北摂多田の歴史 

多田神社(多田院鷹尾山法華三昧寺・多々ノ寺)の由緒

『今昔物語』「正四位下摂津守源満仲公出家話」より



『今昔物語集』 巻十九第四話 摂津守源満仲出家話

今昔、円融院の天皇の御代に、左馬頭源の満仲と云ふ人有けり。筑前守経基と云ける人の子也。世に並び無き兵にて有ければ、公けも此れを止ん事無き者になむ思し召ける。亦、大臣・公卿より始て、世の人、皆此れを用ゐてぞ有ける。階(しな)も賤しからず。

水尾天皇の近き御後なれば、年来公けに仕ければ、国々の司として、勢徳も並び無き者にてぞ有ける。終には摂津守にてなむ有ける。年、漸く老に臨みて、摂津の国の豊島ノ郡に、多々と云ふ所に家を造て、籠り居たりけり。数の子共有けり。皆、兵の道に達れり。

其の中に、一人の僧有けり。名をば源賢と云ふ。比叡の山の僧として、飯室の深禅僧正の弟子也。父の許、多々に行たりけるに、父の殺生の罪を見て、歎き悲しみて、横川に返り上りて、源信僧都の許に詣でて、語りて云く、「己が父の有様を見給ふるに、極(いみじ)く悲しき也。年は六十に余りぬ。残の命、幾に非ず。見れば、鷹四五十を繋て、夏飼せさするに、殺生量り無し。鷹の夏飼と云ふは、生命を断つ第一の事也。亦、河共に簗(やな)を打たしめて多の魚を捕り、亦、多の鷹を飼て、生類を食はしめ、亦、常に海に網を曳かしめ、数の郎等を山に遣て、鹿を狩らしむる事隙無し。此れは、我が居所にして為する所の殺生也。其の外に、遠く知る所々に宛て、殺さしむる所の物の員、計へ尽すべきに非ず。亦、我が心に違ふ者有れば、虫などを殺す様に殺しつ。少し『宜し』と思ふ罪には、足手を切る。『此る罪を造り積みては、後の世に何許なる苦を受けぬらむ』と思給ふるに、極て悲しく思え候ふぞ。『此れ、「何で法師に成らむ」と思ふ心、付けむ』と思ひ給ふれど、怖ろしく申し出すべくも無きに、此れ構へて出家の心付させ給ひてむや。此く、鬼の様なる心にては候へども、止ん事無き聖人などの宣はむ事をば、信ずべき様になむ見え候ふ」と。

源信僧都、答て云く、「実に極て糸惜き事にぞ侍かし。然様の人、勧めて出家せしめたらむは、出家の功徳のみに非ず、多の生類を殺す事の止たらば、限無き功徳なるべし。然れば、己れ構へ試む。但し、己れ一人しては構へ難し。覚雲阿闍梨・院源君などして、共に構ふべき事にこそ有つれ。其(そこもと)は、前に立ちて多々に御して、居給たれ。己は、此の二人の人を倡(さそひ)て、修行する次に、和君の御するを尋ねて行たる様にて、其へ行かむ。其の時に、君、騒て、『然々の止ん事無き聖人達なむ、修行の次に、己れ問ひに坐したる』と守に宣へ。己等をば、聞て渡たらば、其れに驚き畏る気色有らば、君の宣はむ様は、『此の聖人達は、公けの召すだに、速に山を下ぬ人共也。其れに、修行の次に此に御したるは希有の事也。然れば、此る次に、聊の功徳造て、法を説かしめて、聞き給へ。此の人達の説き給はむを、聞き給てこそ、若干の罪をも滅し、命をも長く成し給はむ』と勧よ。然らば、其の説経の次に、出家すべき事を説き聞かしむ。只物語にも、守の身に染む許、云ひ聞かしめ進(たてまつ)らむや」と云へば、源賢君、喜び乍ら、多々に返り行ぬ。

源信僧都は彼の二人に会て云く、「然々の事構むが為に、摂津の国に行くべし。諸共に御せ」と。二人の人、此れを聞て、「極て善き事也」と云て、三人相具して、摂津の国へ行ぬ。

二日に行く所なれば、次の日に、午時許に、多々の辺に行て、人を以て云ひ入れしむ。「源賢君の許に、然々の人共なむ参たる。箕面の御山に参たるに、『此る便りに、何でか参らで有らむ』と思て参たる也」と、使入て、此の由を云へば、「疾く入らしめ給へ」と云て、源賢君、父の許に走り行て、「横川より、然々の聖人達なむ御したる」と云へば、守、「何に、何に」と云て、慥に問ひ聞て、「『糸止ん事無く貴き人達』と我も聞く。必ず対面して、礼み奉らむ。極て喜き事也。御儲吉せよ。吉く□□へ」と云て、立ちに立て騒ぐ。源賢君、心の内に、「喜(うれし)」と思て、聖人達を入れつ。微妙(いみじ)く面白く造たる所に入れて居へつ。

守、源賢君を以て、聖人の許に申す様、「怱ぎて其方に参るべきに、御し極(こう)じたらむに参たらむも、無心なるべければ、『今日は吉く息ませ給て、夕さり、御湯など浴させ給て、明日、参て自ら申さむ』と思給ふ。何で返らせ給ふべき」と。聖人達、答て云く、「箕面の山に参て候つる次なれば、『今日にても、罷返なむ』と思給れども、此く仰せ有れば、対面給はりてこそは罷返らめ」と。源賢、其の由を、返て、守に云へば、守、「糸喜き事也」と云ふに、源賢君、守に云く、「此の御したる三人の聖人達は、公の召にだに、参らぬ人共也。而るに、思の外に此く来り給へり。此の次でに、仏経をこそ供養せしめ給はめ」と。守、「汝ぢ、糸吉く云たり。現に然こそ為べかりつれ」と云て、忽に阿弥陀仏を図絵せしめ奉る。亦、法花経を始めつ。

然て、聖人達に、「此の次に、此る事をなむ思給つる。明日許は御足息めがてら留り給へ」と云はしめたれば、聖人達、「此く参ぬ。只、仰に随ひて罷り返るべき也」と云ふ。其の夜、湯沸したり。湯の有様、微妙く、物浄き事、云ひ尽すべくも無く造たり。

聖人達、終夜湯浴て、亦の日の巳の時許に成ぬれば、仏経皆出来給たり。兼て、亦、「等身釈迦仏を造奉て、供養せむ」と、先づ罪の方の事共怱ぎて、于今、供養し奉ざりけるを、「此の次に供養せむ」とて、皆調へ立て、午未の時許に、寝殿の南面に仏経皆居へ懸け奉りて、「然らば、此方に御して、此れを申し上げ奉り給へ」と云はしめたれば、聖人達、皆渡て、院源君を講師として供養す。

説経の間、時の縁の来る程にやは有けむ、守、説経を聞て、音を放て泣ぬ。守のみに非ず。館の方の郎等共、鬼の様なる心有る兵共、皆泣ぬ。

説経畢ぬれば、守、聖人達の方に詣て、対面して云く、「然るべき縁に依て、此く俄に来り給ひて、限無き功徳を修めしめ給へれば、期の来るにこそ候めれ。年は罷り老ぬ。罪は員も知らず造り積て候ふ。今は法師に成なむと思給るを、今一両日御して、同くは仏道に入れ畢させ給へ」と云ければ、源信僧都、「極て貴き事也。仰の如く、何にも侍らむ。但し、明日こそ吉日に侍れ。然れば、明日、御出家候らはむこそ吉からめ。明日過なば、久く吉日侍らず」と云り。心は、「此る者は、説経を聞たる時なれば、道心を発して、此く云にこそ有れ。日来に成なば、定めて思ひ返なむ」と思て云なるべし。

守の云く、「然らば、只今日也と云ふとも、疾く成らしめ給へ」と。僧都の云く、「今日は出家の日には悪く侍り。今日許念じて、明日の早旦に出家せしめ給へ」と。守、「喜く貴き事也」と云て、手を摺て、我が方に返て、宗と有る郎等共を召して、仰せて云く、「我れは明日に出家しなむとす。我れ、年来、兵の方に付て、聊に恙無かりつ。而るに、兵の道を立む事、只今夜許也。汝等、其の心を得て、今夜許、我れを吉く護るべし」と。郎等共、此れを聞て、各涙を流して立去ぬ。

其の後、各、調度を負ひ、甲冑を来て、四五百人許、館を三重四重に圍て、終夜、銖火(かがりび)を立て、若干の眷属を廻らしめて、緩(たゆ)み無く護つ。蠅をだに翔はせずして、明ぬれば、守、夜も曙す程をだに心もと無く思て、明るままに、湯浴て、疾く出家すべき由を云へば、三人の聖人、極て貴く云て、勧て出家せしめつ。

其の間、鷹屋に籠たる多くの鷹共、皆足の緒を切り放たる。烏の如く飛び行く。所々に有る簗に人遣て破つ。鷲屋に有る鷲共、皆放つ。長明有る大網共、皆取りに遣て、前にして切つ。倉に有る甲冑・弓箭・兵仗、皆取り出して、前に積み焼つ。年来仕ける親き郎等五十余人、同時に出家しつ。其の妻・子共、泣き合へる事限無し。出家の功徳、極て貴き事と云ひ乍ら、「此の出家は、仏、殊に喜び給らむ」と思ゆ。

守、出家して後、聖人達、弥よ貴き事共を、物語の様にて、云ひ聞かしむれば、弥よ手を摺てなむ泣き居たる。聖人達、「極て功徳をも勧め得つるかな」と思て、「今少し道心付けて返らむ」と思て、「明日許は此くて候ひて、明後日に罷返らむ」と云へば、新発(しんぼち)、極て喜て返り入ぬ。

其の日は暮ぬれば、又の日、此の聖人達云ひ合する様、「此く道心発したる時は、狂ふ様に何に盛に発たらむ。此の次に、今少し発さしめむ」とて、兼て、「若し信ずる事もや有」とて、菩薩の装束をなむ、十具許持たしめたりける。只、笛・笙など吹く人共を少々雇たりければ、隠の方に遣して、菩薩の装束を着せて、「新発の出来て、道心の事共云ふ程に、池の西に有る山の後より、笛・笙など吹て、面白く楽を調へて来れ」と云ひたれば、楽を調へて、漸く来たるを、新発、「此れは何の楽ぞ」と怪しめば、聖人達、知らぬ貌にて、「何ぞの楽にや有らむ。極楽の迎へなどの来るは、此様(かやう)にや聞ゆらむ。念仏唱へむ」と云て、聖人達、并びに弟子共十人許、諸声に貴き音をして、念仏を唱ふれば、新発、手を摺り入て、貴ぶ事限無し。

而る間、新発、居たる障紙を曳開て見れば、金色の菩薩、蓮華を捧て、漸く寄り御す。新発、此れを見付て、音を放て、板敷より丸び降て礼む。聖人達も此れを貴び礼む。菩薩、楽を引き調へて返ぬ。

其の後、新発、上て云く、「極たる功徳の限をも造らしめ給つるかな。己は量も無く、生類を殺したる人也。其の罪を滅せむが為に、今は堂を造て、自の罪をも滅し、彼等をも救ひ侍らむ」と云て、忽に堂造り始めけり。

聖人達は、亦の日の暁にぞ、多々を出て、山に返にけり。其の後、其の堂を造畢て、供養してけり。所謂る、多々の寺は、其より始めて造たる堂共也。

此れを思ふに、出家は機縁有る事とは云ひ乍ら、子の源賢が心、極て有難く貴し。亦、仏の如くなる聖人達の勧めければ、此の極悪の者も、善心に翻()へて出家する也けりとなむ、語り伝へたるとや。


【注】満仲公出家の時、郎党400~500人が館を取り囲み守護した。年来仕えける親しき郎党ら50余人が同じく出家した、とある。


【史料】

 高代寺は天徳四年庚申(960)七月建立、二月廿四日より事始、七月廿四日ニ本堂脇坊悉建、開山寛空、満仲此比は天台宗ヲ崇給フトイヘ共、御父真言宗にて御座候故、以寛空開山とセラル、(高代寺記)


 安和元年(968) 満仲公自ラ木像作給、其時発大願曰、於我滅後末世擁護朝家  於我滅後末世擁護武家 於我滅後末世降伏諸魔  於我滅後末世擁護三宝 我没後廟所ニ一ノ不思議アラハ此願成就セント也

安和二年(969)より天禄元年(970)までに法華三昧院の七堂伽藍を御建立、今多田院之儀鷹尾山廟所ト御唱被成候、
 寛和二年(986)八月十五日、於法華三昧院満仲公七拾歳為御出家、法名称多田院満慶公、此時御家人之老臣致出家、御近習相勤申候、
 長徳三年(997)八月廿七日、満慶公薨逝、御年八十六、末期御記文曰、吾没後神留此廟窟可守弓馬家加之以鳴動可知見四海安而左者也ト、御家人等ニ御遺言、諸成候也、従先祖傳置申候付、満仲公之奉拝 尊躰ト存曰く御祀文御願文拝見仕候、別而念御自作之甲冑帯釼之尊像備寶殿神ト祭、其後御鳴動度々之有日本之令知善悪賜古者鳴動之度々奏問由記録御座候、然尓今御鳴動之毎度日記書留置申候、(多田院御家人由緒書)

 安和二年(969)三月十五日、満仲公多田江退隠し玉ひ、御歳五十八歳、同年五月、新将軍頼光朝臣大内守護判官代と成り給ふ、安和二年より天禄元年までに、七堂伽藍建立し玉ひ、法華三昧院と号、今の多田院なり、
 寛和二年(986)八月十五日、出家し玉ふ、御歳七十五歳、御法号多田院満慶と称し奉、同日近習の老臣十八人法躰す、各坊号を拝賜す、

 正暦元(990)年始て米谷に城築、舛形城と号す、谷右馬允を令居、次て亀尾城を築、今新田村に城跡在り、此城にて竹童子誕生し玉ふ、是従四位下鎮守府将軍頼信朝臣なり、多田院満慶公御自作ノ尊像と申奉給□御公達御一門并御譜代の面々後世までの御筺を残し給へかしと進め奉給余朝家を守護し、国家を治めし全盛なりし像を作り、朝家国家を永く鎮護せんと
甲冑、帯釼、龍馬に乗て、白羽箭を負、弓を持玉ふ尊像、二十四才御姿也、日を歴て成就し玉ふ処大願日、於我滅後末世擁護朝家、於我滅後末世擁護武家、於我滅後末世降伏諸魔、於我滅後末世擁護三宝、




満仲公出家
寛和二年(986)八月十五日に出家し、法名満慶と称した。七十五歳。(尊卑分脈)


満中出家事 

 永延元年(987)八月十六日、前攝津守満中朝臣於多田宅出家云々、同出家之者十六人、尼卅余人云々、満中殺生放逸之者也、而忽發心所出家也、(小右記)


『古事談』 源顕兼(1160~1215)編  鎌倉初期の説話集 建暦二年(1212)~健保三年(1215)成立。



『宝物集』平康頼・編 仏教説話集 1177~1181年の成立  「巻第七第十善知識」より


 長徳三年(997)八月廿七日甍逝、御歳八十六才、御願文略之、我没後廟窟において一つの不思議在りしハ、願成就せんと在り、御遺命に曰、當家の義、頼光朝臣に随ひ尚後世まても、朝家の忠勤を盡し、兼て我が廟所守護すへしと、當家の枝属譜代の侍等江、多田七十二郷并能勢郡を宛行、夫より頼光公に随身し奉り、大内守護に仕奉りしより多田御家人と称せられし也。(多田院御家人由来伝記)



【考察】
 『尊卑分脈』等から満仲公は、長徳三年(997)旧暦八月二十七日没、享年八十六歳とあるところから,延喜十二年(912)生まれとなる。一方、父の経基王は、『尊卑分脈』に天徳五年(961)没、享年四十一歳とあり、延喜二十一年(921)生まれとなり、満仲公よりも後に生まれたことになり、経基王の享年が間違って居ると思われる。又、経基王は陽成帝の皇子元平親王の子とする説もある。

 遺言により経基王の亡骸は旧邸「八条亭」内に葬られ、満仲公はそこに墓所と寺社を造営したと云う。後世、「六孫王神社」或いは「六ノ宮権現」と呼ばれている。高代寺は満仲公(912~997)が経基王(?~958頃)の菩提のために「天徳四年庚申(960)七月建立」とあることから、経基王は天徳二年(1958)頃に亡くなったものと考えられる。又、上津の「善源寺」も同時期に経基王菩提のために建立された。経基王は法名「善源」と称した。

『尊卑分脈』





【Episode】「六孫王神社」と「大通寺」
 経基王の旧邸「八条亭」には神仏混淆により「六孫王神社」と「大通寺」があったが、明治時代に旧国鉄の京都駅建設のために大部分が接収され、「六孫王神社」神域は縮小され、「大通寺」は西九条に移設された。遍照心院大通寺(京都市南区西九条比永城町)の立札に次のようにある。

 

大通寺(遍照心院)

清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。

その後、二百六十余年を経た承応元年(一二二二年)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したと言われる。後に「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。

足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に努め、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。明治四十四年(一九一二年)には旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して現地に移転し、逼塞した。

本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚尼置文二巻、阿仏尼真蹟、阿仏塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。

京都市

『高代寺日記』に次のようにある。
 「天文二十年(1551)辛亥、八月、子祢女(ねね・塩川伯耆守国満の息女)ヲ尼寺ヘ上院セシメ十方尼ノ弟子トセラル通り七条大通寺ノコト也」

 子祢は塩川加賀守正吉の三女が生んだ娘である。長女は塩川仲朝の室となり、塩川伯耆守国満(1500~1576)の乳母であった。次女は塩川種満の養女となり、塩川宗英の室となった。それにより塩川仲朝とは行合いの妹となったとある。塩川加賀守正吉は永正十年八月五日六十七歳で逝去し、三女は十五歳であったので遺言により塩川種満公室が介抱された。後に乳母の妹であり、義姉弟のように育った三女に塩川伯耆守国満の手が付き、天文九年(1540)七月小十日、子祢が生まれた。三女は国満公より年長であった。塩川伯耆守国満は享禄元年(1528)五月に種村高成の養女(細川澄元娘)を娶っている。





 『今昔物語集』によれば、満仲公は六十余歳で出家されたとあり、「多々の寺は其より初めて造りたる堂共也」とある。満仲公六十余歳とは、972~977年頃と考えられるが、『小右記』には、「永延元年(987)八月十六日、前攝津守満中朝臣於多田宅出家云々とあり、『尊卑分脈』の七十五歳(寛和二年986八月十五日)とするのが妥当か。又、多田神社では天禄元年(970)の創建と言っているがこれも定かではない。


【安和ノ変】 「安和の変」をきっかけに、多田源氏は摂関家に仕えるようになった。


本朝百将傳

『百錬抄』によれば「安和二年三月廿六日。左大臣源高明坐事左遷大宰権帥。依左馬助満仲等密告也。中務少輔橘敏延。右兵衛佐連同配流。依謀叛也。四月一日。権帥西宮家焼亡。」とある。

 この事件は左大臣源高明の失脚を狙った藤原摂関家の陰謀と見られており、首謀者は右大臣藤原師尹か師輔の子らの伊尹、兼道、兼家の内誰であったのかは定かではない。先の菅原道真公の事件と同様に摂関家の陰謀だった。右大臣師尹は事件後に左大臣になるが半年余りで死去します。源満仲公は橘繁延と共にそれまでは源高明に随身していたが、この事件をきっかけに摂関家に仕えるようになったと言われている。源高明は一年後に許されて帰京し葛野に隠棲し、以後政界から引退した。

 *多田満仲公は裏切った形となった。

『百錬抄』
「安和二年三月廿六日。左大臣源高明坐事左遷太宰権帥。依左馬助満仲等密告也。中務抄輔橘敏延。右兵衛佐蓮同配流」



 摂関家は伊尹が令泉帝・円融帝の摂政関白太政大臣となり、兼道も関白になったが二人共早世し、以後、藤原兼家が摂関家を継ぎ、その子道隆・道綱・道兼も早世し、やがて藤原道長の時代となる。その間、源満仲公は武蔵守・摂津守・伊予守等の受領を歴任して財を蓄えると共に、この事件をきっかけに清和源氏は藤原摂関家に深く近づいた。

 源頼光公は満仲公の嫡男で正四位下、各国の受領を勤め武家貴族として京都一条邸で藤原道長の異母兄・藤原道綱を娘婿にして、道綱夫婦と一緒に暮らし、道綱の母の屋敷もすぐ近くにあった。頼光公は各国の受領に任じられ財を蓄えて、藤原摂関家の家司として重用された。『日本記略』によれば、摂政藤原兼家の二条邸新築のお祝いに馬三十頭を奉じられたとある。


『日本記略』 「永延二年 九月十六日 庚子摂政新造二條京・・・春宮大進源頼光牽□駒卅之大臣以下預之・・」



 源満仲公は摂関家に近づき、以後、源頼光公の時から多田庄を摂関家(近衛家)に寄進し、摂津守を拝領して、摂関家領として多田庄の経営をおこなった。







【鎌倉時代】


 鎌倉幕府によって多田蔵人行綱公が勘当され多田庄を去ると、多田庄は大内惟義に与えられた。「承久乱」では大内惟義の嫡男惟信と塩川刑部大輔惟親、多田蔵人行綱の子基綱は上皇方について敗れて追討された。多田庄は北条得宗家領となり多田政所が置かれ、鎌倉から多田院別当が任命された。


「多田蔵人ハきくわい(奇怪)によりかんどうつかまつりたるなり。云々」






北条得宗家領
 
多田庄には多田満仲公の郎党衆「多田御家人」が各自満仲公から庄内に領地を与えられて住んでいた。鎌倉幕府は嘉禎四年頃に「多田院御家人」に下文を与え領地としての給田は一町とした。「承久乱」で上皇方に味方した御家人衆は百姓に落とされた。


多田院文書

 執権北条泰時は老朽化していた多田院の修理を庄役として行うことを指示た。領家分の「本田方」、地頭分の「新田方」はいうに及ばず「多田院御家人の得分」等、多田庄から集まる全ての年貢の半分を多田院に納め修復の費用に充てること、修理の夫役は庄内に平均して当たらせることを指示した。厳しい年貢の取り立てにより多田庄政所「本田方」と「新田方」の対立が絶えず、年貢の未納を解決するために、「本田方」の分は鎌倉で結解(決算)をとげさせることにし、「新田方」については御内人(得宗家の被官)安藤五郎左衛門光信を派遣した。


「多田院文書」多田院修造・人夫の事

『得宗家文書』「多田院修造料事」 宛名は「多田院両政所」である。




 
『満願寺文書』建長三年(1251)、正嘉二年(1258) 安東光信は満願寺にも指示をだしている。


『吉川玉手氏文書』文永七年(1270) 「多田院両政所安東五郎左衛門光信」、「了意」が政所を取り仕切っていたことが分かる。



忍性の活躍
 年貢の半分を取り立てられ、修復費の未納が増えて多田院修復が進まなかった。得宗家は建治元年(1275)十月、鎌倉極楽寺住持忍性を多田院別当に任命し、多田院修復に当たらせた。


 聖武天皇(701~756)は仏教思想により国を治めようと、六宗兼学の寺として東大寺の建立(大仏開眼752年)と日本各地に国分寺、国分尼寺を建立した。一方、和銅三年(701)には藤原不比等(659~720)が興福寺(法相宗)を建立して氏寺としていた。聖武天皇の皇女孝謙天皇(称徳天皇)の寵愛を受けた「道鏡」が政治に口出しし、帝位に就こうとまでしたことから、桓武天皇(737~806)は奈良仏教と手を切るために、長岡京に遷都し、延暦十三年(794)平安京に遷都した。

 延暦二十三年(804)、桓武天皇は遣唐使を派遣し、最澄(766/767~822)に天台宗を持ち帰らせて、最澄は比叡山にて新しい仏教思想を確立した。最澄の思想は経典を読誦し、勉学により仏教を理解するという考え方であった。ところが空海(774~835)も私費で同じ遣唐使船に乗り込み、唐で密教を学び、正式な灌頂を受けて帰国し、高野山にて真言宗を開いた。朝廷は空海に東寺を与え、真言密教も朝廷の保護を受けた。後に最澄は密教勉学のために、空海から灌頂を受けて密教の経典の借用を申し入れたが、空海は密教の思想は経典を読むだけでは理解出来ず、修行により心身を鍛練することで会得するものであると説いた。修験道は七世紀末に役行者(伝634~伝701)が開いた悟りの境地であったが、空海の真言密教に通じるものがある。

 一方、朝廷から見放された奈良仏教は天台宗と真言宗を含め六宗兼学としたが、後に空海の真言密教に傾倒していった。やがて寺社の荘園維持のために僧兵の勢力が強くなると、仏教思想がなりを潜めるようになり、又、勉学によらない修験道による呪術のようなものが流布して仏教の荒廃が始まった。
 鎌倉時代になると、奈良仏教は西大寺の叡尊らが宗教改革に乗り出し、「真言律宗」を確立し戒律の普及に努め、貧民の救済や癩病者の救済に務めた。仁治元年(1240)には叡尊門下は成円、厳真、覚如、行算、貞尹、道譽、忍性ら十一人となった。寛元三年(1245)、覚如と定舜を宋に派遣して、宝治二年定舜は律三大部二十具を持ち帰った。

 建長四年(1252)叡尊は律宗を関東に広めるために忍性を関東下向させた。叡尊も請われて弘長二年(1262)鎌倉に下った『関東往還記』。鎌倉将軍宗尊親王も帰依し、執権北条長時(北条重時の嫡男)や北条時頼(北条泰時の孫)ら北条氏一族も授戒を受けた。正元元年(1259)、北条重時(父は北条義時・母は姫の前)は忍性を鎌倉に招き極楽寺を建立し菩提寺とし、その年の十一月に没した。忍性は大慈悲釈迦堂の別当になり北条長時、業時らと親しく交流を重ねた。『関東往還記』 文永五年(1267),北条重時の子業時は忍性を極楽寺に招き開山とした。この頃、日蓮が鎌倉に現れて他宗を批判した。

 鎌倉時代中期、文永九年(1272)頃、多田院の社殿は荒廃していた。この頃、勧進聖恒念が社殿修復を得宗家に願い出た。

 建治元年(1275)、忍性(良観上人)は多田院の別当に任じられ、多田院恒念房に代って入寂する(乾元二年・1303)まで二十余年間多田院の修造維持に努めた。年貢を増やすために新田開発に力を入れた。弘安元年(1278)に上棟式が行われ、 弘安四年(1281)金堂供養が行われて多田院四方殺生禁断の御触書が出された。この時、西大寺長老叡尊は攝播巡歴の途中多田院に立ち寄り、四百三十余人に菩薩戒を授けた。


「多田院文書」 弘安元年(1278) 金堂上棟式の馬引注進状


「多田院文書」 弘安四年(1281) 金堂供養の時の多田院四方殺生禁断の触れ

 正応元年(1288)、忍性は七十二歳になって三十六年ぶりに西大寺に入り、叡尊から灌頂を受けて阿闍梨となった。正安二年(1300)、叡尊に興正菩薩の号が下賜された。正応三年(1290)、叡尊は九十歳で入滅した。西大寺では忍性の推挙により長老慈道房信空が後住となった。『性公大徳譜』

 忍性はさらに本堂の上葺きや三重塔婆・常行堂の修理、多田院四方十町の殺生禁断を命じ、正応六年(1293)には摂津・丹波等八カ国に棟別銭を課し、さらに多田院を幕府将軍家祈祷所にした。正安三年(1301)には多田庄の年貢の半分を多田院修造費にふりむけるように守護・地頭・御家人等に厳命したが、庄内の抵抗にあい修復は進まなかった。嘉元元年(1303)七月、忍性は入滅した。幕府は摂津の国棟別銭により常行堂・法華堂の造営を進めた。

 
「多田院文書」




箱根宝篋印塔は多田満仲公の菩提を弔うために忍性は建立したという。高さ3.6mの巨大な塔である。
永仁四年(1276)大和石大工大蔵安氏が制作した。正安二年(1300)に良観上人(忍性)が開眼供養の導師をつとめた。



〈外部リンク〉箱根宝篋印塔




 正和五年(1319)十月に西大寺長老浄覺房宣瑜を同士として堂供養を執り行った。この時の多田院は天台宗と真言律宗の兼学であったが、多田院別当職は西大寺長老に附せられた。「多田院堂供養指図」は当時の多田院の伽藍配置図である。

 


【引用文献】人物叢書「叡尊・忍性」和島芳男著 『かわにし川西市史』 『吉川村史』








【室町時代】

建武三年(1336)、足利尊氏は御教書を出し多田院を安堵している。建武四年には善源寺東方地頭職を多田院に寄進している。暦応四年(1341)に高師直は多田院殺生禁断を命じている。
  


延文三年(1358)足利義詮は足利尊氏の遺骨を分骨し、貞治五年(1366)足利義詮も多田院領を安堵している。貞治七年足利義詮の遺骨も多田院に分骨された。
   


 貞和四年(1348)十二月、高武蔵守の勢淀渡りに至る、尊氏公の催促に随ひ多田院御家人等武蔵守師直の勢に加り、同五年所々戦場にいつ、足利家の御袖判今に残れり、
四条縄手に向名寄
両政所新田原郷 多田信濃守 今吉入道 久々知元吉 塩川左衛門 田井柄馬亮 山問右馬入道 森本重宗田井紀四郎 西冨左衛門 佐藤三  脇田兵庫則俊 野間四郎  同五郎   田原紀四郎  谷源太有仲 平井小野四郎 石道進士 山田五郎 吉川判官代 太町太郎 黒田新六郎 一樋新太郎  枳根庄 六瀬 谷 細川とみゆ 山本各四名ハ従者とみゆ 都合七百五拾三騎 其分三百余人(多田御家人由来傳記)

 『多田院御家人由来傳記』に貞和四年(1348)十二月、四條畷合戦に高師直方として出陣した「塩川左衛門」とあるのは「塩川又九郎師仲」であり、大昌寺『塩川氏系図』には「楠正行合戦時令河内国四條畷討死法名玉阿」とある。一方、『多田院文書』「玉阿田地寄進状」貞治元年(1362)十月廿九日に「塩川奥玉阿田地寄進状」があり、これは塩川又九郎師仲の十三回忌に師仲に代って夫人が寄進したものと思われる。
 塩川又九郎師仲討死によって、鎌倉時代御家人筆頭であった「惟仲流塩川氏」は衰退し、代って、文和元年(1352、)吉川信阿コト塩川刑部丞仲義の末裔吉川越後守仲頼が越中国立河から帰郷して、その子息塩川刑部大夫仲章が多田院御家人筆頭挌となっている。応安元年の多田院金堂供養引馬注文の「塩川刑部大夫入道跡」とは塩川刑部丞仲義を指している。
 


貞治二年に高岡彦九郎源仲房は茶園を多田院の寄進している。



応安元年(1368)卯月八日、多田院金堂の修理が完成して恒例によって多田院御家人の引馬が行われた。






この時、多田庄内全戸に棟別銭が課せられた。以降、度々多田院社殿修復に段銭、棟別銭が課せられている。






 


室町時代のは度々多田院鳴動があった。別記参照


【安土・桃山時代】

織田信澄は北摂の寺々を破却する
  元亀二年から三年の頃、織田七兵衛尉信澄は北摂の寺々を破却した。三草山清山寺は元亀二年十二月十四日に焼かれ、清山寺の毘沙門天を阿古谷の毘沙門堂に、大日如来を垂水の大日堂に、観音菩薩を神山の慈眼寺観音堂に安置された。慈眼寺観音堂前の宝篋印塔も清山寺にあったものである。織田信澄の焼き払った寺々は三草山清山寺、能勢の剣尾山月峯寺、波豆川村の大舩山大舟寺、羽束山香下寺、深谷山蓮花寺、天野山安楽寺、東多田の横超山光遍寺、鷹尾山多田院、能勢の布瑠社(野間神社)などである。多田院が信澄により破却されたために多田院御家人衆は信長や塩川伯耆守長満に強い反感を抱いた。多田院の梵鐘が引きずりおろされ多田川に捨てられた場所は鐘ヶ淵と呼ばれている。(摂州多田塩川氏と畿内戦国物語)

その後、豊臣秀頼により多田院の社殿が修復されたというが、詳細は不明。








【江戸時代】

 江戸時代寛文年間に多田院別当智栄が江戸幕府に多田院再興を願い出て認められ、社殿が建て替えられ、五百石が寄進され、多田院村、新田村、東多田村が多田院領となった。

 元禄九年、多田満仲公七百回忌に当たり、別当尊光により盛大に祭礼が行われた。幕府から金三百両・米二百俵が下され、祠堂造営され、正一位が追贈の御朱印が下された。その時に「南無手踊り・なむでおどり」が披露された。尊光は大和西大寺奥の院躰性院の住寺から多田院別当になった。前別当智栄の弟である。大和地方に伝わる雨乞いの踊りを「南無手踊り・なもでおどり」を脚色したものである。智栄・尊光は大和宇田の国人秋山氏の出という。






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