北摂多田の歴史 

  多田庄の歴史散歩  その2
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もくじ
中村庄と中村城    九頭社    松雲寺
    
川西市笹部の平野神社


中村庄(米谷庄)と中村城(米谷保)

源信家 貞信ノ一子、去ル保延四年戊年、五月五日ニ生、右馬助ト号ス、母福島但馬守源綱光娘綱子、或但馬守源仲頼娘ト云、実仲頼ノ娘ナリ、綱光養子トシ、貞信ニ娶、信家今年二十一才、午ノ年ニテ午ノ月ニアタリ且五日ニ生ル故、午王丸ト名付、元服ノ時右馬允ニ任セラレ、近衛院滝口ニ召レ、程ナク右馬助ニ任セラレ、去保元元年丙子七月十一日、合戦ニ為義カ末子ノ九郎為重且郎従二人討取、其勧賞ニ摂州中村庄ヲ賜リ、右馬太夫ニナサルゝ、(中略) 頼重剃髪円慶ト号、信家所領ノ内米谷ノ村ニ庵室ヲシツラヒ閑居ス、円慶久シク居住ノ所故ニ円慶寺ト改、高代寺ノ別院トス、真言タリ、(高代寺日記上)

平治元年(一一五九年)己卯、正月、頼重多田院且庄内順見シ、信家領内米谷保ニ一庵ヲ立閑居センコトヲ兼思フ、二月、頼重室逝去、治春ト号、米谷村ニ葬ル、三月、實忠元服、十九才、元八世、血脉七代タリ、四月廿日甲辰、改元、同月、米谷保ニ寺ヲシツラウ、五月、頼重米谷ニ閑居、六月、奉光男生後ニ奉永ト号、七月二十四日、頼重八十ノ賀、仏事ニヨセ行ル、(高代寺日記上)

多田満仲ー頼光ー頼国ー頼仲ー頼重ー貞信ー信家

中村城

宝塚米谷ノ庄は 旧山本村、旧中村(中筋村)、旧米谷村が含まれて、中村城は中村にあった。
城代は山田重村の子塩川豊前守家人中村重正とある。

 
 【中村氏略系図】
 中村重正―――――――――――――― 中村孫市―――――――――――――― 中村傳右衛門尉
 塩川豊前守家人、多田ニ住ス、同國中村之城代也    天正14年塩川氏衰微由是以被運想軒介抱
 
                           ー 中西新左衛門尉  池田氏家人         ー 中村伍助 荒木乱之時度々軍忠有
                           ー 中西権兵衛尉長重 信長ニ仕ル         ー 中村又助
                           ー 多胡又兵衛尉 
                           ー 中村又三郎 荒木乱之時軍忠有
 



  

妙玄寺 宝塚市中筋3-1-6   妙玄寺は円慶寺であり、その場所は中村城址ではないかと考えている。

妙玄寺は慶長七年(1602)に法華宗に改宗された。→ 宝塚の民話

明応七年(一四九八年)戊午、正月、諸式過、紫合亭ニ椀飯興行、二月、昌慶南都ニ遊フ、西大()ノ龍池院ニ留ス、極楽院行智・花蔵院ノ春鯢等ト慶々参會シタマフ、三月、初摂西成大雹、四月、種満例賀家人祝之、五月、昌慶多()院ニ牡丹花見、南ノ花蔵院來テ會ス、六月、諸國大震、大織冠ノ像破裂ス、自頭至足、大震ハ十一日ナリ、同月、吉川長仲大痢、中原昌恱薬與テ復、八月廿一日、四条亜隆量卒ス(出家ス)、十五日、昌慶室落髪セラル、九月十二日、与五郎長仲ト千谷畠寄セ奉ル、十月一亥日、祝事謂有テ中村ノ城ニテ行ル、一族悉赴之、(高代寺日記下)

文亀二年(一五〇二年)壬戌、正月十一日、平野ノ射庭ニ弓始馬揃ヘ、種満其家十八人ニ加増、各一丁余米高凡二百七十石余タリ、三月、種満室家多田院ニ花見僕妻多従()、六月、公方名ノ字ノ追テ可改ノ沙汰アリ、七月十二日、義高従四叙シ、参議任ス、左中将兼、参内アリ、七月晦日、宗祇相刕筥根湯本ニテ逝ス、八十二歳、秀仲・秀満・今、種満迄三代哥道師、コトニ(飯尾)元運ノ近族故、當家別而好ヲ通ス、故ニ忌日ニ追哥ヲ被修ト云リ、八月二十一日、院領山原村ノ内ヲ一庫ヘ妨ントス、両政所ニテ糺明、一庫村ノ非分トナル、依云()両組頭福竹次郎助伸則・三屋七郎康貞カ證状アリ、山原百姓中ヘノ宛名也、去ル七月二十一日、公方名義澄ト改ム、近國諸士上賀ス、九月十三日、紫合亭ニ月見、両泉()悉参會アリ、十月亥日、祝事、中村ノ城ニテ行玉フ、両家悉集ル、(高代寺日記下)

天文二年(一五三三年)癸巳、正月、種満紫合ニ的矢ヲ興行セラル、二月近植家関停ラレ九条内稙通関白トナル、三月四日、妙雲尼頓死、六十八才、妙慶ノ同日故人皆感申ス、四月五日、光遍寺跡職沢亘方ヘ扶持セラル、正頼状アリ、五月、弾忠國満長女虎子ヲ源兵宗英養フ、コレ宗頼カ室トナル、辰千代カ母ナリ、沢亘新九郎仲家ヲ後見トセラルゝ、六月、虎子乳母頓死、光遍寺弔一向宗タリ、東多田ニ有、八月、徳大実敦八十九才、廿四日共云、同二十二日、万里(小路)季時去、九月十日、國満室平野社ニ参ラルゝ、或曰多田院ニモ参詣セラルゝ、同月十八日、尾崎坊頓死八十歳、十月八日、暁ニ星半天ニ遇流道シ海陸ニ落ル、同月亥祝中村城ニテ行ル、吉河党者不参タリ、(高代寺日記下)

永禄元年(一五五八年)戊午、正月十一日、平野射庭ニテ弓始且乗リ初、家人百余輩、事ヲワリテ椀飯ノ祝行ル、庚申日也、二月、木下始テ農刕入、三月三日ノ夜於高代寺月拝ム、四月、主代六百年忌、五月十五日、梅雨會、夜晴月見、六月、彗星出大旱、同月、三好松永カ乱ニヨリ公方晴元朽木ヘ落ル、或閏ト云、七月、晴元催促、當家同心セス、九月、公臣坂本ヨリ発、勝軍山ニ旗ヲ立、松永ト白川ニ戦フ、十月十七日庚申日、吉日故ニ晴國伯国相儀シ米谷中村城ヲ切取、城代若月退散ス、此日玉泉庵ヲ生捕、六瀬中能働ク、晴國感状アリ、(高代寺日記下)


九頭社
 多田満仲公は古代から多田郷に住み着いていた大神氏(おおみわし)を滅ぼして、多田庄を開いた。そして、大神氏の氏神であった「多太神社」を廃して京師から「平野大明神」を遷座した。ところが、満仲公の長男である満正公が突然早世した。満仲公は滅ぼした大神氏の祟りではないかと恐れて、多田庄の其処かしこに大神氏の鎮魂のために「九頭社」を建立したものと考えられる。大神氏は大田田根子命(大国主命の末裔)を祀り、大蛇(オロチ)に例えられる。一方長年、大神氏は能勢三草山の、「岐尼神社」を氏神とする龍女(みぬめのかみ)と対立しており、満仲公は大蛇を滅ぼして、この龍女から龍馬を授かったと言う話が『前太平記』に載っている。

①東多田の九頭大明神 『満仲五代記』はこの時に大蛇が暴れて池の水が流れ去り平地が出来たと言っています。この九頭の大蛇は鎮魂の為に神格化され「九頭大明神」として東多田村に祀られたと『摂陽群談』に記述されています。
「九頭社 川辺郡東多田村にあり、昔此処に化障あって、多人を悩し、民家戸を閉、往来も絶ばかり也、源満仲公白羽の矢を以って射之、其時山鳴動て地に落ちたり、祖形容龍の如にして頭九あり、則其地を穿埋て叢祠を置祀祭之。村民九頭大権現と称す。矢筈矢根の神石つね今猶側にあり。」(摂陽群談)

江戸時代元禄期に出版された『満仲五代記』の九頭の大蛇退治伝説の行を要約すると、
満仲公が・・いささか宿願の事があって・・摂津国一ノ宮である住吉大社に詣でられ、七日間の参詣の後更け行く春の夜の月に向って、心を澄まして法華経を読み上げ続けられました。すると真夜中になって、御神殿の御扉が開き、衣冠を正した翁が現れたのでございます。翁は満仲公に、朝廷御守護のために、京の近くに新たに居を定めたいとの願い聞き届けよう。此の矢を授けるので虚空に向って射よ。その矢が落ちるところを尋ねて行き、その処を住居と定めよ。その地は仏法・王法に縁深いところである。と述べると、又、神殿の中に入り給うたのでございます。満仲公は明け方になって、頃合良しと、弓を射られ、その矢の到達せる地を尋ねて行かれました。途中、天王寺でお参りを済ませ、玉江の里から猪名の笹原を分け入り、険しい岩を踏み越えてとある山の頂に立つ事ができました。其処から見る景色は壮観でした。あたりを見渡すと、松の木の下に粗末な庵があり、訪ねてみると、白髪の老僧が現れました。満仲公は「この辺に矢が飛んでこなかったか」とお尋ねになると、「暁に空から光るものが飛んでまいりまして、河水を湛えた池に住む大蛇が暴れて、山を突き破り、池の水が流れ去り平地となりました。」と老僧は答えます。満仲公は麓に降りてご覧になると、先ほどの老人が言ったとおり、九頭の大蛇が矢を受けて死んでおりました。大蛇の首を捕り、九頭明神としてお祀りしました。矢の行方を問うた処を「矢問」と名付けました・・」(現代語訳多田五代記)




②東谷山ノ原の戸隠神社 
 本宮・渡津神(五十猛命) かつては「九頭社」と呼ばれていたと云う。

中谷の九頭社
③猪名川町北田原字上山の高皇産神社の摂社九頭社
 九頭社(渡津社) 御祭神 五十猛神

④猪名川町肝川の九頭社
大永四年(1524)見野三郎二郎衛門・槻並源三郎・大井孫七によって造営され、安永七年(1778)南方山の中腹から現在の場所に移された。
 古宮ノ下という地名も残っている。
現在は戸隠神社として祀られているが、江戸期までは神社の向かいの山の中腹に九頭社として祀られていたと云う。

能勢の九頭社
  
⑤旧能勢郡には山田村
(能勢町西郷村大字宿野字九頭森)の「九頭権現社」『摂津名所図会』に、「九頭祠 山田村にあり。祭神満仲公退治給ふ九頭大蛇の霊なり。岐尼の末社とす。」とある。

⑥枳根庄
(能勢町大西字奥畑)にも九頭社があります。

⑦能勢町地黄の九頭龍神社 
『東郷村誌』に、「九頭明神 地黄字中町の祭神、神社仏閣の由来記には、大治五年十一月二十一日に創祀、御神体は源満仲公が射殺した九頭大蛇の霊で、頼國氏能勢来住の時持ち来り、夢の告げで祭った」とされている。

⑧余野の九頭社
 
余野村の「九頭神社」については、『摂津名所図会』に、「九頭森余野村にあり、神祠破壊して今神籬のみなり」とあります。東能勢村誌』には、「九頭の森 同地字九頭の宮に遺跡存す。昔此所に九頭神社あり、後世頽廃して神蘺のみ残り九頭の森と称せしが、今は神蘺も伐払はけ只一小祠を存するのみなり、「九頭神社祭神枳根の摂社に同じ」と摂陽落穂集に見ゆ。」とあります。

⑨九頭死  多田院移瀬の「寿久井地蔵尊」付近
の字名


美奴賣猪名部首
『摂津国風土記云 美奴賣松原 今稱美奴賣者 神名 其神本居能勢郡美奴賣山 昔 息長帯比賣天皇 幸于筑紫國時 集諸神祇於川邊郡内神前松原以求禮福 于時 比神亦同來集 曰吾亦護佑 仍諭之曰 吾所住之山有須義乃木 宜伐採 為吾造船 則乗此船而 可行幸 當有幸福天皇 乃隋神教 遣命作船 此神船 遂征新羅 一云 于時 此船大鳴響 如牛吼自然従對馬海 還到此處 不得乗法 仍ト占之 曰神霊所欲 乃留置 還來之時 祠祭此神於斯浦 併留船 以獻神 亦名此地 曰美奴賣』

『摂津国の風土記に曰く、 美奴賣の松原。今、美奴賣と稱ふは、神の名なり。其の神、本は能勢郡に居りき。昔、神功皇后が筑紫國に行かれた時に、諸神祇が川辺郡内の神前の松原に集って、福を求禮した。其の時に此の神も亦集い来りて、吾も亦護り助けむと云う、すなわち諭して曰く、吾が住める所の山に杉の木有り、よろしく吾が為に伐採して船を造るべし、則ち此の舟に乗りて御幸あそばされるとまさに幸福あり。皇后が神の教えに随いて船造りを命じられた。此の神の船で新羅征伐を遂げられた。一人の人言う、時に、此の船大きく鳴り響いて、牛が吼えるが如くいとも簡単に、自ずから對馬の海より此の処に還りつきて、すなわち之を占えば、神霊の欲する所に船を留め置く、還り来りし時、この浦に此の神を祠祭し、併せて舟も留め以って神に奉った。此の地を亦の名を美奴賣と言う。』

神功皇后が新羅征伐に御幸されるときに、諸々の神達が、現在の尼崎市神埼(神前)の松原に集った。其の時、能勢郡に居た美奴賣と云う神もまた集りに加わり、能勢郡の杉の木で船造りを勧めた。皇后は美奴賣神の云うとおり船造りを命じられた。此の神の船で新羅征伐を成し遂げられた。一人の人言うには、其の船は大きく牛が吼えるが如く、いとも操船が簡単で、新羅征伐を為し遂げると、またもや自ずと進み還り着いた。そこで、美奴賣神に感謝を捧げて、帰り着いた浦に祠を造り美奴賣神を祀り、その船も奉納したので此の地を美奴賣と呼んだと云う。因みに此の神社は神戸市灘区岩屋中町にある式内社「敏馬神社」であると言う。

『摂津名所図会』に「三草山は旧名敏馬山といふ。敏馬神初て此山に天降り給ふ。後世江莵原郡敏馬浦に遷す」とある。

一方、為奈部首は、『新撰姓氏録・摂津国諸蛮』の項に「為奈部首。百済国の人、中津波手自り出づ。」とあります。此の為奈部首は木工技術者集団で、『日本書紀』応神天皇三十一年八月に「即引之及于聚船、而多船見焚、由是、責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也」とあり「昔、船溜まりに停泊していた多くの船が燃えてしまい、新羅人がその責めを負わされた。新羅王は之を聞いて驚愕し、能匠者を貢いだ。彼等が猪名部の始祖となった・・」とある。美奴賣神は敏馬神とも書き、「本は能勢郡に居りき」とある。『能勢の昔と今』によれば、

「三草山の古名は美奴賣山と云い・・、能勢郡南西部にそびえ立つ五六四㍍の山で、美奴賣神は、ここ三草山に住んでいた・・。三草山西麓を越えるサイノカミ峠から南を望むと、右手六甲山から・・武庫・敏馬浦を航行する船の姿まで見られる」(能勢の昔と今)
その後、三草山と呼ばれるようになったのは、
「三草山には剣尾山と同じく日羅上人が開創した清山寺があって、・・天空から白髪の老翁が三草を持って現れ、これを上人に授け給うた。上人はこの三草を拝すると千手観音と不動明王と毘沙門天に変化したことから、山号を三草山とした」(能勢の昔と今)

式内社・能勢の「岐尼神社」
 杵宮とも言われ、現在の祀神は瓊々杵尊・天児屋根命・源満仲とされているが、古くは「枳根命」一座であると考えられ、一説には、この枳根命は龍神・美奴賣神を祀る龍女であったと言われている。この龍女が昔から神人氏と対立して、多田満仲公の夢に現れ神人氏すなわち能勢の九頭の大蛇を退治して「龍馬」を与えらる話が『前太平記』に見えます。そして後になって満仲公も「岐尼神社」に祀られました。

源満仲公の龍馬伝説ともう一つの九頭の大蛇退治伝説
『満仲五代記』によれば、「満仲公が能勢付近へ狩りに出かけられた時の事、夢の中に美しい龍女が現れ、龍女は河下に住む大蛇と何年間も争っているが、とうとうその大蛇に住む所を奪われた、見ると貴方には龍宮天宮の相が備わっているので、その大蛇を退治して欲しいと云います。そしてその龍女は天駆ける馬を一頭引いて来て満仲公に与えた。満仲公が夢から覚めると不思議なことにそこに一頭の馬がいました。満仲公は住吉大神の御加護により大蛇を退治したあと、その狩場に行ってみると滝があり、龍ヶ滝と名付けられました。」(現代語訳多田五代記)

江戸時代に著された『前太平記』に「九頭明神事」と題して『満仲五代記』とよく似た話があります。
満仲公の御夢に竜女が現れ、
(ここでは摂津国兎原郡の淵に住む者としています) 我に多年の敵あり。彼の淵に住んで我を悩ます。我甚だ之を苦しむ。我が敵を討って此の苦しみを助けて賜ひ候へ。但し斯く申したりとも、一定誠とも思し食すまじければ、其験には竜馬一匹引き進らすべし。必ず明日摂州能勢山より、不思議の名馬出で来るべし。其こそ我が君の為に授与し奉る所の竜馬なり、と申すと見給ひて夢は覚めぬ。翌日の暮れに摂州能勢山より、竜馬なりとて、明二歳の駒進奏す。村上帝は、当時満仲公は左馬頭にてをはしければ、則ち満仲にぞ預け下されける。さてこそ満仲も、如何にもして彼の大蛇を滅ぼし、竜女が望みを遂げ、此の恩に報はんと心に念じをはしける故、今度(住吉大神に)七日の参籠にも、一つには住所、二つには此儀を祈り申させ給ひけるに、神慮忽ち納受あり、然も彼竜馬に駕して二つの所望一時に満足しぬ。さても彼大蛇の形を見るに、其長五十丈に余り、九の頭を連ね、十八ま眼は、鏡を並べて天に掛けたるが如く、十八の角は、冬枯れの梢枝を争ひ、周身の鱗は荷葉を並べ、紅の舌は炎を吐く。斯かる強盛不敵の者、唯一矢にて滅ぼされぬる、武威の程こそ有り難けれ。即ち彼大蛇の首を斬って、一つの叢祠を建て、九頭明神と祝ひつつ怨霊を宥め給ひける。」(前太平記)

鼓ヶ滝の九頭の大蛇退治伝説と似た話ですが、この大蛇は満仲公に退治されて能勢郡山田村の九頭明神と枳根庄大字今西の九頭社に祀られたようです。
前述したように、佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』によると
「神人氏の一族には、神人為奈麻呂がいる。為奈麻呂は『続日本紀』延暦四年(七八五年)正月癸亥の条に「摂津国能勢郡大領外正六位上神人為奈麻呂。」とみえるように、摂津国能勢郡の大領であったと述べています。『能勢町史』には「久佐々の地は、大宝元年(七〇一年)に、まず河辺郡郡衙の官舎が設けられ、十余年後の和銅六年(七一三年)には能勢郡々司の設置をみた由緒ある地である。そしてその際、郡司となったのが河辺郡の大神郷の神人氏と推測される。」とあります。

 神人の末裔であった人々を、多田満仲公が征して多田庄を開いたことが大蛇退治伝説として言い伝えられたと考えられます。九頭大蛇を九頭龍と呼ばれていますが、満仲公は龍に頼まれて大蛇を退治したのですから、「九頭の大蛇退治伝説」と言うべきです。
 このお話に出てくる美しい龍女は、三草山の美奴賣神を奉斎していたとされる能勢郡枳禰庄(枳根荘)の式内社「岐尼神社」に祀られている巫女「枳根命」であると言われています。美奴賣神は現在津国兎原郡(神戸市灘区岩屋)の「敏馬神社」に祀られている。

大神郷と多太神社
新撰姓氏録」は弘仁六年(八一五年)嵯峨天皇により編纂された古代氏族名鑑です。その『新撰姓氏録・摂津国神別』の条に、「神人。大国主命の五世孫、大田田根子命の後なり。」とあります。川西市多田はその昔大神郷(オオムチゴウ)と呼ばれていました。佐伯有清氏は「神人は舎人や宍人に似て、かつて在地にあって国造に準ずる有力者であり、その子弟が番を作って朝廷に上り、神祇関係の業務に服した」と述べている。

 東多田上ヶ芝・松ヶ芝古墳群は大神氏の一族と何等かの関係があるのでしょうか。平野地区には延喜式内社「多太神社」があり、現在は「たぶとじんしゃ」と呼んでいますが、本来は「ただじんじゃ」と呼ぶべきで、明治以降「多田院」が「多田神社」となった為に、あえて「たぶとじんじゃ」と読んで区別しているようです。この「多太社」は古く平安時代に編纂された延喜式神名帳(九二七年)に載っている「式内社」で、大神氏の氏神であったと考えられます。現在の多太神社の祭神は「日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)大鷦鷯(第十六代仁徳天皇)・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞鳴尊・大田田根子命」ですが、古くは「大田田根子命」が主祀神一座と考えられ、「多太」の名前の由来になったと考えられます。『日本書記』では「大田田根子」、『古事記』では「意富多多泥古」と記されます。
 伊弉諾尊・伊弉冉尊―素盞鳴尊―事代主―大国主命―大物主命―大田田根子命は系図として繋がります。伊弉諾尊・伊弉冉尊が「筑紫ノ日向ノ橘ノ小戸ノ阿波岐原」で禊祓を行い産まれたのが天照大皇神・月讀三貴子命・素盞鳴尊で、素盞鳴尊の子が大国主命で、また其の子孫が大物主命で、大物主命の五世の孫が大田田根子命とされ、神人の三輪氏・大神氏・加茂氏の祖です。
『日本書紀』によると、
「三世紀、崇神天皇の七年に疫病と災害で国が治まらなかった。天皇は「天照大神」と「倭大国魂」の神々をお祀りしてもうまくゆかず、神浅茅原に行幸され、八十万の神たちを集められて占いをされた。このときに、神明倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り「天皇よ、どうして国が治まらないのを心配するのか。もしよく私を敬い祀れば、かならず平穏になる」と言う。天皇は神の教えどおりに大物主神を祀ったが、いっこうに効きめがなかった。再び大物主神に祈ると、夢のお告げで「私の子の大田田根子に、自分を祀らせれば、たちどころに平穏になるであろう」と言う。
そこで天皇はひろく天下に布告して大田田根子を捜させたところ、茅渟県の陶邑で大田田根子を見つけ出されて、大物主神を祀る神主とされ、奈良の三輪山に祀られた。大物主命は八岐大蛇を退治して草薙剣を得た出雲系の神である素盞鳴尊の子孫です。

神人為奈麻呂と能勢町

能勢郡にも神人(みわびと)(みわの)(あたえ)が住んでおり、『続日本紀』に「延暦元年(七八五年)正月癸亥廿七。摂津國能勢郡大領外正六位上神人為奈麻呂」とあります。『続日本紀』によれば和銅六年(七一三年)に能勢郡が独立します。久佐々神社を氏神とする土師氏の一族が住んでおり、神人氏の為奈麻呂が支配していたと考えられます。



松雲寺  臨済宗天龍寺派  池田市中川原町
「松雲寺由緒」によると、文保の頃、夢窓国師は多田院に参詣された時、多田院御家人一樋新太郎家に宿泊され、翌年、 土佐に配流される時にも一樋家に一泊されました。元弘三年(1333年) 後醍醐天皇の菩提を弔うために建立された天龍寺の開山として迎えられ、建武二年(1335年) 一樋新太郎は天龍寺に赴き、国師から観音菩薩像を与えられ、自宅の山麓に観音堂を建て、尊像を安置したのが松雲寺の始まりと言われています。

 一樋家は多田四家の一つ山問氏の支流で、山問氏は多田満仲公の七男丹波守源頼明公の末裔にあたります。澤渡氏も山問氏の支流で塩川氏に仕えます。山問民部丞頼里は細川高国方となり、高国滅亡と同時に多田庄を去り河内出口村に住み、出口氏を名乗ります。頼里の弟・左近衛門頼勝は塩川氏に仕え、その子・左近将監源六辰之助は塩川長満滅亡時に共に滅びます。

 
観音像 と 夢窓国師の尊像



川西市笹部の「平野神社」の由緒書  川西市笹部上竹谷
 

 
 平野神社  伝へいう、保元二年(1157年) 源満国公 平野明神を勧請???まつりて後 天正元年(1573年) 満国公の末孫塩川伯耆守 伊丹城主荒木村重の為めに敗れし時 神社も亦荒廃に帰す 後村民これを再建するという 明治六年八月村社に列せらる

 源満国は通常、源満快の長子である能勢町宿野城主とされる多田満国であろうと考えるが、保元二年とすると年代が合わない。『高代寺日記 上巻』には次のようにあり、満国は萬壽三年(1026年) に没している。

経基王ー満快ー満国

「萬壽三年(1026)七月、満国法師快雲卒ス、六十七才、円楽寺ニ葬ル

「・・満国公の末孫塩川伯耆守・・」とあるところから、この源満国は塩川氏であるとすると、塩川満国であると考えられる。塩川三郎満国は清和源氏大内惟義の子で、母は塩川満親の娘である。塩川三郎満国と満資父子は承久の乱(承久三年)では上皇方として戦い失脚している。・・とすると、案内板では「保元二年」とあるのは「承久二年」の間違いである。

塩川惟親ー満国ー満資ー満貞ー満長ー満永ー満信ー満宗ー満重ー満一ー一宗ー為宗ー為満ー一家ー伯耆守吉太夫国満

次に、「天正元年、塩川伯耆守、伊丹城主荒木村重に敗れし時、神社も亦荒廃する」とある。

天正元年の出来事を『高代寺日記』で見てみよう。

「天正元年(1573)癸亥、正月三日乙酉、辰千代元服、十八歳、如例長満加冠、頼敦髪ヲ納ム、中務丞頼一ト号ス、平野ヘ五百疋ヲ奉リ告ラルゝ、二月、義昭信長ト間アリ、三月十五日、宗英二十五回ヲ善源寺ニ修セラル、此時ハ宗禅寺ニテノ弔ヲ欠ス、孫辰千代若年タル故ナリ、七月、和田ヲ攻ム、中川殺之、廿五日、信長ヨリ密使アリ、八月、野間三郎資兼・能勢仁右衛門頼幸・山田彦右衛門重友ヲ招、信長ノ内ヲ告ル、未果、九日ニコレヲ討殺ス、十月廿三日、吉川ヲ取巻、其ヨリ日々合戦止事ナシ、四日祝、十一月、吉河城没落ス、定満・左京亮囲ヲ切抜丹波ニ退、其余吉川同名六人、違姓ノ一族以上四十余人上下三百余人一時ニ亡、塩川コレヲ知行ス、四日ニ落城ス、或曰、十四日ト云、十六日、三好義継自害ス、長慶養子ナリ、」

 天正元年七月には和田惟政が中川清秀に殺されたとある。荒木村重が高槻城の和田惟政を攻めた、所謂、「白井河原の戦い」である。信長から塩川伯耆守国満に密使があり、塩川氏は野間資兼と能勢仁右衛門と山田重友を招いて、信長の内意を告げたが果たせず、誅殺している。そして、吉河城の吉河定満と左京介等を攻め滅ぼしている。以上から類推すると、天正元年に塩川伯耆守が荒木村重に敗れたとするのは事実とは考え難い。



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