北摂多田の歴史 
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上司小剣 研究

かみづかさ しょうけん  
作品の中の郷土「多田」

 島村抱月と

本名は紀延貴
 
父は紀延美
(のぶよし)(天保6年5月21日~明治26年9月13日)  
母は幸生
(こう)(明治18年6月7日没)
 兄・延詮(明治4年8月3日没)
姉・喜子
(明治6年八月17日没)は早世

小剣略歴
 奈良手向山八幡宮の神主の家で上司の丘に住んだので、紀氏から上司姓に変えた。父は上司家次男だったので、奈良を去って摂津多田の宮司となった。母が37歳で早世し、12だった。後妻に村の笹部秀を迎えたが、母の一周忌の命日に死去した。その妹を第三の母とした。小説「父の婚礼」「第三の母」に書かれる。明治20年小学校卒業で大阪の母の実家に預けられた。22年に大阪予備校に入るが、26年に父が死去し、退学して小学校の代用教員となり、この頃西村天因の門下生となり、堺利彦と親交。宮司の仕事を継がず堺の勧めで301月上京する。3月読売新聞入社。以後24年間の間、43年には文芸部長兼社会部長、大正4年編集局長・文芸部長・婦人部長兼任。明治34年岡本ゆきと結婚。同35年より文筆に入り、風刺的連載エッセイを綴り、389月に「小剣随筆その日々々」を出版。大町桂月が斉藤緑雨と並び称した。読売新聞社に入ってきた正宗白鳥と親交が始まり、旧知の堺の勧めで幸徳秋水に深く影響され、自らの道をみつけようとする。その後「文章世界」「早稲田文学」「中央公論」に単編を多数発表し、大正31月「鱧の皮」を「ホトトギス」に発表して文壇地位を得た。

 父延美は、慶応四年多田院別当として家族を連れて奈良から赴任する。多田院には43家の多田院御家人衆と10家余の長谷川侍衆の他に、6家の禰宜があった。多田院は幕府の朱印地であっために、別当は五年に一度江戸表に参勤し、将軍家にお目通りして挨拶する慣わしであった。しかし、明治になって、廃仏毀釈と版籍奉還により、多田院領500石が召し上げられ、多田院別当は多田神社宮司となった。今まで500石の領主然としていた暮らし向きが、突然収入が無くなったにも拘らず、生活は今まで通りの暮らしである。残された仏像や調度品を形に借金で家系は苦しくなった。同様に、多田院別当に仕えていた長谷川侍衆も、年10石の扶持がなくなり没落した家もあった。

小剣の父上司仲臣の金銭借用証文 刀、短刀、大小一腰の刀剣を抵当に入れている。

  多田神社宮司を継いだ延貴は多田小学校の代用教員を兼務していたが、明治30年1月24日 、田舎の貧乏村社の宮司に見切りをつけて多田を出奔し上京、東京読売新聞社に入社する。残されは禰宜達はしばらく途方にくれていたが、禰宜の一人、福本丈夫氏は、当時三田波豆川から来ていた西中青年を、明治38年4月1日、養子に迎え、東京国学院大学で宮司の資格を得させ、明治44年4月卒業と同時に、福本家長女輝子と婚姻、多田神社宮司を拝命し、福本賀光と名乗った。次代宮司福本賀弘氏は多田村最後の村長であった。

 一方、上司延貴はペンネーム上司小剣の名で執筆活動に入り、明治38年「読売新聞」から「随筆・その日その日」を上梓した。昭和22年9月2日脳溢血で逝去するまで筆を執った。その作品の中には明治・大正時代の多田の風景を描き込み、多田の住人を主人公にした現代小説があまりにも辛辣且つ風刺的であったために、一部で排斥運動が起こり、有名な郷土の作家でありながら、多田を出奔した人とされて、今まで取り上げられてこなかった。川西市教育委員会でも度々取り上げようとしたが、一部の排斥者が圧力をかけた。また『太政官』などで、主人公にされ悪口を書かれたとされる人達がまだ多田に居るとして、その作品の存在も無視された。小剣研究者の詩人大塚子悠氏も、「読めば読むほど、小剣は多田を愛していなかったことが読み取れ、多田を愛する僕としてはこれ以上研究するのが嫌になった」とさえ言はしめた。しかし、『父の婚礼』や『天満宮』で、小剣は父の浮気癖やそのことで母が気が狂った様子を辛辣に描いている。「別当は僧體であったから・・真言律で、魚は喰えず、牝猫も飼へなんだが、・・還俗して神主になり・・張りきつた馬の手綱を切ったやうなもんや。・・平野屋のお源を手始めに、方々で撫で斬りや。云々」と父親の素行を非難したり、母親は大阪の病院へ入院して、ついには発狂して家に戻ってきて死ぬまでを描いている。『兵隊の宿』『東光院』『お光壮吉』などでも自分を主人公にして自らを曝け出している姿を見ると、小説家としての狡猾な創作意欲を感じる。客観的に捉えれば、昔の多田の風景・風俗がその作品の中に読み取れ、史料価値が非常に高いのである。小剣がこの多田でいつまでも、なぜ排斥されるのか理解できない。

参考文献:『川西史話・上司小剣の文学と多田』 『源頼光勲功記・福本賀光年譜』

年齢
32 38 「小剣随筆」「その日その日」・読売新聞
33 39 「簡易生活」「三寸」
34 40 「凶器」・新文芸 「絶滅」・9月週間社会新聞
35 41 「神主」・八月新小説 「こんな人」・11月新小説
36 42 「きりぎりす」・1月新小説 「人形」・2月文章世界 「閑文字」・6月早稲田文学  「親類」・7月中央公論
「蚤」・8月秀才文壇 「鮎」・8月読売新聞 「空気ランプ」・9月読売新聞  「提燈」・10月文章世界
「畜生」12月中央公論
37 43 「反古」・1月秀才文壇 「画中の人」・2月文章世界 寺の客」・4月新小説 「獺」・4月趣味
木像 「鈴虫」・8月中央公論 「矛盾」・8月文章世界 「位牌」・8月太陽
「松茸」・12月文章世界 開帳」・六月早稲田文学
38 44 「指」・12月読売新聞 「本の行方」・3月太陽 「長火鉢」3月新小説 「鷺」・4月中央公論
「円い顔」10月太陽
39 45 「プシの剥製」2月文章世界 「椿の花」3月太陽 「春雨」・4月文章世界 女犯」・7月中央公論
「処女」・8月新小説 「祭の後」・9月早稲田文学 「松の樹」・9月文章世界
「畑」・11月太陽
40 2 「誕生の僥倖」・3月文章世界 「低能児」・3月太陽 「武士道」・4月早稲田文学 水曜日の女」・8月中央公論
「膳」・8月新潮 「彼の一日」・9月文章世界 「善人国」・10月早稲田文学
「住吉踊」・12月中央公論
41 3 東光院」・1月文章世界 鱧の皮」・1月ホトトギス 「猫と人と」・1月早稲田文学 「白い壁」・4月文章世界
「妹より」・5月太陽 「紫の血」・5月中央公論 夏太郎」・5月新潮 「無籍者」・7月中央公論
「魚の目」10月文章世界 「百日紅」・10月太陽
42 4 兵隊の宿」・1月 父の婚礼」・1月ホトトギス 「汽車の中で」・1月文章世界 太政官」・4月太陽
随筆「小さき窓より」・4月 美女の死骸」・8月中央公論 「東下り」・9月新小説 「日射病」・9月早稲田文学
助役」・新潮 「第三の母」・4月文章世界
43 5 「孕み女」1月新小説 雀の巣」・1月ホトトギス 「巫女殺し」・中央公論 洪水」・2月新潮
「春は悲しや」・3月太陽 「石女の写真」・中央公論 「暴力」・4月新小説 「早婚」・4月新小説
「引力の踊」・8月早稲田文革 「草ひばり」・10月新小説 「福の神」・11月新潮
44 6 生存を拒絶する人」1月新小説 「下積」・文章世界 「子を棄てる籔」4月中央公論 「紙の石塔」5月中央文学
「流星」・文章倶楽部 「歯が痛い」7月文章世界 「処女から女に」・平和出版 「惰力」8月新小説
暴風雨の夜」11月太陽 「紅蓮」・12月中央公論 「金曜日」・新潮
45 7 「髭」・1月早稲田文学 「針供養」・3月中央公論 「血」・文章世界 「狂犬」5月新潮
「踏み潰された帽子」10月三田文学 「巨人の出現」・10月太陽 悪魔の恋」・11月新潮 空想の花」・12月中央公論
46 8 「平和狂」・1月新公論 新しき世界へ」・2月文章世界 「天才」・3月太陽 「狼の番人」・早稲田文学
「美人国の旅」・4月大観 「黒王の国」・6月中央公論 「愛国者」・7月改造 分業の村」・8月中央公論
「分教場」・9月太陽 「福松の信仰」・10月早稲田文学 「拒婚同盟」・11月中央公論 応帝」・12月新潮
47 9 「鐘が淵」・1月改造 「月見草」・3月新小説 「石童丸」・4月大観 「刑餘の姿」・8月時事新報連載
「花道」・9月時事新報連載 「琵琶歌」・10月中央公論 「微笑」・11月改造 「賽銭」・新小説
「双璧」・人間 ごりがん 石川五右衛門の生立
48 10 「画餅」・1月大観 「葡萄酒」・解放 「上酒婆」・早稲田文学 「東京」・2月東京朝日新聞 愛欲編
「安眠先生の従弟」・3月新小説 「金比羅参り」・4月太陽 「鼠の追物」・5月人間 「こだま」・5月赤い鳥
「妻団子」・婦人公論 「仏壇」・7月太陽 「地下室の機関夫」・東京第二部中央公論
「薙刀」・新小説 「紙幣を煮る鍋」・東京第二部 「鈴が鳴る」・9月国粋 「屋上の雑草」・東京第二部
「金貨」・東京第二部 「東京第一部愛欲編」刊行
49 11 「かくし髷」2月太陽 「幽霊」東京第二部・2月解放 長編「花瓶」・3月 「ベルの音」・東京第二部・4月解放
「邏卒」5月表現 「乞食の世界」・5月赤い鳥 「二老人」・6月新小説 「鯉」7月赤い鳥
「東京」第二部「労働編」 「鏡に向かいて」東京第二部・9月解放 「幸福人」・9月太陽 」・11月新小説
50 12 「祭日」・東京第三部・1月解放 「河豚を喰った夜の芭蕉」・新小説 「ある女」・女性 「不思議なかみそり」・1月赤い鳥
「女護の島」3月東京日日新聞他 「画になる話」・3月サンデー毎日 「蒸気ポンプ」・4月新小説 「紫式部の恋」・4月女性
「赤い室」東京第三部・5月解放 戯曲「高さを競う」・6月中央公論 「弓削道鏡」・7月女性改造 長編「早婚者の手記」前編
「銅屋の子」・8月赤い鳥 「東京」第三部「闘争編」 「池」9月太陽 「医学博士」・11月我観
51 13 「上野島」・1月赤い鳥 「杢兵衛の死」・3月女性改造 「ユウモレスク」・4月婦人公論 「松平備前守」・5月赤い鳥
女帝の悩み」・6月中央公論 長編「女護の島」刊行 西行法師」・8月中央公論 短編集「ユウモレスク」刊行
「青い時計」・8月赤い鳥 「水瓜」・9月文壇 「猫ぎらい」・10月世紀 「貫一と兵隊さん」・11月赤い鳥
52 14 短編集「西行法師」・8月中央公論 「狼と犬」・1月赤い鳥 「光男の猟銃」3月赤い鳥 「雲雀と鴨」・6月赤い鳥
「眼の凄い男と旅人」・10月赤い鳥
53 15 「菅家の話」1月赤い鳥 「真珠とり」・8月赤い鳥 「松茸狩」・11月赤い鳥
54 2 「采女の力」・1月赤い鳥 「太閤さんのお粥」・5月赤い鳥 「プロレタリア文芸総評」・7月中央公論
「金の指輪」・10月赤い鳥
55 3 「東京」・第一部「愛欲編」・第二部「労働編」・第三部「闘争編」刊行 「熊と狼との角力」・2月赤い鳥 「鳥と猫とのたたかい」4月赤い鳥
「西瓜どろぼう」・7月赤い鳥 「碁から野球へ」10月赤い鳥
56 4 長編「歌の翼」前編・3月東京日日新聞等に連載 「遍照金剛」11月文芸春秋
57 5 「東京」・第四部「建設編」2月 現代日本文学全集第22巻・4月 明治・大正文学全集第32巻・10月
58 6 「菅公と乙彦の笛」・2月赤い鳥
59 7
60 8 「蜘蛛の饗宴」・5月中央公論 「米」・7月経済往来 U新聞年代記」・11月中央公論
61 9 「米」続編・6月中央公論 「荘子」・6月新潮  「涙の踊」・7月中央公論 少年時代の愛読書」6月書物展望
62 10 「女夫饅頭」・1月文芸春秋 「父母の骨」・2月中央公論 「英雄崇拝」・6月文芸春秋 「売卜者」・10月中央公論
63 11 「寝物語」・3月中央公論 「蓄音機読本」・6月文学界社出版部 「新聞」・7月文芸春秋 緑雨の思出」8月書物展望
64 12 「平和主義者」・4月中央公論 「黄金花咲く」長編・福岡日日新聞連載
65 13 「Aの妻Bの夫」・2月文芸春秋 石合戦」・5月中央公論 「旅人」・7月文芸春秋
66 14
67 15 「政治と文学の関連」3月文芸春秋 清貧に生きる」随筆集・4月千倉書房 「恋枕」・5月中央公論
68 16 余裕」随想集・3月東洋書館 生々抄」随想集・8月大東出版
69 17 「伴林光平」・10月厚生閣 「文学者と思想戦対策」10月新潮
70 18 「源頼朝」・7月日本産業新聞に連載
71 19
72 20 「女性解放」・12月熊本日日新聞に連載
73 21 菅原道真」歴史小説・3月生活社 「砂糖一斤」・9月創造 「サラサアテの顔」・10月苦楽 「恋の比丘尼」・12月サロン
74 22 「浪花節イデオロギー」・2月苦楽 「春のめざめ」・2月太平 「未亡人」・2月文化展望
「蚤」・6月新潮 「墓」・10月新文庫 <絶筆>
「上司小剣選集」第一巻「平和主義者」11月育英社
「上司小剣選集」第二巻「蜘蛛の饗宴」1月育英社
文潮選書六「木像」・文潮社

「妾垣」   「死刑」    「空想の花」      「石川五右衛門の生立」      『高さを競ふ』 
「春栄」・文芸倶楽部   「寶刀」     「佛壇」     「黒蟻と赤蟻」      「日蔭」     「石」      「美人畫」
「金塊」       「虱」      「かぶりもの」     「粗食の偉人・伴林光平」    「寄世祝・愛國百人一首のうち伴林光平の歌」

「女犯」       「英霊」     「筍婆」



作品の中の多田の風景


『天満宮』
多田院を天満宮と称して、宮司である父の暮らしぶりと母が大阪の病院に入院し、退院して死ぬまでを描いている。

「竹丸の家は天満宮(多田院)の別当筋で、別当は僧體であったから、血脈はつづいていないが、第四十五世別当尊祐の代になつて、国の政治に改革が起り、封建が廃れたので、別当の名で支配していた天満宮(多田院)の領地二ヶ村半(多田院村・新田村と東多田村の半分)、五百石を上地し、別当は還俗して神主になり、云々」

『あんたの阿母の来やはった時は、えらつこツちやツた。七荷の荷でなア。・・・今でも納戸におまツしやろ、あの箪笥や長持は皆阿母が持つて来やはつたんや。あの長押に掛けたある薙刀も。・・・嫁入りの荷の来る時、玄関で薙刀を受け取るのがむつかしいいふて、わたへや忠兵衛はんが竹竿で稽古したもんや』

「この屋は昔しの六坊の一つであった梅の坊といふ建物である。東の坊に中の坊に梅の坊に西の坊に北の坊に知足坊の六坊の中で、西、北、地足の三坊は疾くに廃絶して、その跡は竹薮になっているが、東、中、梅の三坊だけが上地の時まで残って、村の人は東さん、中さん、西さんと呼んでいた。別当の館は・・・天満宮の本殿、拝殿と並んでいた。その館のことを昔しは役所と言ひ、別当の旨を受けて狭いながらも独立した領地の裁判をする代官が詰めていた。その北には祭事を扱ふ御供所があり、その東には形ばかりの空濠に臨んて、小さい牢屋があった。接近した他領の民(川向の西多田村は藤原氏の領地だった)が、或る悪事をして捕へられさうになると、よく天満宮の領地へ逃げて来て、別当に縋つてこの牢屋に入れて貰ったといふような昔話も残っている。」

「そのころまだこの村へは汽車が通じていなかった。電車なぞはどこにもなかった。竹丸は千代松に連れられて村から一里あまり距つた小さな町(池田)まで、水の美しい山川に添ひつつ歩いて、そこから人力車で五里の道を大阪へ行った。」

「千代松と竹丸とは、・・・北野からまた合乗りの人力車に乗って帰ったが、ちょうど半分道ほど来た時、向ふから若い男と女とを乗せた車夫が『売るか』と、声をかけて車夫同士客の取り替へッこの相談を始めた。棍棒と棍棒とをすれすれにして、何か知ら符牒で暫く話し合っている中に、忽ち纒りがついて、千代松と竹丸とは向ふから来た車に乗せられ、若い男と女とはこっちの車にのつて、車夫は互ひに別れの懸け声をして、各々来た道を引き返した。

「山川の曲がって流れているところまで来ると、そこからが天満宮の昔の領地で、『殺生禁断』と、深く刻つた大きな石標が川端に苔むして、倒れそうになったまま立っている。」

『鹿島一日、下はん半日、休み嫌いの仙蔵はん、なほも嫌いの糸瓜はん』と、定吉は、村の草刈童のよく唄ふ歌を高い声で唄った。」今日は久し振りに降った雨を喜ぶ『あまよろこび』の休みが一日、村の若い衆や草刈童や雇人たちに与へられて、農作物のよく実るのを祝っているが、近ころは頓とこの種の休みが尠くなって、昔し鹿島大盡が庄屋であったり、下はんと呼ばるる好人物の旦那が村の支配者であったりした時、一日或は半日の休みが終始貰へた時代を謳歌する声が、今の若者たちに間にまで響いている」

【解説】「鹿島家」は東多田の牛谷家の分家で、江戸と大坂に分家して、大きな酒問屋を営み、互いに跡取り息子の無い時には養子を遣り取りした。

『父の婚礼』
 登場人物は『天満宮』と同じで、続編である。母亡き後、父が平七の肝煎りで、30歳も年下の、千代松の娘であるお時を後妻に迎える短編である。

「婚礼は旧暦の十月の亥の子の日であつた。庭の柚子が真ツ黄色に熟して、明神の境内には、銀杏の落葉が堆かつた。村の家々ではお萩餅を拵へ、子供たちは亥の子藁といつて、細い棒をシンに藁を束ねて縄でキリキリと堅く巻いたもので、ポンポンと音させつつ地べたを打つて、『亥の子ろ餅や、祝ひまへうかい。』と叫んでいた。

『兵隊の宿』
【解説】『兵隊の宿』と『東光院』を書き直して、合わせて、書き足したものが『お光壮吉』である。
「大国屋」の女将お光(「えびす屋」の女将清水重さんがモデル)と小池壮吉(自分自身がモデル)との逢引を描いた小説、実際のお重さんは小剣よりも一回り以上年上。

  
【解説】モデルになった「大国屋」の裏の猪名川、小説に度々出てくる大国屋の建物は是非保存すべきである。「えびす屋」は取り潰されて今はもう無い。その他に「ほてい屋」と云う食事処もまだあり現在も営業している。昔この場所に板橋が架かっていた。この橋は『太政官』にも登場する。この場所は『石合戦』の舞台にもなった。


「昨日は今日と違つて、空がどんよりと曇つて、暖かい南風が吹いていたので、一里南を通る汽車の笛がよく聞こえた。久し振りで大阪の午砲(どん)も、船場辺で聞くよりはハッキリと響いた。其の時直ぐに店の時計も自分の懐中時計も午砲に合はしておいたから、今日の自分の家の時間は確かである。」

【解説】「一里南を通る汽車」とは国鉄福知山線である。「大阪の後砲(どん)」とは、大阪城の大砲が正午に空砲が撃たれていた。それが多田でも聞こえたと言う。

『東光院』
お光と小池が汽車に乗って近くの「東光院」へ参詣に行き、宿で一泊すると言う話である。
「東光院の堂塔は、汽動車の窓から、山の半腹に見えていた。・・・・小池は窓の外ばかり眺めて、インヂンから飛び散る石油の油煙にも気がつかぬらしく、・・・・」

【注釈】鉄道は汽車と汽動車の2種類があって、汽動車はジイゼル機関車のことらしい。」


上司小剣について                      大塚子悠
 欧米の文化が流れ込んできた明治時代、文学者は小説に憧れ、小説家の道を目指した。この時代、彼らは新聞社に入り、執筆に精を出す。新聞社も、人気の小説で販路を広げようとする。そんな時代の文学について、新しい照明を当てようとする機運がある。
 明治の文学者と言えば、まず夏目漱石をあげる人が多いだろう。その夏目漱石が、最初の作品「吾輩は猫である」を発表した同じ頃、多田から上京した上司小剣が、読売新聞社で「小剣随筆・その日その日」を出版していた。お互いに、初めての作品を手にしていた、こんなことを知るだけでも、文学研究は面白い。
 漱石の親友・正岡子規が亡くなった時、東京読売新聞に掲載された切々たる追悼文は、上司小剣の手になるもの。小剣が入社した当時の東京読売新聞は、尾崎紅葉の「金色夜叉」で一気に販路を拡大しようと試みる。三面の記者として、そんな社内の様子をじっと見つめる上司小剣。彼も小説家への道を求めていた。
 寡黙な彼は、堺利彦の紹介で入社したことは語っても、それまで過ごしていた多田の地を離れた経緯を語ろうとはしなかった。長年文芸部長、婦人部長を務め、編集局長まで務め、四十七歳で、作品「伴林光平」で菊池寛賞を受賞する。昭和二十一年には「芸術院会員」になるが、翌年九月永眠する。
これほどの彼が、長く住んだ多田の地では、知る人の少ない存在、あまり好まれる存在ではなかったのはどうしてか、これが私の最大の関心事であった。四十年間、ずっと小剣の研究に協力してくださった郷土史研究家・中西顕三氏の協力で、やっとその謎が解けた。多田在住の漢学者(俳人)の日記『華屋漫筆』が発見されたのである。晩年小剣は、宗教雑誌「大法輪」に多くの作品を寄せていたことも、中西氏の取材で明らかになった。多田を出た経緯も明らかにしなかった彼の内面にも、研究が進むことになるだろう。
 そんな中で、更にうれしいニュースがある。長年上司小剣研究に心血を注いでこられた近代文学研究家・吉田悦志氏が、「上司小剣論」を出版されたことである。この吉田氏の研究によって、小剣研究に一本の背筋が入り、研究も第二ステージに入ることになるだろう。折しも、近代文学館では、『上司小剣コレクション目録』もできたと聞く。
 小剣研究は、これからの研究にかかっている。彼が多くの作品化した多田の自然を知る地元から、情熱的な研究者が出て欲しいと期待している。作品分析だけでなく、サラリーマンとしての新聞記者生活を研究するのも楽しいだろう。彼は、新聞社の内部も克明に描写している。明治という時代にあって、女性の活躍を期待した進歩的な文学者でもあった。
  今、織田作之助生誕百年で、作品「夫婦善哉」に新しいスポットが当たっている。この作品も、小剣の作品『鱧の皮』の影響が色濃く出ていると、研究者は指摘する。近松門左衛門からの一連の浪花文学の系譜を追う上でも、更なる研究が期待される小説家の一人と言っても過言ではあるまい。



上司小剣の排斥運動について
 
 『華屋漫筆』の作者藤井鼎石氏は「華屋庵・藤井鼎左」の養子である。藤井鼎左(1802~1869)は元福山藩士で、松尾芭蕉終焉の地 (大阪御堂前・花屋仁右衛門宅で没す) で華屋庵を結び蕉風俳諧の宗匠となった。金之助コト藤井鼎石は小剣と親しく、鼎石氏の日記『華屋漫筆』には、小剣が多田から東京へ出奔する時の様子が詳しく記録されている。また、小剣の多田での友人であった、二階堂退省師 (『ごりがん』のモデル)、その弟の石香、三砂、西村周、川久保氏、於重(戎屋)さんのことにも触れている。小剣の多田出奔 (明治30年1月24日) が秘密裏に行われて、大騒ぎとなり 、鼎石氏らが広根の郡庁や福竹多田村長に根回し、神田氏からの借金も取り次いだ様子がこの日記に伺える。

 小剣は秘密裏に多田を出奔したために、それを知った多田神社の禰宜達は大混乱に陥ったらしい。多田神社の東にあった禰宜町には、七家の禰宜 (福本氏、清水、山本氏、山本氏、秋庭氏) が住んでいた。『源頼光勲功記』によれば、禰宜の福本丈夫氏は多田院に出仕していた、まじめで優秀な若者であった三田市波豆川村の西中青年を、明治38年4月に養子に迎え、国学院大学神職養成部に入学させて、明治44年卒業と同時に、福本丈夫氏の長女と結婚させ、晴れて多田神社の宮司を拝命し、福本賀光と名乗ったようだ。この福本丈夫氏と賀光氏の懸命の努力によって多田神社の今の繁栄があると言っても過言ではない。

 その後、小剣は度々隠れるようにして多田に帰省している。作品の中でも、多田での体験をテーマに『太政官』、『父の婚礼』、『兵隊の宿』、『ごりがん』、『生々抄』など多くの作品を残している。しかし、その作品の中に描かれる多田と多田の人々を、「片田舎」「田舎者」として風刺的に描いている。そして、父親や母親をテーマに描いた作品も風刺的で、親子の愛情はあまり窺えない。多田神社の祭神である源満仲公さえも、官位は低く、安和の変での裏切り者と批判している。多田神社の宮司と言う父から譲られた神職を継いで片田舎に埋もれるのがいやで、家業であった神職を投げ出したことが、多くの批判をかって、今日でも小剣の多田での存在が多田や川西市では取り上げられず、未だに排斥されていると云う、こう云った保守的な対応は如何なものかと思うのは私だけであろうか・・・。

 
【華屋漫筆】より抜粋
明治30年1月
(二十三日 晴)  暮方上司子に行く、子嘗ってより東上の意止まず、この日遂に意を決し後事を西子に托し覊旅の途に上ることとなりければ、別れを叙し再開の契を結びて帰りぬ、上司子ハ平野に行くといへば、相共に平野に廻り塩川という所にて別れぬ、上司子の東上に心ばかりの銭したる包紙の端に書付侍る、忘れても咲き劣りすな江戸の花に

(
二十四日 晴)  無事、平安
上司子、今朝は疾く行李を擔ひて東上の途に上れりしなるべし、予は故ありて其行を送らざりし、今宵は東海道線中の車中に夢に故山を逍遥し、既往将来の感の脳裡に住来せるならん、

(二十五日)  今宵は最早東京の着せるなるべし、宿所は真に報ずべしと約したれば知らせくるるべきも、子は彼の紹介書らよりて予が企望を満足せしめたるか、無二の知己が送れりし紹介は、定めて子の満足を与えたらん、予は子が江湖に放浪するを愁れうるものにあらず、予は子が大業を成立せんことを願うて止まざるものなり、
(二十七日)  上司子の東上ハしばらく秘密なりしも、今日より発表することとなりて、ついては、西子 三砂 予と三人は、家財のかたづけや、引き渡しをなせしが、いろいろと面倒おこりて、片付かざりし、夜はまた川久保に行きたり、

上司子、於重に聞く、上司子の東上するや、大阪にて石香子を訪ねて別れを叙し、上司子其情に禁えず、石香の座にあらざるをみてはせいず、石香まで躡して、梅田の停車場に至る、子すでに車室にあり、車は運転を始めつつあり、石香すなわち車窓に座り、内外相語りてつきざるも、何時迄も為し居らざるべきならねば、ついに相別れたり、上司子や眼中涙を浮かべ、悄然情にたえざるものありしと鳴々就あるべし、子や既に東京に着せるなるべし、予や日々報を待つ、今だあらず、上司子いかにせしや、

(三十日)  家に帰る、上司子の書状到来せると、子やいまだ居宅をしめさず、携室の中なりとて、西村方より発したるなり、東京赤坂区中之町 西村方
昨日、上司子より書状来れり、筆硯殊に多忙のよし、如何とあんじたりしに、先ずは重盈の事安心せり、宿所も選択したりとなり、
東京京橋区築地二丁目五番地 谷尾方 上司延貴


上司小剣と小林一三翁

 小剣は「僧家の兄弟」と題した随筆で、畏友二階堂退省の次男天常と四男兼世の思い出を書いている。その中で小林一三宅を訪問したことに触れて・・・「私は彼(兼世)を伴ふて、池田の雅俗山荘を訪問した。これは小林一三先生のお屋敷である。両三年来の宿約で、『大阪へ来たら是非来てくれたまへ、見せるものがある』とのことであった。有名なお茶席大小庵に案内され、美しい令息夫人のお手前で薄茶をすすめられた。相客には小林家お出入りの蒔絵師三砂良哉氏 (みさごりょうさい・1887~1975) が、あらかじめ電話で呼ばれてあった。昼餐の御馳走になった上、おいとまして、・・・云々」とある。また、「箕面山の紅葉狩」と云う随筆の中では・・・「一昨年の夏のこと、池田の小林さんから突然手紙が来て、寶塚の映画雑誌が添えてあり、来月東京寶塚劇場の雪組公演を観てくれとのこと。今夜の汽車で東京の宅へ帰る、とあったから、永田町のお邸へ承諾の返事を出すと、やがて劇場の入場券が来た。指定の日に定刻前に行ってみると、小林さんはちゃんと、私の席のすぐ隣りの椅子に腰をおろして待って居られた。云々」と書いている。


「仙台四郎」と「中山の亀さん」
 
 仙台四郎は本名を芳賀四郎と言い、鉄砲鍛冶の息子で、明治
35(1902)七歳の頃、花火見物に行った時に広瀬川に落ちて意識不明になり、的障害、知恵おくれになった。言葉も片言しか話せず、長じて、街中をニコニコと歩いては食べ物をもらったり、箒が立てかけてあれば道を掃いたり、子供をあやしたりと人気者になっていたが、「四郎バカ」と馬鹿にする人達もいた。その内、何故か、彼が立ち寄り食べ物をもらう店は繁盛し、彼が店先を掃く店は客がよく入るようになり、四郎に抱かれた子供は健康に育つと噂が立つようになった。そうなると今まで馬鹿にしていた店も彼を招き入れ食べ物を与えようとしたり、わざと箒を立てかけて置いたりしたが、そんな店には四郎はけっして立ち寄らなかったと言う。鉄道までも無料で仙台から白石や白河まで出かけるようになったと言う。現代でも彼は「福の神」として、彼の写真や姿絵を店先に掲げている店が多い。

仙台四郎 


 こんな話を知ってか知らずか、小剣の随筆に『中山の亀さん』と言う仙台四郎と似た人物が中山寺界隈に居たと言う話がある。

「私の幼時、この中山寺に亀さんと呼ばれる得体の知れない人物が居った。ちょっと目には乞食と見えるが、本当の乞食でもなく、・・・中山寺門前の茶屋、料理屋、宿屋が、争って彼に食物や飲料を供給したのに始まる。・・・「亀さんがおもらいに来てくれはった日は、きッとお客が多うて、商売が忙しい。」といふのである。・・・亀さんはたちまち、福の神と崇められて、その来るのを待ちかねて用意の食物を与へる。・・・、自然に、軒並みの飲食店が競争して、亀さんのために美味をつくる。なかには、亀さんを一と手に独占しようとするものがあって、これに一室と寝具とを供給したが、ところが定めぬ風来生活に慣れた亀さんは、そんな窮屈な束縛生活は絶対に拒否して、相変わらず中山寺の仁王門や諸堂を自由生活の対象にしていた。・・・官設鉄道までが、亀さんに限って、無賃乗車を許していた・・・。神崎まで歩いて、そこから、大阪の梅田駅へ汽車に乗るのである・・・神崎でも、梅田でも、大手を振って改札口が通れた・・・・云々」

中山寺門前町には今でも「津の国屋」さんが商いされていて、御主人に伺ったが、そんな話は聞き始めだと言うことで、亀さんの存在はもう既に忘れ去られてしまっている。この際「福の神」として売り出してはと提案したが、中山寺は安産帯で知られているから、必要ないとあっさりと断られたのは残念だった。


多田小學校

川西市立多田小学校「稽古照今」によれば、明治五年太政官「学制」布告により、川辺郡は「第三大学区、第二十三番学区に属す」となっている。明治十二年には、「学制を廃止し、「教育令」を公布した」としている。明治十二年十一月五日に「久邇宮朝彦親王殿下より、多田小学校の五文字を御親書ありて下賜される」とある。明治期の多田小学校(兵庫県川辺郡多田村)は新田、平野、東多田、多田院、西多田、矢問、柳谷、芋生、若宮の九ヶ村からなり、芋生(熊野神社)に支校が置かれたとしている。

明治期の多田小学校は多田駅から多田院に至る途中の、新田の桜並木の西外れに洋館風の建物としてあったのであるが、小剣の小説では、新田村の有力者の某氏(小剣は太政官と名指している)が尽力して小学校も役場も新田村に建設したが、その洋館は安普請で二階の天井が落ちて壊れたらしく、多田院村が多田の中心であるから、現在の多田院に役場も小学校も移したと述べている。  

上司小剣の小説「石合戦」に出てくる明治の多田小学校の描写 
「竹丸の通う小學校は、付近九ヶ村組合の設立で、馬場先の松並木の中ほどに、そのころとては立派な、山奥の田舎に珍しい、木造洋館の白亜であった。正面が二階造り、左右に兩袖を引いて、中庭には、西洋式庭園を設け、鐡柵に石の門、鐡の扉といふ、見かけだけは堂々たるもの。二階の上望樓があって、そこに太鼓を吊し、正面に、青蓮院の宮、還俗遊ばされて、中川の宮となられ、更に久邇宮と称せられた幕末の傑物、維新後は神宮祭主として、神事にのみ奉仕された朝彦親王殿下御揮毫の「多田校」の三字の大扁額がかかっていた。白紙への御染筆を、そのままガラス張りにして、金網で覆ってあった。」

注・「馬場先の松並木」とあるが、現在の桜並木の道は能勢電鉄開通後に、多田駅から多田院にかけて真っ直ぐに付け替えられた新道であり、旧道は猪名川沿いの堤防に沿って、塩川橋を渡って今の桜並木の道よりも川寄りにあったらしい。

小剣の小説「生々抄 一条院門跡」に出てくる話から 
私の学んだ山間の学校へ、殿下が「多田校」と大きく御家流の美事な御手蹟で白紙へ御揮毫になったのを賜はり、それが額に仕立てられてガラスと金網とを張ったのが玄関の上にかかっていた。「二品親王朝彦書」といふ御落款が貴く幼いものの眼にも拝された。この御揮毫をいただきに、私の父は、多田仙と呼ばるる植木屋西村仙蔵という人とともに、殿下の御殿へ伺候したのであった。この多田仙は面白い男で、農夫から植木屋に転業し、蘭や万年青の変種作ることに妙を得て、・・・・蘭や万年青のお好きであった殿下に、変種の金龍変を献上して、「多田校」の御揮亳を頂いたのであった。」


元・西村仙蔵氏宅 (現在は別家が所有されている・文化財級の建物で・庭園も京風に改造され別世界となっている。見学できないのが残念)

小剣の小説「石合戦」に出てくる小学校二階崩落事故
新築後数年の校舎も、ごまかしの安普請は覿面で、そのころのことだから、・・・二階の一室の床が、突然墜落して、眞下の職員室へ、・・・天井とともにばッたりとなった。そのとき二階は村役場になっていたが、執務中の吏員等は、なんだか風船にでも乗ったような心地で、ふうはりと、なんの危険もなく、下の職員室の大卓子の上へ載った。・・・折柄授業中で、職員たちは一人も居らず、・・・怪我人がいなくて済んだのは、何よりだった。」


「父母の骨」 より 大正5年頃の「能勢電」と「多田御社道」の風景描写

「梅田までタクシー、それから郊外電車で、北へ五里、猪名川の清流を渡って少し行ったとこで、大きな電車から小さい電車に乗り換へる。初めて見る変わった風景を、京子はひとりでさわいで喜んでいた。・・・・・・・私には、幼時まだ電車なんぞの出来るずツと前、猪名川に沿ふた小都会へ、山奥一里の村から時折り通った懐かしい思い出の道を、電車が、それに沿ふたり、横切ったりして行く。狭い単線だから、山の裾になると、その旧道の端へ寄せて線路が敷いてある。「珍らしいでせう、こんな山の中 !」京子にさう言ひながら、五百枝は、車窓に迫る山腹を仰いで、苔の生えた大きな岩がによツきり頭を出している方を指さした。この辺には松茸がよく生えるのだ。山と山が東西から迫っていて、その間を窮屈さうに、岩を噛んで、清流が北から南へ走っている。京子や五百枝には初めて見る筏ていふものが、川上から落ちるやうにして流れて来た。若い筏師が、古襦袢に古腿引の寒そうな姿で、長い竹竿を操っている。川の右岸を走っていた小さい電車は、危ツかしい曲線をして、裸の鉄橋を左岸へ渡った。・・・・・・・山と山との間を潜るやうにして、電車は小さな平野へ出た。」

【注】梅田から阪急電車に乗り換えて、能勢口駅で能勢電に乗り換え、鼓滝鉄橋を渡る。
 「旧道の端へ寄せて線路が敷いてある。」

「四方を山に取り囲まれて、北と西とに山又山が重なり合っている。茅葺の小部落が、山の裾のところどころに見える。瓦葺きに、白壁の光る地主の家があちこちに二三軒づつ、茅葺きの家に混っている。小作争議のシムボルの如く、それがいまの人の眼には映るのであらう。一番大きい瓦葺きは寺の本堂だ。地主の名も寺の名も、私は一々おぼえている。ペンキの剥げた小さな待合所に、『血煙天明陣』の映画のポスターが、秋風にひらひらしている。そこへ私たちはお小夜婆アさんを先頭にして下りた」」

【注】鼓滝から多田駅までの東多田の風景、地主の家とは西村仙蔵氏宅、寺とは光遍寺である。そして多田駅で下車する。


「『お父ちゃんは、ここで生れたんぢゃないが、生れてすぐここへ連れて来られたんだ。あすこに大きな森があるだらう。あれはお父ちゃんのお父さん、お前のお祖父さんの神主をしていたお宮だ。あすこでお父ちゃんは育ったのだ。』私は、しみじみと、京子にさう言ひ聞かせて、行く手に見える鬱蒼とした大きな森を指さした。・・・・松や杉の大樹生ひ繁った境内は二町四面で、城郭のやうに、石崖と濠とがめぐらしている。濠は一間幅で、水も乏しいが、明治維新前は、石崖の上に白壁の土塀があって、更に立派だったとのこと。・・・・・私たちのいま歩いているのは、このお宮の馬場先きで、二十年ほど前までは、両側に大きな松の樹が並んで、よい参道であったが、いつの間にかその松かさの多い並木は伐り拂はれ、両側に見窄らしい店屋や長屋が、乱雑に建って昔の静寂な趣は少しも残っていない。・・・・」

【注】塩川橋から多田神社を見た描写である。馬場先と呼ばれていた。昔はもっと川沿いに松並木の御社道があった。


「単線の田舎電車で、三十分間も待たなければならぬのが、更に私の心を悲痛にした。漸く上り電車が来たころは、春栄ももう諦めて涙を乾かし、にツこり笑顔を見せていた。・・・・・小さい車内はガラ空きで、私たち三人と、五個の箱と人夫二人とを載せても、なかなか食ひ足りないといふ恰好であった。・・・・・・この小さな電車は、福知山線の△△駅が終点になっている。・・・・・」

【注】多田駅から乗って、終点の能勢電川西池田駅で降り、帰りは福知山線で大阪へ向かったようだ。


小剣の随筆に見られる 多田院の祭礼南無手踊り
  
写真『尼崎市酒見泉金堂謹製』絵葉書より
*「源氏まつり」のパフォーマンス鬼はこの「南無手踊り」の左右の二匹の鬼の衣装がルーツのようだ。

上司小剣の小説『石合戦』のくだりである。「毎年八月二十七日、それは千年足らず前に、満仲の死んだ日で、多田神社の大祭であった。陰暦を陽暦に換算もせずに、そのまま陰暦を用いて行われていたから、大抵陽暦の十月初旬で、年によって薄寒かったり、また蒸し暑かったりした。近在で、たアねん祭り(多田院祭)といへば、単衣の人もあり、袷せの人もあり、なかには綿入れの人もあるところから、服装のまちまち―延いては意見の區々―といふ意味に通用して、いろいろの場合に、「まるで、たアねん祭りやがな」といふ言葉が出た。」

また、小剣の随筆『南無手踊り』のくだりである。「・・この南無手踊りといふのは、大和の方にあった雨乞ひの踊りを、改作したもので、なかなか立派なものである。・・可なりな費用をかけて、美しく仕上げたので、それには、もはや雨乞ひの意味はなく、そこにある幕府の朱印地の大きな両部の神社の祭礼に、賑やかし、すなはち余興として奉納したものであった。・・この神社の祭礼は、例年旧暦の八月二十七日で、年によると、まだ残暑の強いことも稀にはあったが、大抵は陽暦十月二三日といふころだから、暑からず寒からず、好晴の秋日和が多かった。南無手踊りは、この日と、その前日の宵宮とに催されるのであった。」


多田院と長谷川侍

長谷川侍 
多田院領の多田院村・新田村・東多田村の中から十六家が長谷川侍として多田院別当の側用人として侍の身分で、俸禄十石の扶持米で多田院に出仕していました。また、多田院禰宜町に、福本家・清水家・秋庭家・山本家の八家の禰宜がありました。小剣は小説『天満宮』に次のように書いています。

「天満宮には別当、六坊、社家の外に、八十人の御家人と、十六人の長谷川組といふものとが、近郷近在に散らばっていた。御家人といふのは祭神の家来筋といふことで、昔から苗字帯刀を許されて、郷士のやうな格になっていた。長谷川組といふのは別当の家来で、儀式の時だけは帯刀を許される武士格ではあるが、御家人に比べると一段劣るのである。」

  多田院 多田院の宮司の子として明治期に多田院で育った小説家・上司小剣は随筆『梅の坊物語』の中に、多田院の様子を次のように書いています。
 
 「私の幼年時代を送った家は、もと多田院といふ寺領五百石を有した神仏混淆の寺の塔頭梅之坊の址であった。神仏混淆を禁ぜられた明治初年に別当が死んで、そのあとへ私の父が神職として乗り込んだのであったが、別当の邸はあまりに広すぎて、これからの維持に困難だといふので、六坊の一つ梅之坊の仏くさい部分を取除いたり、改築したりして、そこを社務所兼神主の住宅としたのであったさうな。私が奈良で生まれて、その家へ父とともに住むようになったのは、よほど後のことであるが、それでも私の家、すなはち梅之坊のあとには、まだ仏くさいところがあった。多田院はむろん多田神社となっていた。元来、多田院の塔頭は東から順に数へて、東之坊、中之坊、梅之坊、西之坊とが、別当邸、石の鳥居(その奥に中門)、釈迦堂と向ひ合って並び、釈迦堂の横手が知足坊、その後に北之坊があったといふ話である。しかし、六坊が揃っていたのは文化年度ごろまでで、その後は東之坊、中之坊、梅之坊だけになっていた。さうして、神仏混淆禁止とともに、東之坊、中之坊もとり壊され、梅之坊の建物だけが残ったのである。      

【摂津名所図絵】


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