七寶山高代寺

「高代寺縁起と高代寺記」

ご本尊

御本尊は傳弘法大師作・薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩、左右の十二天像は高代寺の十二坊を顕している。創建当時、
本尊は立像、脇侍は普賢・文殊菩薩でしたが、焼亡しために、本尊は頭部・上半身を残し、江戸時代に座像に作り替えられました。






ご由緒

「高代寺は天徳四年庚申七月建立、二月廿四日より事始め、七月廿四日ニ本堂脇坊悉建つ、開山寛空僧正、満仲卿この頃は天台宗ヲ崇給フトイヘ共、御父経基王は真言宗にて御座候故、以寛空開山とセラル、本尊薬師ヲ安置、大師之作ト云伝フ、十二坊有り、第一ヲ薬師院、第二杉本、第三東之坊、第四教覚、第五橘、第六常覚、第七閼伽井、第八尾崎、第九一人、第十福寿、第十一大膳、第十二井ノ上、是薬師之十二天ヲ表ス、十二之内、四・五・六・十一・十二は満仲公譜代之侍、紀ノ三郎ノリスミ、橘五郎常スミ、大膳四郎アキサタ、井上六郎ムネノフ、皆藤原仲光一族也、幸寿丸の別れを悲ミ発心シ、爰カシコニ有ヲ招キ寄せ、十二坊ニ加入セラル、正月廿四日、三月廿一、六月廿四日、七月八日、十一月廿四日、此五度之外、常ニ女人無参詣、是ヲ五度之参詣と申伝フ、寺務ハ毎月、四日、八日、十二日、廿一日、廿四日、廿七日、廿八日、此ノ日十二坊ともニ経読供物ヲサゝケル、五月十一日ハ貞純親王之忌日、八月廿七日ハ文徳天王之御忌日、十一月廿四日ハ御父孫王之御忌日、此三日ヲ外三ノ法事日と申す、毎月廿四日ニ御屋形御参詣也、「高代寺記」

「始天徳ノ夏中、満仲卿モ度々如斯ノ尊夢ヲ見タマフ故ニ、孫王ノ霊ト号、六宮権現ヲ亀甲山ニ勧請ナサレ、或愛宕山権現共拝ス、本尊ハ薬師如来ノ尊像、大師之作ト申ス、脇立者普賢・文殊且十二天ヲ末社トシ、十二坊ヲ建ラルゝ、」「高代寺日記・上」


「寺院共十三箇寺タリ、本堂ヲ七宝山高代寺ト号ス、其ワキ十二坊ヲ薬師十二神ニタトヘタリ、故に其の第一坊ヲ薬師院ト名付く、二番ヲ杦本坊、三番ヲ東ノ坊、四番教覚坊、五番立華坊、六番常覚坊、七番閼伽井坊、八番尾崎坊、九番一人坊、十番ヲ福壽坊、十一番大膳坊、十二番井上坊、以上十二坊ナリ、其昔、此坊ヲ方角定ラレシ時ハ、薬師院ヲハ東ノ坊トシ、東ノ坊ヲ巽坊トシ、教覚坊ヲ南坊トシ、立華坊ヲ坤坊トシ、常覚坊ヲ西ノ坊トシ、大膳坊ヲ乾ノ坊トシ、閼伽井坊ヲ喜多坊トシ、井上坊ヲ艮ノ坊トシ、尾崎坊ヲ中ノ坊トシ、一人坊ハ欠如サセ、常ニ空坊ニテ、本坊ノ一老ヲ假住サセ、急ノトキ此坊ヲ用、相残テ福壽坊・杦本坊コレ二人ハ本坊名代ヲ行司ス、コレハ方角ニ定ラレタル時ノ法ナリ、元開基天徳年中ノ定式ナリ、其後、越刕再()ノ時ハ、方角ノ差別ナク、唯十二坊ト号ス、但、始ハ杦本坊・福壽坊・閼伽井坊是三人ヲ三人ノ坊官中ト名付テ、杦福閼之三名コレナシ、唯其時々ノ法師名ヲ呼ル、然處、越刕再興ノ時、是三名ヲ付ラルゝ、其謂ハ、越刕常ニ愛宕大権現・八幡大菩薩ヲ尊念シ給フ、依去、両所ノ坊号ヲ考マシマシ、三坊名ヲ付玉フ、尤も十二坊ノ内、杦本坊・立華坊・閼伽井坊・東ノ坊・石清水ノ坊舎ノ名タリ、福壽坊ハ愛宕ノ坊舎タリト云々」、「高代寺日記・下」


第一  薬師院、
第二  杉本坊、
第三  東之坊、
第四  教覚坊、
五  橘坊、
第六  常覚坊、
第七  閼伽井坊、
第八  尾崎坊、
第九  一人坊、
第十  福寿坊、
第十一 大膳坊、
第十二 井ノ上坊


境内


本堂


六宮権現                                 閼伽井の御神泉


鐘楼                                    不動堂


薬師院                             地蔵尊と青面金剛


高野槇                             タラヨウの木


菩提樹                                   杉の古木


吉河越後守仲頼の墓                             参道の六地蔵尊


              良寛の歌碑                      参道の町石              


髙代寺記 (東京大学史料編纂所蔵書本)

徒不連申候段歎ヶ敷奉存候儀、七百年以前ハ、御当家之御元祖多田満仲公御建立之処、仁和寺御門跡様御末寺ニテ、千石余之寺領被為付、国家鎮護之道場にて御座候ニ付、遺跡数多御座候御検地御奉行方様ニも御崇敬被遊候山を吉川村々押取、百姓とも刻取可申、たくミニ何角と申上候、則十三年いニも様之我儘申上候而、其時之訴状同景運返答事、 仁和寺御門跡様御了簡并中村木工右衛門殿被仰付候通之御返状等御座候事、

一、唯今吉川村と争論ニ罷成候山ハ高代寺墓山并横道切、保ノ谷道より上、長者屋敷おんぼうかいちと申処にて御座候、高代寺境内ニ紛無之証拠とも慥ニ御座候御事

右之趣少も偽り不申上候、御新検帳面之通ニ高代寺相談仕候様ニ被為、仰付被下候ハは有可奉候以上、    
能勢郡高代寺 秀順  

元禄六年酉(一六九三年)三月八日

御代官様


吟味之帳

御代官所設樂喜兵衛殿御支配

一、摂州能勢郡吉河村八幡之社

一、境内 たて六拾三間 横弐拾壱間 四反四畝三歩 文禄延宝両度之御検地共ニ除地

   一、社 梁行四尺 桁行五尺 桧皮葺也 

別当七宝山高代寺薬師院 外ニ神主禰宜神子無之御座候

申伝来之訳
右社は多田満仲公より第四代正五位上源越後守頼仲公、初て吉河村ニ御在城之時、源氏之氏神たるによりて御崇敬被遊御建立之宮也、年号治暦之比也ト云々、或曰、源満仲御在世之時御建立ト云々、両説不知、其是非故ニ兼記者也、馬場町と云処有り、是ハ神前之馬場崎たるのゆへニ如斯、八幡之華表(とりい)、往古は斯処ニ有之、

一、小社布留宮 一座 同境内ニ在之 横弐尺五寸 竪三尺

同弁財天社 一座 同境内ニ有之 竪横ともニ弐尺

同稲荷大明神社 一座 同断 横八寸 竪壱尺

此社は吉川村甚兵衛山ノ上ニ有之、寛文四年正月造営也、其後に八幡宮境内へ遷シ申者也、施主吉川村角右衛門也、右之外ニ八幡御本地堂一宇今之高久寺阿弥陀如来是也、往古は八幡之森近所ニ御座候へとも、中古より唯今ノ屋敷へ遷申者也、

一、高久寺 阿弥陀堂 梁行三間 桁行三間 萱葺也、

境内 たて拾三間壱尺八寸 よこ四間壱尺弐寸 壱畝廿六歩 除地

一、観音堂 一宇 同境内ニ有之 是ハ貞亨之比建立と申候

墓所 壱ヶ所 同境内ニ有之 是ハ吉川村旦那内墓にて、五輪塔婆等有之、則真言宗高代寺旦那之内も右之墓にて相勤申候、後ニ山林有之、

申伝之訳 右高久寺は氏神八幡大菩薩之御本地堂ニて御座候故、八幡宮と一所ニ代々高代寺より別当相勤申候、則此堂は八幡之本地、供式ハ正月修正天下安全之為ニ相勤候処ニ、去ル延宝九年酉ノ年、吉川村旦那浄土宗ニ改宗仕候、以後彼堂之後ニ寺を建テ浄土之坊主を置、宗旨判形事彼僧ニ相勤させ、八幡御本地之事、天下御祈祷之儀共取、先以申候、但如来香花を備へ、掃除等仕候、持主ハ丗四五ヶ年以前より置申候へとも、それハ師旦村中相談之上にて懸申候、今のことく浄土寺にてハ無御座候、右高久寺ニ付テハ重々子細御座候御事、

一、吉河村山神社 一座 鎮守無之、是ハ八幡宮之境内ニ有之、上村之年振処也、正月八日高代寺より修行之、依之山林田地有之、

一、同山神社 一座 鎮守無之 是ハ平居町之年振処也、正月六日ニ高代寺より修行之、山林田地有之、

一、同山神社 一座 鎮守無之、是ハ下町年振処也、正月六日高代寺より修行之、年振料山林有之、

一、保ノ谷氏神熊野大権現社 一座 たて二尺、よこ一尺五寸、すや、四尺四方 境内山林有之、別当高代寺、

一、同氏神八幡之社一座 横竪すや、右同シ、境内山林有之、別当高代寺、

右両社正月十日年振、霜月十日、神祠有之、毎年自高代寺相勤申候、

一、同高福寺阿弥陀堂 一宇 梁行弐間、桁行弐間、萱葺、境内有之、別当高代寺、毎年正月六日修正勤之申候、別に天下泰平ノ御祈祷法則ニ見えたり、

古老伝テ云ク、往古多田満仲公ノ御子息ニ□□□有之、陰陽師カ曰ク、居を鬼門ニ移して、三宝ニ祈らバ愈ベしと、よって此谷におらしめ給ふ、鬼門の方の谷といふを以テ処の名とす、奥の子といふ処有之、満仲常に奥の子と宣ふ、みともの谷といふ処有り、満仲公彼子息の領内を問ひ給ヘバ、是よりしてミともの谷と答たまふといふ、もちのきといふ処有り、彼子息初て一家所持の道具を持来す故ニ、持来といふ、其後高代寺其外近隣之諸山ニ仰テ、彼病を祈らしめ給ふ、効験有之、其時之焼香石今尚在り、俗は此山を香座の志里といふ、今横路村立領山也、幸寿丸之石塔といふ有之、今ハ高福寺境内ニ置之、其後本復を祝し字を改テ保ノ谷と書ク、蓋吾々子孫四海を保候事無窮ならんと也、後又彼病人を吉川に移住す、故ニ保ノ谷ハ吉川之本郷也といふ、氏族其病をにくんて是を山谷に捨つ、其処をかつたいくぬぎといふ、尓今□□□に□□□多キハ此因縁也と申伝ふ、或曰、満仲公之六男頼範公を保ノ谷殿と号ト云々、亦曰、満仲公御子ニヨリクズト云アリ、是癩病者ノ事也と、又萱原殿ト号ト何か是なる事をしらす、

保ノ谷村三ヶ所之寺社境内、吉河村之帳ニハ御除地と有之、御検地帳ニハ長く寺社にて御座候、右之外ニ愛宕・稲荷・山神三ヶ所、唯今ハ社無御座候とも、慥ニ有之様ニ被書上候、又吉河村ニ庵二ヶ寺、文右衛門、勘兵衛庵也、文右衛門庵ハ先年より有之、勘兵衛庵ハいまは見不申候事、

一、仁和寺御門跡様末寺七宝山高代寺

一、本堂 薬師如来 梁行三間 桁行三間 萱葺

 屋敷 たて拾間半 よこ六間一尺八寸 弐畝六歩 御検地帳ニハ御願堂屋敷と御座候

一、十王堂 梁行二間桁行二間 萱葺

 屋敷 たて六間 よこ三間半 弐拾壱歩

 御検地帳ニは薬師堂屋敷と在之、右二ヶ所文禄三年木下与右門殿御検地ニ御除被成候と吉川村之者とも申上候故、永井市之正様新検御帳面ニも御除被為成候事、

一、六社()権現社 一座 たて三尺五寸 よこ三尺

一、弁財天女社 一座 竪横共ニ弐尺

 右二社は御除地之外ニ御座候、

一、寺 壱ヶ寺 唯今住居之寺にて御座候、

 梁行二間半 桁行四間 萱葺 

台所一軒 梁行二間 桁行三間

物置辺屋(かわや)一軒 梁桁行同前

風呂屋壱軒 梁行壱間半 桁行弐間半

申伝来訳

塔屋舗 御影堂 観音堂 大日堂 文殊堂 普賢堂 鐘楼 経蔵共屋舗御座候へとも山林ニ罷成御座候、

大坊屋舗 閼伽井坊屋敷

 右弐ヶ寺近年迄御座候へとも、唯今は畠と成候、墓山壱ヶ所、此山吉川道麓ハ吉川村之墓、尾崎ハ古墓にて御座候、又嶺つゝき高代寺籔の隣ハ横路村並ニ高代寺墓にて御座候、古墓ハ今少峯吉川之方ニ御座候、高代寺開基の時、寛空僧正并満仲宣候は此山も墳墓の地によろしく、高野ニなそらへ可申上候、高代寺と号し、近国近里之者墓所と定め死骸を送り塔婆を立置可申とて伽藍を建立被遊候、依之、数千の石塔に今御座候、黒河村の北丹波能勢口には不休のたわと申処、多田口には休石経塚灌頂懸ヶと申処御座候、又境内之中ニ、おんぼうかいち、長者屋舗、砥之尾と申処も御座候事、

一、境内山北浦ハ横路村へ之宛山、四至ハ慶長十二丁未年卯月十七日、證文のごとく南西浦ハ篠部保ノ谷への横道切、永禄七甲子十二月吉日證文のごとく東墓山切にて御座候、

一、御年貢地 田畑四反弐畝廿九歩 竪六拾間 横弐拾壱間弐尺九寸

一、開基 仁和寺寛空僧正  建立人 多田満仲公 天徳四庚申歳十一月廿四日

一、再興 治暦四年春造営初テ、翌年延久元己酉年成ル、

本願人六孫王ヨリ第五代正五位上越後守源頼仲公

一、御願堂建立 慶安元戊子年六月

願主権大僧都法印秀栄

一、住持 開基寛空僧正 寛運 慶朝 快實 勝實 頼賢 頼尊 專快 寛清 ?智 

  宗信 (宗玄) 快清 快專 秀全 快賢 快意 快善 秀栄 景運 秀順

一、日本(ヤマト)書紀(フミ)(マキ)第一(ツイテ)神代(カミヨノ)(カンノマキニ)

一、書曰ク、伊弉諾ノ尊ト伊弉冉ノ尊與共ニ大八(オホヤ)(シマ)(クニ)(ウミ)玉フ然テ後伊弉諾ノ尊ノ曰ク、我カ所(ウメル)国唯朝ノミ霧有リ、(カホリ)(ミテ)()(カナ)トノ玉ヒテ乃チ吹撥之(フキハラウノ)(イキ)為神ト()(ミナ)()(ナカ)(トマノ)(ミコト)(マフ)亦ハ級長津彦命ト(マフ)是風ノ神也、飢時(カハシカツシトキ)(ウメル)(ミコ)(ウカ)()(ミタマ)ノ命(マウ)海神尓(ワタツミノカミタチ)()少童(ワタツミ)ノ命ト號ク山神(タチ)(ヤマ)(ツミ)ト號ク云々、

一、稲荷(イナリ) 此神ノ社ノ建立権輿詳、社家者流ノ和銅年中ニ神始テ于伊奈利山ニ現ル

空海東寺ノ門前ニ於テ稲ヲ負ヘル老人ニ逢フ、()海之ヲ祭テ、以テ東寺ノ鎮守ト()其稲ヲ(オヘル)以テ故ニ稲荷ト號ス

一、布留(フル)大明神 日本紀神代巻曰、素盞鳴尊所帯ル十握ノ剱ヲ祓テ八岐ノ大蛇ヲ斬ル、又云()ル剱ヲバ號テ蛇之(ヲロチノ)(アラマサ)(マフ)ス、此ハ今石上(イソノカミ)ニ在也、

初雪の布留(フル)神杉うずもれて しめゆふ野辺ハ 冬古も里けり

一、説云、大和國添ノ上ノ郡礒ノ上布留ノ明神()昔シ布留ノ河上ニ一ノ剱流之ヲ觸ル者ハ石水ト雖モ碎截不无ト云フ、河ノ畔ニ賎ノ女布ヲ(ナカ)ス、干布ニ留テ不流、因テ布留大明神ト神名以()

一、八幡本地事 桓武帝延暦二年五月八幡ノ大神記曰ク、我無量劫来(ヨリコノカタ)於三有ヲ化生シ善巧方便ヲ修シ諸ノ衆生ヲ済度ス我名ヲ大自在王菩薩ト(マフ)

石清水行教傳ニ(イワ)ク、世ニ云フ教カ見ル所、大神本身於是弥陀観音勢至ノ三像袈裟上ニ現ル是ニ?(ヨリ)テ殿内ニ三像ヲ安ス、

廿二社順礼次第(イワ)、八幡大菩薩本地中阿弥陀如来、左神宮皇后観音、右女躰勢至也、云々

一、熊野権現 神名帳ニ曰ク、紀伊國牟婁郡熊野早玉ノ神社今案ルニ(ハヤ)玉ノ()(コト)解之(サカノ)()伊弉冉ノ尊、是熊野(クマノ)三所権現也、

咲匂ふ花のけ色をみるから耳 神乃古ゝ路 そ良に志ら類ゝ

           白河院熊野にて御詠歌

三好筑前守長慶
修理ノ大夫トモ云フ、河内飯森山城主、室町殿ノ御時天下ノ執権也、元来は細川ナレ共、三好威を振テ、細川ヲ越執権トナルヨシ、石田大蔵大夫頼長ト云ハ天文年中より天正ノ初迄三好家ノ郡代也、

一、高代寺は天徳四年庚申七月建立、二月廿四日より事始、七月廿四日ニ本堂脇坊悉建、開山寛空、満仲此比は天台宗ヲ崇給フトイヘ共、御父真言宗にて御座候故、以寛空開山とセラル、本尊薬師ヲ安置、大師之作ト云伝フ、十二坊有り、第一ヲ薬師院、二杉本、三東之坊、四教覚、五橘、六常覚、七閼伽井、八尾崎、九一人、十福寿、十一大膳、十二井ノ上、是薬師之十二天ヲ表ス、十二之内、四・五・六・十一・十二は満仲公譜代之侍、紀ノ三郎ノリスミ、橘五常スミ、大膳四郎アキサタ、井上六郎ムネノフ、皆藤原仲満一族也、幸寿丸の別れを悲ミ発心シ、爰カシコニ有ヲ招キ寄、十二坊ニ加入セラル、正月廿四日、三月廿一、六月廿四日、七月日、十一月廿四日、此五度之外、常ニ女人無参詣、是ヲ五度之参詣と申伝フ、寺務ハ毎月、四日、八日、十二日、廿一日、廿四日、廿七日、廿八日、此ノ日十二坊ともニ経読供物ヲサゝケル、五月十一日ハ貞純親王之忌日、八月廿七日ハ文徳天王之御忌日、十一月廿四日ハ御父孫王之御忌日、此三日ヲ外三ノ法事日と申、毎月廿四日ニ御屋形御参詣也、午ノ刻過ぬれハ御参詣之無例、十二坊已下麓迄下り御供申、隋ワン者権現堂辺迄出向迎ひ給と申伝り、

一、満仲御小名亀王殿と申故、亀甲山と付タモフ、然ルニ小野氏ノ某と申高家之庶流長徳年ノ始メ蒙勅勘ヲ、満仲御預り被成、則多田ニ来り()免レ多田家ノ家子トナル、其刻、満仲之室家ケンウンノ御煩有り、高代寺薬師如来ヘ御立願御座ス処ニ、夢ノ御告有テ、御屋敷之井ヲ堀タマヒ、必塩水可涌出、以其塩水御行水毎日被成り候ハ、御病可本復と御告有故、如其被成去、本復有り、然処ニ右塩水之井平生之御用水ナル故ニ、本ノ清水ニナサン事ヲ願給ふ、然処、右小野氏ノ某シ其節高代寺ノ坊中タル故、御台所ニ召サレ、則加持被致、右之水清水トナル、水ヲヨクスルこと可也ト云フ道理ヲ以テ、亀甲山ヲ引替吉川山ト改ム、其後麓ニ有邑ヲ吉川村ト申儀、高代寺ノ山号ヨリ発レリ、其後右六宮権現ヘ六孫王ヨリ以来御重宝被成シ御物七種ヲ御蔵被成、吉河山を引替七宝山ト申、小野氏ハ元来橘氏ナル故ニ、末々ニ至り継此家伝者源家ノ氏族タリトイヘ共、屋形破風之紋ハ三ナリノ橘ヲツクル也、惣領家ヲ大吉河左京家ト云フ、庶子家ヲ小吉河右京家ト云フ、

高代寺建立之節、地祭ノ司僧ハ東大寺ノ明祐、圓宗寺ノ増友、同仙賀、高野山元果、同明香、小原慈念、仁和之寛空、七人之僧修之、或曰、圓宗寺ノ増友重宝セラレ、空海ノ作薬師佛ヲ満仲ヘ被寄進、云フ増友ハ満仲ノ家頼藤原ノ保昌カ家人妹尾ノ某と云フ者ノ嫡子也、幼少之時より六孫王ニ奉公、其後出家シ圓宗寺ニ居ト云フ、右高代寺之領、摂津国牧横邑、西市場、桜井ノ庄、山ノ辺ノ庄、平田之庄、見井ノ保、野間、以上七郷内にて千弐百石也、満仲公、頼光公、頼国公迄無恙処ニ、承暦ノ年中、美濃国司治部丞正五位下、源ノ国房逆心之刻、国房之一族ヲ、高代寺ニカイハウ致し、此義ハ再興頼仲公ト、国房ハ兄弟ナル故、其ヨシミヲ以テ、馳走申処ニ、還テ不届ニ罷成、地領七百石余被召上テ、四百石余ニ罷成、其後八十余年過、保元平治之乱之後、平清盛公再寺領ヲケツラレ、わずかニ五十石ニ罷成候処ニ承久ノ乱之後火事出来、一山寺社坊中盡炎焼シ、其時寺務之法式且経文皆焼亡シ退転ス、時之住持色々御訴訟申トイヘ共、鎌倉殿御許容ナク、寺領盡ク空亡セリト申伝フ、

一、本堂薬師如来 鎮守六宮権現 大日堂 文殊堂 普賢堂 護摩堂 惣テ七堂其外本坊脇坊十二且鐘楼法塔其外屋亭多シ、其後天延年中ニ影堂ヲ罷建、加是ニハ開山より以後代々ノ住持旦御地頭吉河殿宝号ヲ置カルト申伝フ、

永ー三承ー之ニ当ル、是説非就ト、

延祚三年春、満仲ノ御夢中ニ思ひ事アリ、幸寿丸三十三回ニ当ル故、昔ヲ思ひ出サレ、当山中ニ幸寿丸の弔ヲ罷建、祥月毎ニ文殊堂ニ代参被遊、経読被仰付、或曰、幸寿丸弔ハ圓覚院にて被行故、当寺にてハ略之、或伝ニ、正暦二年辛卯春也云伝フ、其後又長元二己巳ノ其時ノ看主橘坊夢ノ告有トテ、典厩之御弔、山ノ尾谷ノ間ニ拵、是モ三十三回ニ当リタモフ、是よりい後毎年ノ御命日ニ十二坊畫ク其弔ノ処ニ罷参、且ツ大日堂にて経読有之ト云伝フ、典厩満仲公ノ御事、又曰六孫王ノ七宝ハ六宮ノ蔵ニ納メ玉フ、一説ニ本堂之後に宝蔵ヲ建、蔵サセ玉フトモ申、七宝ニ口伝有り、略之、寺務凡如先トイヘ共、其後代々住持且地頭之忌日修之、替故不委、幸寿丸忌日ハ天徳三己未年四月廿五日也、或伝ニ十一月廿三日トモアリ、

一、元祖開山之時は本坊薬師のみにて其外之十一坊はめいめいの名ナク、其坊々ニ居り玉フ住僧ノ名ヲ呼、何番目ノ坊ト云フ、メイメイニ名ヲ付ラレシハ、越後守殿時代ナリト云伝、

一、頼光公七月廿四日、頼国()十一月廿四日、越後守殿七月廿四日、惣て元祖より代々廿四日ヲ崇メ玉フ、薬師如来は御元祖清和天皇より代々尊ミ玉フ、愛宕山大権現、地蔵薩?、八幡大菩薩、何モ当家ノ尊崇タリ、六宮ノ御神躰、薬師・弥陀・観音・勢至・文殊・普賢、一躰ニツゝメル時ハ地蔵サタト拝ミ申、是愛宕山大権現也、末々ニ至ル迄武士誓紙ニ申出ス、愛宕八幡ト修據申、六宮権現ノ尊霊ヲタトヘタリト申伝フ、故ニ高代寺ノ坊号ハ愛宕山石清水ノ坊号ト一所ニ付ヶ玉フト申伝フ、

一、吉河ノ元祖ハ満仲公ノ六男多田ノ蔵人従五位下左衛門尉頼範ト号、是多田家ノ惣領也、六男にて惣領ト云フコト不審ナレ共、貞純親王ノ第六御家より発リシ源氏ナレハ、其例ヲヒイテ、多田家ノ惣領ニ六男ヲ用ヒ玉フト申伝フ例モ有リ、

一、六宮権現祭りハ往古より正月廿四日、六月廿四日、毎度ニ行ハルト申伝フ、

一、多田ノ大政所殿ト申ハ、満仲公ノ御台所也、是ハ近江守源優公ノ御娘也、優公ハ嵯峨天皇御孫右大弁源ノ唱フ公ノ二男也、時御政所殿ヲ唱子様ト申事、御祖父ノ御名ヲカタトルト云々、世俗ノ云フ女房年長ケタルヲカミサマト申事、川水塩ニ成ル故ニ河ニ味有りト云フ義里ヲ以テ上様ト申、此字其時ハ河味ト書トイヘ共、其後上ノ字ヲ多田家ニテ書ナラハシ候よし申伝フ、常式ノ者ニカミ殿トイフ道理ニハアラスト申伝フ、

一、山城高雄山ハ愛宕ノ別峰也、本尊薬師如来・鎮守・八幡大菩薩故ニ、源家尊崇タリ、多田院ヲ鷹尾山ト付玉フ故ハ右之山号ヲ以テ名付玉フ、一説ニハ鷹ノ尾ヲ以テ、先々(はき)高名ヲ顕シ申、鷹ハ諸鳥ヲトリヒシク故、武勇ノ義ヲ以テ名付ラレタリ、又一説ニ鷹ノ留リタル如キノ山ナル故、鷹尾山ト付ヶ玉フトモ申伝フ、

一、頼光公ヲ地蔵サタト悦ヒ毎月往古は高代寺にて経読シ奉ルト申、或曰、頼光ノ□館ハ京松原通ノ堀川西ニ行処百□間沢方ノ地、往古ノ御屋形也ト申伝フ、唯今ハ京都ニテ頼光堂ノ町ト申伝ル由ト云々、

一、天徳四庚申年(九六〇年)ヨリ応和二年壬戌(九六二年)八月マテハ寛空僧正寺務

一、住持職ノ事

応和二年壬戌(九六二年)八月寛運住持ト成ル、寛空ノ弟子ト云フ、

天元五年壬午(九八二年)八月右寛運法眼タリ、

永延四年(九九〇年)九月寛運権大僧都タリ、此時六十七才、

正暦二年(九九一年)五月十二日寂ス、此・・・・坊中相論有故ニ住持定マラス、圓宗寺ノ圓明坊・法性寺ノ慶命唱ニテ看住トナル、此時二代ノ常覚、延久四年壬子(一〇七二年)、此年迄、八十二年住持定マラス、十二坊より順々に看主タリ、故ニ一山中破壊ス、依之、越後守之御代ニ再興シ玉フ、同延久五年癸丑(一〇七三年)六月下旬、高代寺造畢ヌ、成尊僧正再興ノ導師タリト云伝フ、或曰ク、七月廿四日供養、仁覚僧正導師タリト、二説ヲ兼タリ、

承保三年丙辰(一〇七六年)六月、慶朝高代寺ノ社僧トナル、

承暦五年(一〇八一年)九月高代寺慶朝以下京都ニ召サルゝ、是ハ前ニ記ス美濃守国房ノ事ニ付テ也、永保三年癸亥(一〇八三年)正月慶朝住持ヲ辞退ス、有職八年、

応徳弐年乙丑(一〇八五年)二月、快実高代寺ノ社僧トナル、

康和五年癸未(一一〇三年)七月、勝実社僧ト成、快実住持スルコト十九年()()

保安元年庚子(一一二〇年)九月十三日、勝実遷化七十才、有職十八年、自是天治二年(一一二五年)迄六年看坊、同年十一月、寛実住持タリト云伝フ、

長承二年(一一三三年)三月、寛実圓宗寺ノ執行司ル、是より四年看坊、

保延二年丙辰(一一三六年)七月頼賢入院、是ハ初菩提院ノ僧也ト云フ、

仁平四年(一一五四年)十二月、頼賢閑居、寛詮入院、年三十五才、有職十九年、

応保二年(一一六二年) 壬午十二月、寛詮仁和寺ニ上着故ニ頼尊住持タリ、

治承三年己亥(一一七九年)二月、頼尊遷化、有職十八年、年六十余才、以全快住職ス、是ハ越後守殿ノ一家ノ後胤藤原ノ重光子仁ノ覚法ノ弟子、或曰、大僧都寛快ノ弟子トモ云フ、

建仁四年甲子(一二〇四年)十二月廿三日、全快七十才(遷化)、定快ヲ住持トス、是ハ越後守一家ノ後胤判官代源ノ隆常ノ弟也、

承元二年(一二〇八年)迄五十六年看坊、同年己未四月、仁ノ寛信住持タリ、寛信ハ紀氏タリ、越後守殿末孫仲義ノ養子タリト云伝フ、

弘安二年己卯(一二七九年)二月、寛清閑居、頼乗住持タリ、或此僧看主トモ云フ有職廿二年、

延元二年丙子(一三三七年・建武四年)三月、頼乗隠居、光智住持ト成ル、有職五十八年、但建武三年ニ当ル、但光智ハ越後守殿末孫源太頼久ノ子也、

文和四年乙未(一三五五年・正平十年)、光智隠居、有職廿年、宗信住持タリ、或曰、宗信は貞治四己巳(一三六五年・正平廿年)八正寺ノ看坊トナル故ニ、宗玄看坊、

応安六年癸丑(一三七三年)十二月ニ右宗信再住持タリ、明徳元年庚午(一三九〇年・弘和七年)宗信寂カ、是より先七年至徳元年甲子(一三八四年・元中元年)宗玄住持、是ハ勝宝院ノ玄快弟子、但、越後守末孫吉河判官代源ノ頼元子、

応永三年丙子(一三九六年)十二月、宗玄閑居、以玄清住持ト為ス、同十三年丙戌(一四〇六年)、玄清隠居、快清住持タリ、是ハ東畝野池田修理亮ノ弟ニテ越後守殿末孫ト云伝フ、有職十一年、

正長元年戊申(一四二八年)十二月、快清閑居、快全住持、嘉吉三年癸亥(一四四三年)十二月、快全隠居以専順ヲ看主ト為ス、文明十四年壬?(四八二年)二月十九日、尊順寂ス、此時は尊海ト云フ、七十余歳、有職三十一年、或曰、文明三年(一四七一年)ニ隠居トモ、同年以秀全ヲ住持ト為ス、

天文十四年己巳(一五四五年)十月、吉河殿三十三回、右秀全ハ見エタリ、

寛空 寛運 慶朝 快實 勝実 頼賢 頼尊 専快 寛清 光智 

十一宗信 十二快清 十三快専 十四秀全 十五快賢 十六快意 十七快善 十八秀栄 十九景運 尭識 賢長 二十秀順

吉河ノ落城
天正元癸酉(一五七三年)十月廿三日ヨリ塩河伯耆守長満以軍勢ヲ、吉河城ヲ採リ巻ク、二十三日ヨリ十一月四日マデ、十二日カ間毎日合戦無止ムコト、則十一月四日ニ落城ス、吉河豊前守定満、同左京亮両人ハ囲ヲ切抜ケ退ク丹州ニ、其夜吉河ノ同名六人違性之一族以上四十余人上下三百余人一時ニ亡フ、塩河伯耆守知行シ之ヲ、落城之跡諸事支配スト、伯耆守馬納ルコト十一月十四日トモ云フ、翌年二月古伯国満吉河権現被建立、是去年八月大風ニゴンゲン社破損、其後今年度□合戦ノ時権現宮ノ鳥居ニ汚血故、建立ト云々、

同二年甲戌閏十一月豊前守定満於丹波ニ自害セラルゝ、十二月左京亮赴河州ニ、運相軒?ミ玉フ、此ノ運相軒ハ織田信長公御旗下ニ属シ、河州大ヶ塚ノ侍大将也、領地八千石、

天正四年(一五七六年)十月ヨリ吉河運相軒ニ吉河邑ヲ以テ、塩河伯耆守之ヲ譲リ玉フ、運相軒ハ右京進頼國ト云人也、或ハ満國トモ云フ、吉河左京太夫頼長ノ養子ト云フ、吉河定満ノ家筋ハ代々吉河下ノ屋形右京屋敷ト云フ、

天文廿一年(一五五二年)ヨリ、塩河吉河不和トナル、定満息希太郎ト云フ、元亀元年七月十四日ニ早世一歳ト云々、

永禄八年乙丑(一五六五年)正月十一日、高代寺恒例太神宮会、或曰若宮八幡宮御供日也、若宮ト云フ多田能勢両郡ノ内ニ十一宮アリ、往古勧請ノ時、正・五・九月ノ十一日御供日トシ、正・五・八・九・十一月十五日ヲ神拝日トス、祭礼ハ庄内ニテ吉河ノ若宮一社、九月十五日一度也、榊ノ鉾ヲ渡シ、弓矢長刀カツカセ、旗ヲタゝミテ、祢宜亦行事馬ニ乗リ凱陣ノ躰ヲ似セタリ、其外ノ十宮ハ湯?ヲ捧ゲ参詣シ敬スノミ也、其後年々ニ事替ルト言伝フ、

文明十三辛丑(一四八一年)六月(六日)、高代寺ヲ五坊ニ定ム、従是ハ十二坊也、

文和三甲午(一三五四年・正平九年)二月廿一日、吉河源ノ仲頼卒ス、八十三歳、澤岸頼潤ト号ス、

運相軒ハ二代伯耆守長満異母ノ兄也、次男源二郎小名愛蔵ト云フ、以彼欲世ニ、異母ノ源太ヲハ遣シ多田院ニ、令ト出家也、源太忌之而至吉河一味ス、於高代寺ニ元服ス、吉河落城後行河州大ヶ塚ニ、知行八千石、花田・小寺・蔵ノ前ト云所也、

幸寿丸ハ天徳三己未(九五九年)四月廿五日、更リテ美女御前ニ死滅ス、寂後ニ母ノ方ヘトテ、満願寺ノ僧中ヘよミテ遣シケル、

君か為命にかはる後の世の やミをハてらセ山の端の月

一、文明三辛卯年(一四七一年)以秀全為高代寺ノ住持、然テ後文亀ノ比マテ有職スト見エタリ、年数三十余、

一、永正年中ヨリ以快賢ヲ住持ト、羅謹講勧請伽陀奥書ニ云、依當用事ヲ、書写シ畢、雖外見其憚多候ト、墨付畢、

永正二年(一五〇五年)十二月十三日、高代寺少貳快賢()、自是永禄七年甲子(一五六四年)マデ六十年、是ハ快意代也、

天正十二甲申年(一五八四年)五月十三日ニ快意逝去ス、以快善為ス住持ト

寛永十一甲戌年(一六三四年)五月廿三日、快善死去、八十余歳、天正十二年ヨリ五十一年務職者也、

一、寛永十二年乙亥年(一六三五年)秀栄入寺、寛文五乙巳年(一六六五年)十二月十日、遷化六十六歳、寛永十二ヨリ三十一年有職以景運為後住ト、延宝六戊午年(一六七八年)隠居ス、有職十四年、以弟子尭識ヲ後住ト、延宝九辛酉年(一六八一年)尭識奔外ニ、有職四年、景運為住持ト、貞亨年久安寺北之坊甥以テ賢長ヲ為ス弟子ト、譲ル薬師院ヲ、処ルコト一両年シテ、賢長出寺、景運司ル住持ヲ、貞亨四丁卯年(一六八七年)四月依リ病気ニ隠居ス、是マテ七年、

一、貞享四丁卯年五月因テ仁和寺御門跡様仰何ニ、秀順入寺ス、今年元禄六癸酉(一六九三年)マテ七年、

明治二十年二月攝津能勢郡高代寺蔵本ヲ写ス、

立花敬勝写

山下新介校




七寶山高代寺  〒563-0101 大阪府豊能郡豊能町吉川756 京都仁和寺の末寺 北摂で最も由緒のある寺院です。

Copyright (C) KODAIJI All Right Reserved