北摂多田の歴史 

  徳寿院 織田信忠側室
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徳寿院は尾張塩川氏 塩川源六郎秀光 (塩川伯耆守長満) の息女



「特集 近江の姫たち」

塩川秀光は尾張国中島郡国府宮村の「大国魂社」の宮司であり、同村に織田信秀の居城「勝旗城」があった。信長はこの城で天文三年に生まれたとされている。織田信秀は池田恒興の母養徳院を側室としている。池田恒興は天文五年生まれで、養徳院は信長の乳母でもある。

 一方、塩川長満は天文七年生まれであり、塩川秀光も同年代と考えられる。織田信長と池田恒興と塩川秀光の三人は竹馬の友であったのではあるまいか。塩川秀光の娘達が夫々信長の嫡男秀忠と池田恒興の嫡男庄九郎元助に嫁いだのではあるまいか。

 塩川吉太夫頼運・勘十郎頼重は摂津塩川城に入った。一方、塩川伯耆守国満の嫡男塩川伯耆守長満は光源院足利義輝が一條辰子に産ませた娘を正室とし、嫡男愛蔵が生まれた。

 塩川秀光は塩川伯耆守長満の影武者か或は同一人物とすれば、織田信長と塩川伯耆守長満とが非常に親密な関係にあったことが納得できる。天正七年、荒木村重謀反の時、塩川長満の古池田の陣に信長も本陣を置いている。

 多田の谷や箕面の谷で鷹狩をおこない、土民の恰好をして、地元の百姓に代官塩川長満の邪正を聞いたと言う。また、村重を裏切った中川清秀には銀三十枚を与えたのに比して、長満には森蘭丸に命じて銀百枚を与えている。荒木村重の家臣や家族等におこなった酷い極刑に比べて家臣思いの真逆の行為である。


国府宮村「大国魂社」神主 尾張国中島郡 尾張塩川氏系図



佐々木氏系図


種村氏と摂津塩川氏の関係図 (高代寺日記)


源長満

天文七年戊戌、四月十一日生、源次郎ト号ス、母伊丹兵庫頭カ娘、十五歳、壬子ノ年中改テ源太ト号ス、弘治元年乙卯正月十六日ノ昼元服、則平野大明神ヘ神楽ヲ進セ、且又、四千八百文ヲ以奉祝進、使塩川民部頼敦・安村勘十郎仲勝タリ、今日諸事役目ノ第一者塩川山城仲延タリ、郎従ト云、一族尤老人故ニ役司ス、仲朝カ子ナリ、長満婚礼ヨリ以前妾多、男女子六人生ムト云共ソタゝス、故ニ辰千代ヲ養子トス、其年(永禄12526)男子生ス、故ニ七之助ト名、或愛蔵々人共云、傳曰、始永禄八年乙丑八月、伯耆守従五位上、同十一年戊辰正月ニ婚礼、三十一歳、室者光源院ノ娘ナリ御コトアリシ時、十三才ナリシヲ攝津ノ国絲丸カ父助十郎コレヲ抱テ多田ヘ退(将軍足利義輝暗殺)、終ニ古伯ノ養育トナリテ如此、是女子ハ土佐ノ一條殿房家ノ落胤辰子ノ腹ナリ、辰子縁アリテ慶壽院殿ニ宮仕シ、終義輝ノシタヒニヨッテ女子ヲ生ム、永禄三年ニ彼女子疱瘡ヲイタワリ其形見悪シ、故ニ尼ニセント兼思ワレケルニ、此乱発テ御父亡給フ、助十郎カ働故ニ、古伯ノ養子トナル、始ノ間世ニ密スト云共、后ニサタアリ、義昭ヨリノ通ハ渡辺宮内取次申サレケルトソ聞ヘシ、世俗ノ沙汰スルハ信長ノ娘ト云リ、當家信長ト甚シタシミアル故ニ推テサタセシナリ、實ハ如此ナリ、(高代寺日記)

〈解説〉『高代寺日記』は塩川長満は永禄1231歳で、光源院足利義輝ノ娘16歳を正室として迎えている。それまでは妾が多くあり男女六人生まれたが、「育たず」と言っている。長満系図の七之助愛蔵・源助・信濃貞行は正妻光源院娘の子と思われる。吉太夫・勘十郎・徳寿院・池田庄九郎元助室は尾張塩川氏塩川源六秀光の子ではないかと思われる。正室の子にしては年代が合わない。



塩川伯耆守長満関係系図
塩川長満には尾張塩川氏と摂津塩川氏の二面性があり、織田信長と塩川伯耆守長満との間には特別な関係があった。

 仮説ではあるが、尾張塩川氏、塩川源六郎秀光(長満?) の系図と塩川国満の子基満(長満・室光源院娘)の系図が一つになっているように思われる。
 
塩川信濃守頼運・勘十郎頼重・寿々姫・池田庄九郎室は塩川源六郎秀光の子であり、七之助愛蔵・塩川源助・塩川信濃守貞行は塩川伯耆守長満の子であると思われる。七之助愛蔵と塩川信濃守貞行は同一人物の可能性もある。

「喜音寺文書」に「長満次男七之助頼運初出家イタシ京都知恩寺住僧後令還俗、秀頼卿江奉公仕其後紀刕大納言様江御奉公仕、其後空亡イタシ、云々」とあり、養子辰千代が長男、七之助は次男であり、その名は「七之助頼運」となっている。系図の塩川信濃守頼貞は「七之助愛蔵」であり、塩川信濃守頼運が養子にしたとも考えられる。

『武徳編年集成』巻之六十七 〇二 (慶長十九年十月)
「當月上旬ヨリ庚子石田ニ與セシ亡命の徒并ニ其子弟臣従或ハ□府東武ヨリ□ヲ得除邑ノ輩且君父ニ背キ落軆ノ士今度大坂挙兵ノ由ヲ聞ト均ク踵ヲ□テ□参ス・・・明石掃部全登、同丹後全延、同八兵衛、同浮田ノ浪人、 塩川淸右衛門、同淸兵衛、同信濃各紀州畠山浪人・・・」(武徳編年集成) →塩川清右衛門は吉太夫頼運、清兵衛は勘十郎頼重、塩川信濃は七之助愛蔵か?

『高代寺日記』元和元年
傳曰、五月七日、大坂落城ノ時、()運者明石掃部ト相備ニテ西ノ先場ニ在陣、其日関東先手ノ軍大将水野日向守ト合戦、大坂勢ハ前田主水正・岡田丹後守且頼運父子三人及家来四十五人上下三百余人厳ク戦フ、其時頼運ノ下知ニ依テ頼覚・頼重・主水・丹後・安村仲則以上五騎自馬下立鑓ヲ合追崩ス、此時仲則ニ名字ヲ許ス、但一代耳、則証文ヲ下授ス、(高代寺日記)

『徳川実記』元和元年五月七日
「明石掃部助全登は四國押のためとて仙波に備しが、此時眞田と諜を合せ、眞田が合戦半に仙波より寺町筋勝曼院の下へかかり、阿部野をおしあげ、寄せ手の後へ切かけんと逞兵三百人を撰び天王寺西の岸陰まで来る所、眞田が軍は既に敗れ、幸村も討死すときき、今は討死せんとそのまま寄手の中へ切てかかる。寄手其猛勇に碎易し、すこぶる潰走らんとするを見て、水野勝成大に怒り、明石が勢を迎へ討。明石小勢なれば忽に打破られ、全登が首は水野家人汀三右衛門討とり、水野勢は残兵を櫻門まで追こみ、勝成は旗を櫻門内へおし立る。此戦に大和組の神保長三郎相茂は主従共に三十六騎同枕に討死す。」(徳川実記)

 




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