北摂多田の歴史  

『高代寺日記』解説

 『高代寺日記』写本は唯一、内閣公文書館に保存されている。この写本は「温故堂文庫」「和学講習所」とある。「温故堂文庫」とは・・・、かの有名な塙保己一は家号を「温故堂」と称し、7歳で失明し、34歳で全国に 散らばっていた国書を収集して刊行した。すなわち、寛政五年(1793)に、林大学頭の下で「和学講習所」創設が認められて、『群書類従』『続・群書類従』を刊行した。この写本はその「和学講習所」で写し取られたものである。残念ながら原本は失われてしまった。

  


『高代寺日記・上』解説

『高代寺日記 上・下巻』 の著者と成立年代が不明で、書かれている内容の信憑性がないとされてきたが、その著者と成立年代が判明した。代々の高代寺の住持が書き伝えてきたものではないことが分かった。

『高代寺日記』 を読むと、上巻は「吉川氏」 下巻は「塩川氏」 である。

 吉川氏は「信家」の末裔と考えられる。しかし、吉川氏(吉川仲頼) は「承久乱」以降、越中国に住し、鎌倉幕府が滅亡した南北朝時代に、安村氏(吉川氏の家老) と共に多田庄に帰還する。(大昌寺文書) そして仲章が山下に旧山下古城を築き、塩川伯耆守を名乗る。(吉川塩川氏) 塩川頼元の父・辰千代の父塩川宗頼は塩川仲章の弟・塩川仲宗の末裔であることから、塩川頼元は吉川塩川氏と考えられる。

 『高代寺日記』は塩川基満の臨終で終わっていることから、基満の子・塩川頼元が、基満の日記と塩川氏の様々な人々の日記を本に『高代寺日記』を完成させた。塩川氏の由来を日記風にまとめたものと考えられる。

満仲―頼光―頼國 ―頼綱
               ―頼仲 ―仲基
               ―頼重 ―国基
                   ―重貞
                   ―貞信―信家

 



 上段右の手紙は、宝永七年(1710年) 神保元仲(頼元・華押)が木田文衛門に宛てたもの、上段右は宝永八年(1711年) 木田保教(文衛門)が中村作右衛門に宛てた手紙である。これによると、塩川頼元は神保元仲と名乗りを変えていたようだ。『高代寺日記』下巻によると、塩川頼元は正保三年(1646年) 生まれであり、宝永七年には64歳である。

 下段は「木田中村之系図」奥書である。満願寺宗鏡庵主によって、正徳辛卯冬(1711年)に書かれている。これによると、神保元仲先生は塩川氏の的孫とあり、「而終考家記校正家譜」とある。この木田中村之系図も神保元仲先生が校正した。塩川頼元コト神保元仲先生は歴史学者だったようである。この三つの史料から、『高代寺日記』も神保元仲先生が書き記した塩川家の家記と考えられる。しかも先生は吉川氏の末裔であると推察される。


 塩川仲章・仲宗は塩川又九郎師仲の子ではなく、又九郎師仲は四条畷合戦で討死にし、大内塩川氏(鎌倉時代多田院御家人筆頭格) は滅亡したものと考えられる。 仲章は足利尊氏から多田庄地頭職を与えられて、塩川氏の名跡を継承したと考えられる。




吉川氏の元祖は源頼範・源頼仲

多田家の惣領・源頼範はなぜ廃嫡されたのか
(多田満仲公の六男或は七男とも、従五位下・右近将監・左衛門尉)

安田元久は『武士世界の序幕』の中で、『尊卑分脈』に満仲の四男・頼平、五男・頼明、六男・頼貞、七男・頼範、八男・孝道らは「為舎兄頼光子」とあり、頼範の子・頼綱の項に「頼國子頼綱同人」とあるところから、多田庄は満仲公から頼範公そして頼綱公へ受け継がれたものと考えられると述べている。

【尊卑文脈】   満仲―頼光―頼國―頼綱―明國―行國―頼盛―行綱

【多田庄の継承】  満仲→頼範→頼綱→明國→行國→頼盛→行綱→大内惟義塩川惟親

多田頼綱公が頼國公の養子になった理由として『高代寺日記』は次のように述べている。

『高代寺日記』と『高代寺記』によれば、多田庄は始め満仲公の命により、六男・頼範公を多田の惣領と決められたが、後に頼範公は病になり、保ノ谷に住んで養生することになり、一旦は頼国公を以って此家の続嗣としたとあります。

「栢原殿と申傳ルハ満仲ノ六番目ノ男多田蔵人左衛門尉頼範ノ事也、始豊島郡ヲ領知シ給フ、故ニ豊島ノ蔵人共云リ、此人之子孫多田ニ居ルヲ以、多田家ノ惣領ト申ス、六男ニテ惣領ト云事他人之不審スス處ナク、此謂レハ清和天皇之御子六人在ス其第六番目ノ御子貞純親王ト申奉ル、其御子ヲ六孫王ト申ス其式ヲ満仲カタトリ給、嫡男頼光ニ摂津守ヲユツリ、二男ナル頼親ヲ大和守、三男美女丸ヲ多田ノ法眼トシ、四男頼信ヲ河内守トシ、五男頼平ヲ武蔵守トシ、六男頼範ヲ多田蔵人ト号、コレヲ多田家ノ惣領トセラル愁シ共未々ヲ頼範子孫ニテ続テハ家混乱スルモノナリ、故ニ頼光ノ嫡子頼国以此家ノ続嗣トシ偖頼仲ヲ當家ノ正嫡ト定ラル、是皆満仲公ノ遺命タリ」とある。(高代寺日記)

「古老伝テ云ク、往古多田満仲公ノ御子息ニ癩病者有之、陰陽師カ曰ク、居を鬼門ニ移して三宝ニ祈り、らい癒へしと、よって此谷におらしめ給ふ、鬼門の方の谷といふを以テ処の名とす、云々、或曰、満仲公の六男頼範公を保ノ谷殿と号ト云々、又、萱原殿ト号ト、」(高代寺記)




米谷中村ノ城とは・・

「米谷の中村ノ城」は、何処にあったかは不明である。『高代寺日記・上』源信家の項目と平治元年の条に、「米谷保」について次のようにある。
「頼定後ニ頼重ト改ム、今年頼重剃髪円慶ト号、信家所領ノ内米谷ノ村ニ庵室ヲシツラヒ閑居ス、円慶久シク居住ノ所故ニ円慶寺ト改、高代寺ノ別院トス、真言タリ、」
「平治元年(1159年)己卯、正月、頼重多田院且庄内順見シ、信家領内米谷保ニ一庵ヲ立閑居センコトヲ兼思フ、二月、頼重室逝去、治春ト号、米谷村ニ葬ル、四月廿日甲辰、改元、同月、米谷保ニ寺ヲシツラウ、五月、頼重米谷ニ閑居、云々」(高代寺日記・上)

「正暦元年(990)始て米谷に城築、舛形城と号す、谷右馬允を令居、次て亀尾城を築、今新田村に城跡在り、」新田城ハ本城なり、上津城・山下城・舛形城・野間城・山田城其分所々に屋形小城数多在り、惣て多田御家人の居城なり」(多田御家人由来傳記)

永禄元年(一五五八年)戊午、六月、三好松永カ乱ニヨリ公方晴元朽木ヘ落ル、或閏ト云、七月、晴元催促、當家同心セス、九月、公臣坂本ヨリ発、勝軍山ニ旗ヲ立、松永ト白川ニ戦フ、十月十七日庚申日、吉日故ニ晴國(晴国は天文五年に自害)伯国相儀シ米谷中村城ヲ切取、城代若月退散ス、此日玉泉庵ヲ生捕、六瀬中能働ク、晴國感状アリ、(高代寺日記・下)

【仮説】『摂北温泉史』によれば、多田庄に属していた米谷庄は、山本方・中村方・米谷方にわかれ、さらに山本村・中筋村・米谷村となった、とある。中筋村はかつて中村とよばれていた。そして、中筋村の寺、現在の「妙玄寺」は『宝塚の民話』で紹介されている。寺の周囲は濠で取り囲まれ、周辺は大きな溜池が複数存在する。室町以前の寺の歴史はわかっていないが、ここの場所が「円慶寺」と「米谷城」址ではないかと推測している。

『宝塚の民話』:引用
「昔は年貢といって農作物で税を納めていましたので、天候が不順な年には農民たちは大変困ったものです。慶長七年(1602)の秋は大変な不作でした。旗本の渡辺氏がおさめていた中筋村も納める年貢に困っていました。代官からは毎日のように「粟、稗でも良いから納めなさい」と矢のような催促が来ます。「粟や稗までも納めたらわれわれはいったい何を食べたらいいんだ。全員が餓死してしまうではないか」。村人たちは代官所へ行き、何とか一年待ってもらいたいと、願い出ましたが聞き入れられません。困りはてていたその時、たまたま村人のひとりが、米俵を積んだ舟が淀川筋を登っていくのを見かけました。聞くところによると、その米は姫路藩主・池田輝政のおさない息女がなくなり、その百か日の法事の御供養米として、京都の法華宗・本禅寺へお届けする品だということでした。そのことを知ると村民の代表達が本禅寺へはせさんじ、事の次第を話し「村民をお救い下さい」と嘆願(たんがん)しました。話を聴いた寺の日邵上人は「お困りなのはよくわかったが、法華宗の宗義として他宗のものには米一粒、銭を一銭たりとも援助することはできないのです。たとえ何人かの法華宗のものがいたとしても、村全体のために米をわけてやる訳にはいきません」との返答です。その返事を聞いて急いで村へ戻ると、村人すべてを集めて訳を話しました。「食べるものがなくなり、子どもたちまで死なせるくらいなら」と、今度は村民全員で本禅寺へ行き、「村に住む者は皆、法華宗に帰依します。これは子々孫々まで変わることはありません。このたびの願い、どうぞかなえてください」と申しあげ、お願いしました。そして気持ちの変わらない証として、証文をお寺に差し出しました。ようやくのことお米を融通してもらい、年貢を納めることができた中筋村は、全員あげて法華宗の陣門流に帰依しました。

 宝塚市中筋の「妙玄寺」



信濃国猿猴ノ牧

「傳曰、重貞病ト称シテ、世ニ密シヒソカニ東国武者修行ス、其次手ニ先祖ノ預リ所ニテコトサラ謂有旧所ナレバ、信濃国猿猴ノ牧ニ順著ス、此ヱンコウノ牧ト申スコトハ名馬出ル所ナリ、往昔馬ハ猿ノヒキタル古事有、コレニヨッテ自ラ其名ヲ猿猴ノマキト号、満仲卿左馬寮ノ頭タルトキ、藤原中務ヲ信濃ニ遣シ、此ヱンコウ牧支配サセ給フ、後仲光ヲ主代殿ニ置タマ()キ、其号塩河ト改タマイシ、比ヨリ仲光カ妻ノ弟紀四郎ト云者又塩河ノ牧ヘ遣シ、終ニ其辺ニ一庵ヲ立、猿猴ト云字ヲ音ニ合テ、前ノコトク塩河寺ト付ラルゝ、

又或説ニ中務(貞信)馬芸ヲ大ニ得タル故年老ノ比遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧ニ赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一庵ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云、代々此ヱンコウノ牧ヘハ順行セラレケルトソキコヘシ、コレ當家名字発起ノ牧ナリト云傳、」

満仲―頼光―頼國 ―頼綱
               ―頼仲 ―仲基
               ―頼重 ―国基
                   ―重貞
                   ―貞信―信家

藤原中務仲光 (猿猴ノ牧主代殿)・・・・・其号塩河ト改タマイシ
紀ノ四郎(藤原仲光カ妻ノ弟)ト云者又塩河ノ牧ヘ遣シ、一庵ヲ立、猿猴ト云字ヲ音ニ合テ、前ノコトク塩河寺ト付ラルゝ、
藤原仲光の妻は紀氏
又或説ニ源中務貞信 馬芸ヲ大ニ得タル故年老ノ比遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧ニ赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一庵ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云、
猿猴ノ牧 → 塩河ニ改ム  コレ當家名字発起ノ牧ナリ
「塩河」の名はエンコウと云う音にあわせて「猿猴」から来たと云う、

信濃の塩河氏
『吾妻鑑』承久三年四月小二十二日の条に、 承久の乱の時、鎌倉から京都に向けて進発した北条泰時に従った十八騎の中に「塩河中務丞」と云う武士がいます。これは『高代寺日記』にある信濃国塩河牧の塩河氏であると考えられます。したがって、「承久の乱」では攝津国では塩河氏と能勢氏が鎌倉方として、多田庄の大内氏は上皇方として分かれて戦ったと考えられます。

「二十二日乙巳、曇り、小雨がずっと降っていた。卯の刻に武州(北条泰時)が京都に出発した。従う軍勢は十八騎である。すなわち、子息の武蔵太郎時氏、弟の陸奥六郎有時、また北条五郎(実義)、尾藤左近将監(景綱)、関判官代(実忠)、平三郎兵衛尉(盛綱)、南条七郎(時員)、安東藤内左衛門尉、伊具太郎(盛重)、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎(家盛)、葛山小次郎(広重)、勅使河原小三郎(則直)、横溝五郎(資重)、安藤左近将監、塩河中務丞、内島三郎(忠俊)らである。京兆(北条義時)はこの者たちを呼んで皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)、前武州(足利義氏)、駿河前司(三浦義村)、同次郎(泰村)以下が出発した。式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発した。」(現代語訳吾妻鑑)

『高代寺日記』は、信濃国小県郡塩河牧(上田市丸子町)へは藤原(長光)仲光の妻の弟の紀四郎が遣わされ、代々塩河氏を名乗ったと言っています。この塩河牧は木曽駒で有名な所で、彼の木曽義仲もこの木曽駒を多いに重用したと言われている。



能勢氏の誕生
 頼綱公と頼仲公

多田頼綱の三男山縣三郎国直は美濃国山縣郡を領有し、嫡男山縣国政が源三位頼政の養子となり、以仁王の乱に挙兵して敗れ宇治で敗死した頼政公の首を貰い受け美濃国蓮華寺に葬ったことを、将軍頼朝は甚く感じて、その舎弟の源国基公とその子能瀬国能公は摂津国能勢郡を知行して、鎌倉御家人に加えられたものと推測しています。

『高代寺日記・上』には能勢国基は多田頼綱-越後守頼仲-頼重-国基に至り、山縣三郎国直の養子になったとされています。しかし、国直に実子が産れると家督争いに巻き込まれ、能勢田尻に閑居したとあります。以降、国基は能勢氏の祖となります。

「傳曰頼重ノ長庶子ニ左兵衛尉国基ト号一人アリ仲基コレヲ養フ出家ニナサント計ル、十二歳ノ□至高代寺ニ学問ヲツトメタリシ還俗イタシ寺ヲ出、一族山縣三郎国直カ子トナル、国直元来子無故幸イトコレヲ養テ家督トセリ、其后国直実子多生ル、家督儀ニツキ争論アリコレニヨッテ農州ヲ退去シ悉穿々タリシヲ頼重・頼貞介抱ニテ摂津国能勢ノ内田尻ノ庄ニ閑居、其後近衛院ノ御宇ニ禁中警護ノ一列トナリ則五位ニ叙セラレ兵衛太夫国基ト云、始能勢ニ久敷住セシ故自ラ世人能勢ト云ナラワセリ、去ニヨッテツイニ家号トナルコノキハ爰ニ記スヘキコトニアラスト云共頼重長庶子ニテ分家セシヲアラハサンタメ此傳ニ記ス委細ハ末ニ顕書ス小名小次郎ト云能勢ノ元祖タリ、」(高代寺日記)


越後守頼仲

源頼国の子、頼綱公の弟、『高代寺日記』によれば、

「従四位下蔵人土佐守、母備後守藤師長娘長子、或曰越後守、傳曰頼国男子十一人アリ、其内頼綱・頼仲二人ハ愛子タリ、故ニ累代相伝ノ旧領摂津国ヲ二人ニ分与セラル殊更満仲ノ尊霊度々夢中ノ告在、故四代ノ内終ニ下ニ置サル仲ノ字ヲ授テ頼仲ト号ス、生年ノ支干モ満仲公ト同シ、姿モ能曽祖ニ似ラレタリ」とあり、多田庄吉川村に領地があり、子孫は七宝山高代寺別当を勤め、また能勢氏の祖となったとあります。


 
多田明国
(  ~保延元年)

頼綱公の嫡男・多田明国公は『中右記』によれば、「頭中将国信朝臣、仰下補蔵人之由正六位上源明国、国明者前三川守頼綱朝臣之男也、為一院蔵人上﨟」とあり、蔵人に保せられました。従四位下・下野守となり、多田庄を受け継ぎ、摂関家藤原師通・忠実に家司として仕えて、任国下野国には赴任していなかったようです。『中右記』によれば、天永二年(1111)美濃の荘園から帰る途中に、信濃守橘広房と源為義の郎等達と争い、殺害して都に帰り、都に穢れを持ち込んだと言う理由から、佐渡に流罪になったとあります。この時、摂関家忠実と源氏の繋がりを絶つ、平氏と結びついた白河上皇の処断と思われます。摂関政治は形式のみで院政が敷かれていました。

「天永二年十月四日 酉時許頭辨送書云、只今可馳参院、是依急事聊有僉議事者、着直衣馳参也、及秉燭於北渡殿方有被議定事、殿下、民部卿、予、別当、修理大夫為房皆直衣参仕、被仰下云、下野守明國為成要事密々下向美乃國之間、於途中為咎無禮者、與住反人成闘亂、切三人者之首了、是信乃守廣房郎等、並左衛門尉為義郎従、其後帰京参所々畢、穢気遍満天下之由旁有其歎、仍召取明國郎従、令検非違使勘問之處、毎事實也、然者今月中諸社祭如何、人々議申云、於新嘗祭者可被止、臨時祭十二月可被行諸社祭、尋例付本社可被行歟、云々、同十九日 後聞、被行流罪、源明國、佐渡、云々、」(右中記)

その佐渡で明国公は武威をもって荘園を押領するなどの狼藉を働き、国守からの訴えにより、やむなく帰京を許されたようです。


『高代寺日記』の解釈は『中右記』とはやや異なります。

「寛治五年(1091) 佐渡前司行光(明国)ノ儀、殿下ヘ訴給フ、奥刕合戦ニ相加リ、勲功アルニヲイテハ在京御免ノ上領地ヲ賜フヘキヤト、當家一族アリ、訴問ル其事忠節働ニヨルヘシト、殿下宣フ、故ニ頼仲・師光・頼弘・頼景其外一族中ノ介抱ヲ百五十騎催シ、上下雑兵凡二千余人ヲ具、奥刕ニ下著、義家ニシタカイ合戦ス、其後義家上洛セラルゝ、行光モ帰京シ、寛治六年壬申五月勅免アリ、則息男行国ヲモ召返サレン事ヲ奏ス、未果、先行光(明国)ヲ召出サレ、左衛門尉ニ被補、其後多田蔵人明国ト召レ、或曰、下野守ニ任セラルゝ、其以後承保二戊寅年六月、行国勅免アル、是殿下且仁和寺殿ノ御執奏ト云傳フ、行国兄弟以上四人アリ、皆所々ニ記、又或傳ニ下野守明国ハ保安元年庚子十二月、六十四才ニテ佐渡ノ国流人、七十才ニテ則配所ニテ死スト云、始ハ流人ニテハナク、佐渡ノ奉行仰付ラレシニ、政務宣シカラサル故ニ、召返サレ、頼綱・頼仲ニ預ラル、故ニ訴訟申、前ノコトク知行仰付ラルゝ所ニ、保安元年三月、白河院御幸ノ御時、郎従下部ラウセキアリ、依去、明国流人仰付ラルゝト云、従者四人斬罪セラルト申傳フ、又、義綱モ相支ト云、」(高代寺日記)



多田頼盛・多田頼憲と保元の乱

『本朝世紀』によれば、多田行国公には五人の男があり、長男頼盛公と三男頼憲公が多田庄の後継をめぐって争ったようです。檜垣太郎頼盛は源惟正と私的に合戦し、入道相國忠実に常陸國に配流された為に、忠実・頼長に仕えていた弟の頼憲が多田庄を支配したが、仁平二年に許されて多田庄に帰ると、頼憲と多田庄の支配権を争って合戦に及んだ。

「康治二年六月十三日戊戌、源頼盛字檜垣太郎、源惟正字辻二郎、忽企合戦、件両人源家末葉、各假武士名者也、共被候入道相國忠實□、依口論結意趣也、於宇治雙子墓□張陣相待云々、雖有戦闘之名、已同兒子之戯、無成□解散、左衛門尉源為義依大相國命召禁檜垣太郎々□畢、」

「康治二年七月廿九日、流人源頼盛改佐渡國配常陸國、」

「仁平三年閏十二月小、一日乙酉、近日、散位源頼憲与舎兄某於摂津合戦云々、父行国入道逝去之後、各争遺財田地有此事云々」(本朝世紀)

『高代寺日記』によれば長男頼盛公は天永二年(1111)生まれとなっています。一方頼憲公は三男で永久三年(1115)生まれとあり、兄弟五人とあります。

 保元元年(1156)・鳥羽上皇が崩御すると、病弱の近衛天皇の立太子に崇徳上皇の子・重仁親王が選ばれると見られていたが、権中納言藤原長実の娘で鳥羽帝の中宮美福門院得子は雅仁親王の子・守仁親王を擁立します。しかし、あまりにも幼かったために、その繋ぎとしてひとまず父の雅仁親王を帝位に就け後白河帝とし、守仁親王を立太子につけます。この決定に崇徳上皇は多いに不満を抱きました。崇徳上皇は鳥羽帝の皇子とされていますが、実は紛れも無く鳥羽帝の祖父である白河上皇が孫の鳥羽の妃・侍賢門院璋子に産ませた皇子でした。鳥羽帝はそのことをご存知で、崇徳帝を叔父子と呼んでおられたと言われています。

一方、摂関家も藤原忠実の嫡子忠通と異母弟頼長との間で藤氏長者を巡って争っていました。当初、忠通には子が出来なくて、父の忠実も頼長を可愛がっていましたので、頼長を忠通の養子にして藤氏長者を継がせていましたが、忠通に子ができた為に、忠通は父忠実・頼長らと藤氏長者の後継を争っていました。美福門院得子と藤原忠通は信西入道(藤原南家貞嗣流・妻が後白河帝の乳母)の画策で後白河帝を擁立し、それに従う武士達は源義朝・源義康・平清盛・基盛・源頼政・源重成・源光保・源季実・平信兼・平惟繁らに対して、崇徳上皇と藤原頼長らに従う武士達は平家弘・安弘・頼弘・光弘・平康弘・平盛弘・平時弘・平忠正・長盛・平忠綱・正綱・平時盛・源為国・為義・頼賢・頼仲・為宗・為成・為朝・為仲そして、多田行国公の次男多田頼憲・盛綱公父子達でした。多田行国公の長男多田頼盛公は後白河帝の警護に当たっていました。

藤原忠通方は頼長方が立て籠もる白河殿に夜襲をかけて火を放ちます。頼長方は数時間の戦いで敗北し、頼長は流れ矢を頭に受けて負傷し、南都に逃げていた父忠実の元へ落ちたのですが忠実に拒否され自害しました。崇徳上皇は捕らえられて讃岐に配流され、頼長方の武士達は皆捕らえられて斬首されました。清盛は叔父忠綱らを斬首し、義朝は父為義と弟達を斬首し、源義康(新田・足利の祖)は平家弘らを斬首すると云う酷い仕打ちとなりました。多田蔵人大夫源頼憲・盛綱父子も斬首され、多田庄は摂津守多田頼盛公のものとなりました。この戦いにより平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭に、源義康は左衛門尉に、義朝と義康に上昇殿が許されました。清盛は既に内昇殿が許されておりました。源義朝は河内国に住む父為義とは袂を分かち、上野守として関東で活躍し、源義康とも親しい間柄に在りました。

『兵範記』は「保元の乱」について次のように述べています。

「十一日庚戌 鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都合六百余騎発行白河、清盛三百余騎自二條方、義朝二百余騎自大炊御門方、義康百余騎自近衛方、此間主上召腰輿、遷幸東三條殿、内侍持出剣璽、左衛門督殿取之令安腰輿給、他公卿並近将不参之故也、殿下令扈従給、云々、前蔵人源頼盛、依召候南庭、同郎従数百人繞陣頭、此間頼政、重成、信兼等、重遣白川了、彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢、御方軍向法勝寺検知、又焼為義圓覺寺住所了、主上聞食此旨、即還御高松殿、其儀如朝、賢所還御、午剋清盛朝臣以下大将軍皆帰参内裏、清盛義朝直召朝餉、奉勅定、上皇左府不知行方、但於左府者、已中流失由多以稱申、為義以下軍卒同不知行方云々、宇治入道殿聞食左府事、急令逃向南都給了云々、今夕被行勲功賞、播磨守平清盛、右馬権頭源義朝、義朝、左衛門尉源義康、已上昇殿、」(兵範記)

 『高代寺日記』は「保元の乱」について次のように簡単に記しています。

(藤原)頼長崇徳院ヘ参リ御謀反ヲ勧申ス、新院ハ鳥羽ノ田中殿ヨリ白河殿ヘ御幸、頼長同参且()為義子共ヲ連院参、右馬助()忠正モ参ル、内裏ヘハ()義朝・()清盛等参内守護ス、同十一日ニ(藤原)信西勅を承リ()義朝・()清盛ヲシテ新院御所ヲ改ム、同十六日(藤原)頼長中矢死ス、丗六才、云々」(高代寺日記)


 
平治の乱 


 
保元の乱の後に、後白河帝は守仁親王即ち二条帝に譲位して上皇となり院政を布きます。しかし、摂関家の力も衰え、院方と天皇方、即ち少納言信西と藤原信頼の間に対立が起こります、平治元年(1159)・藤原信頼は源義朝の武力を背景に謀叛を起こします。世に言う「平治の乱」です。藤原信頼は二条帝側近の藤原経宗・惟方を懐柔し、藤原成親・源頼政(摂津源氏)・源光保(美濃源氏)・源光基(美濃土岐氏の祖)・重成(源満政流)・季実(文徳源氏)らを身方にし、平清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って挙兵します。源義朝は院の御所である三条殿に夜襲をかけて上皇と上西門院(鳥羽帝の皇女・後白河上皇准母)の身柄を二条帝のおわす御所にお移し申し、信西親子の首を討取ろうとしますが、三条殿に火の手が上がり逃げ惑う者達で混乱し、信西親子らは逃亡します。ようやく信西は命辛々近江国信楽当りまで逃げたのですが、最早是までと穴を掘りその穴の中で自害します。その首は掘り出されて六条河原で梟首されます。首謀者の藤原信頼は上皇を幽閉し、二条帝をおしたてて政権を掌握し、除目を行い、源義朝を播磨守に、源頼朝を右兵衛権佐に任じます。紀伊国で政変を聞いた平清盛は紀伊の湯浅氏・伊勢の伊藤氏らの武力を整え都にとって返し、藤原経宗・惟方らを懐柔して、密かに上皇と帝を六波羅の屋敷に迎えて、藤原信親と源義朝を謀反人として滅ぼしてしまいます。源頼政・源光保・源光基はその旗色を見て陣を動かさなかった為に、義朝方は敗れました。平治ノ乱の後、平家は武家貴族としてその栄華を極めます。源義朝は関東に逃亡する途中尾張国で落命し、長男義平・次男朝長も敗死し、三男頼朝は池禅尼の計らいで伊豆国へ配流となり、常盤御前は今若・乙若・牛若を連れて逃げる途中大和国で捕らえられ、今若は醍醐寺へ、乙若は仁和寺へ、牛若は鞍馬寺へあずけられます。絶世の美女であった常盤御前は平清盛の寵愛を受けますが、後に一条長成に嫁し、一条能成を産みます。後に一条能成は義経の同腹弟として義経と行動を共にしますが、義経失脚後に一時鎌倉幕府から疎まれますが、後に赦されて従三位となります。


『高代寺日記』は「平治の乱」について次のように詳しく述べています。

「十二月四日大ニ、清盛左衛門佐重盛供ニ熊野ヘ参詣、此間ニ信頼義朝逆心ヲ越、同五日義朝方ヨリ信頼ト同意ノコトヲ云遣使後藤兵衛実基ナリ、信家カ云左、清盛カ権柄悪シト云共、當家既ニ清和ノ臺ヲ出、六孫王ヨリ以来帝十八代、祖年数二百五十年且當流血脉八代遂ニ逆心ノ名ヲトラス、争力今信頼ニ同意スヘキ、返テ此旨申スヘシ、実基ヲトキ然々ト申ス祖時、又信家か云、我若輩ト云共、保元ノ勧賞ニ右馬大夫ニ任セラル、是皆天子ノ御影ナラスヤ、然レ共義朝ワレヲ同心スヘキ者ト推シ、一大事ヲ申コサレシ志ト云、且一門ノ中ナレハ、當家奏達スヘカラス詮スル所、若聞シコトヲ密セシ科ニ逢ハワレ一人ノ罪科タルヘシト堅ク誓言シ、ツイニ注進ヲトケサリケルトナン勿論父兄ヘモサタセサリキ、九日ノ夜左馬頭五百余騎ヲ率テ三條殿ヘ寄来、上皇且御妹上西門院御車ニ召シ、義朝以下左右ヲ囲、大裏ヘ入奉ル、式部大輔重成以下候之、十日三條殿ヘ放火人多亡フ、逆徒大江家仲平康忠戦功アリ、同夜ニ入信西カ它姉小路ヘ西洞院ヲ放火ス、男女多斬殺セリ、十一日信西カ子五人解官、上卿ハ花山西忠雅職事右中弁成頼ト云、同日除目、信頼大臣将ヲ兼ヌ、義朝ハ播磨守、重成ハ信濃守、頼憲ハ摂津守、兼経ハ左衛門尉、康忠ハ右衛門尉、其外義朝カ家人迄任官ス、比悪源太上洛セリ、十四日信西カ首光康カ神楽岳辺ニ実検シ十五日大路ヲ渡ス、十九日勧修寺光頼参内美言有、信頼カ上ニ著座ス、二十日信西カ子十二人流罪、廿六日夜西経宗且院ノ別当惟方計、主上六波羅ヘ行幸、上皇ハ仁和寺ヘ行幸、當家一族愛分リ供奉、寛快上快以下上皇ヲ迎奉ル、當家一族相随フ、兵六波羅ヘ七十余人、仁和寺ヘ百余人自是始當家一族美福門院ヲ守護シ奉、仁和寺ノ新殿ニ入奉リコレラヲ守ル、六波羅ヨリ二百余人都合五百余人ニテ仁和寺堅ム、信頼義朝攻ルコトアタハス、二十七日重盛大将ニテ手勢五百余人當家ノ頭人二百余騎方々与力兵三百余騎都合一千余騎ニテ攻ムル、義朝以下討負東国ニ落行、二十八日清盛一族家人除目行ル、傳曰、仁和寺ヲ守護シ又六波羅ヘ参候シ粉骨ヲ尽セシ當家一族、但馬守綱光・其子蔵人隆経・同弟五郎丸正綱・但馬蔵人仲頼・其子丹波介為頼・蔵人頼実・弟頼重・頼次・国光・朝行・国行・右馬助国基・弟信光・小国次郎政光・摂津五郎実忠・村上次郎宗平・高木四郎信光・同五郎頼忠・陸奥守貞信・同一子信家以上二十騎雑兵合テ五百余人トキコヘシ、云々」

  ここで注目すべきは、義朝方として戦った頼憲が摂津守に任じられたとあり、これは多田頼憲のことであろうと思われますが、多田頼憲は保元の乱で斬首されたとされています。源頼仲の一族は清盛勢と供に仁和寺の美福門院を守護したと言っています。




多田蔵人行綱
(11401189)

 『高代寺日記』によれば摂津守多田頼盛の嫡男太郎行綱は保延元年(1140)四月に生まれたとあることから、平治の乱(平治元年・1159)のときには十九歳であり、鹿ケ谷の変(安元三年・1177)のときには三十七歳、一の谷合戦(寿永三年・1184)のときは四十四歳、鎌倉幕府から勘当されたとき(元暦二年・1185)には四十五歳であったことになります。没年は「讃岐多田氏系図」に、文治五年(1189)十一月廿四日とあることから、享年五十歳と言うことになります。

多田満仲公以来清和源氏は摂関家と結びつきその勢力を拡大したが、保元・平治の乱で摂関家も清和源氏もその勢力を失った。白河上皇と鳥羽上皇の院政と結びついた伊勢平氏が台頭した。摂関家と清和源氏の台頭を嫌った白河上皇は伊勢平氏である平正盛を重用し、鳥羽上皇も正盛の子・忠盛を重用した。摂政忠実は白河上皇に遠ざけられ、忠実に仕えていた多田行国は佐渡に流され、源頼親は平正盛に追討された。一方、平忠盛は得長壽院を造営した功績で、『高代寺日記』には但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス」とある。安田元久氏は『武士世界の序幕』で次のように述べている。「平氏が中央政界に頭角を現したのは、清盛の祖父正盛の時代からである。正盛は桓武平氏の一流である伊勢平氏の嫡流を自認した。しかし、桓武平氏に直接つながるという点については、これを疑えばいくらでも疑う余地がある」とその正統性を疑っている。

天仁元年(1108)戊子、正月廾九日、出雲国ニテ平正盛(清盛祖父)()義親(義家子)ト合戦、義親伏誅、同郎従四人首上洛ス、傳曰、去亥ノ十二月初太宰権師大江匡房日早使上洛、義親悪逆止サル申ヲ訴フ、故ニ平正盛右衛門尉ニ任シ、追討使下著、(高代寺日記)

 長承元年(1132)壬子、二月十三日、得長壽院成ル、故十三日供養、導師地主権現ノ應化ナリ、平忠盛(正盛子・清盛父)奉行ス、故ニ但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス、(高代寺日記)

 平清盛の出自は『平家物語』によれば、平忠盛の嫡男ですが、母は祇園女御(一説には女御の妹)とされています。『平家物語』は読み物であるため脚色されている可能性があるので推測の域を出ませんが、祇園女御が白河上皇の寵愛を受けて産んだ子が清盛だと言われています。祇園女御は後に平忠盛に下賜され、忠盛は女御の子であった清盛を、上皇の皇子と承知の上で嫡男としたようです。これで伊勢平氏を自認する忠盛も立派な王統である確信を得るに至ったと思われます。

平清盛は平治の乱の後、後白河上皇の院政に、二条帝・六条帝と続き、藤原基実が形だけの摂政となり、清盛は大納言になります。基実が急死すると弟藤原基房が摂政となります。平滋子の産んだ後白河上皇の皇子・憲仁親王(後の高倉帝)が立太子になると、清盛は春宮大夫となり、内大臣から太政大臣となります。やがて六条帝から高倉帝に譲位すると後白河上皇と清盛も共に出家します。平家は主要な官位を独占するようになり、多くの荘園を管理し、福原に都を造営して、大和田の泊りを開き、宋との交易を盛んにし、栄華を極めるようになります。しかし建春門院滋子が亡くなると、清盛と後白河法皇院政派との対立が激しくなります。

 
鹿ケ谷の変 
『高代寺日記』によれば、治承元年(1177)五月廿九日、多田蔵人行綱公(三十七歳)は西八条の平清盛邸を訪れて、鹿ケ谷山荘において、藤原成親・僧西光(藤原師光)・法勝寺執行俊寛僧都・平判官康頼・藤原成経・近江中将入道蓮浄俗名源成正・山城守中原基兼・式部大輔雅綱・惟宗判官信房・新平判官資行らが平家打倒の陰謀を企てていると清盛に密告したとされています。行綱公は八条院蔵人・院の北面武士に任じられており、その武力を成親卿に請われて密会に加わったとされています。その結果、成親卿は備前国に配流、西光は斬首、俊寛・平康頼・藤原成経らは鬼界ヶ島に配流されました。世に言う「鹿ケ谷の変」です。西光は保元の乱で失脚した少納言信西の乳母子で藤原家成の養子となり藤原師光と名乗り、出家して左衛門入道西光と名乗っていました。

鹿ヶ谷の密会後、行綱公が清盛に密告する前に、後白河帝と山門との間に争いごとが起こりました。入道西光の子で加賀守藤原師高と云う者がありました。その弟で藤原師経が目代を勤めていましたが、加賀国鵜川にある叡山の末寺との間で合戦をして寺を焼き払ったと言うのです。『高代寺日記』に次のように記しています。

安元二年(1176)四月、賀刕鵜河ノ僧国司ト間アリ、云々、七月、加賀国司藤原師高山徒ト云分アリ、師高カ弟ヲ師経ト云、目代トシ在国シ、山門末寺鵜河ノ僧ト相論シ、坊舎ヲ焼合戦セリ、」(高代寺日記)

「治承元年四月十三日、山門衆徒依白山之訴、加賀守師高並父西光法師、本左衛門尉師光雖訴申此両人、無裁訴之間、奉具神輿、参陣、依官軍禦神輿、後日、射神輿下手人禁獄、日吉祭延引、四月廿八日、夜、自朱雀門北至于大極殿、小安殿、八省院及神祇官焼失、火起樋口冨小路、京中三分之一灰燼、世人稱日吉神火、五月四日以後、座主明雲付使廳使被譴責、大衆張本之間、衆徒弥忿、五日、明雲座主解所職等、配流伊豆國之間、衆徒五千余人下會粟津□、奪取座主登山、已朝威如無、六月一日、六波羅相國禅門召取中御門、大納言成親卿已下祇候院中人々、召問世間風聞之説、其中西光法師、依有承伏之子細、忽被斬首畢、成親卿已下、或處遠流、或解官停任、叓起院中人々相議可誅平家之由、結搆之故、云々」(帝王編年記巻廿二)

末寺は叡山に訴えて、叡山山門は院に師経と師高兄弟の処分を求めて強訴しました。院は師経を備後国に配流しますが、山門はそれでも不承知で、さらに国司師高を尾張国に配流することになりました。ところがあろうことか洛中から火の手が上がり大極殿や関白基房邸ら多数の家屋敷が焼亡すると云う事態になったのです。院はお怒りになり天台座主明雲を解任し伊豆国に配流することになりました。源頼政公に命じて明雲を伊豆に連行する途中、近江国粟津で僧兵等が明雲を取り戻します。その直後のこと、くだんの行綱公の密告があり事態が急変したと言うことです。この結果、首謀者たちは流罪になり、藤原師光コト西光だけが斬首されます。『尊卑分脉』によれば多田行綱公自身も安芸国に配流されたとありますが、源満仲公の「安和の変」に倣って、行綱公は清盛に近づいたとも考えられます。

『平家物語』鹿ケ谷より

『新大納言成親卿は山門の騒動があって、平家を討とう言う宿意をしばらく抑えられておられました。追討の相談や準備はさまざまに為されておりましたが、口先ばかりで、此の謀反叶うようにも見えず、あれほど頼りにされていた多田蔵人行綱公は此事無益なりと思うに至り、家子郎等にも出陣準備をさせておりましたが、あれこれ思案いたしておりました。つらつら考えるに、平家の繁盛の有様を見れば、すぐにも倒す事は難しい。もしもこの謀反の企てが他人の口から漏れたならば、自分の命が危険に曝される。他人の口から漏れる先に、返り忠して命を助かろうとぞ思いつきにけり。同五月二十九日の小夜ふけがたに、多田蔵人行綱公は入道相国の西八条の亭に参って「行綱、入道相国公に申したき事あって参って候」と言いうと、入道「常に参らぬ者が参りたるは何事ぞ、聞いて参れ」とて、主馬判官盛国が応対すると、「人伝には申し上げられません」と言うので、さらばとて、入道みづから中門の廊へ出られ、「夜もとうに暮れていると云うに、いったい何事ぞや」と言うと、「昼は人目に付きますれば、夜にまぎれて参上いたしました。此の程、院中の人々が兵員をととのえ、軍兵を召されておられるのはどのような目的のためとお聞きでしょうか。「それは叡山を攻めるためと聞いておる」と事もなげに申された。行綱は近く寄って小声で申しけるは「その儀では候はず、一切すべて平家御一門にかかわることと聞いております。」「そのことは法皇もご存知であらせられるのか」。「無論のこと、成親卿が軍兵を集めておられるのは院宣であるからでございます」。俊寛がこうして、康頼がこう言い、西光がこう申し、などと誇張して言い散らし、「おいとま申します」とて出でにけり。入道は多いに驚いて、大声で侍共を呼び、その声は邸内に響きわたり大騒ぎになりました。行綱はなまじ告げ口をして、証人として引きずり出されるのではと思うと恐ろしくなって、広い野原に火をつけたような心地がして、追いかけられてもいないのに、袴をたくし上げて、急いで門の外へ逃げるように出たのでございます。・・・』(平家物語)

 
『高代寺日記・上』に見える「鹿ケ谷の変」の描写はやや異なります。

「治承元年(1177)丁酉、正月、内府師長左大将ヲ辞ス、亜平重盛左大将ニ迁リ、中納平宗盛右将ニ任ス、門中参賀、二月比、徳大亜実定、花山院中納兼雅共ニ清華故ニ大将ヲ望メリ、院別当亜相成親モ権威ヲ頼ミ望ムト云共、平ノ清盛カ計ニテ兄弟左右ニ並ヘリ、珍事ナリ、重盛ハ院別成親カ妹壻、又惟盛ハ成親カ壻ナケハ、重縁ナレ共、平氏奢ヲ悪ミ西光ラト常ニ計リ、底意凶依テ、東山鹿カ谷ト云ニ会合、法皇モ御幸コレヲ聞召ト云々、三月、師長内ヨリ直ニ大政ニ任、又重盛内ニ任シ叙留ス、摂家又清華ノ外大将ヲ兼帯スルコト人皆ヲトロク、左大臣経宗ヲ尊者トシ大饗行ル、コレハ経宗以公卿ヲマ子キモテナシ公卿立サマニ庭上ニテ昇進ノ人ヲ拝ス、又昇人モ共ニ客ヲ拝ス、馳走タツ拝ト云ハ此ヨリヲコルト云、此時清盛カ弟頼盛中納言タリ、教盛参木タリ、経盛且知盛従三位タリ、二十四月、山徒師高・師経カ罪度々訴ト云共、法皇裁マシマサヌ故、同十三日、日吉ノ神輿ヲ振上リ、内裏ヘ入ントス、重盛等并頼政ニ命シ、御門ヲ警固ス、重盛ノ堅タル門ニテ神輿ニモ矢中リ、衆徒モ傷テ輿ヲ捨テ帰山ス、コレ平家滅亡ノモトヒナリ、其後平亜時忠勅使トシテ登山徒ヲ宥メ、師高流罪セラレ、師経禁獄セラル、検非使且院ノ判官奉行、信家其中ノ列ナリ、同二十八日、洛中大火事風烈、大内悉炎上、同十二日、白山現宮兵火、師高カ所為タリ、五月、法皇山門ヲ悪ミ思召、座主明雲ヲ伊豆ヘ流サントセラル、西光カ讒ト沙汰アル故ニ、山徒ヲコツテ路ニテ明雲ヲ奪登山ス、法皇怒テ成親ラニ命シ山門ラ攻ント議セラル、此節蔵人行綱ト成親密談ス、行綱ヲモヘラク、今年氏剛権ノ最中ナリ、ナマシ井ニ陰謀シアヤマリテハ末代ノ厚難ナリ、先祖ノ遺命ヲ背キ武官ノ権ヲ奪ンコトイカゝナリ、其上時節イマタナレハ、本意ヲ遂ルコト叶フマシ、此儀外ヨリモレ平氏シルニヲイテハ永ク源家ノ滅亡ナリ、智アサマシキ平氏ナレハ忠言ニコトヨセ、通達シ宥置、重テ兵衛佐義兵ノ助トセント案定シ、同廿九日、六波羅ニ赴コレヲ告ル、清盛一度怒、一度ハ忠言ト悦フ、六月朔日、成親・西光法師并同類悉捕フ、西光父子斬罪、成親ハ備前児島ニ流ス、且怒ノ余、法住寺殿ヲモ攻ント云共、重盛天恩ヲヒキ諌ム、依テ屡止ム、成親カ子成経丹波少将ト号ス、康頼平判官・俊寛僧都三人鬼界島ニ流ス、同類モ悉流罪セラル、同月、重盛左将ヲ辞ス、今比明雲罪故ニ赦シタマフ、八月十九日、成親ヲ島ニ殺、去ル四日辛未、改元、治承、云々」(高代寺日記)

 この時、「清盛は一度は怒り、一度は忠言と悦んだ」とあります。『尊卑分脉』では多田蔵人行綱公は安芸国に配流とありますが、安芸国は平家の任国でもあり、俊寛・康頼・成経らの配流先の喜界ヶ島のような辺境ではなく、処罰としては比較的寛大な処置であったと考えられます。


 ここで讃岐の「多田氏系図」に書かれている異説を紹介します。

「治承元年丁酉五月廿九日注進ス平家追討ノ企於清盛江、清盛怒恨同六月朔日断罪西光・師高・師経ヲ、成親ヲ備前国江流、成経・康頼・俊寛ヲ鬼界嶋江流、其後成経ヲ於備前国ニ被誅セ、治承元年六月八日多田行綱従清盛殿於讃岐国ニ賜知行六万石、同六月十五日讃岐屋嶋ノ城ニ移ル、云々」

多田行綱公は鹿ケ谷変の密告の恩賞として讃岐国屋島に六万石の領地を賜ったとあります。


  
やがて以仁王の令旨は源行家(義朝の末弟)によって諸国の源氏にもたらされ、関東では源頼朝が、甲斐では武田氏・安田氏ら甲斐源氏が、信濃では木曾義仲が挙兵します。治承四年(1180)十月、平維盛軍は富士川を挟んで、頼朝軍・甲斐源氏と対峙しますが、平氏軍は戦いもせずに逃げ帰ります。さらに平氏は南都に平重衡を派遣し南都を攻め焼き払います。この時大仏殿も焼けて大佛の上半身は溶けてしまいます。

治承五年(1181)閏二月、清盛は大佛の天罰のためか熱病で倒れ薨じます。高倉上皇・長男重盛・次男基盛も既に死去し、三男・宗盛が後を継ぎます。

寿永二年(1183)五月・平家は砺波郡倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に大敗し、都に逃げ帰ります。この頃、多田蔵人行綱公(42)等は( 配流先の安芸国から戻っていたのでしょうか )平氏に謀叛して摂津・河内国で悪行を働き、摂津河尻辺りで平氏の西国からの物資を奪い取るなどし、住民たちもそれに加担したと『玉葉』と『吉記』は言っています。

『玉葉』寿永二年(1183)七月廿二日
「又聞、多田蔵人大夫行綱、來属平家、近日有同意源氏之風聞、而自今朝忽謀叛、横行摂津河内両国、張行種々悪行、河尻船等併點取云々、両国之衆民皆悉與力云々、・・」

『吉記』寿永二年(1183)七月
「・・向河尻方、是称多田下知、太田太郎頼助、或押取鎮西糧米、或打破乗船等、或焼払河尻人家云々・・」

『愚管抄』『玉葉』『吉記』によれば、寿永二年七月二十五日未明、後白河院は法住寺殿を脱出して叡山に登られます。平宗盛は神鏡・剣璽を持って安徳帝と建礼門院ら一族を連れて都を落ちます。二十七日に後白河法皇は京に戻り平氏追討の宣旨を発します。



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