北摂多田の歴史 

塩川氏の研究

「塩川姓の由来」  傳曰、御祖母主代殿満仲卿ニヲクレサセ給ヒテ後、常ニ眩暈ヲナヤミ玉フ、故ニ院内ノ薬師如来ヘ立願ナサレ七日参籠アル、満スル夜半ニ告夢、汝常ニワレヲ念スル故今是ヲ告ル、河水ヲ以テ塩ニ焼セ、其塩ヲ以行水ノ湯ニ入、百ヶ日ノ間行水ヲシ玉フヘシ、眩暈本復シ、長命タルヘシ、且子孫ノ称名ニモナルヘシト在リト告有、依テ近キ辺ノ江ニテ水ヲ汲セ、其水ヲ塩ニ焼セ玉フ、其水始ハ沸水ナルカ一七日焼セ給ノ内塩水トナレリ、其時又告曰、其水ヲ以直ニ行水ヲナスヘシト、此コトクニシ玉フテ御病本復在ス、始ハ近辺ノ沢ニテ汲セ玉フ、後ニ告有、御庭中ノ井ヘ塩水涌出タリ、其井ノ奉行ヲナセシ者ヲ本井ト名付玉フ、此本井ト云者ハ信濃國黒川ノモノニテ、松尾丸ト云、満仲童ワニシ仕玉フ者ナリ、今名ヲ改本井ト号、此時庄内ノ諸民貴賎無ク群集シ来ル、村々ニ止宿セシメ、水塩トナリタルヲ見ル、多人集故ニ隼人ト云者奉行セシメ、此群且村々ヲ治ム、村ヲ能安ンスルト云理ヲ以テ安村ト号ス、其後御病癒テ件ノ井水佛水ナル故ニ江ノ本ニ反ンコトヲ祈ル、其時又亀甲山住僧ニ告在シ、彼井水ヲ反ンコトヲ加持ス、三日ノ内ニ本ノ井トナル、此所ニ水ヲヨリスルコト可ナリト云理ヲ、亀甲山ヲ吉河山ト付給ヒテ、其ヨリ子孫ノ血脉ヲ以吉河山高代寺ノ住持トス、彼江ニ塩水涌出ル所ヲ塩我平江ト名付、塩ヲ以ワレヲ平ニスル江ト云心()リ又井トモ書、且又河水塩ニナリタルト云理ヲ以テ、主代リ殿ヲ塩川殿ト号ス、又後室ノ御字ヲハ河味サマト申ス、河ニアチワイ出タリト云心ナリ、夫ヲ文字ニ直シ、上サマト云、塩川殿ノ上様ト申ハ満仲公ノ御台所ヲ申ナリ、天下ニ一本ノ称名故他人コレヲツゝシム、世俗満仲ノ塩川ト云ハ此理ナリ、獅子牡丹紋ノコトモ、六孫王ノ御傳ト文殊本尊ナル事ト又薬師・弥陀・普賢・文殊代々ニ尊佛ナル故ナリ、古語ニ云、漢ノ獅子ト云ハ住吉・八幡・普賢・文殊ノ召レタリト、住吉神体コレ薬師、八幡神体コレ弥陀如来ナレハナリ、其上源氏武士ノ根元者六孫王ナリ、獅子ハ萬畜ノ頭、則獅子王ト云、牡丹ハ萬花ノ王ナリ、故ニ此紋ニナラヘル紋ナシ、末代ニ到テモヲロソカニスヘカラサルハ此紋ノコトナリ、傳記末ゝコレヲ記ス、(高代寺日記)

「伯耆守・信濃守の由来」
昔、北摂の山々は住吉大神の杣山であった。ところがいつの比からか、北摂の大神郷(おおむちごう・多田)を中心に大田田根子命を祀る多太社を氏神とする人達が住みついた。多々良で銀銅を精錬する出雲系の人々であった。三草山に住む龍神の化身である百済系の女神(刀自)と争っていた。源満仲公は北摂の銀銅山に眼をつけて、住吉大神(百済系仲哀・神宮皇后・応神)の許しをもらい、多々良人を滅ぼし、「多田庄」と名付けた荘園を営んだ。そして「多太社」を廃し京師から平野明神を遷座して「平野明神」と改めた。すると、龍神の化身の女神はたいそう喜んで、満仲公に龍馬を贈った。ところが、満仲公の嫡男・満正公が突然みまかった。これはおそらく、滅ぼした多々良人の呪いではないかと言う者があり、多々良人を祀る「九頭社」を多田庄内に設けて神鎮めを行った。そして、次男・頼光の代には大田田根子命の祖・下照姫宮をさらにお祀りした。後々、諏訪下社をもお守りするために伯耆守・信濃守を拝命し、鎮魂するようになった。又、源氏は応神帝を八幡大菩薩としてお祀りした。

「長和元年(1012)壬子、六月、頼光摂東生郡比賣許曽祠造替、下照姫宮、傳曰、頼光諏訪ヲ信仰故ニ右祠ヲ建ラルゝト云リ、」
「延久二年(1070)庚戌、六月、頼仲諏訪神夢ヲ得玉、則河村秀友ヲ以代参、子孫必伯耆守タルヘシト、諏訪下社倭文神下照姫御体シトリノ御神ト申ス、」
(高代寺日記 上)
「諏訪殿ヘ當家(塩川家)永々伯耆守タランコトヲ申サル、神ハ皆御同体故ナリ、コレ元來下照姫ノ垂跡ニテ伯сm一宮河村郡ニ在ス倭文ノ御神共申ナリ、伯пE信сg云事當家受領ノ第一也、」(高代寺日記下)

 
塩我平江、塩ヶ平井とも(平野3町目) と 御所垣内、源氏屋敷(東多田3町目) その上に字上津(多田上津城跡・平野)

『摂陽群談』()・『多田院文書』()『多田雪霜談』()・『高代寺日記』()・『満願寺文書』()に見える塩川氏を時代を追って記述する。
塩川刑部丞・仲義   多田塩川家初代仲義 仲章は仲義の苗孫()     仁治元年(1240)刑部丞仲義公善源寺再建()
塩河左衛門尉     弘安元年(1278)多田院御堂上棟引馬進人々
塩川伯耆前司・仲章  細川頼之(13291392)の時代()
三野又七仲澄     貞和五年(1349)二月満願寺文書・塩川伯耆守のことなり()
塩川藤七後室(藤井氏女) 康安元年(1361年・正平16) 田寄進状
塩河又九郎      貞治三年(北朝1364年・南朝正平19)鷹尾山事
塩川刑部大夫入道   応安元年(北朝1368)48日多田院御家人引馬注文
塩川仲章       応安四年(北朝1371)連署書下
吉河仲衡       同
塩川秀仲       永亨十三年・嘉吉元年 (1441) 千部経田寄進状
塩川秀満       応仁元年(1467) 御影勤行田寄進状
塩川伯耆入道慶秀   文明九年(1477)・同十二年(1480)
塩川秀満       文明十二年(1480)駒塚山之事
塩川秀満       文明十四年(1482)田地寄進状
塩川秀満
       文明十七年三月 能勢頼則主催の発句に参加ス
塩川彦六満久     文明十七年(1485)
吉川左京亮弘満    明応元年(1492)
塩川豊前守秀満    明応二年(1493)宗祇句集「下草」
塩川彦太郎種満    明応四年(1495)斉藤元右奉書
孫三郎仲朝      明応六年(1497)
塩川彦太郎種満    文亀元年(1501)
塩川太郎左衛門    永正三年(1506)多田庄段銭結解算用状
塩川新左衛門     同
塩川又三郎仲方入道正吉 永正四年(1507)仲景の孫・仲繁ガ弟・本家の後見ナリ()
塩川加賀入道正吉   永正七年(1510)書状
左京亮弘満    永正十二年(1515)娘ヲ山問民部丞頼里ニ嫁ス()
塩川源兵衛尉宗莫   文永七年(1527)田地寄進状
塩河九郎左衛門尉頼繁 享禄二年(1529)
塩川仲朝(仲延)・九郎左衛門尉頼繁 享禄四年
塩川伯耆守種満    享禄四年六月八日千余騎ヲ催シ天王寺今宮ヘ出張シ高国ヲ支、
           宗英・仲延・定満・宗基・頼繁以下タリ。二十四日勝利、高国討死、浦上掃部七十人討死ス。
()
塩川太郎左衛門尉国満 天文元年(1532)田地寄進状
塩川伯耆守国満    天文二十年
(1552)「天文日記」
塩川弾正忠秀国    天文二十一年 足利義晴方で長慶と戦う。国連と共に戦う。()
           『高代寺日記』によれば、この頃塩川国満が弾正忠を名乗る。

塩川元基       同        同()
塩川基国       同        同()
塩川伯耆守国満    天文二十一年(1553) 秀満の孫
           天文二十一年九月 国満立願状
天文二十三年(1555)「天文日記」
塩川民部丞頼敦    弘治三年(1557)田地寄進状
塩川国満       永禄二年(1559)四月三好長慶、八月国満多田院に参詣
           永禄二年十二月大戉戌二日伯六十歳ノ加赦アリ()
           細川高国ガ一字ヲ取テ国満と号ス()
塩川山城入道仲延   元亀元年(1570)田地寄進状
塩川国満       天正四年十二月十四日没()
塩川長満       天正八年(1580) 源治郎ト号ス 母伊丹兵庫頭娘()
塩川又右衛門尉    天正十年(1582)
塩川半右衛門尉    同
塩川十兵衛尉     同
塩川吉左衛門尉国義  同           国満の弟()
塩川主膳正国良    同           国満の養子()
塩川長満       天正十四年十月五日病没四十九歳()



 

塩川氏系図の検討



【藤原塩川氏】

 塩川氏は山蔭流藤原氏であり、満任が藤原仲光の娘を娶り、仲光の婿となり、幸壽丸亡き後、藤原仲光の塩川の地を相承した、とある。そして、鎌倉時代になって、多田庄へ大内惟義が入部すると、塩川氏は大内惟義に娘を嫁がせて、生まれた惟親に塩川家を相続させ、塩川氏は清和源氏となった。室町末期に現れた塩川伯耆守国満はこの系図にある国満であると言うのが長い間定説となっていた。




 








 大内惟義の子塩川刑部大輔惟親の嫡男三郎満国と伯耆守満直は「承久の乱」で失脚し丹波に逃げ、満直は討たれた。満長の代になって、鎌倉将軍宗尊親王に供奉し鎌倉に下った上杉氏の郎党となり甘縄に住した。三河守満永の代に、足利尊氏の倒幕の節に軍功あり、以降、代々足利将軍家の御側衆となった。「嘉吉の乱」では将軍足利義教に供奉していた伯耆守一宗は殺害された。 九代将軍足利義尚が早世すると、従兄弟の足利義材が十代将軍となった。足利義材は河内と紀伊の守護畠山尾州家の前管領畠山政長・尚順父子に加勢して、河内譽田城主畠山総州家義豊を攻めた。しかし、畠山義豊と結んだ管領細川政元に攻められ、将軍足利義材は捕らえられて竜安寺に幽閉され、畠山政長は正覺寺城で自害し、畠山尚順は紀州に逃げた。管領細川政元は天竜寺香厳院の堀越公方足利政知の子清晃を還俗させ、十一代将軍足利義澄とし、己は管領となった。足利義材に仕えていた塩川三河守満家(一家)は捕らえられて追放になった。『長禄寛正記』にある「河内の塩川衆」とは塩川三河守満家(一家)の叔父塩川伯耆守為満である。塩川伯耆守為満は畠山総州家持国・義就に身方していた。

河内塩川氏
 『姓氏家系大辞典』によれば、「橘姓楠木氏、河内国の豪族にして、『長禄寛正記』に「河内衆塩川」、『細川両家記』に塩川孫太郎等見ゆ。また河内国渋川郡東足代村の人に塩川道喜あり、聖徳寺(聖源寺か?)を開く。もと小寺氏と称せり」とある。渋川郡東足代村は布施村、今の東大阪市布施当りである。長禄・寛正(14571465)年代室町将軍足利義政の時代に「河内衆塩川」の名があることから、河内国に楠木氏流小寺氏と塩川氏の存在が認められる。
 元布施市長『塩川正三傳』によれば「塩川家は元小寺姓であったが、慶長七年(1602)に小寺宗右衛門政家は、母方の姓の塩川に改めた。」とある。


 塩川三河守満家は管領足利政元に追放されると、三人の息子を連れて、本貫地である摂州多田の塩川城を塩川秀満から奪い取り城主となった。やがて、管領細川高国により前将軍足利義尹(義材)が足利義植となのり将軍に擁立されると、細川高国は管領となり、塩川三河守満家は一家と名乗り再び将軍足利義植に仕えた。一家が逝去すると、嫡男塩川孫太郎信氏が伯耆守を名乗り、摂州塩川城の城主となり管領兼摂津守護細川高国に仕えた。
 享禄4年(1531) 「大物崩れ」で細川高国が滅亡すると、細川高国に身方していた塩川伯耆守孫太郎信氏・信光父子は多田庄を出奔し、三州の松平清康に仕えた。弟の塩川山城守満定は塩川伯耆守政年と名乗り摂州塩川城の城主となった。また、末弟の塩川吉大夫国満も伯耆守を名乗った。天文11年(1542)、「太平寺合戦」で木沢左京亮長政に加勢した塩川伯耆守政年は敗れ、多田庄を出奔し、尾張の織田弾正忠信秀・信長父子に仕えた。

 一方、塩川刑部大輔惟親の子塩川帯刀長惟仲は「承久の乱」以降も多田庄に残留し、多田院御家人筆頭格となった。塩川又七カ仲澄は見野平居にあった満願寺領を侵した咎により失脚し、弟の塩川又九郎師仲は四條畷合戦で討死にし、「惟仲流塩川氏」は衰退した。





真田淑子氏著「小野お通」に登場する塩川志摩守十兵衛満一は「間部氏家譜 」によると、塩川山城守満定(伯耆守政年)の孫に当り、河内若江八人衆の一人で、一千石大番頭で豊臣秀次に仕えた。



塩川志摩守
前述した間部塩川氏塩川志摩守満一は若江八人衆の一人とされ、1000石で豊臣秀吉に仕えたとされている。室は高野越中娘、継室は小野於通とされている。




『多田雪霜談』の虚構

『多田雪霜談』は仁部氏の家記で、江戸時代の成立であり、作為的に捏造作成されたものと思われる。

@藤原南家恵美朝臣朝維の存在とその子塩川兵衛尉宗朝という人物が実在したのかという疑問がある。塩川を名乗った根拠が不明である。
A吉河塩川氏である塩川仲章が登場している。

B塩川伯耆守仲国の戒名が「大昌寺殿前伯州太守義山了忠大居士」とありが、これは吉河塩川氏の塩川秀仲の戒名である。

C塩川弾正忠秀国(国基)とあり、その娘「亀女」が14歳で出家し「喜音禅尼」となったとあるが、実際には、「喜音禅尼」は塩川伯耆守太郎左衛門国満の正室・種子ノ方であり、確かに塩川太郎左衛門国満の娘「子祢」は天文20年、14歳で出家し、京七条の大通寺の十方尼の弟子となったと『高代寺日記』にある。又、塩川弾正忠秀国とあるのは、塩川弾正忠太郎左衛門国満のことであろうと思われ、代々「秀」を通字としているので「秀国」としたものと考えられる。塩川太郎左衛門国満はこの頃「弾正忠」を称しており、天文20年7月に「伯耆守」を名乗っている。

D仁部系図に「塩川伯耆守国満」戒名「桃源院殿天光大居士」とあるが、これは塩川伯耆守太郎左衛門国満の戒名であり、この系図の国満は藤原塩川氏の塩川伯耆守吉大夫国満の事と思われる。よって、塩川弾正忠秀国の子が塩川伯耆守国満となっているが、親子関係が疑われる。

E仁部系図では、塩川主膳正国良は塩川伯耆守国満の子となっているが、実際は猶子であり、始め塩川吉大夫国満には子がなく兄信行の子である間部詮光を養子に迎えようとした逸話がある。又、塩川主膳正国良の戒名が「永祥院殿輝山源光大居士」となっているが、この戒名はまさしく塩川伯耆守長満の戒名である。しかも塩川主膳正国良の命日が天正14年10月5日とあり、塩川伯耆守長満の命日と同じであるのが大いに疑問である。

 このように、仁部家の家記と系図は作為的に作られた可能性が高く、仁部氏が塩川氏を称したのは、@塩川新左衛門国蓮が塩川伯耆守信氏から塩川姓を許されたか、A仁部国良が塩川伯耆守吉大夫国満の猶子となったためであろうと考えられる。




【吉河塩川氏

 鎌倉時代に吉河仲義が「塩川城」を築き、塩河氏を名乗ったのが始まり。何らかの事情で塩河仲基・仲茂が吉河の領地を勝尾寺に寄進して吉河を出奔したと思われる。その後、吉河越後守仲頼が摂州笹部に帰郷した。

 『大昌寺文書』によれば、文和元年(正平7年) 吉川越後守仲頼とその家老安村勘十郎は辰山へ来城し、33年後に吉河仲頼の子仲章が新たに山下城を築城し、塩川伯耆守仲章と改名した。大昌寺は元は立川の安村家の邸内にあったが、永享3年(1431) 「多田乱」で焼失したために塩川伯耆守秀仲が開基となり立て替えられた。

 『高代寺日記』は吉河塩川氏の末裔である塩川頼元コト神保元仲が書いた吉河塩川氏の家記である。


『大昌寺文書
 (塩川家) 塩川家ノ祖先ハ源頼光ノ嫡子頼仲数代後吉川越後守)、文和元年(1352年・正平七年)四月拾六日辰山へ来城シ、其後三拾三年ノ後山下城ト改メ、塩川伯耆守ト改ム、二百三拾五年、天正拾四年十月七日、国乱ノタメ落城、其ノ間凡六百六拾年、落城後九拾九年目ノ貞貮年丑(1685年将軍綱吉)ノ拾壱月、塩川頼元(国満―長満―基満―頼元)殿ヨリ平野御寶殿ノ祈願書ト塩川家系図トヲ持来リ、安村五郎衛門家ヘ預ケ置カレタリ、菩提所ハ徳倉領天王山薬師寺トサレタリ、

(木田家) 木田家ノ祖先ハ安村勘十郎ト申シ、吉川越後守ノ家老職ニテ、文和元年、辰山ヘ来城ト同時ニ當地に来リ、今ノ立川ノ地ヲ開墾シテ其ノ名ヲ立川(たてこ)ト称ス、三町有余ノ地ハ全部公部地ナリ、其ノ一部ヲ分譲シテ、同家ノ屋敷ヲ設ケタルナリ、其処ヨリ城内之奉仕ヲシタリシニ、落城後農家トナリ、安村勘十郎ヲ安村五郎兵衛門ト改名セリ、現今音吉ノ家一戸アリ、其ノ家ハ五兵衛ト申ス者ナリシガ、寄リ株トシテ今ニ親戚トシテ交際シ居レリ、大道ヨリ西ニハ二百五十年経タル家屋ハ二軒ノミニテ寺一ヶ寺ナリ、 元禄初年ニ伊勢大神宮大夫木田新左衛門殿常宿トセラレ其ノ縁故ニ依リ、同姓セニヨトノ事ニ依リ、木田弥市兵衛と改名ス、

(大昌寺)
 大昌寺ノ歴史ヲ申サバ安村家ニテ成立シタルモノナリ、越中立川龍象寺ノ弟子ニシテ、兄ハ池田ノ大廣寺ノ住職トナリ、弟ハ安村家ヘ寄寓シ、安村之レヲ援助シテ、拾ヶ村ヲ廻り皈依者ヲ得、安村宅ノ西小高キ所ヲ切開キ、一ヶ寺ヲ建立シ、之レヲ鶴林山大昌寺ト名ヅケ、寶徳二年(1450)入佛成リ、本寺ハ遠隔ナルニヨリ、大廣寺ト相互ノ本寺ト約速シアリシモ、其後大廣寺ハ総持寺ノ直末トナル由申シ来タリ、大昌寺ハ大廣寺ノ客末トナレリ、今ニ大廣寺ヘ行ケバ別室ノ待遇ヲ受ケ、又大昌寺ヘ来山セバ別格ノ待遇ヲナセリ、 猶慣例トシテ大昌寺住職ハ正月年始盆ノ棚経ノ際ニハ出立チヲ安村家ニテ饗ケ、其レヨリ各檀家ヲ廻レリ、現今モ棚経ノ出立チ饗応ハ木田氏之レヲ継続シツゝアリ、文禄三年古検地ニ屋敷ハ壱反四畝九歩、北南六拾壱間、巾四尺八寸ノ地所西ト東ニアリ、延宝七年新検地ニハ屋敷壱反四畝九歩、田八畝九歩、畑七畝十二歩ト続ニ畑二畝七歩トアリ、是レハ高附除地ニテ明治三年取上ゲニ成リ、其後父弥市兵衛村用ニテ県庁ヘ行キ払下洩レニ付キ金拾弐円也ニテ買ヒクレトノ事にて買受ケ皈リテ第廿五世宣道方丈ノ浄財ニテ買ハセタルモノナリ、




『安村塩川氏』

 塩川仲繁、塩川仲方加賀守正吉(不詳〜1513)、塩川勘左衛門仲則に塩川姓が許された。塩川仲方加賀守正吉は山小路(山庄司)家を相続し、その子塩川出雲守満房は『大昌寺塩川氏系図』では「居鳥野合戦討死」となっているが、『應仁記』「東岩倉合戦」(応仁元年1467)の「井鳥野合戦」であれば時代が合わない。「井鳥野」「猪取野」とは「猪名野」の事である。満房の子塩川隠岐守は八幡城の城代と考えられる。


大昌寺『塩川氏系図』では塩川加賀守正吉(不詳〜1513)の子満房は「居鳥野合戦討死」とあるが、『応仁記』にある「井鳥野合戦(応仁元年1467)であれば時代が合わない。






【中川塩川氏】

 『中川史料集』に、中川氏は多田蔵人行綱の末裔であり、中川清深こと多田秀国が摂州豊嶋郡中川村に帰郷したので中川氏を名乗ったという。多田秀国の孫の秀重が塩川城の城主となったので塩川氏を名乗ったとある。多田秀国から代々「秀」を通字としている。『多田院文書』の塩川伯耆入道慶秀・塩川秀満父子は多田秀国の末裔と考えられる。


 塩川伯耆守太郎左衛門国満の正室は細川澄元の娘・種村種子であるが、嫡男源太が国満の側室伊丹氏の讒言により廃嫡されると、側室の生んだ源次郎基満が嫡男となり、天文18年7月種子ノ方は正室の座を側室に譲り、源太の命乞いをして「喜音寺」に入山された。天文21年、源太こと塩川右京進頼国は多田を出奔して紀州根来寺にて僧兵となり、後に塩川運想軒と名乗った。塩川運想軒(1535〜1614)は河内国大賀塚(花田・小寺・蔵ノ前)に八千石を知行して、織田信長・豊臣秀次に仕え、聚楽第の普請奉行、九州征伐、小田原攻めにも参戦した人物である。

「永禄三年、全蔵(塩川運想軒)自畠山河内小寺村ノ貢米ヲ受コレヲ納ム、凡現米二百六十石余タリ」(高代寺日記・下)

 後に塩川伯耆守太郎左衛門国満は織田信長に仕えたが、次男の基満は後に「塩川伯耆守長満」と名乗ったと一般にはいわれているが、疑問が残る。信長が、塩川伯耆守国満の子であり伊丹氏の血をひく・基満に「長」の諱を与え、その娘を信長の嫡男信忠の側室に迎え、且つ一条家の姫を基満の正室として娶らせ、摂州塩川家を姻戚として迎え手厚く保護する謂われはない。
 
拙著では、塩川基満には右兵衛尉の位を与え塩川右兵衛尉長満とし、尾張の塩川氏である塩川源六秀光、吉大夫、勘十カ父子を摂州塩川家に入れ、塩川秀光を塩川伯耆守国満の嗣子となし、塩川伯耆守長満と名乗らせ、多田の銀山を管理させたものと推測する。後生、塩川右兵衛尉長満(基満)と塩川伯耆守長満(秀光)が混同されているのではないかと考えている。


尾張国中島郡「大國霊社」

【尾張塩川氏】

中島郡塩川氏・本郡国府宮村源六郎、吉大夫、勘十郎」(尾張国誌)

『姓氏家系大辞典』に、「尾張国巾下村の塩川国満・攝津国川辺の塩川氏と全く同属なり、何れが本貫か、云々」又、「尾張国中島郡「大國霊社」神主職に、中世・久田の称号あり、中島連の裔也と、今・其の地を呼んで諏訪と称す、野々部、塩川等の氏皆同属也、『天野信景の惣社参詣記』に、当宮の祠官は天背男命の裔、中島海部連の後なり、中世家衰へ家系を失ひ侍るにぞ、武衛家当国を領せられし時、神主正六位上秀定(久田四郎)文亀年中に一百七十貫文の采地を領し、近境稲島村の土端の城に住し、稲島に背男命の岩屋の跡も伝へ残れり、秀定が子秀守は家の号を野々部と称し、其子成清は塩河と称号し、その子秀光(塩川源六)天正年中信長に属し武事を勤めし、その弟秀政又野々部の称を嗣で祀を奉ず」とある。

 愛知県津島市平和町塩畑(しょうばた)には織田弾正忠信秀の居城「勝幡城」があり、信長が生まれた城とされ、直ぐ側に平和町塩川と呼ばれる地がある。塩川源六郎秀光は信長とは幼馴染だったのではあるまいか。塩川源六郎秀光は信長とは幼なじみで、「長」の諱を授けられ「長満」となり、摂州多田の塩川伯耆守国満の嗣子となったと考えられる。信長は天文三年(1534)生まれであり、長満は天文七年(1538)生まれで4歳下である。塩川伯耆守長満の二人の娘が、織田信長と池田恒興の嫡男に嫁したのである。



 塩川伯耆守長満には家の女房との間に吉大夫と勘十郎、そして二人の娘があった。織田信長の命により、一条辰子と足利義輝との間に生まれた姫を正室として迎え、七之助と源助が生まれた。詳しいことは『摂州多田塩川氏と畿内戦国物語』を参照されたし。



摂州獅子山城落城と塩川氏の滅亡

 

摂州笹部ノ城(獅子山ノ城)落城、城主塩川伯耆守長満切腹

信長は尾張大国霊社の神主の子息塩川源六郎秀光を摂津塩川家に入れ、塩川伯耆守太郎左衛門国満の嗣子と為し、塩川伯耆守長満と名のらせ多田の銀山を手に入れた。塩川伯耆守長満は支配する智明山間歩群を信長の嫡男奇妙丸(信忠)の名を冠して「奇妙山親弦」と名づけた。三法師の外祖父塩川伯耆守長満が言うには、多田の銀山は信長・信忠の遺領であり、秀吉らが清須会議で織田家の後継者を三法師と決めたのであるから、多田の銀山も三法師のものであると主張した。秀吉は長満の主張を聞き激怒した。多田の銀山の利権を譲らない長満に対して、譲らなければ攻め取るまでと言い放ったが、攻める口実が必要であった。それは塩川伯長満が能勢頼道を暗殺し能勢領を侵したという理由であった。

秀吉軍は天正14(1586)105日未明、片桐東市正且元を大将に池田輝政、堀尾吉晴らが豊臣秀吉の命を受けて多田へ攻め込んだ。池田輝政は三百余騎を率いて西多田峠を越え、広根の銀山へ向かい、堀尾吉晴と片桐の家臣小林と島は五百余騎を率いて東多田横山峠を越え平野に陣取った。片桐且元は家老杉原と西ら七百余騎を率いて長尾街道を吉川へ馳せ向かった。山下の塩川獅子山城では早朝でまだ寝ている者もいたが、未明の薄明りの中、方々の山々から火のてが上がり、軍勢の攻め寄せる知らせが処々からもたらされた。吉大夫と勘十郎は各所に物見を派遣した。吉川方面に派遣していた小坂という者が片桐且元に会い、秀吉の討手である旨を聞き急ぎ返ってきた。間もなく片桐の軍勢が山下獅子山城を取り巻くと、塩川長満は開城して片桐に一族と家臣の助命嘆願した後、善源寺で自害した。

幼馴染の信長は49歳で本能寺にて歿し、菅屋玖右衛門も信忠と共に二条御所で討死し、池田恒興も49歳で小牧長久手の合戦で討死していた。塩川長満もこのとき49歳であり、幼馴染が皆死に絶えてここらが死に時と決めていたようである。

片桐は長満の首を大坂城に持ち帰ったが、秀吉は見ようともしなかったので、片桐の一存で塩川家に返された。法号は「輝山源光大居士」と号し、永月長舜、大昌寺華雲院の宗順、善福寺の琳昌、景福寺の澗瑞、高代寺の无覚、清覚院ら十二人の僧侶により、25日まで三七日の法事が修行された。11月には庄内の貧民に千貫文を分けて配られ、小鳥千匹を高代寺山に放鳥された。亡骸は善源寺に葬られ、正室は次男源助を連れて一條家に戻られた。

塩川家は領地を没収され、是により塩川伯耆守長満の名は秀吉の命によりすべての歴史の史料から抹消されるのである。この時、塩川古伯吉大夫国満は前年(天正13)にすでに歿しており、古伯国満の子息塩川吉大夫昌次も連座して知行を没収され、摂津の樋口に移り住み、以後、樋口氏を称したとある。猶子塩川主膳正国良も知行を没収され丹波に蟄居した。秀吉は直ちに多田銀山の経営に乗り出し、新たに山師を雇い入れ、主に銀山親鉉(川西市鼓滝から猪名川町仁頂寺まで)を開発した。

 天正16(1588) 2月、運想軒は羽柴秀長と四十余人の諸士へ使者を派遣して塩川愛蔵と塩川頼一(辰千代)両人どちらに塩川家の家督を継がせるべきかを議せられたが、6月に愛蔵は知恩院に赴き10日になっても帰らず。山梨五郎四郎という小姓に男色し、身内に恥じて出家してしまった。運想軒と一族は皆大いにこれを批難した。12月に愛蔵は安村仲勝と鹿塩小兵衛に伴われて運想軒に詫びを請うたが受け入れられなかった。塩川家は知行を没収されたが、時節を見て秀吉に取りなす旨、運想軒は諸奉行と約束をかわしていたのである。その時に辰千代の父・塩川源兵衛尉宗頼(若い頃に江州種村氏に仕えていた)が所持していた名刀「塩河来国光」と「塩河藤四郎」の脇指二振りが辰千代から秀吉に献上され、辰千代コト塩川中務丞頼一は西ノ丸衆に取り立てられた。この名刀二振りは秀吉から徳川家へと伝わり、『享保名物帳』には、「塩河来国光・長八寸四分 代金百枚 本多中務殿御所持、後、本多美濃守所持 」、「塩河藤四郎・長八寸 代金三百枚、表裏刀樋添樋有之、徳川将軍家所持、明暦の大火で焼失」とある。

別の「来国光」「藤四郎」



 天正17(1589) 2月、塩川中務丞頼一(母は運想軒姉)は運想軒の猶子となり、大坂に下向して運想軒の屋敷に住み大坂城に登城することになった。11月に、塩川吉大夫頼運、塩川勘十郎頼重、塩川右兵衛尉基満(長満)、吉川半右衛門らは近江主(豊臣秀次)に仕官した。運想軒と中村孫平次一氏の執成しであった。豊臣秀次の正室は池田恒興の娘であり、池田恒興と嫡男元助(室は塩川伯耆守長満娘)は小牧長久手ノ合戦で討死した。塩川家と池田家は豊臣秀次の縁者であり、運想軒の正室は中村孫平次一氏の妹であった。中村孫平次一氏はこの時、豊臣秀次の宿老であり、秀次には近江国蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡に四十三万石余が与えられ、中村孫平次一氏は近江水口六万を拝領した。豊臣秀次は近江八幡山城を築城し安土の城下から住人を移して商いを盛んにした。それらの人々が近江商人のルーツとなった。

 文禄4(1595)715日、豊臣秀次は高野山にて自害し、秀次の妻子39人は頸を刎ねられた。豊臣秀次の家臣となっていた多くの塩川氏一族の者が浪人となり、塩川吉大夫頼運、同右兵衛尉、同民部らその余四十人は浮田宰相(宇喜多中納言秀家)に介抱された。宇喜多家中には明石掃部助全登(てるずみ)なる者がおり、熱心なキリシタンで、霊名はジョヴァンニという。明石全登の父飛騨守景親は浦上宗景に属していたが、浦上宗景が宇喜多直家に敗れると宇喜多氏に属して、豊臣秀吉の備中高松城攻めにも参陣した。その嫡男が全登であり、和気郡大股城主で4万石を安堵されていた。備前では宇喜多秀家の従兄弟右京亮(知行6万石)がディエゴ喜斎(備前芳賀の人・26聖人の1)の導きで受洗したことにより備前にキリシタンの信仰がもたらされた。明石全登の内室マリアは宇喜多秀家の妹であり、明石の内室(マリア)5人の子供と母と二人の姉妹も受洗した。塩川信濃守貞行(天正9年生まれ)は塩川信濃守吉大夫頼運の次男でキリシタンであった。キリスト教との接点は宇喜多家に介抱されていたときに、明石全登の導きを受けたものと思われる。この年貞行は14歳であった。

【関ヶ原ノ合戦】慶長5(1600) 427日、塩川中書頼一の長子が生まれ源太(基満)と名づけられた。2、小尾仁左衛門(伏見番士)関次郎兵衛、伊丹兵庫頭忠親、神保長三郎、三好為三、田中、中村ヨリ運想軒に書状がきた。則、簡調を返す。皆旧好之人であり、今後の身の振り方について其々が報告し合ったものと思われる。伊丹兵庫頭、神保長三郎相茂、三好為三は徳川に味方した。
  同年616日、家康は会津城主上杉景勝を攻めるために大坂を進発し、能勢頼次、神保長三郎相茂、池田知正(久左衛門重成)も人数に加わった。会津攻めの先陣徳川秀忠は719日に江戸城を出陣した。その勢39,270余騎とある。御大将家康は721日に江戸を進発し、同24日、下野国小山に着陣し、石田治部少輔三成の挙兵を知ると江戸へ引き返し、9月朔月、家康は再び江戸城を進発した。その勢都合32,730騎とある。同13日、家康軍は岐阜に着陣し、慶長5915日、関ケ原にて石田光成軍と合戦あり、辰刻に始り午の刻に終る。
  宇喜多家に仕官していた
塩川吉大夫頼運、同太郎左衛門、同信濃守貞行、舎弟同勘十郎頼重、同右兵衛尉、同民部ら40余人の塩川衆は宇喜多勢(明石全登隊)に加わり「関ケ原ノ合戦」に参戦した。加藤勢と激しく戦ったが敗れ、塩川吉大夫頼運、同信濃守貞行らは神保一族を頼り紀州に落ちた。そのほか20余人の旧塩川家人らは堀尾、羽柴、加藤左馬、森右近、酒井、中村氏に仕官した。塩川勘十郎頼重は300石にて池田輝政に仕え、その子息塩川七郎兵衛は二百石賜った。七郎兵衛は元和九年死去しその子孫は因州池田家にあるという。塩川源助(愛蔵弟)も知行400石にて池田輝政に仕官し、元和8729日、48歳にて病死した。塩川伯耆守太郎左衛門尉国満の子息同弾正忠仲貞の嫡男同小源太頼貞は伊丹兵庫頭忠親衆(黒田長政幕下)に加わり討死した。


大坂ノ陣

大坂方は船場付近に追い詰められて全滅した。  大坂冬陣屏風  大坂夏陣屏風
  

 慶長19(1614) 215日、塩川運想軒頼国が逝去した。享年80歳。310日、塩川中書頼一は江戸から戻り則前田主水の下屋鋪に赴いた。15日に安養山宝国寺に行き運想軒の法事を修した。45日には運想軒の50日の法事が宝国寺で修された。4月に源太基満は祖父の遺言によりその名を主殿と改めた。運想軒の養子となっていたので、家督は悉く進退した。917日、塩川中書頼一は江戸に到着し加藤家に客分として仕官した。子息塩川主殿(源兵衛尉基満)はまだ大坂にいた。塩川吉大夫頼運の長男塩川太郎左衛門頼覚(早世)の子息は祖父吉大夫頼運の養子となり、塩川吉大夫と名のり池田利隆に200石で召出され、大坂陣では池田利隆に供奉したという。代々吉大夫を名のり池田家に仕えた。

【大坂冬ノ陣】 慶長191118日、徳川家康を大将に徳川方十九万五千余人が、豊臣秀頼を大将に十万余人が篭城する大坂城に攻め寄せた。紀州九度山に蟄居していた真田左衛門佐信繁は豊臣秀頼に召出されて大坂城に入り、真田丸を築き活躍し東軍と厳しく戦った。徳川方は大筒三百門を発射して天守を破壊した。一ヶ月半の戦いの末、1218日、一旦和睦が成立して、大坂城の惣構えである外堀と内堀が埋められ本丸のみの裸城となった。
 『武徳編年集成』巻之六十七(慶長1910月の項)に「當月上旬ヨリ庚子石田ニ與セシ亡命の徒并ニ其子弟臣従或ハ駿府東武ヨリ罪ヲ得除邑ノ輩且君父ニ背キ落軆ノ士今度大坂挙兵ノ由ヲ聞ト均ク踵ヲ継テ群参ス・・・明石掃部全登同丹後全延同八兵衛同浮田ノ浪人 塩川C右衛門 同C兵衛 同信濃 各紀州畠山浪人・・云々」とあり、塩川吉大夫頼運、同息信濃守貞行らは関ケ原の合戦後は紀州に隠棲し、神保長三郎の一族に介抱されていた。頼運の弟勘十郎頼重は多田に潜伏していたところ塩川C兵衛と名のり大坂城に入り、明石掃部助全登に一命を預けた。塩川勘十郎頼重の子息塩川七郎兵衛は元和9年死去し、その子孫は因州池田家にあることは前述した。明石全登は「関ケ原の合戦」で敗れ秋月に隠れていたが、大坂ノ陣では豊臣秀頼に召出された。一方、神保春茂(長三郎相茂父)は紀伊守護畠山尾州家の守護代であり、有田郡石垣鳥屋城の城代であったが、後に織田信長、豊臣秀長、豊臣秀吉に仕え、大和国に六千石を拝領していた。嫡男の神保長三郎相茂は関ヶ原合戦では東軍に加わり、次男の神保浄真は丹波由良庄の別所氏に仕えていた。

【大坂夏ノ陣】慶長20(元和元年)、正月16日、塩川吉大夫頼運らは大坂城に篭城していたが、和睦が成立したので小橋村(おばせ村)安養山にある運想軒の墓所に詣でた。7月改元。年五月六日、大坂城は三ノ丸と二ノ丸がすでに破却されて、本丸のみの裸城になっていたので討って出ることになった。徳川方十五万五千余人に対して、豊臣方五万五千余人が死を覚悟して武士の意地を貫こうとした。既に勝敗は決していたが、大坂方の7将は2隊に別れ、後藤又兵衛を先陣に明石全登、真田幸村らが道明寺口に、木村重成、長曾我部盛親、増田長盛らは河内若江方面へ討って出た。『長澤聞書』によれば、「大坂冬ノ陣の翌年春、津ノ國多田郡へ塩川信濃守、長澤十大夫に御仕置被仰付、云々」とあり、塩川信濃守吉大夫頼運(48歳位)等は56日、長澤十大夫組下、後藤又兵衛組にて藤井寺付近で戦った。6日、先鋒の後藤又兵衛は国分村の小松山で討死し、道明寺・誉田の戦いでは真田幸村は岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)を城に作り替え巧妙に戦ったという。塩川隊について『徳川実記』は、「地蔵堂ノ西ナル長曾我部勢ヲ堤ノ上迄追登セ剰へ南方藤堂仁右衛門、桑名弥次兵衛ガ敗卒ヲ追行敵ノ迹ヲ断ケレバ敵モ少ク取テ返シ矢尾ノ敵村中ニテ渡辺ト闘ヒシカ共労兵ユヘ遂ニ矢尾ノ町ヲ南ヘ敗ス、此節雨日ニテ始利ヲ失イ逃走ル藤堂勢モサスガ精兵ナレバ塩川某以下返シ闘フ渡辺ハ敵ニ五分一ノ勢ヲ以テ二度ノ迫合ニ冑首二級ヲ討捕、・・云々」とある。

7日に塩川勢は明石掃部組と共に大坂城船場付近まで追い詰められ、水野勝成隊、本多忠政隊、松平忠明隊、伊達正宗隊に激しく攻めたてられ、後藤又兵衛組生き残り部隊後藤一意組、明石掃部組は全滅した。真田幸村も天王寺茶臼山・岡山(丸山城・御勝山)の戦いにて安居神社で討死していた。この時、神保長三郎相茂は徳川方水野勝成隊に属していたが、後方の伊達隊に鉄砲で誤射され相茂を含め神保隊36騎上下300人は全員討死した。『徳川実記』元和元年五月七日に、「明石掃部助全登は四國押のためとて仙波に備へしが、此時眞田と諜を合せ、眞田が合戦半に仙波より寺町筋勝曼院の下へかかり、阿部野をおしあげ、寄せ手の後へ切かけんと逞兵三百人を撰び天王寺西の岸陰まで来る所、眞田が軍は既に敗れ、幸村も討死すと聞き、今は討死せんとそのまま寄手の中へ切てかかる。寄手其猛勇に碎易し、すこぶる潰走らんとするのを見て、水野勝成大に怒り、明石が勢を迎へ討。明石小勢なれば忽に打破られ、全登が首は水野家人汀三右衛門が討とり、水野勢は残兵を櫻門まで追こみ、勝成は旗を櫻門内へおし立てる。此戦に大和組の神保長三郎相茂は主従共に三十六騎同枕に討死す」とあり、明石全登らは討死したとされている。状況からして塩川隊も全滅して当然であった。このような過酷な戦場で神保隊は討死し、塩川隊は何故か助かっているのである。神保長三郎は塩川運想軒や同吉大夫頼運とは親しい間柄であったが大坂陣では敵味方になって戦うことになった。神保長三郎が率いる神保勢36騎上下300人は水野勝成隊に属していたが、大坂方明石全登隊に属していた塩川吉大夫頼運ら塩川隊300人と戦場で鉢合わせし、神保長三郎は塩川吉大夫(塩川C右衛門)らを救い出そうと塩川隊に近づいたところを伊達隊の鉄砲の一斉射撃で全滅したのである。この時、実は伊達政宗もキリシタンである明石全登を救おうと明石らを探していたのである。神保隊が塩川頼運・同信濃らを救い出そうとしていたことを知らぬ伊達正宗は混乱した戦場でようやく明石全登らを見つけ出し、邪魔になる神保隊を排除して、水野や本多にわからぬように明石全登と全延兄弟を密かに匿ったのである。その結果、塩川吉大夫頼運らも明石全登らと一緒に伊達隊に助け出されたのである。明石全登の母モニカと息女カタリナは大坂城内で看護・救霊にあたっていたが、大坂落城の時城内で焼け死んだという。

【塩川信濃守頼運・塩川信濃守貞行と塩川勘十カ頼重】 塩川信濃守吉大夫頼運父子は大坂陣の後紀州に潜伏して、頼運の長子太郎左衛門は早世し、その孫は祖父吉大夫頼運の養子となり備前池田家に仕え代々塩川吉大夫を名のり明治まで続いた。次男の塩川信濃守貞行は天正9年生まれで父頼運と行動を共にした。キリシタン信者で、宇喜多家にて介抱されていた時に明石全登の導きにより入信したと思われる。塩川信濃守貞行は大坂ノ陣では明石全登組に属して戦い、大坂落城後、紀州畠山牢人と称して紀州大納言徳川頼宣に召出され、能書の聞こえ高く祐筆衆として五百石にて召し抱えられた。しかし、塩川貞行は切支丹であることが知れ、紀州を立ち退き、寛永八年伏見にて病死、享年51歳であった。塩川信濃守貞行には男子3人あり、長男塩川平右衛門は阿波蜂須賀家に仕えたが後に切支丹と判明して浪々し南淡路に隠棲した。三男塩川八右衛門と妹は一條家で育ち、寛永14年、池田光政に召出され、寛永1512月知行二百石賜る。塩川貞行の妻は天正12年生まれで、寛永17年頃に備前へ移住した。塩川八右衛門は慶長18年生まれ、天和3年卒、妹は池田光政家臣湯浅半右衛門に嫁した。正保元年、塩川八右衛門と妹は切支丹の嫌疑により捕縛され、後に改宗して母と共に塩川源五左衛門(源助の子)に預けられた。その後、塩川吉大夫頼運は尾州国府宮村に帰り塩川吉大夫定納と名のり尾張大国霊社の副神主として余生を送った。

摂津国嶋下郡佐井寺村の和仁家文書「塩川氏系図」(この系図は大昌寺の塩川氏系図の原本)によれば塩川信濃守頼運六代塩川数右衛門は塩川勘十郎頼重五代重教の猶子となり多田庄東畦野に住居し多田院御家人となった。 同系図には「塩川源太信濃守橘大夫頼運 慶長19年甲寅冬大坂篭城明石掃部助全登一手にて西舩場・道明寺・平野表ケ戦いに於いて軍敗れ多田に帰り後紀州に赴く」塩川源次郎勘十郎頼重 勘十郎後井上源右衛門 山下城に於いて能勢十郎頼道を討取り氏名をあらわす。山下落城後、宇喜多中納言秀家寄寓、数度武功を立て備前に於いて五百貫となり、宇喜多家滅亡後、東畦野村に帰り井上左近の猶子となり、兄頼運に随い大坂に於いて戦う。寛永8年辛未329日卒ス」とある。




『尾張国誌』に塩川秀満の孫伯耆守国満は尾張巾下村の人也とある。

 「中川氏系図」によれば、中川氏は清和源氏行綱流で、摂州豊嶋郡中河原に住したので中川氏を称したとある。中川氏嫡流である多田太郎秀重が塩川摂津守を名乗り、その子は塩川伯耆守孫太郎重房を名乗っている。時代的には、多田太郎秀重の義弟が足利義詮の子となっているので室町時代前期であり、中川清深の代に南北朝期に当ると考えられる。

 太田亮『尾張』の愛知郡に「中川氏称清和源氏多田氏族蔵人頼行四代孫中川頼仲(小中川氏)の後なりと云ふ、家紋 鳩酸草(かたばみ)、牡丹の折枝、武衛麾下の士に中川因幡守清政なるものあり、名古屋村の人也、」とあり、『中川史料集』には中川清深は多田蔵人行綱の末裔となっているが、実際は中川清政の縁者で「小中川氏」ではないだろうか。



大阪城天守閣所蔵の山崎の合戦図屏風

江戸時代後期に描かれた天正10年の「山崎合戦図屏風」に「塩川伯耆守国満」の名前が見える。塩川伯耆守太郎左衛門国満は天正4年に77歳で逝去している。塩川伯耆守吉大夫国満も70歳代であり、塩川伯耆守国満は「山崎ノ合戦」には参戦していない。天正10年には豊臣秀吉の援軍として派遣される明智光秀軍の先陣として、池田恒興、塩川信濃守吉大夫頼運、中川清秀、高山右近らが出陣し、行軍の途中で「本能寺ノ変」を知り引き返したという。そして、塩川氏は池田恒興旗下で「山崎ノ合戦」に参戦したという。本来であれば「塩川伯耆守長満」と書かれるべきであるが、塩川伯耆守長満の名は豊臣秀吉によって全ての文書から消されたのである。

 




塩川伯耆守国満・伯耆守長満の菩提寺と戒名

○『高代寺日記』
塩川伯耆守国満・天正四年十二月十四日逝去・七十七歳「禅源院殿前伯州太守天岑祥光大居士」、室・細川澄元娘・晴元姉、
塩川伯耆守長満・天正十四年十月五日卒去・四十九歳「輝山源光大居士」、室・足利義輝(光源院)娘、「信長の娘」と噂される。

○「禅源寺過去帳」
塩川伯耆守国満 桃源院殿天岑祥光大居士 天正四年十二月十四日 十六代伯耆守国満公
塩川国満室    祥雲院殿心月妙傳大姉  天正元年十月四日   十六代室伊丹兵庫助親永公娘
塩川伯耆守長満 永祥院殿輝山源光大居士 天正十四年十月五日  十七代伯耆守長満公

○「大昌寺位牌」
大昌寺開基伯耆守秀仲 大昌寺殿前伯州太守義山了忠大居士 寛正二年辛巳三月十五日卒
塩川伯耆守国満 桃源院殿天岑祥光大居士 天正四年十二月十四日卒
塩川伯耆守長満 永祥院殿輝山源光大居士 天正十四年十月五日卒

○「喜音寺位牌」
塩川伯耆守国満 桃源院殿天琴祥光大居士 天正()丙子年十二月十四日 摂州多田庄笹部城主塩川伯耆守国満公
塩川国満・室  祥雲院殿心月妙傳大姉  天正元癸酉年十月四日 


信濃国塩河牧 信濃の塩川氏について


傳曰、重貞病ト称シテ世ニ密シヒソカニ東国武者修行ス、其ノ次手ニ先祖ノ預リ所ニテコトサラ謂有旧所ナレバ、信濃国猿猴ノ牧ニ順著ス、此エンコウノ牧と申コトハ名馬出ル所ナリ、徃昔馬ハ猿ノヒキタル古事有コレニヨッテ自ラ其名ヲ猿猴ノマキト号、満仲卿左馬寮ノ頭タルトキ藤原中務ヲ信濃に遣シ此エンコウ牧支配サセ給フ、後(藤原)仲光ヲ(猿猴ノ牧)主代殿に置タマ井其号塩河と改タマイシ、此ヨリ仲光カ妻ノ弟紀四郎ト云者塩河ノ牧へ遣シ、終ニ其邊に三菴ヲ立猿猴ト云字ヲ音ニ合テ前ノコトク塩河寺ト付ラル、又或説ニ中務馬芸ヲ大ニ得タル故、敏老ノ此遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧に赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一菴ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云、代々此エンコウノ牧ヘハ順行セラレケルトソキコヘシ、コレ當家名字発起ノ牧ナリト云傳、云々(高代寺日記上)

【上田市丸子町の塩河牧】
 『吾妻鑑』にある、承久の乱に鎌倉方として出陣した塩河中務丞の「塩河牧」の場所は、恐らくは現在の上田市丸子町塩川と推測されるが未詳である。隣接する「藤原田」は藤原氏を祖先とする藤原塩河氏の領地があった場所と考えられる。嘉暦四年(1329)の『諏訪上社大宮御造営之目録』に塩川氏の名が見られる。『丸子町史』の見解は隣接する長瀬村の長瀬氏が塩川牧の中心的人物ではないかとして、塩川氏の存在を否定している。『承久記』に塩川三郎の名が見えるが、『吾妻鑑』の塩川中務丞と同一人物なのか、その関係も不明である。
『承久記』に登場する「塩川三郎」は鎌倉方として戦っているが、『間部家譜』に登場する塩川三郎満国ではないかとする説もあるが、前述した「間部家譜」はそれを明確に否定している。
一方、上田市の隣町小諸市には塩川姓が多く、小諸市の郷土史家・塩川友衛氏に話を聞くと、小諸の塩川氏は新田氏の末裔であると言う。吉沢好謙『四隣譚藪』に、「信濃御牧佐久郡方角」と言う絵図に塩川牧の場所が示されており、「耳取村の北に塩川牧あり」としている。

【信州小諸の塩川氏ともう一つの塩川牧】
 吉沢好謙『四隣譚藪』に、「信濃御牧佐久郡方角」と言う絵図に塩川牧の場所が示されており、「耳取村の北に塩川牧あり」としている。『小諸町史』では「丸子町の塩川牧とは別なものと考えられる」としている。塩川牧は二箇所あったようである。信州上田の隣町小諸には塩川姓が多く、小諸市の郷土史家塩川友衛氏に話を聞くと、小諸の塩川氏は新田氏の末裔であると言う。塩川友衛氏から戴いた資料『塩川氏一族先祖精霊供養塔』と「塩川家墓碑」に次のように記されている。「小諸の塩川氏は新田源氏の末裔にして、戦国時代に原美濃守入道左衛門尉信虎は武田氏に属し、その子源左衛門昌胤は武田氏滅亡後、信濃国佐久郡小原村字上塩川の地に帰農し、地名の塩川を名のった。後に、塩川源左衛門一族は小原村西小原の字越後堀から移る。源左衛門の嫡流二十数代を数え、子孫は夫々分家し塩川家八十余戸となる」という富士宮の東ノ塩川氏の祖である野村氏は武田信義の末裔であり、信濃の塩川氏と混同され、口伝が変化していったものと思われる。

 

名古屋大学の塩川教授から富士宮市には塩川姓が多いと聞いたので、早速富士宮市の教育委員会と図書館に連絡をとり、図書館にある史料の複写を送っていただき、本家塩川寿平氏を紹介してもらい富士宮を訪問した。現在、富士宮市には「西ノ塩川氏」と「東ノ塩川氏」という二流の塩川氏がある。「静岡県富士郡大宮町誌」大宮町(大宮町は富士宮市の昔の地名)によれば、塩川惣右衛門尉政治の項に「鎌倉時代の人、野中に住居し、子孫今に在し之を西ノ塩川といふ、東ノ塩川は昔信州塩川村より出で、豊臣氏に仕へたる塩川伯耆守の関ヶ原に敗れて旧里に遁れる途次、野中に匿れ子孫遂に此地に留りたりといふ。」「大宮町誌」によると、この地にとどまった東ノ塩川家第一代は塩川伯耆守とある。本家に残る系図によると、この伯耆守の嫡孫が野中の地での初代とされる甚七郎(明暦三、1657年没)。甚七郎は同一族中で唯一大居士の戒名がつけられている。甚七郎の長女梅野のもとへ、羽鮒村の野村家より養子にきたのが二代目萬右衛門朝信」とある。

 

 富士宮の「西ノ塩川氏」は「上田市丸子町塩川牧ノ塩川氏」が鎌倉時代に移り住んだものと思われる。一方、「東の塩川氏」信濃小諸の塩川氏の一族と考えられるが、『塩川氏系図』から江戸初期に「塩川伯耆守孫太郎信氏の血を引く「甚七カ」が養子に入り、塩川姓となったと思われる。




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