘院殿 小童寺納

家氏 新田四郎

山之形アリ

多田院御座候旧記写

多田院御家人覚 次第不動

新田政所         原郷政所

今吉左衛門入道      久々知兵衛尉

塩川左衛門        田中柄馬亮

山問右馬入道       安福右馬入道

森本兵衛尉        織近源太入道

今北□太         高岡源四郎

田中紀四郎        西冨左衛門

山本左近太郎       佐藤  □

猪□佐藤太        石道進士

野間四郎         今吉□助

一樋新太郎        万善源三郎

上津邑左藤太       紫合村春名之分

池 藤兵衛        已上給分

散所御家人

吉川判官代         山田左馬入道

石田太郎左衛門       大町太郎左衛門

西山中将          佐曽利八郎

小野右馬亮         原田左衛門

木□□□左衛門

槻並

枳祢庄

北田原

六瀬

応安元年

多田院御家人  惣代 石道仲右衛門

元禄十五年午八月


 鶴林山大昌禅寺梵鐘の大銘

 摂州河邊郡多田村立川里鶴林山
大昌寺鐘銘曰夫當山開祖心崇
良專禅師者越中之人也并引
受業於大徹禅師嗣法於良專
禅師而得法之後長養于多田
山中道風浄顯緇素向風時塩
川伯耆守秀仲公服師道
()宝徳
年中於笹部村創大昌寺請為
第一開祖世傳師專有慕立川志
故字地立川云到其玄孫世属戦
國寺法倶微矣永禄之間秀仲公
八世孫塩川伯耆守國満公服膺
其四世庵和尚而殿有皆一新之
其嫡長満公歿後失外護之資
百事皆廃焉寛永之初有積
翁禅師有再披其荒興其法
百廃復古是以称中興延宝丙
辰冬故其嗣白室禅師之欽化
予尋續其芳塵遂幻寄矣
今冬将結制法器不可不備以故
勧化諸家奔走門下陶鋳一鐘
以箰籚於楼上銘曰


 鋳成鐘 晨昏呂能鳴

 諸檀力 吾門之典則
 爾懿徳 不可得而識
 海變田 鯨音無盡時

  延宝第八歳舎庚申春時正月
  洞山正宗鶴林山大昌禅寺
    義峰節走筆
  鶴林山大昌寺現住麟峯禅師

改鋳洪鐘銘并序

麟峯禅師語序曰本寺開山心崇和尚
者實出越之人立川開山大徹和尚之
嗣闇堂大和尚之門故以立川名本
寺舊址及下流盍欲令学徒観無
弧之有源且知自心ノ霊源亦不嘗
掲也至寛延間法兄大圓来主院
事移寺於此増其所未有者新
其所己壊者然不曽更其舊址
之名是立川者乃本寺肇基也
盍迢開闢以来延宝初禅林所宣有
者大都無不備而唯
洪鐘是以
延寶間住僧義峯作之資禅誦
益力佛事歳月既消磨所作之
鐘将毀声沙焉劣徒獲麟欲改
鋳之早己作古因昌其衣鉢且
捐予衣資以其志乃改作之以
資其冥福也雖既有義峯之所
撰銘及引不可無再造之銘乃請
於予禅師者予ノ舊知也
不應辞因序其所語以為之銘曰


 立川出世  如日湧東
 心崇継之  其化彌隆
 金剛正體  空而不空
 全滅即生  音聲最雄
 来扣不盡  應合無窮
 遂入寂定  能所倶融
 在声性中  声振幽顯 
  聞者不同    冥途停苦
 人間発蒙  発心大土
 親證圓通  無心利生
 不宰其功
  
  安永三年甲午春正月

  鳳林沙門 大心撰
  天満緝熙
  丞民壽考
 安永三甲午四月十一日
  鶴林山大昌十五代
  麟峯獨趾
  願主獲麟玉蹄上座
  治工大阪西高津住
  大谷相模藤原正次
 摂津国川邉郡多田村立川の里鶴林
大昌寺鐘銘に曰く、それ当山開祖心崇
良專禅師は越中の人也、大徹禅師から教えを受け
その法統を嗣続して、仏法の真理を会得して後
さらに修行に励まれた、ここ多田山中に宗祖
道元禅師の教えが浄顕し、僧侶も世俗も帰依した、時に塩川伯耆守秀仲公その教えに従って、宝徳年中笹部村に大昌寺を創建されて、禅師は請われて
第一開祖と為された。世に伝う、師は専ら立川の
志を慕い、故に、字地を立川と云う、その玄孫に
至り、世は戦国に属し寺法ともに衰えてしまった、永禄年間、秀仲公八世の孫塩川伯耆守国満公は当山第四世庵和尚を常に心にとめられ寺殿を改修一新された、国満公の嫡男長満公没後は庇護を失い、皆全て
廃れてしまった。寛永の始め、積翁禅師と云う人
有り、師は廃れていた寺を再興し、再び法統を興す、これを以て中興と称す、延宝四年丙辰年冬、其の
嗣白室禅師がお亡くなりになり、私は禅師の芳塵
を尋ね続け遂にその遺徳が現実となって顕れた、
今冬、将に中興されたとは云え、結制の法器は未だ
揃っていないので、諸家を勧化し、門下を奔走して、鋳一鐘を陶し、以て鐘楼を建てる、その銘曰く、

 
鐘を鋳成し朝に黄昏に呂よく鳴れり
  諸壇の力は吾が門の典則なり
 汝の懿徳(いとく)は得べからずと知る

  海は田に変じ鯨音は時尽きることなし

  延宝八年
(1680)庚申春正月
   洞山正宗鶴林山大昌禅寺
     義峰節走筆
  鶴林山大昌寺現住麟峯禅師

大釣鐘改鋳の銘並びに序
麟峯禅師語序曰く、本寺開山心崇和尚は実に出越の
人である、立川開山大徹和尚の嗣弟子闇堂大和尚の
門故に立川と名づく、本寺の旧址と後の先人達禅門を
学ぶ徒は無孤の身の生まれ出でたる仏の世界を観ぜし
めんと欲し、且つ自心の霊源を知るも亦、元よりそれを
内に秘めるたる也、寛延年間、法兄大圓禅師来院し

寺務をとる、寺として未だ足りないもの多くあるも、
おのずから壊れたものもなく、旧址の名である
立川は乃ち本寺の礎なり、なんぞ遥か開闢以来

延宝の初めまで、禅林と宣べる所有るは概ね不備無
も、唯ここに大鐘が無かった、是を以て延宝の

住僧義峯之を作り、禅誦のもととなし、益々仏事に
励む、歳月が流れて、つくるところの鐘の音にくも

りあり、劣徒獲麟和尚すでに早改鋳しようと、大
鐘作られた意に鑑み、さかんにその衣鉢を改めんと
欲し予の衣資を以て絹を差し出す、その志のち改め
て、義峯禅師の冥福の資を用いて作る也、既に義峯
禅師の撰する銘有るも、新たに銘を引くに及んで
再造の銘を師に請ふたが固辞された、師と予は旧知
であり、因って師の語る所を以て序と為す、銘曰く

 立川の出世とす  東に湧く日のごとく
 心はこれを崇めつぎ その弥弥(いよいよ)隆と化し

 金剛の正体は空にして空ならず
  すべて滅すれば即ち生ず 音声最も雄たり
  来り扣(たた)けど尽きず まさに無窮と合すべし
  終に寂定に入り よく倶(とも)に融する所
  声は性仲にあり 声は幽顕を振るう
  聞者は不同なり 冥途は苦を停め
  人間は蒙昧より発し 発心は大土なり
  親しく圓通を證す 無心は利生なり
  その功宰らず
  
  安永三年甲午春正月

  鳳林沙門 大心撰
  天満緝熙
  丞民壽考
  安永三年(1774)甲午四月十一日
  鶴林山大昌十五代
  麟峯獨趾
  願主獲麟玉蹄上座
  治工大阪西高津住
  大谷相模藤原正次


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