北摂多田の歴史 


尾張塩川氏

徳寿院 織田信忠側室

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徳寿院は尾張塩川氏 塩川源六郎秀光 (塩川伯耆守長満) の長女寿々姫


「特集 近江の姫たち」より

『織田系図』織田信忠の項に「塩川伯耆守摂州多田城主女を娶る」とある。


 本能寺ノ変の後、天正十年六月二十七日、清須城で柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉らが集まり織田家の後継者問題が話し合われた。滝川一益は未だ上州の厩橋城に居り、北条氏が本能寺の変を知り上州に攻め入ったため会議に間に合わなかった。信長が本能寺で亡くなると、徳川家康と上杉景勝が信濃国と甲斐国に攻め入り、北条氏政は上野国に攻め入った。世に言う「天正壬午ノ乱」である。信濃の国人領主真田氏は家名存続のため真田昌幸は上杉方となり、弟の真田信尹は徳川方となった。

 清州会議では織田信忠の嫡男三法師(三歳)が織田家を嗣ぐのが正当であると確認されたが、三法師には近江国坂田郡に三万石と安土城しか与えられなかった。幼いために堀秀政が代官に任じられた。秀吉は播磨国に加え丹波国と山城国を加増、柴田勝家には長浜が割譲され於市ノ方を娶った。丹羽長秀には坂本が与えられた。信忠の遺領である美濃国と岐阜城は三七信孝に与えられ、信孝は三法師を岐阜城に呼び寄せ介抱したが、信孝は秀吉の横暴に怒り十二月に挙兵すると滝川一益と柴田勝家も挙兵した。

 秀吉は柴田勝豊の長浜城を攻め取り大垣城に入り、岐阜城の三七信孝と伊勢長島城の滝川一益を攻めた。天正十一年二月、柴田勝家は三万の兵で越前北ノ庄城(福井市)を出陣し、三月九日に玄蕃尾城(余呉町柳ケ瀬)に着陣すると、秀吉は三月十二日に五万の兵で木ノ本に着陣して柴田軍と一ケ月に及び対峙した。四月、秀吉本隊が美濃方面に転戦すると柴田方の佐久間盛政は賤ヶ岳(滋賀県余呉町)の中川勢・高山勢・黒田勢・桑山勢を攻撃し、中川清秀は討死、高山勢は木ノ本の羽柴秀長の陣所まで撤退した。秀吉は美濃から取って返し柴田軍と激戦となり、前田利家が秀吉方に寝返り秀吉の馬廻り衆らが佐久間・柴田の本陣を突き崩し(賤ヶ岳七本鑓の功名)、敗走する柴田勝家を越前北ノ庄城へ追い詰め、四月二十四日(二十一日共)、柴田勝家は於市ノ方と北ノ庄城で自害した。岐阜城の三七信孝は秀吉方についた神戸信雄らに攻められ四月二十九日(五月二日共)知多郡野間の安養院で自害した。滝川一益も伊勢長島城に篭城していたが降伏した。三法師は安土城へ戻されて前田玄以が守役となり、秀吉は三法師の母(塩川伯耆守長満の長女)を質にとった。三法師の母は二十一歳位と考えられ、質とはいうが秀吉の妾にされたのである。

賤ヶ岳の合戦にて佐久間盛政の猛攻により岩崎山砦の高山勢は支えきれず撤退し、大岩山砦の中川の雑兵達も高山勢と共に落ち行く者もある中、中川清秀は踏み留まりついに討死した。四月廿日のことである。去る天正七年、荒木村重謀反の時、高山右近は村重を説得して信長に出仕しようと茨木まで来たところ、中川清秀の反対で村重は謀反を決意した。にも拘わらず中川清秀は妹婿古田佐助らの調略を受けるとあっさりと信長方に寝返り多額の褒美をもらい所領安堵された。そのことが心の重みになっていた清秀はこの戦いで武士の意地を貫き討死したのである。中川淵之助、熊田孫七、熊田兵部、熊田三太夫、森本道徳、山岸監物、杉村久助、森権之進、鳥飼四郎太夫、太田平八、菅杢太夫、山川小七右衛門、その他台所人、小人、中間ら凡そ数百人が清秀に随って戦死した。

 有岡落城後、摂津国は信長により池田恒興、中川清秀、高山右近、塩川伯耆守長満らに与えられていたが、秀吉が摂津国を我がものとするために、池田恒興には大垣城が、池田元助には岐阜城が与えられ、中川秀政(清秀嫡男)は茨木から播州三木に所替となり、播州にて三郡、摂州にて武庫郡、莵原郡、矢田部郡が与えられ、高山右近は高槻から明石に転封を命じられた。塩川伯耆守長満は信長の命により多田塩川城(獅子山城)にあって多田銀山を支配していたが、多田銀山は信長の遺領であると主張して譲らなかったので秀吉は塩川伯耆守長満に対して大いに憤り、多田銀山を手に入れるための理由を画策していた。

 天正十二年、池田元助が長久手の戦いで討死すると岐阜城は弟の池田輝政に与えられ、輝政が三河に移封されると、天正十九年に小吉秀勝(秀次弟)が丹波亀山城から移封された。天正十六年、三法師は九歳で元服し織田三郎秀信と名のった。文禄元年に小吉秀勝が病死すると、信忠の遺領である岐阜城十三万石がようやく三法師(織田秀信)に与えられた。このとき秀信は十三歳であった。翌文禄二年に従三位権中納言に任じられ、徳寿院にも化粧料として美濃国厚見郡東島(岐阜市)に五百石が与えられた。文禄四年(一五九五)頃に秀信は受洗し、異母弟オキチ秀則(霊名パウロ)は翌年受洗した。三法師秀信は岐阜城下に天主堂を建て多くの家臣たちが切支丹になったという。信長の家臣団は三法師に恭順の意を示したわけではなく、秀吉が天下を取ると三法師コト織田秀信は秀吉の臣下とされた。これでは三法師が織田家の家名を相続しただけで、清須会議が秀吉による一方的な論功行賞であったことが明白である。これに対し三法師の外祖父である塩川伯耆守長満は秀吉に対して異議を唱え、秀吉の逆鱗に触れたのである。

 天正十二年三月から始まった「小牧長久手の合戦」にて四月九日、池田恒興・元助父子は討死し、池田元助の側室(塩川伯耆守長満の娘)は一條内基の政所となり、姉の鈴姫も一條内基の北政所となっっていた。慶長十年(1605)五月二十七日、織田秀信が関ヶ原合戦で敗れ、高野山の麓で逝去(病死あるいは自害)すると鈴姫は出家し、徳寿院と称した。時に秀信は廿六歳、徳寿院は四十六歳位であった。一條内基は慶長十六年(1611)に薨去した。(荒木略記)


池田恒興 池田元助   鳥取歴史博物館
 

 慶長五年1600)八月、関ケ原の戦いのとき、岐阜城主であった織田秀信(三法師)は徳川家康の上杉討伐に出陣する予定であった。舅である和田孫大夫は大坂方に人質になっていた秀信の内室(和田孫大夫娘)を大坂から助け出した。しかし、家臣の意見が分かれて出陣に間に合わず、石田治部少から美濃と尾張二カ国を与えるという誘いに乗り西軍に味方した。すでに清州城に集結していた東軍の池田輝政、福島正則、堀尾、山内、一柳、浅野、田中、加藤、細川、藤堂、伊井、本多ら三万五千人に攻められ、秀信幕下六千五百余人は城を出て迎え撃ったが敗れ、岐阜城に篭城し、弟の秀則らと自害しようとしたが、家臣に説得されて開城した。秀信は岐阜の圓徳寺で髪をおろし高野山に追放されたが、受け入れられず麓に住し、慶長十年(1605)五月八日に歿した。病死あるいは自害とされている。享年廿六歳であった。異母弟パウロ秀則は寛永二年(1625)京都で歿したという。

「織田系図」


「織田秀信像」  「秀信の甲」     「織田家祈願所「圓徳寺」繪葉書」
 

「岐阜城絵図」 







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