北摂多田の歴史 

『多田院鳴動 』

多田院(多田神社)には源満仲公と源頼光公の廟所がある。

南から         西から


 この書籍には、多武峰談山神社の藤原鎌足像の破裂や石清水八幡宮の鳴動や多田院鳴動など全国の鳴動・山鳴り、夜泣石、鶏の声などを紹介し、その意味するところを考察している。



『多田院御家人由来伝記』より

 安和二年三月十五日、満仲公多田江退隠し玉ひ、御歳五十八歳、同年五月、新将軍頼光朝臣大内守護判官代と成り給ふ、安和二年より天禄元年までに、七堂伽藍建立し玉ひ、法華三昧院と号、今の多田院なり、寛和二年八月十五日、出家し玉ふ、御歳七十五歳、御法号多田院満慶と称し奉、同日近習の老臣十八人法躰す、各坊号を拝賜す、正暦元年始て米谷に城築、舛形城と号す、谷右馬允を令居、次て亀尾城を築、今新田村に城跡在り、此城にて竹童子誕生し玉ふ、是従四位下鎮守府将軍頼信朝臣なり、多田院満慶公御自作ノ尊像と申奉給□御公達御一門并御譜代の面々後世までの御筺を残し給へかしと進め奉給余朝家を守護し、国家を治めし全盛なりし像を作り、朝家国家を永く鎮護せんと甲冑、帯釼、龍馬に乗て、白羽箭を負、弓を持玉ふ尊像、二十四才御姿也、日を歴て成就し玉ふ処大願日、於我滅後末世擁護朝家、於我滅後末世擁護武家、於我滅後末世降伏諸魔、於我滅後末世擁護三宝、

 長徳三年八月廿七日甍逝、御歳八十六才、御願文略之、我没後廟窟において一つの不思議在りしハ、願成就せんと在り、御遺命に曰、當家の義、頼光朝臣に随ひ尚後世まても、朝家の忠勤を盡し、兼て我が廟所守護すへしと、當家の枝属譜代の侍等江、多田七十二郷并能勢郡を宛行、夫より頼光公に随身し奉り、大内守護に仕奉りしより多田御家人と称せられし也、

多田院御家人由緒書より
安和元年(968) 満仲公自ラ木像作給、其時発大願曰、於我滅後末世擁護朝家  於我滅後末世擁護武家 於我滅後末世降伏諸魔  於我滅後末世擁護三宝 我没後廟所ニ一ノ不思議アラハ此願成就セント也
安和二年(969)より天禄元年(970)までに法華三昧院の七堂伽藍を御建立、今多田院之儀鷹尾山廟所ト御唱被成候、
 寛和二年(986)八月十五日、於法華三昧院満仲公七拾歳為御出家、法名称多田院満慶公、此時御家人之老臣致出家、御近習相勤申候、
 長徳三年(997)八月廿七日、満慶公薨逝、御年八十六、末期御記文曰、吾没後神留此廟窟可守弓馬家加之以鳴動可知見四海安而左者也ト、御家人等ニ御遺言、諸成候也、従先祖傳置申候付、満仲公之奉拝 尊躰ト存曰く御祀文御願文拝見仕候、別而念御自作之甲冑帯釼之尊像備寶殿神ト祭、其後御鳴動度々之有日本之令知善悪賜古者鳴動之度々奏問由記録御座候、然尓今御鳴動之毎度日記書留置申候



「多田院文書」では応永22年(1415)から元亀3年(1572) までの室町時代の鳴動の記録しか見当たらない。平安時代、鎌倉時代、江戸時代、現代では「鳴動」がなかったのであろうか。



多田庄の支配

【平安時代】
多田満仲
源 頼光・源 頼信
源 頼範・源 頼国
多田頼綱関白藤原師実・師通に仕え、摂関家師実に寄進。源 頼義
源 明国、佐渡に配流。 八幡太郎義家・加茂次郎義綱・新羅三郎義光                       
源 行国・多田四郎有頼・源 為義
多田摂津守頼盛・多田蔵人大夫頼憲(保元乱斬首)・源 義朝
多田蔵人行綱元暦2年(1185)鎌倉幕府から勘当される。大内惟義(清和源氏新羅三郎義光後裔平賀氏)に与えられる。


【鎌倉時代】
大内惟房(承久乱で上皇方につき失脚)
本来は近衛家領であるが、北条泰時が直接支配する、(承久乱の後、北条得宗家が支配することになった。)
北条得宗家は御内人(得宗家の被官)を多田庄に派遣して、本田方・新田方の両政所が支配した。
北条得宗家時頼・時宗は建治元年(1275)鎌倉極楽寺長老の良観房忍性を多田院別当に任命した。忍性は大和西大寺叡尊の弟子であった。


【室町時代】
南北朝時代には多田院御家人衆は北朝方として戦い、承久乱の後、多田庄を追われた多田院御家人衆は南朝方として戦った。
建武三年(1336)、足利尊氏は御教書を出し多田院領を安堵している。建武四年には善源寺東方地頭職を多田院に寄進している。暦応四年(1341)に高師直は多田院殺生禁断を命じている。
室町時代に多田院は足利氏(清和源氏八幡太郎義家の孫義康を元祖とする)の庇護を受け、多田院は摂津の守護が支配した。
延文三年(1358)足利義詮は足利尊氏の遺骨を分骨し、貞治五年(1366)足利義詮も多田院領を安堵している。貞治七年足利義詮の遺骨も多田院に分骨された。室町時代には度々鳴動が起こった。
 後土御門天皇文明四年八月十七日故正四位下左馬頭源満仲に従二位追贈せらる。(河邊郡誌)


【安土・桃山時代】
戦国時代には多田庄内の国人(多田院御家人)が支配し、多田院は織田信澄によって破却された。塩川氏が織田信長により所領安堵された。
織田家が滅びると、豊臣秀吉の命により片桐且元が支配した。
豊臣秀吉が多田銀山を開発するため領有した。豊臣秀頼が多田院金堂を修復した。


【江戸時代】
江戸時代、多田銀山は徳川家の支配となった。
寛文三年(1663),多田院別当智栄は江戸幕府に多田院再興を願い出て認められた。
寛文五年、江戸幕府から多田院に五百石が寄進された。
元禄五年、尊光が多田院別当として入山した。
元禄九年(1696)、源満仲公七百回忌に当たり、「正一位」の位階と「多田大権現」の神号を賜った。
寛政八年多田院別当尊光により正一位多田権現様(満仲公)八百年忌を多田院別当尊光が執行した。尊光は大和西大寺奥の院躰性院の住寺から多田院別当になった。前別当智栄の弟である。大和地方に伝わる雨乞いの踊り「南無手踊り・なもでおどり」を披露した。智栄・尊光は大和宇田の国人秋山氏の出という。
 東山天皇元禄九年三月二十八日多田権現に正一位を授け給う。寛文二年徳川四代将軍家綱また社殿を造営せしめ社領五百石を寄進し朱印地となせり。(河邊郡誌)


【結果】
多田満仲公の直系は多田蔵人行綱失脚で多田庄を追放された。

鎌倉時代には北条得宗家が多田庄を支配した為に「鳴動」は起こらなかった。

室町時代になって、清和源氏である足利氏が多田院に帰依すると「鳴動」は頻繁に起こった。

安土・桃山時代には、織田氏・豊臣氏の支配となり、「鳴動」の記録はない。

江戸時代には清和源氏新田流を称する徳川家によって多田院は再興され、多田庄は直領になったが、「鳴動」の記録はない。







平安時代

康平五年(1062)九月十二日
多田の御廟鳴動し、阿部貞任一族滅亡す。 『多田満仲五代記』











『高代寺日記』から

康和二年(1100)庚辰、正月、参賀受礼終テ、頼仲斎宮ニ参、二月、頼仲北野ヘ参詣、下向ニ観喜光院ノ旧庵ヘ参ラルゝ、追歌アリ、三月、頼光堂鳴動ス、四月、満實五男生井上五郎、后ニ家光と云、但此時六才ナリ、五月、頼光堂鳴動ス人危、六月、仲基愛宕山ニ参ル、七月、亜忠実右任ス、源雅実内ニ任ス、顯房カ子ナリ、八月、大監物光信男子生ス、監物ハ満隆ノ弟ナリ、三津屋ト号ス、或、小中川谷共云、皆津国ノ在名ナリ、九月、綱光十一才、弓始、今ニ至テ修ス、依春疾ナリ、十一月比、源義親勅宣ニ背、依テ父義家ニ預ラル、実ハ好色ノ儀ニツキ一族ノ内ヨリ讒シケルヲ、院別当以下実ニトリナシ流布アル故勅勘ヲ蒙ル、其後逐ニ出雲国ヘ流サルゝ、或曰、對馬守タリ、九年後ニ亡サル、十二月比、義家二男義忠ヲシテ義親カ代リトシ、且又義親ノ子左馬允為義ヲ養テ家督トス、傳曰、満綱ノタメニ一寺ヲ立、相染寺ト号、豆刕ニアリ、


治承元年(1177)丁酉、正月、内府師長左大将ヲ辞ス、亜平重盛左大将ニ迁リ、中納平宗盛右将ニ任ス、門中参賀、二月比、徳大亜実定、花山院中納兼雅共ニ清華故ニ大将ヲ望メリ、院別亜相成親モ権威ヲ頼ミ望ムト云共、平ノ清盛カ計ニテ兄弟左右ニ並ヘリ、珍事ナリ、重盛ハ院別成親カ妹壻、又惟盛ハ成親カ壻ナケハ、重縁ナレ共、平氏奢ヲ悪ミ、西光ラト常ニ計リ、底意凶、依テ東山鹿カ谷ト云ニ会合、法皇モ御幸コレヲ聞召ト云々、三月、奉永元服、紀四郎奉貞カ曽孫、或曰、仲政カ曽孫共云、同月、師長内ヨリ直ニ大政ニ任、又重盛内ニ任シ叙留ス、摂家又清華ノ外大将ヲ兼帯スルコト人皆ヲトロク、左大臣経宗ヲ尊者トシ、大饗行ル、コレハ経宗以公卿ヲマ子キモテナシ、公卿立サマニ庭上ニテ昇進ノ人ヲ拝ス、又昇人モ共ニ客ヲ拝ス、馳走タツ拝ト云ハ此ヨリヲコルト云、此時清盛カ弟頼盛中納タリ、教盛参木タリ、経盛且知盛従三位タリ、二十七日、多田院鳴動、良久、四月、山徒師高・師経カ罪度々訴ト云共、法皇裁マシマサヌ故、同十三日、日吉ノ神輿ヲ振上リ、内裏ヘ入ントス、重盛等并頼政ニ命シ、御門ヲ警固ス、重盛ノ堅タル門ニテ神輿ニモ矢中リ、衆徒モ傷テ輿ヲ捨テ皈山ス、コレ平家滅亡ノモトヒナリ、其後平亜時忠勅使トシテ登山徒ヲ宥メ、師高流罪セラレ、師経禁獄セラル、検非使且院ノ判官奉行、信家其中ノ列ナリ、



鎌倉時代

年月不明
右大将頼朝公敵追討の御時三ヶ度まで御鳴動ある。多田神社蔵寛文八年戊申十二月二十六日記「多田御家人記録」


上津多田氏系図によれば、鎌倉将軍維康親王のときに鳴動があったとしている。




室町時代







多田院文書から

応永廿二年




応永32年(1425) 6月13日付け『満済准后日記』閏六月十三日、多田院廟鳴動があり行をおこなう。




応永33年(1426) 9月23日、 24日、 25日(10度)鳴動。
『満済准后日記』十月二十九日、去先月の二十三日、二十四日、二十五日の三日間、多田院の御廟が鳴動し、二十五日には一日に十度も鳴動あったので、幕府松田対馬守から連絡があった。





応永34年(1427) 11月13日、
『満済准后日記』によれば、十一月十三日鳴動。十四日、昨日多田院の源満仲廟鳴動が二度あったと幕府松田対馬守から連絡があった。




『満済准后日記』
 満済は醍醐寺座主・三宝院門跡の地位にあり、朝廷と公家・幕府の護持僧の中心的存在であった。護持僧は天変地異や病気平癒のための祈祷を行う密教的修法を司る僧のことである。

応永34年(1427) 11月14日付け『多田院文書』






長禄3年(1459) 『年代略記』



寬正五年(1464) 十月二十日より連日鳴動があった。足利義政より多田院に剣・馬が献じられた。『年代略記』



文明4年(1472) 7月1日
『親長卿記』や『長暦』などによると、七月一日源満仲廟の鳴動があり、朝廷にまで達し、正四位下であった源満仲公に従二位の位が授与された。

『親長卿記』文明四年七月十日晴 参内、廣橋大納言より参るように申し送りの由也。多田廟所今月両三度鳴動あり。この度の儀は先よりも超遇なり、贈位有るべきや。諸卿に申し尋ね之由云々 



文明四年七月十七日満仲従二位贈位沙汰 













文明4年(1472) 7月11日付けの『多田院文書』








年代不明、二月三日、『多田院文書』





文明14年(1482) 9月17日『多田院文書』





延徳2年(1490) 8月7日『多田院文書』





延徳3年(1491) 9月6日『多田院文書』





年代不明、二月十三日、『多田院文書』





永正4年(1507)7月21日『多田院文書』





年代不明、三月二日、『多田院文書』





年代不明、七月二十二日、『多田院文書』



高代寺日記から
大永元年(一五二一年)辛巳、正月、種満上洛公武ヲ賀、高国好通、同十八、本覚寺ノ玉翁上人寂、又開山タリ、二月、池田八三良基且男子生ス、八郎三郎ト名、是代々ノ宗領家タリ、同十二日、高埜山火火塔亡、三月二十三日、即位ノ礼ヲ行ル、兵乱故二十余年遅々セリ、今慶本願寺ヨリ位料ヲ調進ス、コレ尭空ノ計トサタアリ、依テ本願寺門跡号ヲ賜フト云傳フ、同二十五日、義稙京ヲ没落シ淡路ヘ蟄居ス、四月、義稙ヲ島ノ公方ト申ス、五月三日、御廟鳴動、六月、義晴播刕ヨリ入洛ス、高国カ計也、




年代不明、十一月二十四日、『多田院文書』










元亀3年(1572) 10月1日 『多田院文書』『後鏡』





年代不明、二月二十三日、『多田院文書』







【エピソード】
 近年では「鳴動」の記録はないが、1994年11月9日20時26分、猪名川町(北緯34.925度・東経125.392度)震源地として、深さ6.9km、M4.0の地震が発生した。その直後から群発地震活動が始まった。そして、二ヶ月後、1995年1月17日5時46分52秒、M7.3の阪神大震災が発生した。(京都大学防災研究所片尾)
 これは「多田院鳴動」と考えられるだろうか。









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