北摂多田の歴史 
(このページの著作権はPFGにあり、無断転載を禁じます)

  佛光山喜音寺開基 嶽室理高尼は 塩川伯耆守国満公ノ正室種子ノ方

細川澄元の長女 種子ノ方は天文十八年に嫡男源太(右京進頼国)の廃嫡と同時に 正室の座を側室(伊丹氏)に譲り出家された。
側室は正室 種子ノ方が出家されたために継室と呼ばれた。
   
 

 摂刕河邊郡山本村佛光山喜音寺
 當庵開基嶽室理高尼首座者本刕多田之庄笹部城主塩川伯耆守國満女也 □?染世塵自□説□修 現世菩提永流轉生 死無出□ 依 之法華如来壽量品讀誦不可勝數矣 終落髪受戒是眞尼公也 此時塩川氏領山本里、故□天文元壬辰年 創建 當庵令□□□ 之以 稱開基者也 國満為當永代於當村領内田地一ケ處□付置 即字中之内田地是也 此時當 村在幽山首座 尼公臨終謂首座曰 以舊 基可譲與□可也 □□天文十八己酉七月初二日寂 首座従□約移喜音成第 二世者也 仍如件 

 開基尼公御所持宝物

 一、法華壱部但シ水精六角軸但シ巻本 一、御袈裟但シ布施 壱衣 

 一、三足鋳付香炉 壱箇       一、香箱 壱箇  

 右数四色  

 塩川國満公御寄進宝物      

 一、唐絵涅槃像  壱幅  一、唐絵釈迦三尊  壱幅  一、唐絵□之    壱幅

 一、唐絵荷□   壱幅  一、無足金香炉   壱箇  一、香箱但シ雲堀付 一箇

 一、八景詩歌但シ國満公御筆 壱軸  一、國満公眞像 壱幅

 一、開基眞像  壱幅 

 于時天正二甲戌六月初五日    喜音庵        (喜音寺文書)




開基「嶽室理高尼」は 塩川伯耆守国満の正室・種子の方

*佛光山喜音庵は天文元壬辰年(1532年)創建→前年に善源寺と高代寺も改築された。

*嶽室理高尼は多田庄笹部城主塩川伯耆守国満公の女→国満公の正妻
*嶽室理高尼は天文十八年(1549年)七月二日寂→天文十八年出家、天正十八年寂

喜音寺の創建は天文元壬辰年(1532)とあり、塩川種満六十七歳、国満三十二歳の時である。この年六月廿日に三好元長(海雲)は、三好政長の讒言により、細川晴元に攻められ自害している。塩川氏も三十余騎出陣して細川晴元から感状を得ている。そもそも享禄元年(1528年)三好元長(長基)の仲介によって塩川国満は細川澄元の長女で細川晴元の姉(種村高成養女・種村種子)を正室として娶っているにもかかわらず、その四年後に細川晴元は三好政長の讒言により三好元長を自害に追い込んでいる。

前年の享禄四年(1531)に管領細川高国と三好元長(細川晴元方)とが戦い、多くの戦死者の血で野里川が赤く染まったと言う。高国は敗北して自害し、細川氏の内紛がひとまず終わりをつげた。世に言う「大物崩れ」である。(この年に塩川秀満の側室妙雲(能勢氏)は能勢に新三庵を建立している。又、善源寺を造替し、高代寺も修復している。)翌年、享禄五年七月に天文に改元され、喜音庵が創建された。

三好元長の嫡男長慶は、長じて細川晴元に帰順するが、天文十七年(1548)には三好政長と対立して細川氏綱を擁立して、管領細川晴元と対立し双方の戦いが勃発する。

天文十八年(1549) 『足利季世記・川原合戦』によれば「四月廿六日に京より細川晴元が多田塩川城へ下向し、廿七日に三好政長(宗三)は塩川方の勢を催し武庫郡西宮まで放火する。淡路衆は尼崎から越水城まで引き、宗三勢は尼崎まで放火するが敵の一人も討取れず、五月一日、宗三勢は東富松城へ打て出るが、城堅固で叶わず引退する。二日惣持寺の西河原で三宅城の香西越後守元成と芥川城衆三好日向守が合戦し、香西勢が負ける。五日、宗三は諸勢を引率いて三宅城へ入り、廿八日、細川晴元は多田から香西與四郎の三宅城へ戻る」。この戦いで、三月十五日、塩川宗英は中島城にて討死する。四月、宗英室は尼となり山本に閑居する。

泉州岸和田衆・木澤衆が堺北ノ庄へ陣取ると、三好長慶方が攻め、宗三方は散り散りとなる。六月、三好宗三政長は三宅城から中嶋の江口へ陣取り、三好長慶方の十河民部・安宅淡路衆・河内遊佐勢と合戦になる。世に言う「江口の戦い」である。この戦いで三好宗三政長・高畠甚九郎等八百人が討死する。三宅城の細川晴元は丹波越えで京に戻り、将軍足利義輝を伴って近江坂本へ敗走する。

天文十八年(1549年) 正月には伯刕は五十歳になり、同月八日、宗覚(運想軒・十四歳)は高代寺薬師院にて元服し、右京進頼国或は、光国と号する。烏帽子親は吉川定満である。ところが二月には、准母(国満側室・伊丹氏娘)ノ讒言ニヨッテ古伯国満は右京進頼国を捕えさせ、多田院ノ方丈に押篭め、殺害せんと評定する。

天文二十一年(1552)正月、ついに右京進(運想軒)は多田を出奔し紀州根来寺ヘ赴き全蔵と改名する。これにより源次郎基満が嫡男となる。二月には、細川氏綱は摂州中島より上洛し管領となり、三月には、三好長慶は右京大夫且つ右馬助に任ぜらる。十二月、細川晴元は剃髪する。

以上の経緯から、天文十八年には国満の側室(伊丹氏)の発言権が強くなり、塩川国満の正室・種子ノ方(細川晴元姉)は、息子である右京進謀反という側室の讒言により、塩川宗英室(種満養女)の剃髪と同時に種子も剃髪して喜音寺に入ったと考えられる。種子ノ方は細川澄元の娘で、種村高成の養女として塩川国満(1500年生)の正室となり、長女於虎と長男右京進(運想軒)を儲けている。種子ノ方は細川晴元(1514年生)の姉であるから1500~1514年頃の生まれと考えられ、天文十八年(1549)には三十七~九歳と考えられる。喜音寺開基「嶽室理高尼」はこの種村種子である可能性が高い。この出家名「嶽室理高尼」が彼女の人生と性格を物語っているように思われる。嫡男であるべき右京進が側室の讒言により失脚し、弟の細川晴元も三好長慶により失脚させられ、長女於虎の舅は中島で討死している。於虎の婿塩川宗頼は種村高成に仕えていた。

後世になって、善源寺には塩川国満と国満継室心月妙傳大姉の位牌と墓碑があるが、正室・種子ノ方の位牌と墓碑は善源寺には見当たらない。喜音寺の過去帳にも心月妙傳大姉の名があり「国満妻」となっている。娘の於虎も夫の宗頼が永禄十二年(1569年)に討死し、三十九歳で剃髪し妙閑尼と改名し喜音寺に入山している。塩川種満次女辰子は池田山城守基好(基且の子)に嫁して、基好は永禄六年(1563年)に討死し、辰子も剃髪して喜音寺に入山しているので「嶽室理高尼」が果たして誰なのか今まで定かではなかった。だが喜音寺に残された嶽室理高尼の遺品をみると古伯国満の内室種子ノ方であると考えるのが妥当である。

嶽室理高尼が「多田庄笹部城主塩川伯耆守国満公女」と記されたのは「女」を「娘」と解釈した為の誤解である。また、「嶽室理高尼、天文十八年(1549年)七月二日卒」となっているが、天文十八年に三十七~九歳で出家し、天正十八年卒であると仮定すると嶽室理高尼はおおよそ八十歳位で逝去したことになる。


  

 山下流次第

 右伯耆守国満嫡男源太、後宗覚ト云、多田院ニ被居、次紀刕江被行

 後伯耆守長満、宗覚弟也、始号源治郎、宗覚多田ヨリ紀刕被行、後ニ源太ト云

 同伯母聟孫太夫、天正之初阿波国ニテ討死、子孫太夫後中務ト云、江戸ニテ病死

 右孫太夫者長満殿養子後運想軒甥子トナル、今頼元為ニ祖父也、主殿頭為ニハ父也、母方多田筑前守元継娘ヲ運想軒手前江小子 ヨリ養而孫太夫ト娶、運想軒ハ右京進全蔵ト云河刕大賀塚根来寺侍大将也、長満次男七之助頼運初出家イタシ京都知恩寺住僧後令 還俗、秀頼卿江奉公仕其後紀刕大納言様江御奉公仕、其後空亡イタシ、右之通ト云共口傳有□有増書付遺事、国満・運想・頼一・ 頼忠或基満・源太頼元、又云運想軒ハ光国頼国全蔵源太源六右京進蔵人其外度々名ヲカエ被申難記也      (喜音寺文書)


【要約】
「伯耆守国満の嫡男源太は後に宗覚と言い、多田院に居せられ、次に紀州根来寺へ行かせらる。右兵衛尉長満(基満)は宗覚の弟である。始め源治郎と号し、宗覚が紀州へ行かせられ、後に源太と言う。宗覚の伯母婿の孫大夫は天正の初め阿波国にて討死する。孫大夫の子辰千代頼一は中務と言う。江戸にて病死する。辰千代頼一は伯耆守長満の養子であり、後に運想軒の甥子となる。今頼元のためには祖父である。主殿頭基満のためには父である。母方は多田筑前守元継の娘を運想軒が子供の頃から養い辰千代が娶った。運想軒は右京進全蔵と言い、河州大賀塚根来寺の侍大将である。伯耆守長満嫡男七之助は初め出家いたし京都知恩寺住僧となり、後に還俗する。頼運次男塩川信濃守は秀頼卿に奉公し後に紀州大納言様に御奉公し、その後空亡いたし、右の通りと言うとも口伝あり云々、国満、運想軒、頼一、頼忠或いは基満、源太頼元と書付が遺された。又、運想軒は光国、頼国、全蔵、源太、源六、右京進、蔵人、その他度々名を変えられたので記し難きなり。」

 * この文書は『高代寺日記下』の記述を裏付ける貴重な文書である。

 

 この「喜音寺文書・山下流次第」は正当な塩川氏の流れが歪められた。正室(種村種子・嶽室理高尼)の産んだ運想軒こそ嫡男であると述べている。山下流は正室・種子ノ方の流れを云う。

「山下流」   国満→運想軒(母種子ノ方)→中務頼一→主殿基満→頼元

〈注〉天正四年国満七十六歳卒、国満ノ継室「心月妙傳大姉」天正元年ころに寂、享年六十歳位。

 嶽室理高尼が天文十八年寂であれば、国満四十九歳の時であり、その娘であればもっと若く、この肖像画の人物ではありえないことは明らかである。

『高代寺日記下』の著者は山下流塩川頼元であり、天正元年の項には国満継室(伊丹氏)の逝去についてはあえて記されていない。「嶽室理高尼」はその名の通り正室の身分を捨て出家し、理性の高い人柄だった。


   
左:「善源寺」の塩川伯耆守国満公・継室・長満の墓 と 右:「喜音寺文書」

善源寺墓地にはあたかもこの三人が塩川家の正統のように祀られている。左右の五輪塔は後世に建てられたものと思われる。
「喜音寺の過去帳」にも「国満公・国満妻」とあり、理高尼は妻の座をあけわたしている。しかし、「喜音寺文書」には「開基尼公」と敬語でよばれている。「国満公女」とあるのは「娘」ではなく、「室」と解せられる。尼公の謙虚さがうかがえる。「嶽室理高尼」の戒名が尼公の理性の高さを物語っている。


後日談
 ある日「肩がこって辛い」と妻に訴えると、「今女の人のことを考えているでしょう」と言われドキッとする。「貴方の左肩にお婆さんが憑いている。相当昔の人みたいや」という。私は一年以上前から「嶽室理高尼」と「寿々姫」について考えていた。そこで二人の肖像画を見せると、「嶽室理高尼」の方だという。その瞬間「嶽室理高尼は塩川伯耆守国満の正室種子ノ方だ」と直感したのである。「そうだったのか」とつぶやくと、「お婆さん、ありがとう、ありがとうと感謝してはる」と妻は言った。」

塩川伯耆守太郎左衛門国満の二人の娘が出家しているが喜音善尼ではない。
塩川伯耆守太郎左衛門国満の娘「子祢」(母者塩川加賀入道正吉の三女)は十二歳で出家している。(「多田雪霜談」は塩川弾正忠秀国の娘亀女としている)
天文二十年(1551)辛亥、正月大庚刁()七月十四日、國満伯耆守ト号ス、或説ニ此時未弾正忠ト云リ、又曰、山城入道カ日記ニ彦太郎(種満)豊前守ト号、次ニ伯耆守ト改ラレ、國満ヲ伯刕ニセンタメ弾正忠ト号、則国満ノ三女ヲ養育シ玉フ共云、然共此傳悪説タル由云傳フ、八月、子祢女ヲ尼寺ヘ上院セシメ十方尼ノ弟子トセラル、匣通七条大通寺ノコト也、」(高代寺日記)

塩川伯耆守太郎左衛門国満の娘「お虎」塩川孫大夫室(母者塩川伯耆守太郎左衛門国満の正室種子ノ方)も出家している。
「永禄十二年(1569)己巳、正月四日、義昭本国寺居ル、三好下野玖()之、同十六日庚申吉日故、兼テ用意シ、塩川孫太夫ヲ軍ノ将トシ、吉太夫・民部丞・勘十郎以下四百余人ヲ以阿刕勝浦迄出張シ、三好下野・帯刀、十河等ヲ支合戦勝利アリ、但、孫太夫(宗頼)討死、其日伯刕感状アリ、辰千代是ヲ受ル、十四歳ナリ、則長満ノ猶子タリ、此戦ハ室町ヘ味方ナリ、二月大乙亥、伯刕七十才ノ賀、一族家人多會ス、尤赦アリ、四月二十五日、孫太夫後家カミヲ剃、春光院妙閑大姉ト名、三十八歳、任古例十方尼ノ法ヲキク、」(高代寺日記)




塩川伯耆守国満公自筆の八景諸歌

塩川源太宗覚(運想軒)元服 謀反の疑いをかけられる

 天文十八年(一五四九)正月、多田塩川城(獅子山城)では新年の儀式の後、塩川弾正忠太郎左衛門尉国満の五十歳の祝賀があった。八日、塩川弾正忠国満の長男宗覚(運想軒)は出家を取りやめ、吉川の高代寺に参詣し薬師院において元服した。烏帽子親は吉川左京大夫頼長で、塩川右京進頼国(光国)と号した。塩川弾正忠国満に無断で行われ、吉河城主吉川豊前守定満が諸事をつかさどった。二月、塩川弾正忠国満は三屋七郎と吉川弾之助に命じて右京進頼国(宗覚)を捕え多田院ノ方丈に押篭め殺害しようとした。正室種子ノ方を始め宗覚の一族は国満に詫びたが、しばらく多田院方丈にその身を預けられた。塩川弾正忠国満の側室は我子源次郎を塩川家の正嫡にしようと企み、吉川頼長が烏帽子親となって宗覚を元服させて塩川家を継がせ、国満を殺して塩川家を乗っ取ろうと企んでいると讒言したのである。宗覚は源太と号し塩川弾正忠国満の正室種子ノ方(細川晴元姉)が生んだ塩川家の嫡男であり、宗琳叟(種満公)から塩川家の系図一巻を与えられていたが、種子ノ方の実弟である管領細川晴元の勢力が弱体化すると、伊丹の室が正室種子ノ方を侮る様になっていたのである。七月十四日、昌光(秀満)の五十回忌を永琳和尚が修した。

塩川弾正忠国満の正室種子ノ方出家

七月、塩川弾正忠国満の正室種子ノ方(右京進頼国の母)は我子頼国の助命嘆願をし、山本の喜音寺に入山された。喜音寺は天文元年に塩川豊前守種満により創建された寺であるが、塩川弾正忠国満は尼公を憐れみ喜音寺の開基とした。「嶽室理高尼」の法号がその人となりを表している。喜音寺の過去帳には「摂州笹部城主塩川伯耆守国満女・天文十八年七月二日」とあり、「女」を「ムスメ」と読み、「天文十八年七月二日、出家」を命日としたことで後世誤解が生じている。



塩川伯耆守国満・作の自筆「八景詩哥」 (喜音寺所蔵)

この「八景詩哥」は国満公が出家した妻に送ったラブレターである。

   
「八景 詩哥 塩川國満公之御真筆也」


「八景」 漢詩と詩歌 塩川伯耆守国満が作り、喜音禅尼となった妻に贈るラブレター。伯州の寂しい心の内が読み取れる。
 塩川伯耆守国満は側室の讒言により正室種子の生んだ嫡男を謀反の罪で廃嫡し、側室の生んだ次男を嫡男にした。正室は喜音寺に出家し、側室が継室となった。伯州は種子ノ方を憐れに思い、後悔したがもはやどうにもならなかった。喜音禅尼となった正室種子ノ方に寂しい思いを伝えたかったのであろう、此の「八景詩歌」を贈ったのである。

漁村夕照
薄暮沙汀哉乾鴉 江南江北閙魚蝦呼童 買酒大家酔臥耆 西風舞萩花
薄暮て汀の砂にカラスが水を求めて騒ぎ あちこちで童が魚やエビをとり、大家(この私は)が酒を買い(貴女を思い)酔って寝そべり、さみしい秋風に萩花が舞っている。
なみの色は いり日の跡に なを見えて いそきてくらき 木かくれのやと


遠寺晩鐘
雲庭不見梵王実 願之鐘聲祈晩風 此去上方猶遠近 為言唯在此山中
貴女のいなくなった庭には安らぎがなく 静寂を願う鐘の音が晩風に鳴り響いている その音が貴女のいる山にも届いているだろうか。
くれかかる 霧よりつたふ かねのこゑに をちこち人も みちいそくなり



瀟湘夜雨
先自空江易断腸 凍雲粘面湿黄昏 弧燈篷裏聴簫葱 祇伺竹枝添深痕
風光絶佳なところも断腸の思いで黄昏の雪が降りそうな寒空に陰湿な空気が漂っている。狐火を灯した篷舟から葱笛が聞える。御主神に竹枝詞を添えて恨み言を述べる。
ふねよする なみの聲なき 夜にのるを とまよりくたる しつくにたくる



江天暮雪
雲淡天仰糠玉藝 扁舟一葉寄吟身 前灣㗑輙数聲櫓 穎是山陰乗興人
夕暮れの雲は淡く天を仰ぐと糠玉をふりまいたような雪 一艘の小舟で詩人が哥を読み 入り江の前に数の聲櫓が響き 是の先の山陰に人が乗り興じているようだが・・・私の心は晴れない。
あしのはに かくれる雪も ふかきえの みきはのいろは ゆふへともなし


遠浦帰帆
鷺勇青山一抹の秋 潮平銀浪接天流 帰墻漸入葱花去 在家夕陽江上頭

南に渡る鷺が勇み立ち青山は一抹の秋 潮は平らかに銀浪は遙か天に接して流れ 周りを囲む葱花は徐々に散り 江上の夕陽が世俗の家並みの頭上に映えている。
かせむかふ 雲のうきなみ たつと見て つりをぬさきに かへるふねふね


涸庭秋月
西風剪出暮天霞 萎傾煙波浴桂花 漁笛不知羈客恨 直吹寒顥通葱花
すでに西風が吹きすさみ暮天に霞が出で、煙波は萎え傾きキンモクセイの匂いが漂う、漁り笛は羈客の恨みなど知らず 葱の花を揺らす西風を直に受けてひたすら馬を走らせる。
秋にすむ 水すずましき さ夜ふけて 月をひたせる おきつしらなみ


平沙落雁
古字盡空淡墨横 幾行秋色下寒汀 葱花誤作衡陽雪 惜伺斜陽刷涼翎
昔の字名が尽く淡墨のごとく空に横たわり、行秋の気配が幾重にも寒汀に下る。時期を過ぎた葱の花に雪が積もり、昔の楽しかった頃を思い出してはまた貴方を訪ねたいという思いを矢羽根で拭い去っている。
まつあさの あしへのともに さそはれて そらゆくかりも 又くたるなり


山市青嵐

一竽酒沛斜陽裏 数蔟
人家煙障中 山路酔眠帰者晩 太平無日不春風
笛の音に酒を汲む、陽が山の端に傾き 仕事から帰った人々が群がり人家から煙が立つ ある人は帰る山路で酔い潰れ如何にも平和だが 私には春風は未だ吹いてこない
松たかき さとよりうへの みねはれて あらしにしつむ 山もとのくも


(注) 
「西風」 薄ら寂しい秋風。「東風」 温かい春風。 「南風」 夏の暑い風。 「北風」 冬の寒い風。

「竹枝」 その土地の風俗などを民謡風に詠じたもの。唐の劉禹錫が朗州に左遷されたときに、その土地の歌にひかれて作った「竹枝詞」に始まるという。

「梵王」 梵天のこと。浴界を離れた寂静清浄の天。

「瀟湘 しょうしょう 瀟水と湘水。湘水は湖南省の洞庭湖に注ぐ。瀟水はその支流。このあたりは風光絶佳で、瀟湘八景の名がある。

「涸庭」 水涸れの庭 涸れ庭

「山市」 山に現れる蜃気楼。キツネタチ【季節・春】



(C) 2015 copyrights, 北摂の歴史 the Hokusetsu Local History