北摂多田の歴史 

「摂津国多田庄」の歴史



第一話・古代の風景

『住吉大社神代記』(原本・天平3年・731年、写本・延暦8年・789年)

『豊嶋郡城邊山 四至 限東能勢國公田。限南我孫并公田 限西為奈河 限北河邊郡公田右。杣山河元。昔橿日宮御宇皇后所奉寄供神料杣山河也。元偽賊土蛛造作斯山上城?居住。略盗人民。軍大神悉令誅伏。吾杣地領掌賜。山南在廣大野號意保呂野。山北別長尾山。山岑長遠。號長尾。山中有澗水。名塩川。河中涌出塩泉也。豊嶋郡興能勢國中間在斯山。號城邊山由土蛛城?界在 因山中有直道。天皇行幸丹波國還上道也。頗在郊原。百姓開耕號田田邑。一。河邊郡為奈山別名。坂根山 四至限東為奈川并公田。限南公田。限西御子代國堺山。限北公田。并羽束國堺 右。杣山河領掌之由同上解。但河邊。豊嶋兩郡内山惣號為奈山。別號坂根山 昔大神誅土蛛宿寝坂上。仍號坂寝山。山内有宇禰野。天皇遣采女令採柏葉。因號采女山。今謂宇禰野訛。御子代國 今謂武庫國訛。一。為奈河。木津河。右河等領掌縁同上解。但源流者従有馬郡。能勢國北方深山中出。東西兩河也。東川名久佐佐川流通多拔山中。西川名美度奴川。流通美奴賣乃山中。兩河倶南流逮于宇禰野。西南同流合。名號為奈河。西邊有小野。當城邊山西方。名曰軍野。昔大神卒軍衆為撃土蛛御坐地也。因號伊久佐野。河邊昔居山直阿我奈賀。因號阿我奈賀川。今謂為奈川「就」訛。大神現霊男神人賜。令流運宮城造作料材木為行事賜。時斯川居女神欲成妻。亦西方近在武庫川居女神亦欲同思。兩女神成寵愛之情。而為奈川女神懐敵妻之心発嫉妬。取大石擲打武庫川妾神。并其川引取芹草。故為奈川無大石生芹草。武庫川有大石無芹草。兩河一流合注海。依神威為奈川于今不入不浄物。領掌木津川等此縁成。』

「豊嶋郡城辺山(きのべやま) 東は能勢国の公田、南は我孫並びに公田、西は()奈河(ながわ)・公田、北は河辺郡の公田に至る。右の杣山河のはじめは、昔、神功皇后が供神料とされた杣山河なり。以前、土蜘蛛族らしき賊がこの山の上に城と穴を造り住み、略奪行為をしておりました。住吉大神が悉くこれを退治して、吾が杣山とされた。山の南に広大な野があり、「()()()()」と名付けられた。山の北に別に長尾山あり。山の峰が長く遠いので長尾と名付けた。山中に谷川が流れ、塩川と名付ける。川の中に塩泉湧き出るなり。豊嶋郡と能勢国との間にこの山あり。城辺山と名付ける由縁は土蜘蛛族の城塞の堺にある為なり。山中に直道があり、天皇が丹波に御幸して還り給える道なり。山の中にしては少し広い原があり、百姓が開耕し、田田邑と名付ける。 

一、河辺郡の為奈山、別名坂根山 東は為奈川並びに公田、南は公田、西は御子代国(武庫郡)の堺の山、北は公田並びに羽束国の堺に至る。右の杣山河を領掌した訳は前述したが、但し、河辺・豊嶋両郡の内の山すべて為奈山と名付ける。別名坂根山 昔、住吉大神が土蜘蛛族を退治して坂の上に寝ころばれたので、坂寝山と名付けた。山の内に「宇禰野」あり。天皇が采女(うねめ)を遣わして柏葉を採らせたので、采女山(うねめやま)と名付けた。采女(うねめ)宇禰(うね)()と訛ったものである。御子代(みこしろの)(くに)を武庫国と訛ったものである。

一、為奈河・木津河 右の河を領掌した由縁は前述した如くなり。但し、源流は有馬郡と能勢国の北方の深山より出で、東西の両河なり。東の河は久佐佐川(能勢を流れる川)と名付け、山中をめぐって流れきたる。西の川は美度(みと)()川(六瀬川)と名付け、美奴売(みぬめ)(能勢郡美奴売山・三草山)の山中を流れきたる。両方ともに南に流れて宇禰野(畦野)におよんで、西南に同じく流れ合い、名付けて為奈河と云う。西の辺に小さき野あり、城辺山の西方に当る。名付けて(いくさ)()と云う。昔、住吉大神が軍衆を率いて土蜘蛛を撃とうと御座(ましま)しし地なり。因って()()佐野(さの)と名付ける。川の辺に昔、山直阿(やのあたひあ)()奈賀(なが)(神別・天御影命十一世孫山代根子之後也)と云う者が居り、因って、阿我奈賀川と名付く。今、為奈川と謂うは訛ったものなり。住吉大神、霊男(くすしき)神人(えをとこ)に現れ賜い、宮城を造作すための材木を流し運ばせた。時にこの川にいる女神が妻になろうと欲す。亦西方近くにある武庫川にいる女神も、また同じ思いを抱き、両女神寵愛之情をなす。而して為奈川の女神は正妻の心をいだいて嫉妬して、大石を取り武庫川の(をむなめの)(かみ)(うはなり)()ち、川の芹草を引取る。故に、為奈川に大石なくて芹草生え、武庫川には大石あって芹草なし。両河一つに流れ合いて海に注ぐ。神威に依りて、為奈川は今に不浄物を入れず。木津川等を領掌(しろしめ)すは此の(ことのもと)なり。

城辺山(きのべやま)」とは池田市木部(きのべ)あたりの山で、住吉大神が(そま)(やま)とされたとある。そして、昔、山の中に少し広い平地があり、百姓が開墾して田を開き「()田邑(だむら)」と呼ばれていたとある。しかし、九頭の大蛇が住むと云う湖と滝のことは一切触れられていません。塩川と云う川の中に塩泉が湧き出る処があると言っています。「平野湯」の源泉を見つけたのは源満仲公だとする説を否定しています。昔、土蜘蛛と云う賊が城を造って住み、里人を苦しめていたのを住吉大神が退治したと言う話は、満仲公の九頭の大蛇退治伝説に似ています。また、猪名川は為奈川と記され、阿我奈賀川の訛ったものだと言っています。昔は猪名川を利用して材木を上から流して宮の造営に使っていたらしく、猪名川と武庫川は一つに合流して海に注いでいたとあります。

『住吉大社』は摂津国一ノ宮で祭神は「底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后」です。

伊弉諾尊は火神の出産で亡くなった妻の伊弉冉尊を追い求め、黄泉の国に行きますが、逆に汚れを受けてしまい、海に入り禊祓いをしたときにこの三命が誕生しました。神功皇后は第十四代仲哀天皇の妃で、新羅征伐に出兵するときに住吉大神の力を得ました。身重だった神功皇后は新羅から還って直ぐに後の応神天皇を出産します。
因みに、清和源氏の守り神になった石清水八幡宮の祭神は誉田別命(第十五代応神天皇)・宗像三女神・息長帯姫命(神功皇后)です。


『摂津国風土記・逸文』より
「住吉」は住み良し所
『摂津国風土記逸文・住吉』の条に、
『摂津国の風土記に曰く、住吉と稱ふ所以は、昔、息長足比賣の御世、住吉の大神現れ出でまして、天の下を巡り行き、住むべき國を?ぎたまひて、時に沼名(ぬな)(くら)の長岡の(さき)に到り、述べられた。「こは実に住み良き國也」遂に褒め称えて「真に住み良し、住吉國なり」と述べられ、社を建てられ、今の人々これを略して須美乃叡(すみのえ)()う』


神功皇后と御前濱 武庫
『摂津国風土記逸文・御前(みさきの)(はま) 武庫』の条に、
人皇十四代仲哀天皇、三韓を攻めむとして筑紫に到り崩御される。いま氣比の大明神はこの帝なり。その妃、神功は開花天皇五世の孫、息長宿禰の女なり。是に、軍を発して三韓を討伐せる時、当に産み月であった。石を取りて其の腰裳に挟みて、産まざらむとしたまひき。遂に新羅高麗百済に入りて、皆悉く臣服して筑紫に還り到りて、皇子を産む。是、誉別天皇なり。皇后は攝津国の海濱の北岸の廣田郷に到る。今、廣田明神と云うは是也。故に其の海辺の浜を御前浜と云う。又、兵器を埋めし処を武庫と云う。其の誉田天皇(応神天皇)は今は八幡大神なり。

高句麗の第十九代好太王の碑文『広開土王碑』に「新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していたが、倭が辛卯年(三九一年)に海を渡り、百済・加羅・新羅を破り臣民としてしまった」とあります。『日本書記』によれば、第十四代仲哀天皇の妃が神功皇后で、その皇子が応神天皇です。この記事は神功皇后の三韓征伐と合致します。

その後『宋書』によれば、我国は「倭の五王」の時代に入り、「讃・四二一年と四二五年に朝貢」(第十七代履中・第十五代応神あるいは第十六代仁徳)「珍・四三八年に朝貢」(第十八代反正あるいは第十六代仁徳)「済・四四三年に朝貢」(第十九代允恭)「興・四五一年に朝貢」(第二十代安康)「武・四六一年に倭国王称ス」(第二十一代雄略)となります。この頃は古墳時代全盛期で、難波ノ宮に都が置かれ、四世紀後半から五世紀にかけて百済・新羅・高句麗と戦いました。羽曳野の応神天皇陵のある古市古墳群と仁徳天皇陵のある百舌古墳群がそれに当ります。

六世紀に入って、第二十六代継体天皇(応神天皇の五世の孫)が現れて五〇七年に樟葉で即位し、六世紀中頃に飛鳥に都が遷り、大和朝廷が形作られました。七世紀末から八世紀にかけて後期古墳群「高松塚古墳」や「キトラ古墳」が造られて、やがて古墳時代も終りを告げます。




古墳時代『かわにし川西市史』の解説によると、

「古墳時代は三世紀末から七世紀までの四百年間で、前期古墳は三世紀末から四世紀末に丘陵に建設され、大部分が前方後円墳で、竪穴式であった。中期古墳は四世紀末から五世紀末に、台地や平野に前方後円墳が小山のように盛り上げて造られ、周囲に濠をめぐらせた大型のものが多い。後期古墳は六・七世紀に造られ、数も多く、円墳・方墳で横穴式である。」と述べている。

『川西市史』と『川西市文化財マップ』によれば、当地方の代表的な古墳として次のような名前をあげています。

(三世紀末から四世紀)
万籟山古墳(前期古墳・前方後円墳・長尾山)
長尾山古墳(前期古墳・前方後円墳・宝塚市)
茶臼山古墳(前期古墳・前方後円墳・池田市)

(四世紀末から五世紀末)
御願塚古墳(中期古墳・伊丹市)
伊居太古墳(中期古墳・尼崎市)

(六世紀から七世紀)
勝福寺古墳(後期古墳・前方後円墳・六世紀初頭・川西市火打) 横穴式石室
中山古墳(後期古墳)
鉢塚古墳(後期古墳・池田市鉢塚町)
長尾山丘陵古墳群(後期古墳)
平井・雲雀山古墳群(後期古墳)

(その他詳細不明)
萩原古墳(川西市萩原ニ丁目)現在は失われている。
横山古墳(池田市古江町)
木部山古墳群(池田市中河原)
鼓ヶ滝古墳(川西市鼓ヶ滝)現在は失われている。
東多田松ヶ芝一号墳(円墳・川西市東多田字松ヶ芝)
東多田松ヶ芝二号墳(円墳・川西市東多田字松ヶ芝)
東多田松ヶ芝三号墳(円墳・川西市東多田字松ヶ芝)
東多田上ヶ芝一号墳(円墳・川西市東多田字上ヶ芝)
東多田上ヶ芝二号墳(円墳・川西市東多田字上ヶ芝)
厳険古墳(円墳・川西市多田院)

松ヶ芝3号墳                                  上ヶ芝1号墳



土蜘蛛
『摂津国風土記逸文・土蛛』の条に、
『摂津国の風土記に曰く 宇禰備の可志婆良の宮に御宇しめしし天皇の御世、偽者土蛛ありき。此の人恒に穴の中に居り、故に賊しき號を賜ひて土蛛と曰ふ。』
「土蛛」とは土蜘蛛族のことで、太田亮氏著『摂津』にも、この『摂津国風土記逸文』を引用して、『摂津風土記に曰く、畝傍の柏原の宮のスメラミコトの世、土蜘蛛のように常に穴の中に住んでおった人々があり、土蜘蛛と呼ばれていた』と記している。

銭谷武平氏はその著「役の行者ものがたり」の中に、
「舒明天皇の頃、この葛城の茅原には古くからの豪族である加茂氏の一族が住んでおり葛城の山の神を「鴨社」に祀っておりました。葛城氏というのは、加茂氏とはちがって、もともとこの地に昔から住んでいた土着の民ではなく、そのもとをたずねると、神武天皇にしたがって、はるばると九州からやってきたのです。そのときに、葛城山に古くから住んでいた土蜘蛛という人たちが、激しく抵抗したので、たいへん苦しめられました。ようやく、かれらをみな殺しにして国造になったのが葛城氏の祖先なのです。その土蜘蛛族の住んでいた洞穴を、葛を編んで網にして塞いで捕らえたので葛城氏と呼ぶようになった。」と述べています。

■『摂津名所図会』の有馬郡の項に次の記事が見えます。
「蜘蛛瀧・鼓ヶ瀧の奥にあり。むかし此瀧に大なる土蜘蛛棲んで、樵夫を悩せしなり。因是領主これを退治けるとぞ。」
有馬に「鼓ヶ滝」と称する滝があります、その上流に「蜘蛛滝」があると言う。

■『常陸風土記・茨城郡』の条に、
『昔、この地に国巣都 知久母またの名を夜津賀波岐 がいた。この国巣はあまねく土窟を掘って、つねにこの穴にいた。人がやって来ると窟に入って身を隠す。人が去ると、また郊外に出て遊ぶ。狼のような性質で、梟の性情を持っていた。ネズミのように窺って人の物をかすめとる。手なずけられず、風俗も著しく異なっていた。・・・・』

■『出雲風土記』にも「阿世郷の古老の伝として、昔、ある人が、阿世郷に田んぼをつくっておったとき、一つの鬼が来て田んぼをつくっている男を食った」とある。
土蜘蛛族は小人族で人食いの風習を持っていたとされ、摂津風土記逸文・常陸風土記・出雲風土記・播磨風土記・肥前風土記・豊後風土記等に見え、日本全国に土蜘蛛族の説話があり先住民であったようです。


〈外部リンク〉ホモ・フローレシエンシス Homo floresiensis




美奴賣(みぬめ)
(かみ)

『摂津国風土記云 美奴賣松原 今稱美奴賣者 神名 其神本居能勢郡美奴賣山 昔 息長帯比賣天皇 幸于筑紫國時 集諸神祇於川邊郡内神前松原以求禮福 于時 比神亦同來集 曰吾亦護佑 仍諭之曰 吾所住之山有須義乃木 宜伐採 為吾造船 則乗此船而 可行幸 當有幸福天皇 乃隋神教 遣命作船 此神船 遂征新羅 一云 于時 此船大鳴響 如牛吼自然従對馬海 還到此處 不得乗法 仍ト占之 曰神霊所欲 乃留置 還來之時 祠祭此神於斯浦 併留船 以獻神 亦名此地 曰美奴賣』

『摂津国の風土記に曰く、 美奴賣の松原。今、美奴賣と稱ふは、神の名なり。其の神、本は能勢郡に居りき。昔、神功皇后が筑紫國に行かれた時に、諸神祇が川辺郡内の神前の松原に集って、福を求禮した。其の時に此の神も亦集い来りて、吾も亦護り助けむと云う、すなわち諭して曰く、吾が住める所の山に杉の木有り、よろしく吾が為に伐採して船を造るべし、則ち此の舟に乗りて御幸あそばされるとまさに幸福あり。皇后が神の教えに随いて船造りを命じられた。此の神の船で新羅征伐を遂げられた。一人の人言う、時に、此の船大きく鳴り響いて、牛が吼えるが如くいとも簡単に、自ずから對馬の海より此の処に還りつきて、すなわち之を占えば、神霊の欲する所に船を留め置く、還り来りし時、この浦に此の神を祠祭し、併せて舟も留め以って神に奉った。此の地を亦の名を美奴賣と言う。』

神功皇后が新羅征伐に御幸されるときに、諸々の神達が、現在の尼崎市神埼(神前)の松原に集った。其の時、能勢郡に居た美奴賣と云う神もまた集りに加わり、能勢郡の杉の木で船造りを勧めた。皇后は美奴賣神の云うとおり船造りを命じられた。此の神の船で新羅征伐を成し遂げられた。一人の人言うには、其の船は大きく牛が吼えるが如く、いとも操船が簡単で、新羅征伐を為し遂げると、またもや自ずと進み還り着いた。そこで、美奴賣神に感謝を捧げて、帰り着いた浦に祠を造り美奴賣神を祀り、その船も奉納したので此の地を美奴賣と呼んだと云う。因みに此の神社は神戸市灘区岩屋中町にある式内社「敏馬神社」であると言う。

『摂津名所図会』に「三草山は旧名敏馬山といふ。敏馬神初て此山に天降り給ふ。後世江莵原郡敏馬浦に遷す」とある。

美奴賣神は敏馬神とも書き、「本は能勢郡に居りき」とある。『能勢の昔と今』によれば、

「三草山の古名は美奴賣山と云い・・、能勢郡南西部にそびえ立つ五六四㍍の山で、美奴賣神は、ここ三草山に住んでいた・・。三草山西麓を越えるサイノカミ峠から南を望むと、右手六甲山から・・武庫・敏馬浦を航行する船の姿まで見られる」(能勢の昔と今)

その後、三草山と呼ばれるようになったのは、

「三草山には剣尾山と同じく日羅上人が開創した清山寺があって、・・天空から白髪の老翁が三草を持って現れ、これを上人に授け給うた。上人はこの三草を拝すると千手観音と不動明王と毘沙門天に変化したことから、山号を三草山とした」(能勢の昔と今)

式内社・能勢の「岐尼神社」
杵宮とも言われ、現在の祀神は瓊々杵尊・天児屋根命・源満仲とされているが、古くは「枳根命」一座であると考えられ、一説には、この枳根命は龍神・美奴賣神を祀る龍女であったと言われている。この龍女が昔から神人氏と対立して、多田満仲公の夢に現れ神人氏すなわち能勢の九頭の大蛇を退治して「龍馬」を与えらる話が『前太平記』に見えます。そして後になって満仲公も「岐尼神社」に祀られました。




渡来系の匠集団為奈部首

 為奈部首は、『新撰姓氏録・摂津国諸蛮』の項に
「為奈部首。百済国の人、中津波手自り出づ」とあります。此の為奈部首は木工技術者集団で、『日本書紀』応神天皇三十一年八月に

「即引之及于聚船、而多船見焚、由是、責新羅人、新羅王聞之、?然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也」とあり、

「昔、船溜まりに停泊していた多くの船が燃えてしまい、新羅人がその責めを負わされた。新羅王は之を聞いて驚愕し、能匠者を貢いだ。彼等が猪名部の始祖となった・・」とある。


『兵庫の中の古代朝鮮』段熙麟著によれば、
①新羅系の渡来人秦氏は豊嶋郡秦上郷・秦下郷(池田市・箕面市)で機織りをして繁栄していたという。
②猪名川町木津あたりには楊津ようしん郷と云い、百済から渡来した漢あや系の楊津造氏・楊津連氏がいたという。行基(父方は百済系の豪族)はここに楊津施院という寺院を建て、昆陽寺(昆陽施院)と同じ人民救済施設としたという。
③尼崎市東部は坂合郷(雄上郷)と云い、百済から渡来した坂合部首氏が定住し土木集団であったという。






大神郷(おおむちごう)
新撰姓氏録」は弘仁六年(八一五年)嵯峨天皇により編纂された古代氏族名鑑です。その『新撰姓氏録・摂津国神別』の条に、「神人。大国主命の五世孫、大田田根子命の後なり。」とあります。川西市多田はその昔大神郷(オオムチゴウ)と呼ばれていました。佐伯有清氏は「神人は舎人や宍人に似て、かつて在地にあって国造に準ずる有力者であり、その子弟が番を作って朝廷に上り、神祇関係の業務に服した」と述べています。

東多田上ヶ芝・松ヶ芝古墳群は大神氏の一族と何等かの関係があるのでしょうか。平野地区には延喜式内社「多太神社」があり、現在は「たぶとじんしゃ」と呼んでいますが、本来は「ただじんじゃ」と呼ぶべきで、明治以降「多田院」が「多田神社」となった為に、あえて「たぶとじんじゃ」と読んで区別しているようです。この「多太社」は古く平安時代に編纂された延喜式神名帳(九二七年)に載っている「式内社」で、大神氏の氏神であったと考えられます。

現在の「多太神社」の祭神は「日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)大鷦鷯(おおさざき)(みこと)(第十六代仁徳天皇)・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞鳴尊・大田田根子命」ですが、古くは「大田田根子命」が主祀神一座と考えられ、「多太」の名前の由来になったと考えられます。『日本書記』では「大田田根子」、『古事記』では「意富多多泥古」と記されます。

伊弉諾尊・伊弉冉尊―素盞鳴尊―事代主―大国主命―大物主命―大田田根子命は系図として繋がります。伊弉諾尊・伊弉冉尊が「筑紫ノ日向ノ橘ノ小戸ノ阿波岐原」で禊祓を行い産まれたのが天照大皇神・月讀三貴子命・素盞鳴尊で、素盞鳴尊の子が大国主命で、また其の子孫が大物主命で、大物主命の五世の孫が大田田根子命とされ、神人の三輪氏・大神氏・加茂氏の祖です。


「多太神社」



『日本書紀』によると、
「三世紀、崇神天皇の七年に疫病と災害で国が治まらなかった。天皇は「天照大神」と「倭大国魂」の神々をお祀りしてもうまくゆかず、神浅茅原に行幸され、八十万の神たちを集められて占いをされた。このときに、神明倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り「天皇よ、どうして国が治まらないのを心配するのか。もしよく私を敬い祀れば、かならず平穏になる」と言う。天皇は神の教えどおりに大物主神を祀ったが、いっこうに効きめがなかった。再び大物主神に祈ると、夢のお告げで「私の子の大田田根子に、自分を祀らせれば、たちどころに平穏になるであろう」と言う。

そこで天皇はひろく天下に布告して大田田根子を捜させたところ、茅渟県の陶邑で大田田根子を見つけ出されて、大物主神を祀る神主とされ、奈良の三輪山に祀られた。大物主命は八岐大蛇を退治して草薙剣を得た出雲系の神である素盞鳴尊の子孫です。


神人為奈麻呂と能勢町
能勢郡にも神人(みわびと)(みわの)(あたえ)が住んでおり、『続日本紀』に「延暦元年(七八五年)正月癸亥廿七。摂津國能勢郡大領外正六位上神人為奈麻呂」とあります。『続日本紀』によれば和銅六年(七一三年)に能勢郡が独立します。久佐々神社を氏神とする土師氏の一族が住んでおり、神人氏の為奈麻呂が支配していたと考えられます。

式内社・能勢の「久佐々神社」 
『新撰姓氏録・摂津国神別』の条に、「土師連。天穂日命の十二世孫、飯入根命の後なり。」とある。『日本書記』雄略天皇十七年三月戌寅条に「詔土師連等、使進応盛朝夕御膳清器者。於是、土師連祖吾筍、仍進摂津国来狭々村、」とあります。

『能勢町史』は「来狭々村の人々が雄略朝に朝夕の供御の膳を盛る食器を朝廷に献上する贄の土師部であった・・」と述べています。

天穂日命は、神話では天照大皇神の第二子とされ、中国地方平定の為に出雲の大国主命の元に遣わされますが、逆に大国主命に傾倒してしまいます。現在の久佐々神社の祭神は「加茂別雷神」ですが、古くは天穂日命であったものを神人氏の能勢支配によって賀茂別雷神になったと考えられます。



鴨部(かもべの)(はふり)と川西市加茂の「鴨神社」
『新撰姓氏録・摂津国神別』の条に、「鴨部祝。賀茂朝臣と同じき祖。大国主神の後なり。」とあります。佐伯有清氏は「鴨部祝は賀茂氏一族あるいは賀茂氏に隷属していた氏族で、賀茂神社を奉祀する神職であったことにもとづく
川西市加茂の式内社「鴨神社」は現在の祭神は「加茂別雷神」としているが、古くは加茂氏の氏神「事代主神」であると思われる。」と述べています。

「加茂神社」


 多田満仲公が住吉大神のご託宣により、九頭の大蛇に象徴される出雲系の神人氏を滅ぼして、かつて住吉大神の杣山であった銀銅の産出するこの多田庄を手に入れたのである。

「九頭大明神」川西市東多田
 





古代の大王家



『日本書紀 第九巻 神功皇后』

爰伐新羅之明年春二月、皇后、領群卿及百寮、移于穴門豐浦宮。卽收天皇之喪、從海路以向京。時、麛坂王・忍熊王、聞天皇崩亦皇后西征幷皇子新生、而密謀之曰「今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。」乃詳爲天皇作陵、詣播磨、興山陵於赤石、仍編船、絚于淡路嶋、運其嶋石而造之。則毎人令取兵、而待皇后。於是、犬上君祖倉見別與吉師祖五十狹茅宿禰、共隸于麛坂王、因以、爲將軍令興東國兵。

新羅征伐の明くる年春二月、神功皇后は群卿百尞を率いて穴門(長門)の豐浦宮に移られた。天皇の遺骸をおさめて海路より京に向かわれた。そのときに、籠坂王忍熊王は、天皇が亡くなり、皇后は新羅を討ち、皇子が新たに生れたと聞いて、密かに謀って、「今、皇后には皇子があり、群臣は皆従っている。きっと幼い王を立てるだろう。我々は兄であるのにどうして弟に従うことができようか」と言った。そこで先帝のために陵を造ると偽って、播磨に行き、明石に山陵を造ることにして、船団を編成し淡路島に渡って、その島の石を運んで陵(五色塚古墳神戸市)を造った。人々に武器を持たせ皇后を待った。ここに、犬上君の祖倉見別と吉師の祖五十狭茅宿禰は籠坂王の側につき、将軍として東国の兵を起こさせた。

時、麛坂王・忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰祈狩、此云于氣比餓利「若有成事、必獲良獸也。」二王各居假庪、赤猪忽出之登假庪、咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰「是事大怪也。於此不可待敵。」則引軍更返、屯於住吉。時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船廻於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。」

時に、籠坂王忍熊王は共に兎餓野で于氣比餓利(神意を伺う占い)をして、「このことが成功するならきっと良い獲物がとれるだろう」と言い、二人の王は仮の桟敷に居られると、赤い猪が現れ籠坂王を食い殺した。兵達は怖じ気づき、忍熊王は倉見別に「これは怪しきことである。ここで敵を待つことはできない」と言い、軍を住吉神戸市付近まで退却させた。皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞き、武内宿禰に命じて、皇子懐いて南海に出で、紀伊水門に停泊させた。皇后の船は直ちに難波に向かった。時に皇后の船はぐるぐると回り進まなかった。そこで務古(武庫)水門に引き返した。是は「我(先帝)が荒玉を皇后の居に置くべからず。廣田國に居しむべきとの天照大神の神意であった。

忍熊王、復引軍退之、到菟道而軍之。三月丙申朔庚子、命武宿禰・和珥臣祖武振熊、率數萬衆、令擊忍熊王。爰武宿禰等、選精兵、從山背出之、至菟道以屯河北。忍熊王出營、欲戰。時、有熊之凝者、爲忍熊王軍之先鋒。

忍熊王は軍を率いて退き、菟道(宇治)に陣取った。三月、武内宿禰と和耳の臣祖武振熊に数万の兵を率いて忍熊王を襲撃せよと命じた。武内宿禰は精鋭を選んで山城に向かい、菟道(宇治)の河北に布陣した。忍熊王は戦おうと討って出た。時に、熊之凝という者が忍熊王軍の先鋒となった。

時武宿禰、令三軍悉令椎結、因以號令曰「各以儲弦藏于髮中、且佩木刀。」既而乃舉皇后之命、誘忍熊王曰「吾勿貧天下、唯懷幼王從君王者也。豈有距戰耶、願共絶弦捨兵、與連和焉。然則、君王登天業、以安席高枕、專制萬機。」則顯令軍中悉斷弦解刀、投於河水。忍熊王信其誘言、悉令軍衆解兵投河水而斷弦。爰武宿禰、令三軍出儲弦更張、以佩眞刀、度河而進之。忍熊王知被欺、謂倉見別・五十狹茅宿禰曰「吾既被欺、今無儲兵、豈可得戰乎。」曳兵稍退。

武内宿禰は三軍全員に髪を結い上げるように命じ、号令して言った「各々弦を髪に隠して、木刀を持て」と。そして、忍熊王に言った「我は天下など望んではおらず、只、幼王をお守りし、君命に従って居るだけです。どうか弓矢を置いて和睦しましょう。貴方は君王となり、枕を高くしてこの國を治められよ」。これは皇后の命であると。そして、軍中悉く弓矢を折り木刀を河水に投げ込んだ。忍熊王もその言葉を信じて、全軍に解刀させ河水に投げ込み、弓矢を折らせた。それを見た武内宿禰は三軍に命じて隠しておいた弦を取り出し、真刀を佩かせて渡河した。忍熊王は騙されたと知った。倉見別と五十狭茅宿禰は「我々は欺かれた。武器は無く、どうして戦えるのだ」と言って兵を率いて逃げ出した。

宿禰、出精兵而追之、適遇于逢坂以破、故號其處曰逢坂也。軍衆走之、及于狹々浪栗林而多斬、於是、血流溢栗林、故惡是事、至于今其栗林之菓不進御所也。忍熊王、逃無所入、則喚五十狹茅宿禰、則共沈瀬田濟而死之。於是、探其屍而不得也。然後、數日之出於菟道河、

武内宿禰は精兵を繰り出し、之を追尾して、近江の逢坂で追いついて破った。そこで名付けてその場所を逢坂と言う。さらに逃げた兵は狭々浪の栗林で斬られた。血は栗林に溢れて流れた。このことを忌み嫌って栗林の栗菓は進物として御所には進め参らず。忍熊王は逃げる所も無く、歌を詠み、五十狭茅宿禰を喚び共に瀬田の渡りに沈んで死んだ。その死骸を探したが見つからず。数日して菟道(宇治)河で見つかった。

【緒言】 仲哀天皇は抑も存在しないとされており、神功皇后は誰により懐妊したのか、応神天皇の真の父親は不明という。籠坂王と忍熊王は先帝の真の後継者であり、それを滅ぼして応神天皇が即位したという。

 継体天皇も抑も越こしノ國の人であり、応神天皇の皇統を廃して帝位に即いたと言われている。あえて天皇家が万世一系とするために「日本書紀」「古事記」が書かれたという。



倭彦尊と八幡城

『止々呂美村誌』によれば


 『止々呂美村誌』に、「時の帝第二十五代武烈天皇は天皇皇儲在さず、皇統の絶えんことを憂れて允恭天皇の御孫倭彦尊を迎へて皇太子となし給はんと御決議遊ばされた。當時尊は丹波国南桑田に在はしたが何故か勅使の御一行を討っ手と誤認し給ひ、密かに御館を御遁れになって何地ともなく落ち延び遊ばされた。間もなく天皇は崩御遊ばされ、こたびは越前国に応神天皇五世の御孫男大迹皇子を迎へて位に御即かせ申上げた。これを第二十六代継体天皇と申し上げる。然るに薄命の皇子倭彦尊は南桑田を御発足遊ばされて以来杳として御消息が知れない。でも程なく何処からどう起しになったものか、津の国手島の郡の北隅細郷谷の一所不死王に現はれ給ひ仮の舘をしつらはせてそこに隠栖遊ばされたが、居ること僅か十数年にして御運拙なく終に薨ぜられた。王族隨身の人々は涙ながらに尊の御亡骸を弔ひ神祠を建立して尊の尊霊を奉祀し、珍壽天王と號し一族鎮守の神と崇め、別に一城砦を築いて永住の地定め、傍ら地方開発に尽くしつつ幾多の歳月を送ったのであった。これが世にいふ八幡城で今尚伏尾の北方小高い丘上にその城跡を留めている」とある。


行基伝説

 「僧行基は和泉国大鳥郡の人で一に百済王の胤であるともいひ傳へる、天智天皇の七年に生れ十年にして出家し大和国薬師寺に居つた瑜伽、唯識等の佛學に通暁して只管化他を事とし耕墾、灌漑、堤塘、橋架の修築に一身を捧ぐる等一般濟生の功勞多く、王畿地内だけにでも精舎を建立すること四十九の多きに及んだとうふことである。聖武天皇厚くこれに帰依し賜ひ『大菩薩』の尊號を御下賜遊ばされた。行基は猪名川畔(川邊郡寺本)に一寺を建立して後、天平十年又勅命を奉じて細郷谷八幡城の麓に一伽藍を造營して大澤山安養寺(今の久安寺)と號したが、尋いで光明皇后の臺命に依って、其所より北方一里混々として涌いて尽きざる霊泉の地に一精舎を建立した、これが下止々呂美の薬師堂の前身であって當時醫王山豐樂寺と称して霊泉に縁故を有つた名刹であった」とある。



〈参考文献〉『宝塚の風土記』 (一)紫雲の山、中山社(奥之院)と神所 (二)白鳥に化した忍熊王の霊



〈外部リンク〉中山寺奥の院忍熊王伝説 「大悲水」白鳥の水







第ニ話・多田源氏の盛衰

源満仲公・頼光公と「安和の変」

『大鏡』を紐解きますに、第五十六代清和帝は文徳帝の第四の皇子で惟仁親王と申されました。御母君は摂政太政大臣藤原良房の御息女・明子(あきらけいこ)様。第一皇子の(これ)(たか)親王(母は紀名虎の娘・静子様)と皇太子の御位を争奪された話は『平家物語』や『満仲五代記』に見えます。嘉祥三年三月に産まれ、十一月に立太子となり、天安二年九歳で即位されました。治世は十八年間、貞観十八年十一月に譲位され、元慶四年十二月に三十歳で崩御されました。

第五十七代陽成帝は清和帝の第一皇子で、御母君は権中納言藤原長良公の息女で、藤原基経の妹・高子様でございます。二歳で東宮になり、九歳で即位されました。基経は陽成帝の摂政の位に就いたのですが、陽成帝は成人してもその行動があまりにも奇怪であったが為に精神を病んでいるとされ、藤原基経によって退位させられたと『愚管抄』に見えます。治世は八年間で、ご退位後はご長寿で、八十一歳で崩御されました。御母君・高子様は清和帝よりも九歳年上で、若い頃には『伊勢物語』にあるように、中将在原業平との間柄が噂されておりました。

第五十八代光孝帝は、第五十四代仁明帝の第三皇子で、御母君は藤原総継の御息女沢子様でございます。七歳で四品親王になり、五十三歳で一品親王式部卿兼太宰帥となり、元慶八年(884)・摂政・藤原基経により陽成帝に代わり、五十五歳で帝位にお就きになり、光孝帝となり、基経はその関白となりました。

第五十九代宇多帝は『大鏡』によれば、光孝帝の第三皇子で、御母君は仲野親王の御息女・班子様。十八歳で源氏の姓を賜り源定省様と申され、臣籍に御降りになりました。仁和三年八月、関白藤原基経は光孝帝の容態が悪くなると、源定省様を皇太子に就け、同日すぐに二十一歳で即位されました。同年、光孝帝が崩御して帝位に就かれた宇多帝は摂関を置かず、文徳帝の皇子・源能有公と基経の子・藤原時平そして菅原道真公らを重用して親政を布き、これが世に言う「寛平の治」でございます。寛平九年七月に御譲位され、承平元年七月に六十六歳で崩御されました。宇多帝が陽成院の前を通って行幸なさったとき、陽成院は「なんだ、いまの天皇はわしの家来ではないか」とおっしゃったと言われております。

第六十代醍醐帝は宇多帝の第一皇子で、御母君は内大臣藤原高藤公のご息女・胤子様でございます。寛平五年九歳で皇太子にお立ちになり、寛平九年(897)十三歳で即位されました。藤原時平を左大臣に、菅原道真公を右大臣に其々就け親政をお布きになりました。所謂「延喜の治」でございます。

菅原道真公の父は菅原是善(土師氏)・母は伴氏(大伴氏)と中流貴族ながら文生博士も兼ねて、藤原時平とは比べ者にならない逸物でございました。しかし、宇多帝に重用された道真公も醍醐帝から突然謀反の疑いをかけられたのでございます。即ち醍醐帝の後継に帝の弟君であり菅公の娘婿である斎世親王を帝位に就けようと謀ったと讒言されたのでございます。その結果、昌泰二年(899)・道真公は太宰権帥に左遷され失意の内にお亡くなりになりました。世に有名な「昌泰の変」でございます。

第六十一代朱雀帝は醍醐帝の第十一皇子で、御母君は藤原基経公の四女・穏子様でございます。三歳で皇太子になり、八歳で帝位にお就きになりました。天慶九年四月、二十四歳のとき退位され、天暦六年八月、三十歳のとき、ご病気で崩御されました。御母君穏子様の兄で藤原時平公の弟・忠平公が摂政に就いておりました。皇太后・穏子様は朱雀帝の兄・保明親王と其の子・慶頼王を相次いで亡くし、また、富士山の噴火や大地震に洪水などの天変地異が各地で起こり、菅原道真公の怨霊の為せる業と恐れられました。関東では平将門の乱・西海では藤原純友の乱が起こりました。世に言う「承平・天慶の乱」でございます。これらの乱は其々、藤原秀郷と橘遠保によって平定されましたが、満仲公の御父・経基王も「承平・天慶の乱」では多いに活躍して武門貴族としての基礎を築いたのでございます。

第六十二代村上帝は、醍醐帝の第十四皇子で御母君は朱雀帝と同じ穏子様でございます。十九歳で皇太子に、二十一歳で帝位にお就きになり、四十二歳で崩御されました。藤原忠平が関白に就いたのですが、忠平亡き後は摂関を置かず親政をお布きになりました。世に言う「天暦の治」でございます。藤原摂関家は忠平の亡き後は忠平の長男・実頼が娘・述子様を、次弟・師輔が娘・安子様を村上帝に入内させたのですが、述子様は早世し、安子様は憲平親王・為平親王・守平親王を儲け、藤原師輔が外戚として政治の実権を握ったかに見えましたが、師輔は早世してしまいます。その為に兄の藤原実頼は藤氏長者であったために、実権の無い名ばかりの関白太政大臣となり、醍醐帝の皇子で村上帝の異母弟・源高明様が左大臣に、忠平の五男の師尹が右大臣に就任いたしました。源高明様は藤原師輔の娘婿でもあり、村上帝の中宮安子様は師輔の娘と言うことで、師輔と中宮安子様に可愛がられましたが、師輔と安子様亡き後、高明様は孤立して、師輔の弟・右大臣藤原師尹と師輔の子等・伊尹、兼道、兼家らが実権を握りました。

康保四年(967)・憲平親王即ち第六十三代令泉帝がご即位されますと、兄の為平親王を差し置いて弟の守平親王が立太子におつきあそばされました。後の円融帝でございます。為平親王の夫人は源高明の娘であり、為平親王が帝位にお就きになれば高明様が外戚となり、高明様の力が増すのを摂関家は好みませんでした。そんな中、安和二年(969)・中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連(嵯峨源氏)らが守平親王を廃して、為平親王を立太子に就けようと謀反を企てていると、左馬助源満仲公と前相模介藤原善時が大内裏に密告したのでございます。世に言う「安和の変」の始まりです。右大臣藤原師尹は公卿達を集め、兄の太政大臣藤原実頼らと協議して、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえました。同時に検非違使・源満季(満仲公の弟)は前相模介藤原千晴(平将門を討伐した藤原秀郷の子)らを一身として捕らえたのでございます。橘繁延と僧・蓮茂そして千晴らは流罪に処され、源連は追討されました。しかし事件はそれだけに留まらず左大臣源高明様は事件の首謀者であるとして太宰権帥に左遷したのでございます。

『百錬抄』によれば「安和二年三月廿六日。左大臣源高明坐事左遷大宰権帥。依左馬助満仲等密告也。中務少輔橘敏延。右兵衛佐連同配流。依謀叛也。四月一日。権帥西宮家焼亡。」とあります。

この事件は源高明様の失脚を狙った藤原摂関家の陰謀と見られており、首謀者は右大臣藤原師尹か師輔の子らの、伊尹、兼道、兼家の内誰であったのかは定かでは御座いません。先の菅原道真公の事件と同様に摂関家の陰謀で御座いました。右大臣師尹は事件後に左大臣になりますが半年余りで死去致します。源満仲公は橘繁延と共にそれまでは左大臣源高明様に随身していたのですが、この事件をきっかけに摂関家に仕えるようになったと言われています。源高明様は一年後に許されて帰京し葛野に隠棲し、以後政界から引退されました。

摂関家は伊尹が令泉帝・円融帝の摂政関白太政大臣となり、兼道も関白になったのですが二人共早世し、以後、藤原兼家が摂関家を継ぎましたが、その子道隆・道綱・道兼も早世し、やがて藤原道長の時代となります。その間、源満仲公は武蔵守・摂津守・伊予守等の受領を歴任して財を蓄えると共に、この事件をきっかけに清和源氏は藤原摂関家に深く近づきました。源頼光公は満仲公の嫡男で正四位下、各国の受領を勤め武家貴族として京都一条邸で藤原道長の異母兄・藤原道綱を娘婿にして、道綱夫婦と一緒に暮らし、道綱の母の屋敷もすぐ近くに御座いました。頼光公は各国の受領に任じられ財を蓄えて、藤原摂関家の家司として重用されました。『日本記略』によれば、摂政藤原兼家の二条邸新築のお祝いに馬三十頭を奉じられたとあります。

「永延二年九月十六日庚子。摂政新造二條京極第。有興宴事。左右大臣以下多以集會。池頭釣台臺盃酌数廻。春宮大進源頼光牽貢駒卅疋。大臣以下預之有差。會者誦詩句。唱歌曲。河陽遊女等群集。給絹?疋。米六十石云々。今日之遊。希代之事也」(日本記略)

また『小右記』には、兼家の子・道長の土御門邸新築に際しては家具調度品一切を奉じたとあります。
「寛仁二年六月廿日辛亥土御門殿寝殿、以一間、配諸受領、令營云々、未聞之事也、造作過差、万倍往跡、又伊與守頼光家中雑具、皆悉獻之、厨子、屏風、唐櫛笥具、唐櫃、銀器鋪設、管絃具、釼、其外物不可記盡、厨子納種種物、云々」(小右記)




源頼範公 多田満仲公の六男或は七男とも、従五位下・非蔵人・右近将監・左衛門尉、安田元久は『武士世界の序幕』の中で、『尊卑分脈』に満仲の四男・頼平、五男・頼明、六男・頼貞、七男・頼範、八男・孝道らは「為舎兄頼光子」とあり、頼範の子・頼綱の項に「頼國子頼綱同人」とあるところから、多田庄は満仲公から頼範公そしてその子・頼綱公へと受け継がれたものと考えられると述べている。

【尊卑文脈】   満仲-頼光-頼國-頼綱-明國-行國-頼盛-行綱
【多田庄の継承】  満仲-頼範-頼綱-明國-行國-頼盛-行綱
多田蔵人行綱の末裔とされる「讃岐多田氏系図」と「中西氏系図」もそのようになっている。
【讃岐多田氏系図】満仲-頼範-行綱-繁綱-義継-國継-頼範-頼顕-勝頼
【多田中西家系図】満仲-頼範-行綱-重綱-義綱-國綱-賴範-賴顕-頼任
いずれも何故か頼綱と行綱が混同されているようです。

多田頼綱公が頼國公の養子になった理由として『高代寺日記』は次のように述べている。『高代寺日記』と『高代寺記』によれば、多田庄は始め満仲公の命により、六男・頼範公を多田の惣領と決められたが、後に頼範公は癩病になり、保ノ谷に住んで養生することになり、一旦は頼国公を以って此家の続嗣としたとある。

「栢原殿と申傳ルハ満仲ノ六番目ノ男多田蔵人左衛門尉頼範ノ事也、始豊島郡ヲ領知シ給フ、故ニ豊島ノ蔵人共云リ、此人之子孫多田ニ居ルヲ以、多田家ノ惣領ト申ス、六男ニテ惣領ト云事他人之不審スス處ナク、此謂レハ清和天皇之御子六人在ス其第六番目ノ御子貞純親王ト申奉ル、其御子ヲ六孫王ト申ス其式ヲ満仲カタトリ給、嫡男頼光ニ摂津守ヲユツリ、二男ナル頼親ヲ大和守、三男美女丸ヲ多田ノ法眼トシ、四男頼信ヲ河内守トシ、五男頼平ヲ武蔵守トシ、六男頼範ヲ多田蔵人ト号、コレヲ多田家ノ惣領トセラル愁シ共未々ヲ頼範子孫ニテ続テハ家混乱スルモノナリ、故ニ頼光ノ嫡子頼国以此家ノ続嗣トシ偖頼仲ヲ當家ノ正嫡ト定ラル、是皆満仲公ノ遺命タリ」とある。(高代寺日記)

「古老伝テ云ク、往古多田満仲公ノ御子息ニ癩病者有之、陰陽師カ曰ク、居を鬼門ニ移して三宝ニ祈り、らい癒へしと、よって此谷におらしめ給ふ、鬼門の方の谷といふを以テ処の名とす、云々、或曰、満仲公の六男頼範公を保ノ谷殿と号ト云々、又、萱原殿ト号ト、」(高代寺記)


「中西家系図」


「小蓑山多田氏系図」


源頼国公 (?~1058)
頼国公は頼光公の嫡男で正四位下讃岐守・美濃守となり、摂関家藤原道長・師実に仕えていました。多くの子供がありましたが、嫡子には恵まれず、頼綱を嫡男にしたようです。頼国公の子・頼弘は従五位下讃岐守でしたが、出家して三井寺に入り入寂しました。頼実は従五位下左衛門尉でしたが、土佐国に流罪となり二年後に病死しました。湯山学氏は『多田源氏と東国』で、
頼綱の庶兄頼資は下野守に任ぜられたが、隣国の上野介橘惟行と合戦に及び、その居館を焼亡し、人民を殺害した。頼資はその罪によって康平七年(1064)九月佐渡国に流罪に列したが、結局土佐国に流された。」と述べている。

実国も常陸介・土佐守となりますが、嫡男にはなれなかったようです。頼国の子の国房は美濃源氏の祖となります。政略結婚させた二人の娘の内、摂政藤原師実に嫁した娘は左大臣家忠を産み、参議藤原北家為房に嫁した娘は参議為隆と権大納言顕隆を産んでいます。

多田頼綱公 (1025年~1097)
多田庄は満仲公の六男頼範公からその子・頼綱公へと引き継がれたと考えられます。京の都で中流の武家貴族として摂関家に仕えて居たと思われます。頼綱公は従四位下・下野守・三河守で歌人として有名であり、多田庄を摂関家に寄進して、摂関家の家司となります。娘達を白河天皇の後宮に入れ、また藤原師道の側室にしてその地位を保とうとしました。子に多田明国・源仲政(源三位頼政公の父)・山縣三郎国直(美濃源氏の祖)等があります。

 源頼仲公
源頼国の子、頼綱公の弟、『高代寺日記』によれば、
「従四位下蔵人土佐守、母備後守藤師長娘長子、或曰越後守、傳曰頼国男子十一人アリ、其内頼綱・頼仲二人ハ愛子タリ、故ニ累代相伝ノ旧領摂津国ヲ二人ニ分与セラル殊更満仲ノ尊霊度々夢中ノ告在、故四代ノ内終ニ下ニ置サル仲ノ字ヲ授テ頼仲ト号ス、生年ノ支干モ満仲公ト同シ、姿モ能曽祖ニ似ラレタリ」
とあり、多田庄吉川村に領地があり、子孫は七宝山高代寺別当を勤め、また頼仲の子頼重の庶子国基は能勢氏の祖となったとあります。

国基(頼重の庶子始山縣三郎国直の養子となるが、能勢の田尻に閑居し能勢氏を名乗る)

多田明国公 (不詳~保延元年)
頼綱公の嫡男・多田明国公は『中右記』によれば、
「頭中将国信朝臣、仰下補蔵人之由正六位上源明国、国明者前三川守頼綱朝臣之男也、為一院蔵人上﨟」とあり、蔵人に保せられた。従四位下・下野守となり、多田庄を受け継ぎ、摂関家藤原師通・忠実に家司として仕えて、任国下野国には赴任していなかったようです。『中右記』によれば、天永二年(1111年)美濃の荘園から帰る途中に、信濃守橘広房と源為義の郎等達と争い、殺害して都に帰り、都に穢れを持ち込んだと言う理由から、佐渡に流罪になったとある。

「天永二年十月四日 酉時許頭辨送書云、只今可馳参院、是依急事聊有僉議事者、着直衣馳参也、及秉燭於北渡殿方有被議定事、殿下、民部卿、予、別当、修理大夫為房皆直衣参仕、被仰下云、下野守明國為成要事密々下向美乃國之間、於途中為咎無禮者、與住反人成闘亂、切三人者之首了、是信乃守廣房郎等、並左衛門尉為義郎従、其後帰京参所々畢、穢気遍満天下之由旁有其歎、仍召取明國郎従、令検非違使勘問之處、毎事實也、然者今月中諸社祭如何、人々議申云、於新嘗祭者可被止、臨時祭十二月可被行諸社祭、尋例付本社可被行歟、云々、同十九日 後聞、被行流罪、源明國、佐渡、云々、」(右中記)

その佐渡で明国公は武威をもって荘園を押領するなどの狼藉を働き、国守からの訴えにより、やむなく帰京を許されたようです。佐渡にある「多田」と云う地名は何らかの関係があるものと思われます。


 『高代寺日記』の解釈は『中右記』とはやや異なります。

「寛治五年(1091) 佐渡前司行光(明国)ノ儀、殿下ヘ訴給フ、奥刕合戦ニ相加リ、勲功アルニヲイテハ在京御免ノ上領地ヲ賜フヘキヤト、當家一族アリ、訴問ル其事忠節働ニヨルヘシト、殿下宣フ、故ニ頼仲・師光・頼弘・頼景其外一族中ノ介抱ヲ百五十騎催シ、上下雑兵凡二千余人ヲ具、奥刕ニ下著、義家ニシタカイ合戦ス、其後義家上洛セラルゝ、行光モ帰京シ、寛治六年壬申五月勅免アリ、則息男行国ヲモ召返サレン事ヲ奏ス、未果、先行光(明国)ヲ召出サレ、左衛門尉ニ被補、其後多田蔵人明国ト召レ、或曰、下野守ニ任セラルゝ、其以後承保二戊寅年六月、行国勅免アル、是殿下且仁和寺殿ノ御執奏ト云傳フ、行国兄弟以上四人アリ、皆所々ニ記、又或傳ニ下野守明国ハ保安元年庚子十二月、六十四才ニテ佐渡ノ国流人、七十才ニテ則配所ニテ死スト云、始ハ流人ニテハナク、佐渡ノ奉行仰付ラレシニ、政務宣シカラサル故ニ、召返サレ、頼綱・頼仲ニ預ラル、故ニ訴訟申、前ノコトク知行仰付ラルゝ所ニ、保安元年三月、白河院御幸ノ御時、郎従下部ラウセキアリ、依去、明国流人仰付ラルゝト云、従者四人斬罪セラルト申傳フ、又、義綱モ相支ト云、」(高代寺日記)

源行国公 (10821153)と多田有頼公  多田明国公の嫡男・行国公は藤原頼長に仕えて従四位下佐渡守になります。しかし、どういうわけか行国公は「多田」を名乗らずに明国公の養子・有頼公が多田を名乗って多田庄を治めていたようです。佐渡国に国守として赴任していたのか、あるいは摂関家藤原頼長に近侍していたものと思われます。多田有頼公は実国公の子・行延(三井寺の僧)の子です。僧行延の子等・有頼と盛隆兄弟が揃って多田明国公の養子となったと『尊卑分脈』にあります。

多田頼盛公・多田頼憲公と「保元の乱」『本朝世紀』によれば、多田行国公には五人の男があり、長男頼盛公と三男頼憲公が多田庄の後継をめぐって争ったようです。
 檜垣太郎頼盛は源惟正と私的に合戦し、入道相國忠実に常陸國に配流された為に、忠実・頼長に仕えていた弟の頼憲が多田庄を支配したが、仁平二年に許されて多田庄に帰ると、頼憲と多田庄の支配権を争って合戦に及んだ。

「康治二年六月十三日戊戌、源頼盛字檜垣太郎、源惟正字辻二郎、忽企合戦、件両人源家末葉、各假武士名者也、共被候入道相國忠實□、依口論結意趣也、於宇治雙子墓□張陣相待云々、雖有戦闘之名、已同兒子之戯、無成□解散、左衛門尉源為義依大相國命召禁檜垣太郎々□畢、」「康治二年七月廿九日、流人源頼盛改佐渡國配常陸國、」「仁平三年閏十二月小、一日乙酉、近日、散位源頼憲与舎兄某於摂津合戦云々、父行国入道逝去之後、各争遺財田地有此事云々」(本朝世紀)

『高代寺日記』によれば長男頼盛公は天永二年(1111)生まれとなっています。一方頼憲公は三男で永久三年(1115)生まれとあり、兄弟五人とあります。

「保元の乱」 保元元年(1156)・鳥羽上皇が崩御されますと、病弱の近衛天皇の立太子に崇徳上皇の子・重仁親王が選ばれると見られていましたが、権中納言藤原長実の娘で鳥羽帝の中宮美福門院得子は雅仁親王の子・守仁親王を擁立します。しかし、あまりにも幼かったために、その繋ぎとしてひとまず父の雅仁親王を帝位に就け後白河帝とし、守仁親王を立太子につけます。この決定に崇徳上皇は多いに不満を抱きました。崇徳上皇は鳥羽帝の皇子とされていますが、実は紛れも無く鳥羽帝の祖父である白河上皇が孫の鳥羽の妃・侍賢門院璋子に産ませた皇子でした。鳥羽帝はそのことをご存知で、崇徳帝を叔父子と呼んでおられたと言われています。

一方、摂関家も藤原忠実の嫡子忠通と異母弟頼長との間で藤氏長者を巡って争っていました。当初、忠通には子が出来なくて、父の忠実も頼長を可愛がっていましたので、頼長を忠通の養子にして藤氏長者を継がせていましたが、忠通に子ができた為に、忠通は父忠実・頼長らと藤氏長者の後継を争っていました。美福門院得子と藤原忠通は信西入道(藤原南家貞嗣流・妻が後白河帝の乳母)の画策で後白河帝を擁立し、それに従う武士達は源義朝・源義康・平清盛・基盛・源頼政・源重成・源光保・源季実・平信兼・平惟繁らに対して、崇徳上皇と藤原頼長らに従う武士達は平家弘・安弘・頼弘・光弘・平康弘・平盛弘・平時弘・平忠正・長盛・平忠綱・正綱・平時盛・源為国・為義・頼賢・頼仲・為宗・為成・為朝・為仲そして、多田行国公の次男多田頼憲・盛綱公父子達でした。多田行国公の長男多田頼盛公は後白河帝の警護に当たっていました。

藤原忠通方は頼長方が立て籠もる白河殿に夜襲をかけて火を放ちます。頼長方は数時間の戦いで敗北し、頼長は流れ矢を頭に受けて負傷し、南都に逃げていた父忠実の元へ落ちたのですが忠実に拒否され自害しました。崇徳上皇は捕らえられて讃岐に配流され、頼長方の武士達は皆捕らえられて斬首されました。清盛は叔父忠綱らを斬首し、義朝は父為義と弟達を斬首し、源義康(新田・足利の祖)は平家弘らを斬首すると云う酷い仕打ちとなりました。多田蔵人大夫源頼憲・盛綱父子も斬首され、多田庄は摂津守多田頼盛公のものとなりました。この戦いにより平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭に、源義康は左衛門尉に、義朝と義康に上昇殿が許されました。清盛は既に内昇殿が許されておりました。源義朝は河内国に住む父為義とは袂を分かち、上野守として関東で活躍し、源義康とも親しい間柄に在りました。

『兵範記』は「保元の乱」について次のように述べている。
「十一日庚戌 鶏鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都合六百余騎発行白河、清盛三百余騎自二條方、義朝二百余騎自大炊御門方、義康百余騎自近衛方、此間主上召腰輿、遷幸東三條殿、内侍持出剣璽、左衛門督殿取之令安腰輿給、他公卿並近将不参之故也、殿下令扈従給、云々、前蔵人源頼盛、依召候南庭、同郎従数百人繞陣頭、此間頼政、重成、信兼等、重遣白川了、彼是合戦已及雌雄由使者参奏、此間主上立御願、臣下祈念、辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乗勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等焼失畢、御方軍向法勝寺検知、又焼為義圓覺寺住所了、主上聞食此旨、即還御高松殿、其儀如朝、賢所還御、午剋清盛朝臣以下大将軍皆帰参内裏、清盛義朝直召朝餉、奉勅定、上皇左府不知行方、但於左府者、已中流失由多以稱申、為義以下軍卒同不知行方云々、宇治入道殿聞食左府事、急令逃向南都給了云々、今夕被行勲功賞、播磨守平清盛、右馬権頭源義朝、義朝、左衛門尉源義康、已上昇殿、」(兵範記)

『高代寺日記』は「保元の乱」について次のように記している。

(藤原)頼長崇徳院ヘ参リ御謀反ヲ勧申ス、新院ハ鳥羽ノ田中殿ヨリ白河殿ヘ御幸、頼長同参且()為義子共ヲ連院参、右馬助()忠正モ参ル、内裏ヘハ()義朝・()清盛等参内守護ス、同十一日ニ(藤原)信西勅を承リ()義朝・()清盛ヲシテ新院御所ヲ改ム、同十六日(藤原)頼長中矢死ス、丗六才、云々」(高代寺日記)


「平治の乱」

 保元の乱の後に、後白河帝は守仁親王即ち二条帝に譲位して上皇となり院政を布きます。しかし、摂関家の力も衰え、院方と天皇方、即ち少納言信西と藤原信頼の間に対立が起こります、平治元年(1159年)・藤原信頼は源義朝の武力を背景に謀叛を起こします。世に言う「平治の乱」です。藤原信頼は二条帝側近の藤原経宗・惟方を懐柔し、藤原成親・源頼政(摂津源氏)・源光保(美濃源氏)・源光基(美濃土岐氏の祖)・重成(源満政流)・季実(文徳源氏)らを身方にし、平清盛が熊野詣に出かけた留守を狙って挙兵します。源義朝は院の御所である三条殿に夜襲をかけて上皇と上西門院(鳥羽帝の皇女・後白河上皇准母)の身柄を二条帝のおわす御所にお移し申し、信西親子の首を討取ろうとしますが、三条殿に火の手が上がり逃げ惑う者達で混乱し、信西親子らは逃亡します。ようやく信西は命辛々近江国信楽当りまで逃げたのですが、最早是までと穴を掘りその穴の中で自害します。その首は掘り出されて六条河原で梟首されます。首謀者の藤原信頼は上皇を幽閉し、二条帝をおしたてて政権を掌握し、除目を行い、源義朝を播磨守に、源頼朝を右兵衛権佐に任じます。紀伊国で政変を聞いた平清盛は紀伊の湯浅氏・伊勢の伊藤氏らの武力を整え都にとって返し、藤原経宗・惟方らを懐柔して、密かに上皇と帝を六波羅の屋敷に迎えて、藤原信親と源義朝を謀反人として滅ぼしてしまいます。源頼政・源光保・源光基はその旗色を見て陣を動かさなかった為に、義朝方は敗れました。平治ノ乱の後、平家は武家貴族としてその栄華を極めます。源義朝は関東に逃亡する途中尾張国で落命し、長男義平・次男朝長も敗死し、三男頼朝は池禅尼の計らいで伊豆国へ配流となり、常盤御前は今若・乙若・牛若を連れて逃げる途中大和国で捕らえられ、今若は醍醐寺へ、乙若は仁和寺へ、牛若は鞍馬寺へあずけられます。絶世の美女であった常盤御前は平清盛の寵愛を受けますが、後に一条長成に嫁し、一条能成を産みます。後に一条能成は義経の同腹弟として義経と行動を共にしますが、義経失脚後に一時鎌倉幕府から疎まれますが、後に赦されて従三位となります。

『高代寺日記』は「平治の乱」について次のように詳しく述べています。

「十二月四日大ニ、清盛左衛門佐重盛供ニ熊野ヘ参詣、此間ニ信頼義朝逆心ヲ越、同五日義朝方ヨリ信頼ト同意ノコトヲ云遣使後藤兵衛実基ナリ、信家カ云左、清盛カ権柄悪シト云共、當家既ニ清和ノ臺ヲ出、六孫王ヨリ以来帝十八代、祖年数二百五十年且當流血脉八代遂ニ逆心ノ名ヲトラス、争力今信頼ニ同意スヘキ、返テ此旨申スヘシ、実基ヲトキ然々ト申ス祖時、又信家か云、我若輩ト云共、保元ノ勧賞ニ右馬大夫ニ任セラル、是皆天子ノ御影ナラスヤ、然レ共義朝ワレヲ同心スヘキ者ト推シ、一大事ヲ申コサレシ志ト云、且一門ノ中ナレハ、當家奏達スヘカラス詮スル所、若聞シコトヲ密セシ科ニ逢ハワレ一人ノ罪科タルヘシト堅ク誓言シ、ツイニ注進ヲトケサリケルトナン勿論父兄ヘモサタセサリキ、九日ノ夜左馬頭五百余騎ヲ率テ三條殿ヘ寄来、上皇且御妹上西門院御車ニ召シ、義朝以下左右ヲ囲、大裏ヘ入奉ル、式部大輔重成以下候之、十日三條殿ヘ放火人多亡フ、逆徒大江家仲平康忠戦功アリ、同夜ニ入信西カ它姉小路ヘ西洞院ヲ放火ス、男女多斬殺セリ、十一日信西カ子五人解官、上卿ハ花山西忠雅職事右中弁成頼ト云、同日除目、信頼大臣将ヲ兼ヌ、義朝ハ播磨守、重成ハ信濃守、頼憲ハ摂津守、兼経ハ左衛門尉、康忠ハ右衛門尉、其外義朝カ家人迄任官ス、比悪源太上洛セリ、十四日信西カ首光康カ神楽岳辺ニ実検シ十五日大路ヲ渡ス、十九日勧修寺光頼参内美言有、信頼カ上ニ著座ス、二十日信西カ子十二人流罪、廿六日夜西経宗且院ノ別当惟方計、主上六波羅ヘ行幸、上皇ハ仁和寺ヘ行幸、當家一族愛分リ供奉、寛快上快以下上皇ヲ迎奉ル、當家一族相随フ、兵六波羅ヘ七十余人、仁和寺ヘ百余人自是始當家一族美福門院ヲ守護シ奉、仁和寺ノ新殿ニ入奉リコレラヲ守ル、六波羅ヨリ二百余人都合五百余人ニテ仁和寺堅ム、信頼義朝攻ルコトアタハス、二十七日重盛大将ニテ手勢五百余人當家ノ頭人二百余騎方々与力兵三百余騎都合一千余騎ニテ攻ムル、義朝以下討負東国ニ落行、二十八日清盛一族家人除目行ル、傳曰、仁和寺ヲ守護シ又六波羅ヘ参候シ粉骨ヲ尽セシ當家一族、但馬守綱光・其子蔵人隆経・同弟五郎丸正綱・但馬蔵人仲頼・其子丹波介為頼・蔵人頼実・弟頼重・頼次・国光・朝行・国行・右馬助国基・弟信光・小国次郎政光・摂津五郎実忠・村上次郎宗平・高木四郎信光・同五郎頼忠・陸奥守貞信・同一子信家以上二十騎雑兵合テ五百余人トキコヘシ、云々」

ここで注目すべきは、義朝方として戦った頼憲が摂津守に任じられたとあり、これは多田頼憲のことであろうと思われますが、多田頼憲は保元の乱で斬首されたとされている。源頼仲の一族は清盛勢と供に仁和寺の美福門院を守護したと言っている。

多田蔵人行綱公
『高代寺日記』によれば摂津守多田頼盛の嫡男太郎行綱は保延元年(1140)四月に生まれたとあることから、平治の乱(平治元年・1159)のときには十九歳であり、鹿ケ谷の変(安元三年・1177)のときには三十七歳、一の谷合戦(寿永三年・1184)のときは四十四歳、鎌倉幕府から勘当されたとき(元暦二年・1185)には四十五歳であったことになります。没年は「讃岐多田氏系図」に、文治五年(1189)十一月廿四日とあることから、享年五十歳と言うことになります。
 多田満仲公以来清和源氏は摂関家と結びつきその勢力を拡大したが、保元・平治の乱で摂関家も清和源氏もその勢力を失った。白河上皇と鳥羽上皇の院政と結びついた伊勢平氏が台頭した。摂関家と清和源氏の台頭を嫌った白河上皇は伊勢平氏である平正盛を重用し、鳥羽上皇も正盛の子・忠盛を重用した。摂政忠実は白河上皇に遠ざけられ、忠実に仕えていた多田行国は佐渡に流され、源頼親は平正盛に追討された。一方、平忠盛は得長壽院を造営した功績で『高代寺日記』には「
但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス」とある。安田元久氏は『武士世界の序幕』で次のように述べている。「平氏が中央政界に頭角を現したのは、清盛の祖父正盛の時代からである。正盛は桓武平氏の一流である伊勢平氏の嫡流を自認した。しかし、桓武平氏に直接つながるという点については、これを疑えばいくらでも疑う余地がある」とその正統性を疑っている。

天仁元年(1108)戊子、正月廾九日、出雲国ニテ平正盛(清盛祖父)()義親(義家子)ト合戦、義親伏誅、同郎従四人首上洛ス、傳曰、去亥ノ十二月初太宰権師大江匡房日早使上洛、義親悪逆止サル申ヲ訴フ、故ニ平正盛右衛門尉ニ任シ、追討使下著、(高代寺日記)

長承元年(1132)壬子、二月十三日、得長壽院成ル、故十三日供養、導師地主権現ノ應化ナリ、平忠盛(正盛子・清盛父)奉行ス、故ニ但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス、(高代寺日記)

平清盛の出自は『平家物語』によれば、平忠盛の嫡男ですが、母は祇園女御(一説には女御の妹)とされています。『平家物語』は読み物であるため脚色されている可能性があるので推測の域を出ませんが、祇園女御が白河上皇の寵愛を受けて産んだ子が清盛だと言われています。祇園女御は後に平忠盛に下賜され、忠盛は女御の子であった清盛を、上皇の皇子と承知の上で嫡男としたようです。これで伊勢平氏を自認する忠盛も立派な王統である確信を得るに至ったと思われます。

平清盛は平治の乱の後、後白河上皇の院政に、二条帝・六条帝と続き、藤原基実が形だけの摂政となり、清盛は大納言になります。基実が急死すると弟藤原基房が摂政となります。平滋子の産んだ後白河上皇の皇子・憲仁親王(後の高倉帝)が立太子になると、清盛は春宮大夫となり、内大臣から太政大臣となります。やがて六条帝から高倉帝に譲位すると後白河上皇と清盛も共に出家します。平家は主要な官位を独占するようになり、多くの荘園を管理し、福原に都を造営して、大和田の泊りを開き、宋との交易を盛んにし、栄華を極めるようになります。しかし建春門院滋子が亡くなると、清盛と後白河法皇院政派との対立が激しくなります。

鹿ケ谷の変 『高代寺日記』によれば、治承元年(1177)五月廿九日、多田蔵人行綱公(三十七歳)は西八条の平清盛邸を訪れて、鹿ケ谷山荘において、藤原成親・僧西光(藤原師光)・法勝寺執行俊寛僧都・平判官康頼・藤原成経・近江中将入道蓮浄俗名源成正・山城守中原基兼・式部大輔雅綱・惟宗判官信房・新平判官資行らが平家打倒の陰謀を企てていると清盛に密告したとされています。行綱公は八条院蔵人・院の北面武士に任じられており、その武力を成親卿に請われて密会に加わったとされています。その結果、成親卿は備前国に配流、西光は斬首、俊寛・平康頼・藤原成経らは鬼界ヶ島に配流されました。世に言う「鹿ケ谷の変」でございます。西光は保元の乱で失脚した少納言信西の乳母子で藤原家成の養子となり藤原師光と名乗り、出家して左衛門入道西光と名乗っていました。

鹿ヶ谷の密会後、行綱公が清盛に密告する前に、後白河帝と山門との間に争いごとが起こりました。入道西光の子で加賀守藤原師高と云う者がありました。その弟で藤原師経が目代を勤めていましたが、加賀国鵜川にある叡山の末寺との間で合戦をして寺を焼き払ったと言うのです。『高代寺日記』に次のように記しています。

「安元二年(1176)四月、賀刕鵜河ノ僧国司ト間アリ、云々、七月、加賀国司藤原師高山徒ト云分アリ、師高カ弟ヲ師経ト云、目代トシ在国シ、山門末寺鵜河ノ僧ト相論シ、坊舎ヲ焼合戦セリ、」(高代寺日記)

「治承元年四月十三日、山門衆徒依白山之訴、加賀守師高並父西光法師、本左衛門尉師光雖訴申此両人、無裁訴之間、奉具神輿、参陣、依官軍禦神輿、後日、射神輿下手人禁獄、日吉祭延引、四月廿八日、夜、自朱雀門北至于大極殿、小安殿、八省院及神祇官焼失、火起樋口冨小路、京中三分之一灰燼、世人稱日吉神火、五月四日以後、座主明雲付使廳使被譴責、大衆張本之間、衆徒弥忿、五日、明雲座主解所職等、配流伊豆國之間、衆徒五千余人下會粟津□、奪取座主登山、已朝威如無、六月一日、六波羅相國禅門召取中御門、大納言成親卿已下祇候院中人々、召問世間風聞之説、其中西光法師、依有承伏之子細、忽被斬首畢、成親卿已下、或處遠流、或解官停任、?起院中人々相議可誅平家之由、結搆之故、云々」(帝王編年記巻廿二)

末寺は叡山に訴えて、叡山山門は院に師経と師高兄弟の処分を求めて強訴しました。院は師経を備後国に配流しますが、山門はそれでも不承知で、さらに国司師高を尾張国に配流することになりました。ところがあろうことか洛中から火の手が上がり大極殿や関白基房邸ら多数の家屋敷が焼亡すると云う事態になったのです。院はお怒りになり天台座主明雲を解任し伊豆国に配流することになりました。源頼政公に命じて明雲を伊豆に連行する途中、近江国粟津で僧兵等が明雲を取り戻します。その直後のこと、くだんの行綱公の密告があり事態が急変したと言うことです。この結果、首謀者たちは流罪になり、藤原師光コト西光だけが斬首されます。『尊卑分脉』によれば多田行綱公自身も安芸国に配流されたとありますが、源満仲公の「安和の変」に倣って、行綱公は清盛に近づいたとも考えられます。


『平家物語』鹿ケ谷より

『新大納言成親卿は山門の騒動があって、平家を討とう言う宿意をしばらく抑えられておられました。追討の相談や準備はさまざまに為されておりましたが、口先ばかりで、此の謀反叶うようにも見えず、あれほど頼りにされていた多田蔵人行綱公は此事無益なりと思うに至り、家子郎等にも出陣準備をさせておりましたが、あれこれ思案いたしておりました。つらつら考えるに、平家の繁盛の有様を見れば、すぐにも倒す事は難しい。もしもこの謀反の企てが他人の口から漏れたならば、自分の命が危険に曝される。他人の口から漏れる先に、返り忠して命を助かろうとぞ思いつきにけり。同五月二十九日の小夜ふけがたに、多田蔵人行綱公は入道相国の西八条の亭に参って「行綱、入道相国公に申したき事あって参って候」と言いうと、入道「常に参らぬ者が参りたるは何事ぞ、聞いて参れ」とて、主馬判官盛国が応対すると、「人伝には申し上げられません」と言うので、さらばとて、入道みづから中門の廊へ出られ、「夜もとうに暮れていると云うに、いったい何事ぞや」と言うと、「昼は人目に付きますれば、夜にまぎれて参上いたしました。此の程、院中の人々が兵員をととのえ、軍兵を召されておられるのはどのような目的のためとお聞きでしょうか。「それは叡山を攻めるためと聞いておる」と事もなげに申された。行綱は近く寄って小声で申しけるは「その儀では候はず、一切すべて平家御一門にかかわることと聞いております。」「そのことは法皇もご存知であらせられるのか」。「無論のこと、成親卿が軍兵を集めておられるのは院宣であるからでございます」。俊寛がこうして、康頼がこう言い、西光がこう申し、などと誇張して言い散らし、「おいとま申します」とて出でにけり。入道は多いに驚いて、大声で侍共を呼び、その声は邸内に響きわたり大騒ぎになりました。行綱はなまじ告げ口をして、証人として引きずり出されるのではと思うと恐ろしくなって、広い野原に火をつけたような心地がして、追いかけられてもいないのに、袴をたくし上げて、急いで門の外へ逃げるように出たのでございます。・・・』(平家物語)

『高代寺日記・上』に見える「鹿ケ谷の変」の描写です。

「治承元年(1177)丁酉、正月、内府師長左大将ヲ辞ス、亜平重盛左大将ニ?リ、中納平宗盛右将ニ任ス、門中参賀、二月比、徳大亜実定、花山院中納兼雅共ニ清華故ニ大将ヲ望メリ、院別当亜相成親モ権威ヲ頼ミ望ムト云共、平ノ清盛カ計ニテ兄弟左右ニ並ヘリ、珍事ナリ、重盛ハ院別成親カ妹壻、又惟盛ハ成親カ壻ナケハ、重縁ナレ共、平氏奢ヲ悪ミ西光ラト常ニ計リ、底意凶依テ、東山鹿カ谷ト云ニ会合、法皇モ御幸コレヲ聞召ト云々、三月、師長内ヨリ直ニ大政ニ任、又重盛内ニ任シ叙留ス、摂家又清華ノ外大将ヲ兼帯スルコト人皆ヲトロク、左大臣経宗ヲ尊者トシ大饗行ル、コレハ経宗以公卿ヲマ子キモテナシ公卿立サマニ庭上ニテ昇進ノ人ヲ拝ス、又昇人モ共ニ客ヲ拝ス、馳走タツ拝ト云ハ此ヨリヲコルト云、此時清盛カ弟頼盛中納言タリ、教盛参木タリ、経盛且知盛従三位タリ、二十四月、山徒師高・師経カ罪度々訴ト云共、法皇裁マシマサヌ故、同十三日、日吉ノ神輿ヲ振上リ、内裏ヘ入ントス、重盛等并頼政ニ命シ、御門ヲ警固ス、重盛ノ堅タル門ニテ神輿ニモ矢中リ、衆徒モ傷テ輿ヲ捨テ帰山ス、コレ平家滅亡ノモトヒナリ、其後平亜時忠勅使トシテ登山徒ヲ宥メ、師高流罪セラレ、師経禁獄セラル、検非使且院ノ判官奉行、信家其中ノ列ナリ、同二十八日、洛中大火事風烈、大内悉炎上、同十二日、白山現宮兵火、師高カ所為タリ、五月、法皇山門ヲ悪ミ思召、座主明雲ヲ伊豆ヘ流サントセラル、西光カ讒ト沙汰アル故ニ、山徒ヲコツテ路ニテ明雲ヲ奪登山ス、法皇怒テ成親ラニ命シ山門ラ攻ント議セラル、此節蔵人行綱ト成親密談ス、行綱ヲモヘラク、今年氏剛権ノ最中ナリ、ナマシ井ニ陰謀シアヤマリテハ末代ノ厚難ナリ、先祖ノ遺命ヲ背キ武官ノ権ヲ奪ンコトイカゝナリ、其上時節イマタナレハ、本意ヲ遂ルコト叶フマシ、此儀外ヨリモレ平氏シルニヲイテハ永ク源家ノ滅亡ナリ、智アサマシキ平氏ナレハ忠言ニコトヨセ、通達シ宥置、重テ兵衛佐義兵ノ助トセント案定シ、同廿九日、六波羅ニ赴コレヲ告ル、清盛一度怒、一度ハ忠言ト悦フ、六月朔日、成親・西光法師并同類悉捕フ、西光父子斬罪、成親ハ備前児島ニ流ス、且怒ノ余、法住寺殿ヲモ攻ント云共、重盛天恩ヲヒキ諌ム、依テ屡止ム、成親カ子成経丹波少将ト号ス、康頼平判官・俊寛僧都三人鬼界島ニ流ス、同類モ悉流罪セラル、同月、重盛左将ヲ辞ス、今比明雲罪故ニ赦シタマフ、八月十九日、成親ヲ島ニ殺、去ル四日辛未、改元、治承、云々」(高代寺日記)

この時、「清盛は一度は怒り、一度は忠言と悦んだ」とあります。『尊卑分脉』では多田蔵人行綱公は安芸国に配流とありますが、安芸国は平家の任国でもあり、俊寛・康頼・成経らの配流先の喜界ヶ島のような辺境ではなく、処罰としては比較的寛大な処置であったと考えられます。

 ここで讃岐の「多田氏系図」に書かれている異説を紹介します。
「治承元年丁酉五月廿九日注進ス平家追討ノ企於清盛江、清盛怒恨同六月朔日断罪西光・師高・師経ヲ、成親ヲ備前国江流、成経・康頼・俊寛ヲ鬼界嶋江流、其後成経ヲ於備前国ニ被誅セ、治承元年六月八日多田行綱従清盛殿於讃岐国ニ賜知行六万石、同六月十五日讃岐屋嶋ノ城ニ移ル、云々」
多田行綱公は鹿ケ谷変の密告の恩賞として讃岐国屋島に六万石の領地を賜ったとあります。

やがて以仁王の令旨は源行家(義朝の末弟)によって諸国の源氏にもたらされ、関東では源頼朝が、甲斐では武田氏・安田氏ら甲斐源氏が、信濃では木曾義仲が挙兵します。治承四年(1180)十月、平維盛軍は富士川を挟んで、頼朝軍・甲斐源氏と対峙しますが、平氏軍は戦いもせずに逃げ帰ります。さらに平氏は南都に平重衡を派遣し南都を攻め焼き払います。この時大仏殿も焼けて大佛の上半身は溶けてしまいます。

治承五年(1181年)閏二月、清盛は熱病で倒れ薨じます。高倉上皇・長男重盛・次男基盛も既に死去し、三男・宗盛が後を継ぎます。

寿永二年(1183年)五月・平家は砺波郡倶利伽羅峠の戦いで木曾義仲に大敗し、都に逃げ帰ります。この頃、多田蔵人行綱公(四十二歳)等は配流先の安芸国から戻っていたのでしょうか )平氏に謀叛して摂津・河内国で悪行を働き、摂津河尻辺りで平氏の西国からの物資を奪い取るなどし、住民たちもそれに加担したと『玉葉』と『吉記』は言っています。

『玉葉』寿永二年(1183)七月廿二日「又聞、多田蔵人大夫行綱、來属平家、近日有同意源氏之風聞、而自今朝忽謀叛、横行摂津河内両国、張行種々悪行、河尻船等併點取云々、両国之衆民皆悉與力云々、・・」

『吉記』寿永二年(1183)七月「・・向河尻方、是称多田下知、太田太郎頼助、或押取鎮西糧米、或打破乗船等、或焼払河尻人家云々・・」

『愚管抄』『玉葉』『吉記』によれば、寿永二年七月二十五日未明、後白河院は法住寺殿を脱出して叡山に登られます。平宗盛は神鏡・剣璽を持って安徳帝と建礼門院ら一族を連れて都を落ちます。二十七日に後白河法皇は京に戻り平氏追討の宣旨を発します。

法住寺合戦 平氏は安徳帝を連れて都落ちし、替わって木曾義仲・源行家軍が入京すると、木會義仲に平家追討の院宣を下します。義仲を従五位下左馬頭に、行家を従五位下備後守に任じ、新しい帝の践祚を行いました。義仲は以仁王の子・北陸宮を推しましたが、高倉帝の第四皇子・尊成親王・後鳥羽帝を帝位に就けます。また、関東の頼朝にも使者を遣わし、義仲と和平を結び上洛して平家を追討するように命じます。義仲は法皇が勝手に頼朝軍にも上洛を促したことに腹を立て、寿永二年閏十一月・源範頼・義経率いる鎌倉軍が不破の関まで近づいたとの知らせを聞き平氏追討を中止し急ぎ帰京いたします。法皇は法住寺殿に立て籠もり、源光長(美濃源氏)、源仲兼(宇多源氏)、攝津源氏ら北面の武士達や叡山・園城寺の僧兵達に守らせました。世に言う「法住寺合戦」です。義仲は法住寺殿を襲撃し御所は炎上し、義仲は法皇と新帝を幽閉いたします。『平家物語』では、此の時、攝津源氏としているだけで名前はありませんが、多田蔵人行綱公も法住寺殿の戦いに加わり、負けて多田に逃げ帰ったとあります。寿永三年(1184)一月鎌倉軍と義仲軍は近江国瀬田や宇治川で戦い、義仲は近江国粟津で討死します。鎌倉では頼朝の長女大姫の婿となっていた義仲の子・義高は逃亡し打たれます。

一ノ谷の合戦 『平家物語』によると、源頼朝と木曾義仲が戦っている間に平家は勢いを取り戻し、福原に陣を張っていました。源氏の寄せ手は攻撃する日を寿永三年(四月より元暦元年)二月七日卯ノ刻と決めて、二手に別れ、大手の範頼軍五万余騎は生田口から平知盛の本陣を攻め、搦め手の義経軍一万余騎は丹波路を、二日路を一日にうッて、播磨と丹波のさかひなる三草の山の東の山口、小野原に着いた。平家方は、平資盛、平有盛等三千騎が三草の山の西の山口に陣をとる。義経軍は夜討ちをかけ、平資盛軍は突然のことではあわてふためいて、播磨の高砂より舟で讃岐の八島へ逃げたとある。義経は三草の資盛軍を攻め落として、入り乱れて攻めてくる。山の手と申すは鵯越の麓なりとあります。山の手は大事に候、と述べて、能登守教経に平盛俊と平道盛を付けて一万騎で守ることになったと述べている。

 能勢町柏原にある「馬蹄石」である。伝説によると「一ノ谷合戦の時に義経が三草超えをするときここを馬に乗って通った、その馬の足跡がこの岩に残されている」という。



 「義経軍は一万余騎を二手に分けて、土肥次郎に七千余騎で一ノ谷の西の手へさしつかわせ、我身は三千余騎で丹波路より鵯越に向った。義経ひきいる三千余騎は途中山道に迷い、老馬と山中で出会った鷲尾三郎に案内された。土肥が率いる七千余騎は塩屋で夜明けをまちかまえていたが、熊谷親子と平山は先駆けして田井の畑から古道を抜けて一の谷の浪うちちぎわにでて、夜も明けぬうちに西に木戸口に攻め寄せて先陣をきった。御曹司義経は城郭はるかに見わたいておはしけるが、さあ落せ、義経を手本にせよ、とまっさきかけて落とす」とあります。

『平家物語』には、搦め手軍のメンバーを次のように記述しています。

「搦手の大将軍は、九郎御曹司義経、同く伴ふ人々、安田三郎義貞・大内太郎惟義・村上判官代康国・田代冠者武田信綱・侍大将には土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平・三浦介義澄・子息平六義村・畠山庄司次郎重忠・同長野三郎重清・三浦佐原十郎義連・和田小太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗実・佐々木四郎高綱・同五郎義清・熊谷次郎直実・子息の小太郎直家・平山武者所季重・天野次郎直経・小河次郎資能・原三郎清益・金子十郎家忠・同与一親範・渡柳弥五郎清忠・別府小太郎清重・多々羅五郎義春・其の子太郎光義・片岡太郎経春・源八広綱・伊勢三郎義盛・奥州佐藤三郎嗣信・同四郎忠信・江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶を先として、都合その勢一万余騎、同日の同時に宮こをたッて丹波路にかゝり、二日路を一日にうッて、播磨と丹波のさかひなる三草の山の東ぐち、小野原にこそつきにけれ。」

『吾妻鏡』は、一ノ谷合戦について次のように書いています。

「二月七日 丙寅 雪降 寅刻、源九郎主は、まず特に勇敢な武士七十余騎を選んで引き連れ、一谷の後ろの山、鵯越に到着した。ここに武蔵国の住人熊谷次郎直実・平山武者所季重らは、卯の刻に密かに一谷の前の道を廻り、海側の道から平氏の館に競って襲いかかり、源氏の先陣であると大声で名乗りを上げたので、飛騨三郎左衛門尉景綱・越中次郎兵衛盛次・上総五郎兵衛尉忠光・悪七兵衛尉景清らは、二十三騎を率い、木戸口を開いて合戦に及んだ。熊谷小次郎直家は負傷し、季重の郎従は若くして討死にした。その後、蒲冠者と足利・秩父・三浦・鎌倉の人々が競って襲来し、源平の軍士たちは入り乱れて戦った。白旗と赤旗の色が交差し、戦いは山を轟かせ地を揺るがせるほどのものであった。ほとんどあの樊?・張良であってもたやすくは破れない形勢であったが、それに加えて城郭は、岩壁が高く険しく馬が通るのに困難であり、谷が深く人も通らなかった。義経は三浦十郎義連以下の勇士を率いて、鵯越から攻撃されたので、平氏はあわてふためき敗走した。ある者は馬に乗って一谷の館を脱出し、ある者は船に掉さして四国の地へと赴いた。この時に、本三位中将重衡は明石浦において、景時・家長らによって生け捕られた。越前三位通盛は湊河の近辺で、源三俊綱によって誅殺された。この他、薩摩守忠度朝臣・若狭守経俊・武蔵守知章・大夫敦盛・業盛・越中前司盛俊の以下七人は、範頼・義経らの軍勢によって討取られた。但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は、遠江守義定によって首をとられたという。」(現代語訳吾妻鏡)

『吾妻鏡』は搦め手の大将軍源九郎義経に従う人々として次の名前を挙げています。

「搦手の大将軍は源九郎義経である。その義経に従う人々は、

遠江守安田義定   大内右衛門尉惟義  山名三郎義範   斎院次官親能

田代冠者武田信綱  大河戸太郎広行   土肥次郎実平   三浦十郎義連

糟谷藤太有季    平山武者所季重   平佐古太郎為重  熊谷次郎直美

同小次郎直家    小河小次郎祐義   山田太郎重澄   原三郎清益

をはじめとする二万余騎である。平家はこの事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中守師盛・平内兵衛尉清家・恵美次郎盛方をはじめとする七千余騎が、摂津国三草山の西に到着した。源氏もまた同じ三草山の東に布陣した。」

次に九条兼実公の日記『「玉葉』を引用すると、一ノ谷の合戦で多田蔵人行綱公は山手より真っ先に攻め込んだと記しています。

「二月八日丁卯天晴、未明、人走来云、自式部権少輔範季朝臣許申云、此夜半許、自梶原平三景時許進飛脚申云、平氏皆悉伐取了云々、其後午刻許、定能卿来、語合戦子細、一番自九郎許告申、搦手也、先落丹波城次落一谷云々 次加羽冠者申案内、大手自濱地寄福原云々、自辰刻至巳刻、猶不及一時、無程被責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手云々、大略籠城中之者不残一人、但素乗船之人々四五十艘許在島邊云々、而依不可廻得、放火焼死了、疑内府等歟云々、所伐取之輩交名未注進、仍不進云々、剣璽内侍所安否、同以未聞云々、」

「二月八日(一ノ谷合戦の翌日)未明に式部権少輔朝臣の許から人が走り来て言うには、此の夜半、梶原平三景時の許から飛脚が来て言う、平氏は皆恙なく討取られてしまいました。その後、午刻頃に、定能卿来たりて合戦の子細を語る。一番に九郎義経のことより告げ申す。九郎は搦め手なり、丹波ノ城を先に落とし、次に福原に寄せ云々と、次に蒲冠者範頼について申しあげる、大手濱地より福原に寄せ云々と、辰ノ刻に至り、巳ノ刻に到って一時たっても猶攻め落せず、多田行綱が真っ先駆けて山手を落とし云々、大略籠城中の者共一人残らず討取られ、空船が四五十艘ばかり島邊に在りしが、それを廻すことも出来ずに、火を放って焼け死んでしまい云々と、内府等は討取られし輩の名も未だ注進する者もなく事態が飲み込めず、剣璽内侍所の安否も未だ分からず云々と。」

戦いが膠着状態にあるとき、多田蔵人行綱公が山手から寄せて前線に躍り出て、突破口を開いたと述べており、『吾妻鏡』『平家物語』の解釈とは全く異なっています。『平家物語』などは源義経の鵯越の逆落としで勝利したと語っていますが、『玉葉』は多田行綱公が山手より攻め寄せて突破口を開き、勝利したと語っています。『玉葉』の作者・関白九条兼実は藤原摂関家・摂政藤原忠通の子で、多田源氏は多田庄を摂関家に寄進して、摂関家の家司として仕えていました。

『能勢の昔と今』で森本弌氏は次のように述べています。

「平安後期、多田源氏一族が猪名川流域の能勢・川辺の谷々に勢威を張る以前、平氏一門の力が当地方に及んでいたことは、上杉村の三浦氏をはじめ三引両の家紋を持つ家の多い村々や、安徳天皇陵伝説地に係る村々の存在が物語っている。この上杉村は三草山東麓にあって、世に平家村と呼ばれているのも興味深い。三草山西麓を越えるサイノカミ峠は標高400メートル、この峠から南を望むと、右手六甲山から眼下に広がる西摂の活気溢れる眺め、武庫・敏馬浦を航行する船の姿まで見られる。能勢・川辺郡界に近いこの峠は、長谷村の村境であり且つ重要な出入口となっていた。峠の名サイノ神はまさにこうした場所に祭られる神であり、それがいずれとも分からないが、峠の上には大きな法界石の題目塔があり、庚申塔があり、地蔵が座り道しるめべが立っている。この中で寛文十一年の当地方最古の道標によれば、「右二すじハ山道、たにハ銀山ありま、左ハいけ田みち」とあって、今もそのままに古くから各方面への道が発達していたようで、云々」

『丹波国風土式』によれば、丹波の長澤氏の息女が義経の子を宿し、藤原から源氏を名乗ることにしたことから、義経は丹波の地理にも長けていたであろうことが窺える。
「長澤 巨勢麿之弟経邦卿嫡男也、元暦年中長沢六郎遠種息女有判官義経遺腹之子、令之續長澤之箕裘、号六郎次郎義種、自是以来枝葉犯源姓云々」(丹波国風土式)

『摂陽群談』と『摂津名所図会・能勢郡』に見える、「源九郎判官義経陣所・ 能勢郡上杉村にあり」とあります。『吾妻鏡』は「摂津国三草山」としています。

一方、『平家物語』では搦手軍は丹波路を早駆けして、丹波と播磨の境の三草山の東の小野原庄に着いたと述べています。そして、平家の小松中将資盛らが、三草山の西の山口に陣取っていたと述べています。搦手軍はその夜、小野原から三草山の平家の陣まで火を放って道を照らして、攻め込むと、平家軍は浮き足立って、播磨の高砂浜から讃岐の八島へ逃げ去ったと述べています。

この三草山について『吾妻鏡』は摂津の三草山とし、『平家物語』は丹波と播磨の境の三草山としているいとから、「三草山論争」が起りました。

平家は平維衡の代に伊勢・伊賀に領地を得て伊勢平氏と呼ばれるようになる。そして、正盛は白河上皇に、忠盛は鳥羽上皇に白鳥二代の上皇に近侍して天気に叶い其の家を興した。清盛は高倉帝・安徳帝の外戚として天皇方となり、後白河院方と対立した。平治の乱で勝利した清盛は父忠盛の室の一人である池ノ禅尼の願いにより、頼朝・義経らの命を助けた為に、後に彼等によって滅ぼされます。

源義経追討 一ノ谷の合戦に勝利した、源範頼らは一旦鎌倉に引き上げて、義経が都を守ることになりました。除目が行われ、頼朝の推挙により、一条能保が讃岐守・源範頼が三河守・源八広綱(源三位頼政公の末子)が駿河守・源義信(頼朝の祖父為義の異母兄)が武蔵守に任じられましたが、九郎義経の名はありません。義経は梶原景時の讒言により頼朝の信頼を無くしていました。後白河法皇は義経を従五位下左衛門少尉・検非違使に任じます。また、頼朝は河越重頼の娘を義経の正室に宛がいます。そして、新たに範頼を総大将に平氏追討軍が山陽道から九州へと攻め込みますが、範頼軍は攻めあぐねておりました。そこで漸く頼朝は軍を編成し直し、元暦二年正月、九郎義経に平家討伐に向かわせます。義経は熊野水軍を率いて海路にて讃岐に渡り屋島を奇襲し、壇ノ浦で平家を滅ぼし、四月、都に凱旋し、伊予守に任じられます。元暦二年四月二十七日、頼朝は従二位に叙任されます。

義経は捕らえた平宗盛・重衡を連行して頼朝に勝利の報告のため鎌倉に凱旋しようといたしますが、鎌倉に入れず腰越にて書を認めて都に戻ります。更なる梶原景時の讒言と頼朝に無断で任官したことで頼朝の怒りに触れます。梶原景時の讒言によれば、九郎義経は人の言うことに耳を貸さず、手柄を独り占めにしようと常に独断先行で行動し、都では自分一人で平家を倒したように吹聴している、と云うものでした。義経は捕らえた平宗盛と重衡を連れて都へ戻りますが、途中で宗盛を斬首いたし、重衡の身柄は以前重衡が焼き討ちした東大寺へと送ります。頼朝はさらに義経と義経に同心している源行家を討伐する為に土佐坊昌俊ら六十騎を京に送り込みます。文治元年(1185年・八月より元暦二年から文治に改元)十月十七日、土佐坊昌俊が六条室町亭を襲撃します。義経は土佐坊を捕らえ鎌倉の下知であることを確かめた上、法皇から頼朝追討の院宣を貰いますが誰も与力する者が無く、鎌倉から追討軍が攻め上ってくると聞き、十一月三日卯の刻、止む無く一旦西国に落ちようと二百騎ばかりで都を落ちます。十一月七日、北条時政が鎌倉の軍勢六万余騎を率いて上洛するとたちまち法皇は義経追討の院宣を出します。

 摂津国では太田太郎頼基と手島冠者高頼が義経一行を襲撃しますが、一行は苦戦しながらも大物浦から船出します。ところが西からの大風が吹き船がことごとく壊れて、義経等は小舟で舟出します。(下世話では平家の怨霊の仕業と言われた。) 行家は和泉で討たれ、義経は難波の浜から吉野へと潜伏します。やがて静御前が捕らえられ、義経主従は奥州平泉まで逃げますが、頼朝の奥州攻めの良い口実が出来ます。やがて藤原氏に衣川で討たれて、奥州藤原氏も滅ぼされます。『吾妻鏡』は多田蔵人大夫行綱公が義経一向を襲撃したと述べていますが、太田頼基と手島冠者高頼の背後には行綱公がいると考えられていたために多田行綱公が義経一行を攻めたと書かれています。

『吾妻鏡』文治元年十一月四・2w3322w2五日 今日豫州至河尻之処、摂津国源氏多田蔵人大夫行綱、豊島冠者等遮前途、聊發矢石、豫州懸敗之間不能挑戦、然而豫州勢以零落、所殘不幾云々 

【注釈】義経が河尻に着いたところ、摂津国の源氏多田蔵人大夫行綱と豊島冠者等が行く手を遮り、聊か矢を射かけたが、義経は逃げ足速く行綱らは戦いを挑むことが出来なかった。しかし、義経勢は散り散りになり、残った者は僅かになった

『平家物語』では義経一行を襲撃したのは、太田頼基であるとしている。
「摂津国源氏、太田太郎頼基、わが門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきかとて、川原津といふ所に追ッいて攻めたたかふ。判官は五百余騎、大田太郎は六十余騎にて有ければ、なかにとりこめもあますな、もらすなとて、散々攻め給へば、大田太郎我身手負ひ、家子・郎等おほく討たせ、馬の腹射させて引退く。・・」

『玉葉』では、
「文治元年十月卅日 己卯天晴 義経等、明暁決定可下向云々、或云、摂州武士太田太郎巳下、搆城郭、九郎十郎等、若赴西海者、可射之由結搆者云々、又九郎所従紀伊権守兼資、為點定船先以下遣件男、為太田等、被打了云々、依如此事、俄可引退北陸之由、又以風聞、・・・





文治元年十一月四日 癸未天晴、今日又、武士等追行義経云々、傳聞、昨日、於河尻邊與太田合戦、義経得利、打破通了云々、」

「文治元年十月三十日 己卯天晴 義経等明暁に下向を決定云々、ある人が云うには、摂州の武士太田太郎が城郭を構えて、義経や行家等西海に赴く者あればこれを討つべく待ち構えている、又九郎に従っている紀伊権守兼資は船を用意する為に先に下らせたが、太田等に討取られてしまった云々、此の為俄かに北陸に退くと云う風聞もあるようだ云々、・・

 文治元年十一月四日 癸未天晴、今日又武士達が義経に追手をかけたと聞いた。昨日川尻あたりで太田何某と合戦し、義経は利を得て打ち破り通り終えた。」 (玉葉)

『平家物語』と『玉葉』は西海に落ち行く義経一行を襲撃したのは太田太郎としています。『吾妻鑑』が襲撃した人物を多田蔵人行綱としたのは、太田太郎頼基と豊島冠者高頼は多田蔵人行綱に属す武士団と見なされているからであろうと思われます。

『玉葉』文治元年十一月八日 丁亥
「午後雨降、傳聞、義経、行家等、去五日夜乗船、宿大物邊、追行之武士等、寄宿近邊在家、手島冠者、並びに範季朝臣息範資等、為大将軍云々、件範資雖生儒家、其性受勇士、加之、蒲冠者範頼、親眤之間、催具在京之範頼之郎従等行向云々、未合戦之間、自夜半大風吹来、九郎等所乗之船、併損亡、一艘而無全、船過半入海、其中、義経行家等、乗小船一艘、指和泉浦逃去了云々、・・」

「午後雨降る、伝え聞く、義経、行家等、去る五日夜乗船す。大物あたりに宿をとり、追討する武士達が宿の近くに押し寄せる、手島ノ冠者並びに藤原範季朝臣の息子の範資等は大将軍気取りで云々、範資は儒者の家に生まれし者なれど勇士なり、之に加えて、蒲患者範頼と親しき間柄でもあり、在京の範頼の郎従等具足姿で範資の追手に加わる。合戦未だ済まぬ間、夜半より大風吹いて、九郎の乗ろうとしている船一艘残らず損亡した。過半の船が海に沈んだ、そんな中、義経行家等は一艘の小船に乗って和泉の浦を指して逃亡してしまった云々」(玉葉)

日記では、手島ノ冠者と藤原範資と在京の範頼の郎従が義経一向に、合戦に臨んだと言っている。ここにも多田蔵人行綱の名前は出てきません。十一月四日・五日・六日の日記を見ると、天候は三日とも「天晴」とあります。京都と尼崎大物浦は同じ畿内ですから、天候は晴れていてしかも大風が吹いた為に乗る船が悉く壊れたようです。暴風雨で天候が悪く海が荒れたと言う訳ではないことが分かります。突然大風が吹いて、人々は平氏の怨霊のたたりだと怖れたとあります。

『吾妻鏡』は鎌倉幕府の日記であり、多田蔵人行綱公は「鹿ケ谷の変」で俊寛僧都らを裏切り、平氏打倒の密会を平清盛に密告したことで頼朝の信頼を無くし、一ノ谷の戦で戦功があったにも拘らず許されることは無かった。一方、源三位頼政公は以仁王の平氏追討の挙兵に主力となって戦い落命したが、その子孫は鎌倉御家人として召抱えられた。但し、頼政公の孫・伊豆守源仲綱の次男・伊豆右衛門尉源有綱は頼朝の挙兵当時から戦功を重ねてきたが、義経と同年輩で親しかった為に(一説には義経の女婿)、義経方として戦い、大物浦から船出して嵐に遭い生き残ったのは、有頼と弁慶・堀晃光・静御前の四人であったとか、その後、義経と分かれ大和宇陀郡で鎌倉方に発見され自刃しています。義経に味方し破滅して行く有綱の姿は人情を貫いた人物であると評価したい。

【弁慶の泉】池田市豊島南、北今在家に伏流水が湧く所があり、義経が京から西国へ落ちる時に、この地で弁慶がここの清水を飲んだと云う伝説が残っている。

多田蔵人行綱公の勘当 頼朝が鎌倉に幕府を開くと、元暦二年六月(1185)多田蔵人行綱公は鎌倉幕府から勘当され、多田庄は大内惟義に預けられました。大内惟義は清和源氏新羅三郎義光流・平賀氏で、大内惟義は一ノ谷の合戦では搦め手で参陣しました。幕府の公文所別当大江広元が大内惟義に当てた、元暦二年(1185)六月八日の書状の写しが『多田神社文書』にあります。

「すでに大夫判官(源義経)より沙汰にて知らせ給いしところではあるが、今一度知らせ給ひし、これより人に知らせ給ひ候はんとするに、多田と申すは、京にも近国にも聞こへたるところにて候へば、構へてよくよく沙汰しゑさせ給へし、又京などにも我が代官にあらんと候はば、名国司などに執成し頼み申しても、所詮なきことなどし給ひたりとも、只今の如くは、聞き申さず。

多田ノ蔵人は奇怪によって勘当仕りたるなり、されば、多田をば預け申すなり。下し文奉る。とく知り給へし、ただし、かたがた沙汰せんことは、静かに先例を尋ねて、沙汰あるべし。さては多田ノ蔵人が親しき者などは、どうして愛おしくすることやある、侍共は愛おしくして、元の様に使い給へし、多田ノ蔵人が弟にてある者逃げ上りたるなり、奇怪の事なり、勘当せんするなり、・・」

さらに公文所寄人中原親能が大内惟義に当てた、元暦二年六月十日の書状に、
「今はこのように下らせ給べき由、仰せられて候へども、多田の事を承はらせ給候ぬれば、左様の事よくよく御心得させ給いて、重ねて仰せに従い給ひて下らせ給べき由、仰せ事候也、多田ノ蔵人大夫が目をかけていた者共であっても、今は、その力も無き様なれば、万のこの所の家人共であっても、今は御家人として安堵せさせ給て、閑院・内裏の大番仰せさせ給べく候、・・」









文治元年(1185年・8月に改元)十一月以降、多田行綱公とその子供達・多田太郎行定・多田二郎定綱・多田三郎基綱・多田四郎行盛・多田五郎行忠らは多田庄から方々へと散って行ったものと考えられますが、後術する「異説鹿ケ谷の変」では、多田行綱公は既に早くから多田庄を去り四国に渡ったか、或は加賀国に落ちたとも言われ、或は平家の落人として天草まで落ちたとも伝えられています。行綱公の弟達・知実と高頼は「京に逃げ上った、奇異のことなり」とあります。その後、二郎知実は早世し、三郎高頼の子・資国は能瀬蔵人を称して能勢郡野間に隠棲し、経実は大和国宇陀郡に隠棲します。『多田雪霜談考』によれば、光義は塩川氏に婿入りしたと述べています。

『摂陽群談』を紐解くと、「多田蔵人行綱第宅古迹 同郡多田村にあり。其證豊島冠者屋敷に比す。」とあります。多田の何処にあったのか今では残念ながら分かりませんが、多田満仲公の御所が東多田字御所垣内にあったと云うことから、代々この字御所垣内に館を構えていた可能性が高いと考えられます。一方、豊島冠者屋敷第宅迹は旧西市場村にありと書かれています。

 


判官代多田二郎知実公と皇嘉門院蔵人能勢三郎高頼公 二人共、多田頼盛公の子・多田行綱公の弟達です。『平家物語』巻四「源氏揃え」に、源三位頼政公は以仁王が令旨を出されたなら平家に不満を持つ諸国の源氏が大勢集まるであろうと述べて、摂津国では多田蔵人行綱は言うに及ばず。しかし、弟の多田二郎知実、手嶋ノ冠者高頼、太田太郎頼基がいると述べています。

三郎高頼の子孫は 高頼―資国―信国―政国―資氏―頼貞 と続き、能勢の野間に住します。この頼貞が『太平記』に登場する多田入道であるとする説があります。多田入道頼貞の嫡男・頼仲は能勢氏を名乗り足利氏に仕え、その子孫・能勢又五郎頼吉は備前岡山藩池田家に仕えたとされています。またもう一人の頼貞の子とされる多田貞綱は新田一族金屋兵庫助と共に南朝方として行動したとされています。

三郎高頼のもう一人の子の経実は多田満仲の九代の後胤で、多田に住していましたが、大和国都介郷に移り、大和の来迎寺を菩提寺として、高頼―経実―義実―春守―宥実―順実―実春 と続いたとされています。来迎寺の記録では経実を中村伊賀守経実とあり、中村姓に改名します。大和多田氏は多田四郎常胤の代に豊臣秀吉の小田原攻めに加わり全員討ち死にし、以降、大和来迎寺は寂れ無住となり、数多ある五輪等は無縁仏となっていると云うことです。

高頼の末子・光義は塩川氏七代・宗重の娘を娶り、八代目塩川家の家督を相続したと『多田雪霜談』は述べています。この時から塩川氏は多田源氏塩川氏となり、多田蔵人行綱公滅亡後は多田庄の後継者を自認するようになったようです。

太田太郎頼基公  摂津国嶋下郡太田(大阪府茨木市太田)と言うところには継体天皇陵とされる今城塚古墳があり、直ぐ横に式内社「太田神社」があり、「大田田根子」を祀神としていました。一説には、諸蕃「呉の勝」の末裔が住んだところ、あるいは「太田神社」は継体天皇に仕えた、新撰姓氏禄摂津国神別「中臣太田連」の氏神とされています。源頼基は満仲公の子大和守頼親の末裔とされ、ここ太田に太田城を構えました。

以仁王の挙兵 治承二年(1178)十二月、如何なる訳か七十四歳になった源頼政は平清盛の推挙によって異例の従三位に昇叙します。平治の乱の時、頼政公は源義朝方として挙兵しますが、途中で旗色を見て清盛方に寝返りました。仮に義朝と共に六波羅を攻めていれば清盛は負けていたかも知れません。その温情で清盛は年老いた頼政を三位にしたのでしょうか、しかし頼政公は源氏が悉く衰退してゆく中、平氏に味方して生き延びたことが、心の重荷になっていたのではないでしょうか。

治承三年(1179)十一月、後白河法皇は摂関家と結び、反平氏の動きに出たために、清盛はついに激怒し福原から上洛して、関白藤原基房・太政大臣藤原師長・権大納言源資賢ら院の近臣数十名の官位を剥奪して、院を鳥羽殿に幽閉し、後白河院の院政を停止させます。そして翌治承四年(1180)二月・高倉帝から三歳の安徳帝に譲位せしめます。

それに呼応するかのように、治承四年四月、高倉上皇の兄・以仁王は諸国の源氏や寺社方に対して平家追討の令旨を下します。以仁王は後白河帝の第二皇子で母は藤原季成の娘で、八条院暲子内親王の猶子になっていましたが、高倉帝の生母・建春門院の妨害で親王宣下も受けられませんでした。以仁王は追討され三井寺園城寺に逃れます。源三位頼政父子も園城寺で以仁王と合流し、南都に向かう途中宇治の戦いで破れ、源兼綱は討死、源頼政・仲綱は自害し、以仁王は山城国で討たれます。頼政公の領地は伊豆国にあり、末子の広綱や嫡男仲綱の子有綱と成綱は伊豆にいた為に難を逃れ、後に鎌倉幕府の御家人となります。

源三位頼政公の末裔は摂津国島下郡(茨木市)馬場を本領として「馬場氏」を名乗ります。また、源八広綱の子孫である太田資国が丹波国桑田郡太田(亀岡市大田)に住んだことから太田を名乗ります。美濃源氏山縣国政は頼政公の養子となり、頼政公の首を美濃国の蓮華寺に葬ったとされています。又、源義賢の長男仲家(木曽義仲の兄)も義賢亡き後頼政公が引き取り養子としていましたが、宇治の戦いで討ち死にしていまいます。


【伝説】

多田満仲公「九頭の大蛇退治伝説」 と 「龍馬伝説」の大蛇退治伝説」と「龍馬伝説」  


「九頭の大蛇退治伝説」               
「満仲公が・・いささか宿願の事があって・・摂津国一ノ宮である住吉大社に詣でられ、七日間の参詣の後、更け行く春の夜の月に向って、心を澄まして法華経を読み上げ続けられました。すると真夜中になって、御神殿の御扉が開き、衣冠を正した翁が現れたのでございます。翁は満仲公に、朝廷御守護のために、京の近くに新たに居を定めたいとの願い聞き届けよう。此の矢を授けるので虚空に向って射よ。その矢が落ちるところを尋ねて行き、その処を住居と定めよ。その地は仏法・王法に縁深いところである。と述べると、又、神殿の中に入り給うたのでございます。満仲公は明け方になって、頃合良しと、弓を射られ、その矢の到達せる地を尋ねて行かれました。途中、天王寺でお参りを済ませ、玉江の里から猪名の笹原を分け入り、険しい岩を踏み越えてとある山の頂に立つ事ができました。其処から見る景色は壮観でした。あたりを見渡すと、松の木の下に粗末な庵があり、訪ねてみると、白髪の老僧が現れました。満仲公は「この辺に矢が飛んでこなかったか」とお尋ねになると、「暁に空から光るものが飛んでまいりまして、河水を湛えた池に住む大蛇が暴れて、山を突き破り、池の水が流れ去り平地となりました。」と老僧は答えます。満仲公は麓に降りてご覧になると、先ほどの老人が言ったとおり、九頭の大蛇が矢を受けて死んでおりました。大蛇の首を捕り、九頭明神としてお祀りしました。矢の行方を問うた処を「矢問」と名付けました。云々・・」(現代語訳多田五代記)




【川西市東多田の九頭社】 『満仲五代記』によると、この時に大蛇が暴れて池の水が流れ去り平地が出来たと言う。この九頭の大蛇は鎮魂の為に神格化され「九頭大明神」として東多田村に祀られたと『摂陽群談』にある。


「九頭社 川辺郡東多田村にあり、昔此処に化障あって、多人を悩し、民家戸を閉、往来も絶ばかり也、源満仲公白羽の矢を以って射之、其時山鳴動て地に落ちたり、祖形容龍の如にして頭九あり、則其地を穿埋て叢祠を置祀祭之。村民九頭大権現と称す。矢筈矢根の神石つね今猶側にあり。」
(摂陽郡談)


もう一つの九頭大蛇退治伝説

「満仲公が能勢付近へ狩りに出かけられた時の事、夢の中に美しい龍女が現れ、龍女は河下に住む大蛇と何年間も争っているが、とうとうその大蛇に住む所を奪われた、見ると貴方には龍宮天宮の相が備わっているので、その大蛇を退治して欲しいと云います。そしてその龍女は天駆ける馬を一頭引いて来て満仲公に与えます。満仲公が夢から覚めると不思議なことにそこに一頭の馬がいました。満仲公は住吉大神の御加護により大蛇を退治したあと、その狩場に行ってみると滝があり、龍ヶ滝と名付けられました。」『多田五代記』


「満仲公の御夢に竜女が現れ、(ここでは摂津国兎原郡の淵に住む者としている) 我に多年の敵あり。彼の淵に住んで我を悩ます。我甚だ之を苦しむ。我が敵を討って此の苦しみを助けて賜ひ候へ。但し斯く申したりとも、一定誠とも思し食すまじければ、其験には竜馬一匹引き進らすべし。必ず明日摂州能勢山より、不思議の名馬出で来るべし。其こそ我が君の為に授与し奉る所の竜馬なり、と申すと見給ひて夢は覚めぬ。翌日の暮れに摂州能勢山より、竜馬なりとて、明二歳の駒進奏す。村上帝は、当時満仲公は左馬頭にてをはしければ、則ち満仲にぞ預け下されける。さてこそ満仲も、如何にもして彼の大蛇を滅ぼし、竜女が望みを遂げ、此の恩に報はんと心に念じをはしける故、今度(住吉大神に)七日の参籠にも、一つには住所、二つには此儀を祈り申させ給ひけるに、神慮忽ち納受あり、然も彼竜馬に駕して二つの所望一時に満足しぬ。さても彼大蛇の形を見るに、其長五十丈に余り、九の頭を連ね、十八ま眼は、鏡を並べて天に掛けたるが如く、十八の角は、冬枯れの梢枝を争ひ、周身の鱗は荷葉を並べ、紅の舌は炎を吐く。斯かる強盛不敵の者、唯一矢にて滅ぼされぬる、武威の程こそ有り難けれ。即ち彼大蛇の首を斬って、一つの叢祠を建て、九頭明神と祝ひつつ怨霊を宥め給ひける。」『前太平記』「九頭明神事」


能勢町
には山田村の「九頭権現社」、能勢町西郷村大字宿野字九頭森、枳根庄(能勢町大西字奥畑)に「九頭社」があると言う。豊能町余野にも「九頭神社」があった。『池田町史風物誌』   「九頭森余野村にあり、神祠破壊して今神籬のみなり」『摂津名所図会』


美奴みぬめ

『摂津国の風土記に曰く、 美奴賣の松原。今、美奴賣と稱ふは、神の名なり。其の神、本は能勢郡に居りき。昔、神功皇后が筑紫國に行かれた時に、諸神祇が川辺郡内の神前の松原に集って、福を求禮した。其の時に此の神も亦集い来りて、吾も亦護り助けむと云う、すなわち諭して曰く、吾が住める所の山に杉の木有り、よろしく吾が為に伐採して船を造るべし、則ち此の舟に乗りて御幸あそばされるとまさに幸福あり。皇后が神の教えに随いて船造りを命じられた。此の神の船で新羅征伐を遂げられた。一人の人言う、時に、此の船大きく鳴り響いて、牛が吼えるが如くいとも簡単に、自ずから對馬の海より此の処に還りつきて、すなわち之を占えば、神霊の欲する所に船を留め置く、還り来りし時、この浦に此の神を祠祭し、併せて舟も留め以って神に奉った。此の地を亦の名を美奴賣と言う』


神功皇后が新羅征伐に御幸されるときに、諸々の神達が、現在の尼崎市神埼(神前)の松原に集った。其の時、能勢郡に居た美奴賣と云う神もまた集りに加わり、能勢郡の杉の木で船造りを勧めた。皇后は美奴賣神の云うとおり船造りを命じられた。此の神の船で新羅征伐を成し遂げられた。一人の人言うには、其の船は大きく牛が吼えるが如く、いとも操船が簡単で、新羅征伐を為し遂げると、またもや自ずと進み還り着いた。そこで、美奴賣神に感謝を捧げて、帰り着いた浦に祠を造り美奴賣神を祀り、その船も奉納したので此の地を美奴賣と呼んだと云う。因みに此の神社は神戸市灘区岩屋中町にある式内社「敏馬神社」であると言う。

『摂津名所図会』に「三草山は旧名敏馬山といふ。敏馬神初て此山に天降り給ふ。後世江莵原郡敏馬浦に遷す」とある。

「美奴賣神」は「(みぬ)()」とも書き、「本は能勢郡に居りき」とある。

森本一著『能勢の昔と今』によれば、

「三草山の古名は美奴賣山と云い・・、能勢郡南西部にそびえ立つ五六四㍍の山で、美奴賣神は、ここ三草山に住んでいた・・。三草山西麓を越えるサイノカミ峠から南を望むと、右手六甲山から・・武庫・敏馬浦を航行する船の姿まで見られる」

その後、三草山と呼ばれるようになったのは、

「三草山には剣尾山と同じく日羅上人が開創した清山寺があって、・・天空から白髪の老翁が三草を持って現れ、これを上人に授け給うた。上人はこの三草を拝すると千手観音と不動明王と毘沙門天に変化したことから、山号を三草山とした」(能勢の昔と今)


式内社「久佐々神社」は贄の土師部の氏神

『新撰姓氏録・摂津国神別』の条に、

「土師連。(あめの)()(ひの)(みこと)の十二世孫、飯入根命の後なり。」

『日本書記』雄略天皇十七年三月戌寅条に

「詔土師連等、使進応盛朝夕御膳清器者。於是、土師連祖吾筍、仍進摂津国来狭々村」

『能勢町史』は「来狭々村の人々が雄略朝に朝夕の供御の膳を盛る食器を朝廷に献上する贄の土師部であった・・」と述べている。「天穂日命」は、神話では天照大皇神の第二子とされ、中国地方平定の為に大和から出雲の国に派遣されるのですが、逆に大国主命の人柄に心酔してしまいます。久佐々神社の祭神は古くは「天穂日命」であったが、神人氏の能勢支配によって「加茂(かも)(わけ)雷神(いかづち)」に替えられたものと考えられる。


式内社「きね神社

杵宮(きねのみや)とも言われ、現在の祀神は瓊々(にに)(ぎの)(みこと)・天児屋根命・源満仲とされているが、古くは「()(ねの)(みこと)」一座であると考えられる。一説には、この枳根命は龍神とも、美奴賣神を祀る龍女であるとも言われ、この龍女が昔から能勢を支配しようとした神人氏と対立していた。この龍女が多田満仲公の夢に現れ、神人氏すなわち九頭の大蛇を退治して「龍馬」を与えらる話が『前太平記』に見える。大蛇を退治した満仲公も後になってこの「岐尼神社」に祀られた。

神郷(おおむちごう)と式内社「多太神社」

『新撰姓氏録・摂津国神別』「神人。大国主命の五世孫、大田田根子命の後なり」とある。

川西市多田はその昔「大神郷」と呼ばれていた。佐伯有清氏は「神人は舎人や宍人に似て、かつて在地にあって国造に準ずる有力者であり、その子弟が番を作って朝廷に上り、神祇関係の業務に服した」と述べている。平野地区には延喜式内社「多太神社」があり、現在は「たぶとじんしゃ」と呼んでいるが、本来は「ただじんじゃ」と呼ぶべきであるが、明治以降「多田院」が「多田神社」となった為に、あえて「たぶとじんじゃ」と読んで区別している。この「多太社」は平安時代に編纂された延喜式神名帳(九二七年)に載っている「式内社」で、大神氏の氏神であったと考えられる。

現在の多太神社の祭神は「日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)・大鷦鷯尊(第十六代仁徳天皇)・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞鳴尊・大田田根子命」だが、古くは「大田田根子命」が主祀神一座と考えられ、「多太」の名前の由来になった。『日本書記』では「大田田根子」、『古事記』では「意富多多泥古」と記されている。

伊弉諾尊・伊弉冉尊―素盞鳴尊―事代主―大国主命―大物主命―大田田根子命は系図として繋がります。伊弉諾尊・伊弉冉尊が「筑紫ノ日向ノ橘ノ小戸ノ阿波岐原」で禊祓を行い産まれたのが天照大皇神・月讀三貴子命・素盞鳴尊で、素盞鳴尊の子が大国主命で、また其の子孫が大物主命であり、大物主命の五世の孫が大田田根子命とされており、神人の三輪氏・大神氏・加茂氏の祖である。


神人為奈麻呂と能勢町

能勢郡にも神人みわびと(みわの)(あたえ)が住んでおり、『続日本紀』に

「延暦元年(七八五年)正月癸亥廿七。摂津國能勢郡大領外正六位上神人為奈麻呂」とある。『続日本紀』によれば和銅六年(七一三年)に能勢郡が独立します。能勢には「久佐々神社」を氏神とする土師氏の一族が住んでいた。又、「野間神社」を氏神とする物部氏の一族がおり、西能勢には「岐尼神社」を氏神とする一族が住んでいたが、神人氏が勢力を伸ばし、神人為奈麻呂が能勢郡を支配するようになったと考えられる。


「豊嶋郡城辺山 東は能勢国の公田、南は我孫並びに公田、西は為奈河・公田、北は河辺郡の公田に至る。右の杣山河のはじめは、昔、神功皇后が供神料とされた杣山河なり。以前、土蜘蛛族らしき賊がこの山の上に城と穴を造り住み、略奪行為をしておりました。住吉大神が悉くこれを退治して、吾が(そま)(やま)とされた。山の南に広大な野があり、「意保呂野」と名付けられた。山の北に別に長尾山あり。山の峰が長く遠いので長尾と名付けた。山中に谷川が流れ、塩川と名付ける。川の中に塩泉湧き出るなり。豊嶋郡と能勢国との間にこの山あり。城辺山と名付ける由縁は土蜘蛛族の城塞の堺にある為なり。山中に直道があり、天皇が丹波に御幸して還り給える道なり。山の中にしては少し広い原があり、百姓が開耕し、田田邑と名付ける。」 『住吉神社神代記』


多田満仲公は出雲系の氏族である大神氏を滅ぼして、その滅ぼした部族の鎮魂のために、多田庄内に「九頭大明神」として祀ったものと考えられる。しかし、九頭の大蛇の祟りであろうか、多田源氏も八代(満仲・頼光・頼国・頼綱・明国・行国・頼盛・行綱)で滅びます。多田蔵人行綱公は鎌倉幕府から勘当され、多田庄は新羅三郎源義光の裔・大内惟義に与えられる。

多田源氏は滅ぼした大蛇の祟りを恐れていたようだ。『高代寺日記』によれば源頼光公は、出雲の()(とり)神社(じんじゃ)に祀られている大国主命の娘「下照(したてる)(ひめの)(みこと)」を奉斎して攝津国に「比賣許曽(ひめこそ)神社」を創建している。多田蔵人行綱公と塩川氏が伯耆守を名乗ったのもその由縁である。「九頭」は「国主」とも書く。『紀伊続風土記』によれば、名草郡多田郷多田(おおた)村に「九頭大明神」と呼ばれる「国主神社」があり、祀神は「大国主之神」である。

源頼光公の戸隠山の鬼退治伝説は有名だが、信州「戸隠神社」の「九頭龍神」と混同されて、「大蛇」を「龍」として、「満仲公九頭龍退治伝説」としているが、「九頭の大蛇退治伝説」と言うべきである。

「戸隠神社」
猪名川町肝川にある「戸隠神社」は、昔は神社の向かいの山にあった「九頭社」を移して「戸隠神社」と名を改めたという。
 

実は「土蜘蛛」も「国巣」「国主」「国栖」「来栖」とも呼ばれており、「九頭」は先住民「土蜘蛛」だとする説もある。「住吉大神」の土蜘蛛退治伝説と満仲公の九頭の大蛇退治伝説とどこかイメージが重なる。ともあれ「九頭社」は先住民の鎮魂の為の社であった。
 この九頭の大蛇退治伝説は、源満仲公が住吉大神の杣山であった多田の地に、古代から大神郷と呼ばれ、「多太社(ただしゃ)」を氏神とする大国主命の末裔である大神氏の一族が住み着き、銀・銅を採掘して栄えていたものを、唯単に武力で平らげたとは言わず、正しく住吉大神の威光により征したのだと言っているかのようだ。満仲公は多田庄を開いた後に、彼らの氏神である式内社「多太社」を廃して、京都の「平野社」を遷座して、江戸中期まで「多太社」は「平野明神」と呼ばれていた。無論、銀・銅の採掘権も手に入れた。


馬蹄石と龍馬石 

「満仲公が龍馬に乗り四方を廻り、多田庄の範囲を、南は鼓ヶ滝、北は丹波国ノ境杓子峠と決め、其々の地には馬の足跡が石に深く刻まれた」『満仲五代記』

「馬蹄七ツ岩・摂丹の堺柏原村の路傍に七箇所に双ひ如何にも駒の蹄の足跡あり、土人之満仲公龍馬にのりこの岩上徃返し給し故と伝う」『摂津名所図会』


「龍馬石・多田庄
()(とふ)村にあり、源満仲公龍馬の蹄の趾を残し号之名石あり。」『摂陽群談』
「多太神社にある石は「龍馬石」か「満仲公腰掛け石」か?


龍馬の乗る満仲公二十四歳の御姿。


多田院の御神体は龍馬に乗る満仲公の御影像
満仲公が一刀三拝で御影像を手彫りされたという。

「弟の左馬助満政・満実・満季らが満仲公の御前に集って相談し、御影像を院内に安置し満て末代まで守り本尊として仰ぎ奉るので、満仲公お手ずから御影像を刻らせ給えと進言します。その御影像は甲冑を着け弥陀の利剣を帯び、愛染明王の弓と多聞天の鉾をさげ、龍馬に乗った二十四歳の姿である。」『満仲五代記』


『摂津名所図会』には「満仲公の肖像は御歳廿四歳の時初て源の姓を賜り其の砌の御容を五十有余歳の時みずから彫刻したまふ神影で連銭葦毛の馬に騎り緋縅の鎧を着し金鍔鮫鞘の太刀を佩き御手の左右に弓箭を携えし尊き・・云々」

多田院では江戸時代に、この満仲公の騎馬像の御開帳があった。上司小剣は小説『石合戦』の中で次のように記している。


「近松門左衛門の戯曲に「多田院開帳」といふのがあるほどだから、徳川時代には五十年目毎に行はれたここの開帳が、可なり聞こえたものであったらしい。両部時代の本尊と云うべき満仲二十四歳の武装した騎馬の木像は、彼れ自身五十四歳のとき自ら刻んだものとして伝へられている。いまもそれがそのまま祭神の本体として、祭礼の神輿渡御には、八寸の鏡にこの木像を映した上、靈代として神輿におさめた。祭りの日の夕方、神輿が御旅所から静々還御になると、父は衣冠の威儀も正しく、八人の社家を随えて。物々しく練って帰る。先駆の武士に傘持ち、沓持ち、その後に社家の行列がつづくのである。社務所兼住宅の門前には、駕輿丁その他出役した村人が、それぞれの衣装のまま、両側へ二列に並び、旧領時代のしきたりで、土下座して迎える。」
(上司小剣・石合戦より)


「塩川秀国が葦毛馬で遠乗りに出かけようとした時に馬が暴れて何度も落馬し、遠乗りを残念した。その夜、十二歳になる秀国の娘に満仲公のご託宣があり、汝、葦毛馬を求めて乗ろうとしたからである、吾が馬もその葦毛なりと言う、急ぎ多田院に行って、時の長老円照上人に物語り、御影像を見ると正しく葦毛馬であった。秀国は満仲公を供養し、その葦毛馬を多田院に奉納した」
『多田雪霜談考』


『宝塚の民話』によれば、宝塚市波豆にある源頼平公創建の「普明寺」には寺宝として龍馬の首なるものがあり、雨乞いの神事に用いられ、霊験があると言いう。『川西の歴史散歩』には、「多田院の北西の移瀬の寿久井の地蔵尊がその駒塚である」という。


「普明寺 河邊郡波豆村にあり。山號慈光山と稱す、源満仲公御子、上総允満政公、剃髪法號満照法師の開基、自ら千手大悲尊を一刀三禮に彫刻し玉て、金堂に安置す。春日神作の地蔵尊を、内道場に置り、龍女神、満仲公に與るの龍馬頭、寶蔵に納之、村民設之祈雨、即時淫雨洪水して、旱魃の愁を救こと甚奇なり。」(摂陽郡談)


上司小剣は幼少の時に多田院でこの御影像を見たことがあると小説『石合戦』に次のように書いている。「・・・父の留守にそっと白衣に着更へ、紫の袴を穿いて、神殿の鍵を懐中に、内陣深く入って行った。一ばん外から数へて、大きな檜造りの扉が三つ、同じ形をしている。内部に行くほど、金具が剥げずにピカピカ黄色く光っていた。相殿の方には眼もくれず、正面の満仲を祀ったのへ突進するのであった。左右二座づつ四座、いづれも正面と同じ扉だが、いよいよ内陣になると、厨子の立派さが正面は全く違って結構である。壇上に安置された黒漆塗りの大きな厨子。その扉を開くとき、竹丸の手は慄へた。扉の内には御簾が下り、葵の紋を散らした白金襴の戸帳がかかっていた。怖々それ等を捲き上げたり、まん中から開いたりすると、また御厨子だ。これはだいぶ小さい。その扉を開かなければならぬが、光線が乏しくて、いくら眼が慣れて来ても暗い。母に教へられたとほり、燧石を持って来たので、それをかちかち打って、内陣の片隅に備へてある祭礼の渡御に靈代遷しのとき用ふる小雪洞の燃え残りの蝋燭に点火した。四辺が急に荘厳を加へて、全く神秘の世界となった。奥の厨子の金色燦爛たる扉を開くと、また金襴の戸帳や幌が幾つも垂れている。竹丸はわなわな両手を慄はしながら、戸帳や幌をかかげて行くと、最後に、内部を全く黄金で塗ったところに、祭神が、騎馬の木像、高さ一尺余。連銭葦毛の駒に乗り、緋縅の鎧を着し、鍬形の兜、金鍔、鮫鞘の太刀を佩き、御手の左右に弓箭を持たせ給ふ尊影なり。・・・と名所図会には書いてあるが、薄暗いので、竹丸には何が何やらわからず、ただその顔の色の胡粉で真ッ白なのと、両眼の烱々と光るのとを見るのみであった。」(石合戦より)


多田庄の銀山

銀山親鉉・・・猪名川水系・猪名川町仁頂寺―万善―銀山―差組―川西市若宮・西多田

高山親鉉・・・余野川水系・豊能町余野―川尻―箕面市止々呂美

七宝山親鉉・・川西市初谷川水系・黒川―吉川―笹部

奇妙山親鉉・・能勢町山辺川水系・山辺―片山―猪名川町民田―川西市国崎


「住吉大神」が杣山とされていた地を、いつの頃からか「神人氏」が侵して銀銅を採掘していた。その勢力範囲は能勢までも及び、三草山の龍女と争った。「住吉大神」の御託宣を得た源満仲公は「神人氏」である「九頭」を退治して、龍女の仇を討って、多田庄を手に入れた。


  【伝説】 鼓ヶ滝 論争                      

『多田雪霜談』には、矢を尋ねてきた満仲公に老僧が、「暁に空から光るものが飛んでまいりまして、河水を湛えた池に住む大蛇が暴れて、山を突き破り、池の水が流れ去り平地となりました」と答えています。大蛇が暴れて滝を壊しと書かれています。滝はその時に無くなったと言っています。江戸時代の摂津名所図会の「鼓ヶ滝の図」には滝は無く、急流が描かれています。現実的に、大蛇が暴れて滝を破壊したとは考えられず、当時の土木技術では水を堰き止めていた大岩を破壊したとも考え難く、また、古代、三草山の杉を美奴賣神が神前(尼崎市神崎)まで流したと言う伝説や、山県阿我奈賀が為奈川の上流の山林の木材を流して運んでいたとすれば、本流には滝はなかったと考えるべきでしょう。但し、鼓ヶ滝の周辺は急流になっているために、急流を滝と呼んでいたのでしょうか。それを当時の鉱脈掘削で用いたノミで岩を削り、流れやすくしたとも考えるられます。

『川西史話』の中で田裕久氏は、鼓ヶ滝は川の側にある鶯台から落ちる小滝ではないかとしています。福本賀弘氏もまた『かわにしの歴史を探る』の中でこの小滝を鼓ヶ滝として紹介しています。これは『摂津名所図会』にこの小滝が描かれていることから、判断されたと思われます。

新説・鼓ヶ滝 そこで私も一つの仮説をここに提示します。現在は「つづみがたき」と発音していますが、実は「つつみがたき」ではないかと考えます。漢字で書くと「堤ヶ滝」、即ち、堤のそこかしこから水が流れ落ちていたのではないでしょうか。ではその堤の様な滝はいったい何処にあったのでしょうか。満仲公の時代に新田の山裾が切り開かれて、新田城や牧が造られて、その土で多田川の堤防補強工事が行われたと考えます。そして、牧から堤防伝いに馬場が造られて、堤防が絞め固められたと考えられます。満仲公以前は、現在の多田桜木町一丁目から二丁目と東多田一丁目(旧字上川原、中川原、下川原・等)辺りは湿地帯で、北からは塩川が流れ込んでいました。しかも昔は猪名川の水量はもっと多かったと考えられます。現在の「銀橋」と能勢電鉄「鼓ヶ滝駅」の間は旧字名を「字下瀧」「字上瀧」と称し、東多田の横山や沙羅林山から流れてくる小川で、深く抉れた谷になっていました。そのすぐ南面の旗指山の北斜面は「字瀧ノ上」と呼ばれています。その上瀧・下瀧と呼ばれる谷になった所に、堤のようになって、水が小瀑布のように流れ落ちていたのではないかと推測します。多田川の堤防工事と塩川を現在の位置に導くことによって旧上川原、中川原、下川原の水はひき、川も深く抉られて、滝が自然に消滅して「つつみがたき」と言う名前だけが残ったのではないかと、私は考えています。明治期に能勢電鉄の軌道と県道が併設された時には、地盤が悪い為に土盛りをして、能勢電鉄軌道と県道は一段高くなりました。現在はダイエーの駐車場から県営住宅・イズミヤ・多田駅西側は線路と同じ高さになっていますが、鼓ヶ滝駅の東側は現在も低いままで、水捌けが悪く、川西市によって排水施設が設けられており、県営住宅とダイエー駐車場の間の市道下にも排水施設があり、能勢電鉄東多田踏み切りの先の猪名川沿いの旧「鯰川」は猪名川の逆流を防ぐ為に水門が設けられています。今でもこの辺りは地下水位が高く、井戸を掘ればすぐに水が湧いてくる地域です。堤防の跡は字原図を見ても良く分かります。昔はこの堤防が塩川橋下流辺りで何度も決壊して現在の多田桜木町辺りは民家の屋根しか見えないくらいに水没しました。二箇所に水害記念碑が建てられています。この水害で水没した範囲が旧の湖と称されている部分で、その湖の水が堤を小瀑布のように流れ落ちていた処が字下滝・上滝と呼ばれていた場所だと考えます。


「字下瀧」「字上瀧」「字瀧之上」
 

斜線の部分は多田川の氾濫原だった。
 


西行法師と鼓ヶ滝 鎌倉時代になって、西行法師が

「音にきく つつみがたきをうちみれば かわべにさくや 白百合の花」

と読み、「つつみがたき」を「鼓ヶ滝」としたのは、実は西行法師の歌ではなかったかとするのは私の考え過ぎでしょうか。和歌は濁音を清音にして書き表します。西行が「つつみがたき」と読んだのを、後世の人が「つづみがたき」として「鼓ヶ滝」の字を当てたのではないかと推理します。私達が子供の頃はただ単に「たき」と呼んだり、また濁らずに「つつみがたき」と呼んでいたような気がします。

西行法師は藤原秀郷流・佐藤兵衛尉憲清と言い、鳥羽院に仕えた北面の武士でしたが、源平の戦いに無常を感じて(一説には、待賢門院ないしは美福門院に失恋したと云う白洲・瀬戸内ら女流の説もありますが)妻子を棄て出家いたします。

平重衡が焼き討ちした東大寺を、後に源頼朝が再建いたします。『吾妻鏡』文治二年八月の項に、西行法師が東大寺再建のため奥州へ砂金勧進に赴く途中、鎌倉鶴岡八幡宮へ立ち寄ったところ、偶然にも頼朝の目に留り頼朝の御所に招かれて、請われるままに色々と話をし、別れ際に頼朝から銀製の猫を贈られたが、外で遊んでいた子供に与えたと云う話があります。

西行法師が攝津国の「つつみがたき」を訪れた時期は、多田源氏直系の多田蔵人行綱公一族が鎌倉幕府から勘当になり多田庄を退って、森羅三郎義光の末裔である大内惟義が頼朝から多田庄を与えられた頃のことと推測されます。西行が摂津国の「つつみがたき」を訪れて「つたへ聞く つつみが瀧にきて見れば 沢辺に咲きし 白百合の花」と読みます。多田源氏の栄華も多田満仲公から八代で滅び去ってしまった。武家たるもの如何に強力な武威を以ってしてもいつかその栄華は滅び去るものだ。そんな人の世の煩わしさと無関係に自然の美しさは絶えることも滅びることもないと読んだ哀愁歌です。しかし、実際に西行法師が多田庄を訪れたと言う記録は見当たりません。又、実は西行法師の歌集の何処を探してもこの歌は見当たらないのです。

このお噺は、現在、一柳斎貞凰の講談や三遊亭圓窓の落語になって語り継がれているのみです。お噺では、西行が摂津の鼓ヶ滝を訪れて「つたへきく つつみかたきにきてみれば さわへにさきしたんぽほのはな」と歌をよみます。疲れて午睡した夢の中に老人が現れて「伝え聞く」を「音に聞く」と改め、次に老婆が「来て見れば」を「打ち見れば」と直します、それをまた孫娘が「沢辺」を「川辺」と直し、「音に聞く つつみか滝を打ち見れば 川辺に咲きし たんぽほの花」と改めたと云うお噺でございます。お噺では白百合がタンポポになります。また、「午睡の夢の中の話」としている場合と「その夜泊まった民家での話」としている場合があります。西行が「伝え聞く鼓ヶ滝」と読んだのは満仲公九頭龍伝説を伝え聞いたと解釈いたします。「滝」にかかる言葉として「音に聞く滝」と韻を踏み、「来て見れば」を「打ち見れば」と韻を踏みます。「沢辺」を「川辺」としたのは「鼓ヶ滝」が摂津国川辺郡にあるからでしょう。また、老人と老婆と孫娘は住吉明神と人麻呂明神と玉津島明神だっとするお噺です。

『川邊郡誌』は鼓ヶ滝について次のように述べています。

「鼓ヶ瀧・・歌に

 音に聞く鼓が瀧に來て見れは唯山河の鳴るにそありけり

  今もなほ音に聲えて津の国の鼓が瀧の名こそ高けれ  

是等は正しく此瀧の滅失を歌へるものなるも、

  津の国の鼓が瀧を打見れは岸邊に咲ける蒲公英の花  

として西行法師が此瀧を詠ぜるものと世に傳へらるゝも、果して満仲多田院創建の時破壊せる瀧とせば西行焉んぞ此の瀧知るべきや、西行果して實地を詠ぜりとせば此瀧にあらずして有馬郡湯山町に今尚著名の鼓が瀧を歌ひしを明かなり。」(川邊郡誌)と、

有馬温泉にあるのが鼓ヶ滝(つづみがたき)で、こちらの鼓ヶ滝は「つつみがたき」であると推理します。

『摂陽群談』に「西行法師假居古迹・多田領の上に在。諸国巡行の時、於于爰、假居するの古迹と云所傳也。」とあります。西行法師が度々多田ノ湯を訪れて仮住まいにしていた住居跡が多田領のかみにあると云っています。現在その場所は不明ですが、「平野の湯」当りだと考えます。

また『川西市史』に、多田院南無手踊りの歌として紹介されている歌に

津の国の鼓ヶ滝を打ち見れば ただ谷川にたんぽぽの花 山伏が宿とりかねて歌をよむ・・・」と云うのがあります。参考までに・・。



第三話・鎌倉時代と多田庄の風景

源義朝は「保元の乱」の後、父為義と弟達を斬首し、頼朝の長子悪源太義平は叔父義賢を上野国多胡郡大蔵館に攻め滅ぼし、又、木曾義仲をも滅ぼし、弟の範頼と義経をも殺すと言う親子兄弟が互いに殺戮を繰り返して来た。又、甲斐源氏安田義定も討たれる結果となる。頼朝自身の死も不可解である。通説では、落馬が原因で、建久十年(一一九九年)一月十三日に亡くなり、享年五十三歳と言うが、『吾妻鑑』は建久九年十二月廿三日から、建久十年二月六日までの部分が削り取られており、落馬のことも、亡くなった経緯も何者かによって亡失している。二代将軍頼家も北条時政・義時に殺され、三代将軍実朝は頼家の子公暁に殺されている。また、頼朝は姫君たちを入内させようと謀ったが、大姫と三幡姫は病死すると言う哀れな結末になり、政権は清和源氏から関東平氏に取って代わられた。

「承久の乱」後鳥羽上皇は幕府滅亡の調伏の祈りを行い、御台所政子を従二位に、三代将軍実朝を右大臣の位に就けて「位討ち」にし、政治の実権を朝廷に取り戻そうとの考えであった。三代将軍実朝が二代将軍頼家の子・公暁に暗殺されると、将軍の後継問題で朝廷と鎌倉方とが対立する。そして、ついに承久三年(一二二一年)五月、朝廷は馬揃えの名目で北面の武者や僧兵などを集め、執権北条義時追討の院宣を発します。多田庄からは大内惟義の子惟信と多田行綱公の子基綱公も上皇方として参戦します。総勢十九万騎とも言われる鎌倉の大軍が都に押し寄せると、上皇方の軍勢は総崩れとなり、上皇は御所の門を閉ざし、たちまち院宣を撤回します。

 負けた上皇方の処罰は厳しく、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇は土佐に、順徳上皇は佐渡に、六条宮は丹波に、令泉宮は備後に配流され、院の近臣や上皇方に味方した武士達もことごとく官位剥奪・所領没収されました。多田基綱公は捜し出されて斬首されました。以後、京都には六波羅探題が置かれ、朝廷の権力は有名無実となり、西国の多くの所領は鎌倉方の御家人に分け与えられました。多田庄も北条得宗家の所領となり、多田御家人も大勢が多田基綱公と共に戦ったようで、以降、上皇方として戦った御家人は百姓に落とされ、それ以外の御家人は知行を大幅に減らされ給田は一町とされました。京都大番は廃止され幕府の御家人ではなく、「多田院御家人」と呼ばれて源氏の祖廟である多田院を守護する武士に身分を落とされました。しかし、北条氏は多田院を源氏の祖廟として大事にし、十里四方を殺生禁断の地としました。多田庄には地頭は置かず、多田院政所を置き、政所別当が北条得宗家の支持に従って荘園を治めることになりました。

 源義勝なる人物が承久三年(1221)承久の乱を避けて摂津国から越中国高岡に移ったとされ、高岡大仏の起りとされています。多田上津城の城主・多田越中守春正が越中守を名乗ったことと関係があるのでしょうか・・。

信濃の塩河氏
『吾妻鑑』承久三年四月小二十二日の条に、 承久の乱の時、鎌倉から京都に向けて進発した北条泰時に従った十八騎の中に「塩河中務丞」と云う武士がいます。これは『高代寺日記』にある信濃国塩河牧の塩河氏であると考えられます。したがって、「承久の乱」では攝津国では塩河氏と能勢氏が鎌倉方として、多田庄の大内氏は上皇方として分かれて戦ったと考えられます。

「二十二日乙巳、曇り、小雨がずっと降っていた。卯の刻に武州(北条泰時)が京都に出発した。従う軍勢は十八騎である。すなわち、子息の武蔵太郎時氏、弟の陸奥六郎有時、また北条五郎(実義)、尾藤左近将監(景綱)、関判官代(実忠)、平三郎兵衛尉(盛綱)、南条七郎(時員)、安東藤内左衛門尉、伊具太郎(盛重)、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎(家盛)、葛山小次郎(広重)、勅使河原小三郎(則直)、横溝五郎(資重)、安藤左近将監、塩河中務丞、内島三郎(忠俊)らである。京兆(北条義時)はこの者たちを呼んで皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)、前武州(足利義氏)、駿河前司(三浦義村)、同次郎(泰村)以下が出発した。式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発した。」(現代語訳吾妻鑑)

『高代寺日記上』を紐解くと、
「傳曰、重貞病ト称シテ世ニ密シヒソカニ東国武者修行ス、祖次手ニ先祖ノ預リ所ニテコトサラ謂有旧所ナレバ、信濃国猿猴ノ牧ニ順著ス、此エンコウノ牧と申コトハ名馬出ル所ナリ、徃昔馬ハ猿ノヒキタル古事有コレニヨッテ自ラ其名ヲ猿猴ノマキト号、満仲卿左馬寮ノ頭タルトキ藤原中務ヲ信濃に遣シ此エンコウ牧支配サセ給フ、後仲光ヲ主代殿に置タマキ其号塩河と改タマイシ此ヨリ仲光カ妻ノ弟紀四郎ト云者塩河ノ牧へ遣シ、終ニ其邊に三菴ヲ立猿猴ト云字ヲ音ニ合テ前ノコトク塩河寺ト付ラル、又或説ニ中務馬芸ヲ大ニ得タリ故、敏老ノ此遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧に赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一菴ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云、代々此エンコウノ牧ヘハ順行セラレケルトソキコヘシ云々」とあります。

『高代寺日記』は、信濃国小県郡塩河牧(現上田市丸子町)へは藤原(長光)仲光の妻の弟の紀四郎が遣わされ、代々塩河氏を名乗ったと言っています。この塩河牧は木曽駒で有名な所で、彼の木曽義仲もこの木曽駒を多いに重用したと言われている。

信州塩河牧(上田市丸子町)




能勢(能瀬・能世)氏と塩河氏
『吾妻鏡』文治二年(一一八六年)八月二七日の条に
「土佐守源国基は二品頼朝公の御一族であり、徳に親密な間柄にある。そこで伊勢国玉垣御厨の領主職以下多くの地を示し付けられた。また国基の家人である刑部丞景重には幕府に仕えるように命じられた。景重は渡辺党である。」とあります。

 この土佐守源国基は、源実国系の国基であるとする説と、能勢国能の父であると言う二つの説があります。源実国系国基説は「尊卑文脉」に土佐守国基とあり、この土佐守国基は、家人刑部丞景重が摂津渡辺党であり、摂津源氏の源三位頼政の縁者と考えられます。一方、能勢氏系の能勢国基とする説は、『吾妻鏡』に能勢国基の嫡子能瀬国能は、源頼朝が東大寺再建開眼供養のために東大寺参詣した時の行列に供奉した家臣の中に名を連ねていることから、能勢氏は鎌倉時代には鎌倉幕府御家人となったようです。多田頼綱の三男山縣三郎国直は美濃国山縣郡を領有し、嫡男山縣国政が源三位頼政の養子となり、以仁王の乱に挙兵して敗れ宇治で敗死した頼政公の首を貰い受け美濃国蓮華寺に葬ったことを、将軍頼朝は甚く感じて、その舎弟の源国基公とその子能瀬国能公は摂津国能勢郡を知行して、鎌倉御家人に加えられたものと考えられます。



『高代寺日記・上』には能勢国基は多田頼綱-越後守頼仲-頼重-国基に至り、山縣三郎国直の養子になったとされています。

「傳曰頼重ノ長庶子ニ左兵衛尉国基ト号一人アリ仲基コレヲ養フ出家ニナサント計ル、十二歳ノ□至高代寺ニ学問ヲツトメタリシ還俗イタシ寺ヲ出、一族山縣三郎国直カ子トナル、国直元来子無故幸イトコレヲ養テ家督トセリ、其后国直実子多生ル、家督儀ニツキ争論アリコレニヨッテ農州ヲ退去シ悉穿々タリシヲ頼重・頼貞介抱ニテ摂津国能勢ノ内田尻ノ庄ニ閑居、其後近衛院ノ御宇ニ禁中警護ノ一列トナリ則五位ニ叙セラレ兵衛太夫国基ト云、始能勢ニ久敷住セシ故自ラ世人能勢ト云ナラワセリ、去ニヨッテツイニ家号トナルコノキハ爰ニ記スヘキコトニアラスト云共頼重長庶子ニテ分家セシヲアラハサンタメ此傳ニ記ス委細ハ末ニ顕書ス小名小次郎ト云能勢ノ元祖タリ、」とあります。

『吾妻鑑』承久元年正月廿七日の項に、将軍実朝の右大臣拝賀の鶴岡参拝の行列供奉に「蔵人大夫重綱」の名があるところから、能勢国能の子の重綱ではないかと思われます。

多田源氏の祖・多田頼綱公の長男・多田明国公については前述しました。次男・源仲正公は源三位頼政公の父にあたります。三男は源国直公と申します。頼光公・頼国公が美濃守であったので、国直公は美濃国山県郡を領有していました。国直公の嫡男国政公は山県氏を名乗り美濃源氏の祖となります。

『高代寺日記・上』によれば、能勢国基は多田頼綱-越後守頼仲-頼重-国基に至り、国基は頼重の庶子であった為に、山縣三郎国直の養子になりますが、山縣家の家督争いで山縣家を去り、能勢郡田尻に隠棲します。

このように多田源氏の直系は多田蔵人行綱公から後は多田庄を失い、多田源氏傍系塩川氏を筆頭とした多田源氏の家人達が多田庄に残り、満仲公の陵墓を守ることになります。『高代寺日記』によれば、多田庄では吉河氏が越後守頼仲-頼重-貞信-信家から興りますが、源氏の被官で元来藤原姓であった塩河氏は源高頼や大内惟義の血を取り込み、吉河氏を滅ぼして、源姓塩川氏を名乗ります。鎌倉時代に塩川氏は多田御家人筆頭格となり、能勢氏と塩川氏は後世互いに争うことになる。


「承久の乱」と塩川氏
多田源氏滅亡後多田庄は頼朝によって大内惟義に与えらると、多田御家人達の処遇は、大昌寺蔵「塩川(井上)氏系図」に次のようにある。

「御下文 右大将家在御判 多田蔵人ハき久王以尓よりかんとうつかまつ里たるなり、されハ多田をハあつけ申なり下し文たてまつる、とく志里賜へし、ただしかたかた沙汰せんことハ志つか尓せん例をたつ祢て沙た在るへし、さてハ多田蔵人か志たしきも乃なとハ奈いとおしくしたまいそ、さふら以ともをはいとおしくしてもとのやう尓つかい給へし、多田蔵人かおとゝ尓てあるものにけのほりたるなりき久王いの事なり、かんとうせんするなり、云々」

「今はこのように下らせ給べきよし、仰せられて候へども、多田の事を承はらせ給候ぬれば、左様の事よくよく御心得させ給いて、重ねて仰せに従い給ひて下らせ給べき由、仰せ事候也、多田ノ蔵人大夫が目をかけていた者共であっても、今は、その力も無き様なれば、万のこの所の家人共であっても、今は御家人として安堵せさせ給て、閑院・内裏の大番仰せさせ給べく候、云々」

多田源氏滅亡後、攝津塩川氏は娘を大内惟義に嫁がせ、惟親を儲けて嫡子とした。惟親(蓮阿)の子等は、「満国流」と「惟仲流」に別れ、其々「満」と「仲」の字を代々諱として受け継いでいる。     

建保七年(1219)、鎌倉幕府三代将軍源実朝が公暁によって暗殺されると、承久三年(1221)、遂に後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発し「承久の乱」が起った。大内惟義の嫡男惟信は上皇方として参戦した。「間部家譜」によれば、塩川三郎満国も上皇方として参戦し、敗れた後浪々し、多田庄を去って上杉氏に仕えたとある。上杉氏は藤原北家勧修寺流で、京都府綾部市上杉の地を本貫としたので上杉氏を名乗っている。初代上杉重房は鎌倉六代将軍・宗尊親王に仕えて関東に下向したと言う。上杉氏は足利氏と縁戚関係を結び関東での地位を確立し、やがて越後の支配者となる。

『吾妻鏡』承久三年六月二十日の条に「多田蔵人基綱も梟首された」とある。多田蔵人行綱公の子基綱公も「承久の乱」では上皇方として参戦し敗れた。    

一方、惟仲流塩川氏は「承久の乱」後も多田庄に留まったようであるが、鎌倉時代のことはあまりよくわかっていない。「塩川(井上)氏系図」も惟親から師仲まで五代とやや短い。

「承久の乱」で上皇方として戦った多田院御家人らは処分されて、再編成され、塩川氏は御家人筆頭格として位置付けられている。

『多田院文書』に、正和五丙辰年(1316)十月十三日、「多田院堂供養之時、御家人警固座図」に当時の御家人名がある。この年に北条高時は執権になっている。
塩河・黒法師・山問・吉河・高岡・佐曽利・得武・野間・北田原・井谷・槻並・久々知・利倉・原田・後河・平井・高岡・一樋・織・今北・石道・西富・南田原・対津佐藤・山田・大町・黒田・能勢・森本・西山・小柿・安福・森本・田井・山本・上津村九郎次郎・小戸・谷・六瀬・脇田」などの名が見える。

(注)「塩河」は惟仲流塩川左衛門、「吉河」は吉河判官代賴元、「上津村九郎次郎」は上津多田氏と思われる。鎌倉時代は「多田」を名乗れなかった。

多田院政所別当忍性の多田院再興と多田院御家人

 鎌倉中期にると多田院も老朽化が激しくなり建替える必要に迫られ、多田庄から上がる年貢の中から費用が捻出されて再建が始められます。しかし、資金不足から工事は難攻していました。北条得宗家は鎌倉・極楽寺の僧・忍性を多田院別当に任じて、多田院再建に当らせます。

 良観房忍性は大和国の生まれで父は伴貞行と申します。十六歳の時母を亡くし、母の願いで東大寺戒壇院に於いて出家し、西大寺の叡尊の弟子となり、鑑真和上の流を汲む西大寺の復興と律宗の普及に努めました。律宗を広める為に鎌倉に赴き、北条重時・実時・時宗に認められて、鎌倉・極楽寺を開山して住職となります。人民救済や災難厄除の祈祷も行い朝廷と幕府から信頼を得るようになった忍性は建治元年(一二七五年)多田院復興の為に多田院別当に任じられます。『川西市史』によれば、忍性の努力により、弘安二年に本堂が完成し、西大寺長老・叡尊が導師として曼荼羅供養が行われました。正和五年に数拾年の歳月を経て、多田院復興がようやく完了し、西大寺長老・浄覚宣諭が導師となり完成供養が行われたそうです。

 後に忍性は後醍醐帝から菩薩の位が与えられ、忍性菩薩と呼ばれるようになりました。此の時から多田院は奈良・西大寺の末寺となったようで、明治初期に多田院別当改め初代多田神社宮司を勤めた上司延実氏が奈良西大寺から妻子を連れて多田にやって来た訳が分かりました。この話は後にいたします。




第四話・『太平記』の時代・南北朝時代と多田庄

『太平記』より

鎌倉幕府滅亡と南北朝の動乱

元弘の変 元亨四年(一三二四年)後醍醐帝は鎌倉幕府追討を企て、院の近臣らを集め無礼講なる宴遊の会を開いたのでございます。この密会の出席者は日野資朝・日野俊基・花山院師賢・四條隆資・洞院実世・足助重成・多治見国長・土岐頼兼・頼員・玄基三位房祐雅・聖護院法眼玄基らでした。土岐蔵人頼員がこの密会の件で悩み妻に打明けると、妻は父の六波羅探題の奉行・斉藤左衛門尉利行に相談し、すぐに六波羅探題の知るところとなり、企ては失敗に終わりました。世に言う「正中の変」です。六波羅探題はすぐさま多治見氏国長と土岐頼員の館に兵を送り両名を討ち取りました。六波羅は日野俊基らの謀反として、帝の責めは問わず、俊基を佐渡に配流しました。しかし、帝の討幕の意思は固く、南都北嶺に行幸し幕府調伏の祈祷を行いました。元弘元年(一三三一年)帝の側近・吉田定房はこの企てを諌めましたが聞き入れてもらえなかったため、六波羅に密告しました。世に言う「元弘の変」です。六波羅は首謀者として日野俊基と僧・円観・文観らを捕らえましたが、帝は身の危険を感じて都を棄てて笠置に移られます。帝は楠正成を召して、尊良親王・護良親王・宗良親王・四條隆資らと討幕の兵を上げます。関東から大仏貞直・金沢貞冬らが兵を率いて笠置を攻撃すると、帝と宗良親王は笠置を脱出して山中で捕らえられました。護良親王らは大和国の山中に逃げて、全国に幕府追討の宣旨を発します。幕府は元弘の変の処分を行い、後醍醐帝は隠岐に、尊良親王は土佐に、宗良親王は讃岐へ配流され、日野資朝・日野俊基・北畠具行・平成輔らは死罪となります。元弘二年後醍醐帝・千草忠顕・世尊寺行房・河野廉子ら一行五名は佐々木道誉らに護送されて隠岐に参りました。途中美作国で備前の児島高徳が帝をお助けしようとしましたが果たせず、「天莫空勾践時非無犯蠡」の詩を桜の幹に書き送りました。楠正成は千早赤坂城において五百余騎の手勢で、三万余騎の幕府軍と戦いましたが、いったん金剛葛城の山に逃げこみました。しかし、再び盛り返して河内和泉国に兵を進め、護良親王も呼応して羽曳野まで進出し、天王寺まで攻め込みます。幕府軍は大仏高直・阿曽時春・名越遠江入道を将とする十万余騎を派遣いたし、正成を千早城まで追い詰めました。

鎌倉幕府滅亡
 
元弘三年後醍醐帝は佐々木清高の監視のすきをついて富士名義綱の手引きにより、隠岐を脱出して、伯耆国船上山に入り、名和長年を御召になって幕府追討の院宣を諸国に発せられたのでございます。是を受けて、出雲では塩冶高貞・景山次郎が、石見から三隅氏・佐波氏が応じ、伯耆大山寺の僧兵も加わり、千草忠顕を従四位下右近衛中将に任じて、都へと向けて進撃させたのでございます。元弘の変以来、播磨の赤松円心則村も度々都に攻め入り幕府軍をてこずらせておりました。幕府は再び足利高氏・名越高家ら率いる大軍を派遣し、足利高氏は山陰道に、名越高家は山陽道に向けて進軍いたしました。名越高家は赤松軍の佐用範家に討ち取られ、やがて足利高氏は丹波篠村に入り後醍醐帝方に寝返り、篠村八幡宮で叛旗を翻します。其の時に、丹波の国人衆・久下氏・荻野氏・波々伯氏らも馳せ参じます。千草・足利軍と赤松円心軍らは都を取り囲み、六波羅軍と激突します。やがて六波羅探題北条仲時は劣勢を悟り、光厳上皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国に逃れようと都を脱出しますが、近江源氏・佐々木道誉の裏切りもあり、近江国番場峠の蓮華寺で一族四三二人と共に自刃します。享年二十八歳でした。光厳上皇らは都へ戻ります。

関東では新田義貞が上野生品神社で挙兵し、上野ノ守護長崎孫四郎を破り、小手指原、久米川、分倍河原まで進撃し、五百騎余だった義貞軍は三千余騎に膨れ上がり、義貞は稲村ヶ崎から攻め込む時に名刀を海に投ずると潮が引き、攻め込む道が開いたという逸話は有名です。足利氏も尊氏の子・千寿丸(義詮)を旗頭に鎌倉攻めに参加します。ついに北条一族は東勝寺で自刃し鎌倉幕府は滅亡します。鎮西探題北条英時・長門探題北条時直らも大友貞宗・少弐貞経・島津貞久らによって滅ぼされます。是を聞いた後醍醐帝は播磨国書写山に入り、都に還幸され建武の親政が始まります。

建武の親政
 
北畠親房の進言で奥州将軍府が置かれ、義良親王と北畠顕家が奥州多賀城に向かいます。足利尊氏(帝の尊治の一字を貰い高氏を尊氏と改名)の進言で成良親王と足利直義が鎌倉に向かいます。幕府を倒し天皇による親政が始まりますが、その論功行賞の失敗や政治力の無さから各地で不満や反乱が勃発します。都では大塔宮護良親王と足利尊氏の間で争いが起こります。宮が尊氏を討つと云う噂が流れますと、尊氏は先手を取り大塔宮を捕らえ、帝の了解のもと、鎌倉に幽閉してしまいます。また、万里小路藤房は帝に諫言したが聞き入れられず出家いたします。西園寺公宗も帝の暗殺を企てます。

そんな中、建武二年(一三三五年)七月北条高時の子・時行が信州で挙兵し、鎌倉の足利直義を鎌倉から追い出してしまいます。直義は鎌倉を脱出する時に大塔宮護良親王を暗殺し、直義と成良親王と尊氏の子・千寿丸は三河まで撤退して、成良親王を都に返し援軍を求めます。尊氏は鎌倉奪還に向かうに当り、征夷大将軍に任じて欲しいと帝に奏上いたしますが、帝はお認めになりませ。尊氏は帝の許しを得ないまま東下しますが、帝はあわてて尊氏を征東将軍に任じます。尊氏は鎌倉を奪還し、北条高行は自刃します。世に言う「中先代の乱」でございます。

足利尊氏謀反
 
帝は勝利の報を聞き、尊氏に恩賞を与えるのですぐに帰京するように要請いたしますが、尊氏は直義に相談し鎌倉に留まり帝に叛旗を翻します。帝は大塔宮が直義に殺されたことを知り、尊氏追討の宣旨を発します。十一月十九日・尊良親王と新田義貞は尊氏追討に向かいます。新田義貞は三河・遠江で直義軍を破り、安倍川・手越河原で再び直義を破ります。直義は箱根三島の上り口でようやく軍を立て直します。義貞はなぜか箱根の西で進軍を止めます。直義苦戦を知った尊氏は箱根の北を迂回して足柄峠を越えて竹之下から義貞軍の側面を攻撃します。義貞軍は総崩れとなり都に向かって敗走いたします。尊氏・直義軍はそのまま義貞軍を追撃します。此の時、多田行綱末裔中西伊勢三郎頼任は新田方で戦い、多田御家人高橋彦六宗茂は尊氏方で戦ったとされております。

尊氏追討の宣旨を受けた奥州多賀城の北畠顕家は尊氏・直義軍を後から追撃します。都では義貞軍と尊氏・直義軍が激突し、内裏は炎上し、帝は叡山に逃れます。尊氏に身方した細川・赤松軍も義貞の弟・脇屋義助の軍を破り都になだれこみます。一月十四日・北畠顕家が都に到着し、都を占領していた尊氏軍と激突します。尊氏軍は丹波篠村に敗走し、篠村から三草山・印南郡・播磨を迂回して軍を立て直し、兵庫に出て西宮浜・瀬川宿・豊島河原で楠正成・新田義貞軍と戦い苦戦いたしている時に、長門の厚東武実と周防の大内長広の兵船が到着し、一旦尊氏は落ちます。途中、備後の鞆ノ津で尊氏は光厳上皇の院宣を受けて、尊氏もまた官軍となります。赤松円心は播磨の白旗城で篭城します。三月、尊氏は少弐氏・大友氏・島津氏らを身方につけ、菊池氏・阿蘇大宮司惟直らを破り、東上を開始いたします。

忠臣・和田範長一族と楠正成・正季兄弟
 新田義貞は播磨の赤松氏の白旗城を包囲し攻めあぐねておりました。下世話では、新田義貞は後醍醐帝から賜った美女匂当内侍にうつつを抜かしていたとも噂されています。やがて新田軍は軍勢を二手に分けて、一軍は白旗城を迂回して船坂方面に進軍いたします。その時、児島三郎高徳は己が館に火を懸けて備前熊山で兵を上げますと、義父の和田備後守範長・今木氏・松崎氏・中西氏ら一族の者共三百騎が駆けつけます。それを聞いた赤松軍が浮き足立ち、脇屋軍は軍を進めます。備前・三石城を落とし、大江田軍が備中福山城を落とします。

やがて足利尊氏が九州から東上を開始し、尊氏は海路で、直義は陸路で都へ攻め上ります。備中福山城が落ちたと聞くと、新田義貞は播磨まで退却しますと、脇屋軍も三石城から播磨まで退却いたします。

是を聞いた和田備後守範長・児島三郎高徳らは三石の脇屋軍に合流すべく三石に向いますが、周辺の武士達は既に尊氏方に寝返り、脇屋軍が三石から既に退却したと聞くや、南の山路を夜通し越えて坂越に出て播磨の新田軍に合流しようといたしますが、近隣の野伏せり二千人の落武者狩りに合い、負傷していた高徳を近くの妙見寺に預けて、和田範長の郎党達は主を落とそうと必死に斬死にし、八十三騎がついに主従六騎になり、茶臼山の山中の辻堂で和田備後守範長・今木太郎範季・今木次郎範仲・中西四郎範顕・松崎四郎範氏が自刃して果てたと『太平記』は伝えています。後醍醐帝方についていた備前・美作の多くの武士達はこの時、尊氏方に寝返って生き残ったのに対して、彼らは最後まで帝に殉じて滅びたのでございます。

児島三郎高徳は、嘗て承久の乱で備後に流された後鳥羽上皇の第四皇子・令泉宮頼仁親王の孫・頼宴王と和田備後守範長の娘との間に産まれた三男で、和田備後守範長の猶子となっておりました。承久二年、令泉宮の異母兄桜井宮覚仁親王が備後国の五流山伏の一つである五流尊竜院の院主でありましたので、令泉宮は桜井宮をたよってこの地に流されて来られたのでございます。五流尊竜院は「役ノ行者」の五人の高弟(義学・義玄・義真・寿玄・芳玄)が其々開いた紀州熊野に似せた五流山伏の道場の一つでございます。

一方、新田義貞は和田岬に陣を張り、楠正成は桜井で正行と今生の別れをして湊川に布陣いたします。世に言う「桜井の別れ」です。新田義貞は尊氏の大軍を見て勝ち目なしと見るや都に逃げ帰ります。楠正成・正季軍二千余騎が足利尊氏の三万騎の大軍を一手に引き受けて湊川で玉砕いたします。楠正成は勤皇の鑑として神戸の湊川神社に祭神として祀られます。此の時、多田御家人森本左衛門為時と野間左衛門尉仲重は尊氏方として戦ったとされております。

南朝の成立
 尊氏は都に攻め上り双方が市街戦となり、千草忠顕・名和長年が討死にし、後醍醐帝は捕らえられ花山院に幽閉されます。尊氏は光明帝から正二位征夷大将軍に・直義は従四位上左兵衛頭に任ぜられます。新田義貞は恒良親王・尊良親王を奉じて敦賀へ、懐良親王は九州へ、北畠親房は常陸へと下り、南朝方の結集を図ります。やがて後醍醐帝は花山院を脱出して吉野へ入り南朝が誕生いたします。北陸の新田勢は小笠原氏・村上氏・佐々木道誉・高師泰らに攻められて、金崎城・杣山城が落ち、尊良親王・世尊寺行房・義貞の嫡子・義顕らは自害し、恒良親王は捕らえられて殺されます。延元三年・義貞は黒丸城の斯波高経を攻めようとしていたところを福井藤島庄で討たれます。

後醍醐帝は陸奥の義良親王と北畠顕家に上洛をうながし、延元二年・顕家は陸奥を発し鎌倉へ攻め込みまと、足利義詮(尊氏の嫡子千寿丸)は都へ敗走いたします。顕家は破竹の勢いで、美濃で高師冬を破り、領国の伊勢へと入ります。伊賀から奈良へ出て、奈良で高師直と激突して大敗します。義良親王は吉野へ顕家は河内へと落ち、和泉・河内で楠氏と共に戦っていた北畠顕家は和泉国石津で高師直に破れて討死にいたします。享年二十一歳でございました。延元四年(一三三九年)後醍醐帝は十二歳の義良親王(後村上帝)に譲位し、五十二歳で崩御されます。足利尊氏は後醍醐帝の冥福を祈る為に天龍寺を建立いたします。

足利幕府成立
 征夷大将軍に任じられた足利尊氏は室町幕府を開きますが、将軍尊氏は軍事面を執事・高師直に、政務を弟・直義に任せます。直義は政務に手腕を発揮させればさせるほど執事・高師直と対立するようになります。尊氏と直義兄弟は一歳違いで性格も全く違います。直義と高師直との対立は、実は内面では直義と尊氏の対立だったのかも知れません。

南朝正平二年(一三四七年) 楠正行が兵を起こします。足利直義は細川顕氏・畠山国清・山名時氏を派遣しますが、楠正行に蹴散らされ逃げ帰ります。替わって、高師直・師泰が派遣され、四條畷で正行を破り、正行・正時兄弟は自刃し、さらに勢いに乗り南朝の本拠地・吉野を陥落させ、後村上帝は賀名生へ落ちます。此の時、多田御家人森本左衛門為時、塩川師仲らは高師泰の陣に属していたとされています。

この結果、直義と高師直の対立が益々深まります。上杉重能・畠山直宗の進言で、尊氏は止む無く師直の執事職を罷免しますが、さらに直義は光厳上皇に師直追討の院宣を奏請します。高師直は軍勢を率いて直義を打とうとします。直義は兄・尊氏の屋敷に逃げ込み、師直は尊氏の屋敷を取り囲みます。話し合いの結果、上杉重能と畠山直宗は配流され、直義は政務から身を引き、鎌倉から義詮が呼ばれて直義に代わり政務をとることになります。鎌倉には義詮の弟・基氏を派遣します。また、備後に勢力を張っていた長門探題の直義の猶子・直冬を攻めて九州に敗走させます。これで尊氏は直義派を一掃したと感じます。

観応の擾乱
 直冬は実は尊氏が妾に産ませた子でしたが、尊氏が妻の手前認知しなかった為に直義が養子にしていたのでございます。直冬はそのことで尊氏を恨んでいたと言われています。世に言う「観応の擾乱」・尊氏と直義の争いの始まりでます。

直冬は九州で勢力を拡大し、尊氏は直冬討伐のために中国へ出兵した隙に、直義は河内で畠山の力を借りて挙兵し、桃井・細川・石堂らも加わり、山名・さらに斯波・佐々木も加わり入京いたします。都の義詮は逃げて尊氏・師直と合流いたします。鎌倉でも上杉が蜂起し、基氏と高師冬を鎌倉から追い出してしまいます。尊氏軍と直義軍は摂津国打出浜で決戦し、尊氏軍は負けてしまいます。話し合いの結果、高師直らを出家させることで決着がつきます。師直らは捕らえられ打出浜から連行される途中、武庫川鷲林寺前で上杉能憲の軍勢に殺害されてしまいます。高師直以下師泰・師兼・師夏・師世・師景と家人らが殺害されました。

都では尊氏・義詮と直義がいったん和解したかに見えましたが、近江の佐々木氏と播磨の赤松氏が寝返ったので討伐に向うと云うことにして、尊氏は近江に、義詮は播磨に出兵しますが、尊氏と佐々木氏、義詮と赤松氏が手を結び、都の直義を包囲する作戦に出ます、それを察知した直義は桃井・斯波・畠山・山名・吉良・二階堂氏らを率いて斯波氏の越前金崎城に退去いたします。そして北近江で尊氏軍と直義軍が再び戦い、直義は負けて越前に退却いたします。やがて直義は越後を周り鎌倉へ入り、鎌倉から基氏を追い出してしまいます。

北朝の観応二年・南朝の正平六年(一三五一年)・尊氏は直義を討つためにいったん南朝と和解し、北朝の崇光帝は退位いたします。世に言う「正平一統」でございます。尊氏は南朝から直義追討の宣旨をもらい、仁木・畠山・今川・武田・千葉の軍勢を率いて鎌倉に向い、駿河国薩?山で双方が睨み合います。世に言う「薩?山の合戦」でございます。尊氏の軍勢は少なく劣勢に見えたのですが、尊氏方の宇都宮氏綱が高師親を総大将に背後から直義軍を挟み撃ちにします。直義は伊豆山中に敗走し、尊氏は直義と和議を結んで、直義は鎌倉に戻りますが、何故か直義は突然没してしまいます。

直義が死ぬと尊氏は南朝との和議を破棄し、再び南北朝が争います。関東では南朝から征夷大将軍に任じられていた宗良親王と新田義宗・義興そして高師直と対立して南朝方についた上杉憲顕らが兵を挙げ鎌倉の尊氏に迫ります。尊氏は鎌倉を退去し関東を転戦してようやく宗良親王と新田を信濃に、上杉を越後に退散させ関東を平定いたします。

その間、北畠顕信・千草顕経・楠正儀らが都に攻め込みます。都の義詮は細川頼春が討死し近江に敗走します。都は南朝方に占領され、南朝の後村上帝は吉野から男山八幡まで還幸されます。北朝の光厳・光明・崇光上皇方は吉野の賀名生に連行されます。この頃、南朝方の石塔頼房が北摂地方に進出し、石塔・楠氏が攝津守護の赤松光範軍と打出ヶ浜で戦います。しかし、義詮は土岐・細川・赤松・佐々木・山名・斯波氏の軍勢を集めて都を攻め、南朝方を再び吉野へ追い返します。やがて尊氏も関東を平定して都へ戻り、北朝では後光厳帝が即位いたします。

二代将軍足利義詮
 直義の死を知った直冬は孤立していったん長門に戻り、正平九年(一三五四年)・桃井・山名・大内勢で、南朝・楠正儀らと協力して都へ攻め上りますが、翌年都は尊氏に奪還されてしまいます。正平十三年(一三五八年)尊氏は背中に出来た腫れ物がもとで亡くなり義詮が征夷大将軍となります。享年五十四歳・遺骨は多田院にも分骨されました。摂津では赤松光範に代わり佐々木道誉が守護になり、多田庄も道誉が領有し、多田院も修復されます。しかし南朝方の楠正儀らの攻撃に再び都は南朝方に奪還されます。摂津の守護も道誉は解任され赤松光範・則祐に代わります。正平二十三年(一三六八年)・二代将軍義詮は病死(享年三十八歳)します。遺言により善入山宝筺院の楠正行の墓の隣に埋葬されます。



清和源氏・足利尊氏
 源義康は保元の乱で藤原忠通に身方して勝利し、従五位下蔵人に任じられ昇殿を許されたことは前述しました。足利家は下野国足利郡に勢力を張り、樺崎寺を菩提寺に、鑁阿寺を氏寺として栄えます。義康の妻は熱田大宮司家の出で源頼朝とは母方の従姉妹に当ります。その子・義兼は鎌倉幕府創建に深く関わり、以降、義兼・義氏・泰氏・家時は執権北条家から正妻を迎え、頼氏・貞氏・尊氏は北条一門から正妻を迎えますが、尊氏・直義の母は臣下の上杉頼重の娘です。足利家には八幡太郎源義家が書き残した「七代後に生まれ変わって天下を取る」と言う置文が残されており、七代後とは足利家時に当りますが、家時は自分の代では天下を取れそうにも無いので、八幡大菩薩に三代後に天下を取らせよと願文して自害して果てます。三代後が尊氏・直義に当ります。尊氏が丹波篠村八幡宮で後醍醐帝方に寝返ったのもこの置文の為せる業ではないかと言われています。尊氏の寝返りと赤松円心の討幕の志がなければ建武の中興も無かったでしょう。新田義貞と楠正成の挙兵も大きな働きであり、大塔宮護良親王と北畠親房・顕家の働きも大きなものが在りました。大塔宮護良親王と足利尊氏の対立がその後の分裂を生み、後醍醐帝の帝位への執着と有能な政治的なブレーンの無さが時代の混沌を生み出す原因となりました。後醍醐帝崩御の後に尊氏は帝の御霊を弔うために暦応二年夢想国師を開山として天龍寺を創建します。天龍寺は嵯峨帝の妃の創建した壇林寺の跡に建てられ、後嵯峨帝の仙洞御所亀山殿があり、後醍醐帝が幼少期過ごされた場所でもありました。

南北朝時代の多田庄
 
このように初期の室町幕府は政権が安定せず、三代将軍義満の時代になって漸く政権が安定して参ります。北条氏が滅びて、北条得宗家の領地であった多田庄も領主不在で、多田院両政所別当が多田庄を治めていたようです。鎌倉幕府が滅びると、勘当になっていた多田蔵人行綱の子孫や郎党達も多田庄に帰ってくる者達がいたようです。また、多田院へも足利氏から軍勢催促があり、多田院御家人達は北朝方として戦っています、勘当になった多田氏は南朝方となって戦ったようです。

『川西市史』によれば、多田院御家人の多田木工助貞綱が北畠顕家の軍勢に属して奥州に下ったとあります。多田木工助貞綱は、多田行綱―基綱―重綱―宗貞―貞綱と続くとされます。

『多田御家人由来傳記』に次のような記述が見られる。

「延元・建武の頃、南帝の勅命に応じ、多田御家人多田入道頼仲五百余騎を軍し、城刕八幡山に籠、八幡炎上の時西の尾先に於て衆命助し武功在り、」

「貞和四年十二月、高武蔵守の勢淀渡りに至る、尊氏公の催促に随ひ多田院御家人等武蔵守師直の勢に加る、同五年所々戦場にいつ、足利家の御袖判今に残れり、

四条縄手に向名寄

両政所新田原郷 多田信濃守 今吉入道 久々知元吉 塩川左衛門 

田井柄馬亮 山問右馬入道 森本重宗 田井紀四郎 西冨左衛門 佐藤三 

脇田兵庫則俊 野間四郎  同五郎   田原紀四郎  谷源太有仲

平井小野四郎 石道進士 山田五郎   吉川判官代 太町太郎  

黒田新六郎 一樋新太郎  枳根庄 六瀬 谷 細川とミゆ 山本各四名ハ従者とミゆ 都合七百五拾三騎 其分三百余人」(多田御家人由来傳記)

多田入道頼仲は南朝方として参戦し、多田信濃守は北朝方として参戦したようです。塩川左衛門の名は筆頭ではなくなり、多田氏・今吉氏・久々地氏の次に記されています。

大昌寺蔵「塩川(井上)氏系図」によれば、塩川師仲は四条畷ノ合戦(一三四八年・正平三年)で討死にしています。

「塩川又九郎師仲 楠正行合戦時?河内国四条縄手討死法名玉阿」

次に『大昌寺文書・塩川家略歴』に次のような注目すべき記述があります。

「源頼光ノ嫡子頼仲数代後吉川越後守、文和元年(1352年・正平七年)四月拾六日辰山へ来城シ、其後三拾三年ノ後山下城ト改メ、塩川伯耆守ト改ム、」

吉川氏は源頼範・頼仲の末裔で、吉川越後守は仲頼と考えられる。大昌寺蔵「塩川(井上)氏系図」に、塩川又九郎師仲は「楠正行合戦時河内国四条縄手討死」となっているところから、師仲討死後に、多田源氏である吉川越後守が越中立川(たてこ)から多田庄に帰ってきて、塩川氏の名跡を継ぎ、塩川伯耆守(仲章)と名乗り、足利尊氏に仕えたと言う。 

多田入道頼貞公
 『太平記』に登場する多田頼貞公の出自は能勢源氏の源国基・国能系であると言う説と、多田蔵人行綱公の弟手嶋冠者・源高頼(野間高頼)の末裔である、と云う二つの説があります。頼貞公は建武の中興の時、皇太后宮権大進となり能勢郡の目代になったと伝えられています。以後、頼貞公は南朝方として活躍します。



『太平記』によると、多田入道は北畠顕信の旗下で山城国八幡城まで進出して、高師直と対峙していました。北陸から脇屋軍が攻め上ってきて、脇屋軍と呼応して都へ攻め入る計画でした。高師直は北畠顕信軍と早く決着を付けようと、石清水八幡宮に火を点けます。北畠軍はまさか源氏の崇敬する八幡大菩薩の御廟に火を点けるとは思いもよらない行為に驚き、食料も燃えてしまったので吉野へと退却したと「太平記」は述べています。

興国三年・脇屋義助は吉野から四国攻めに向かいます。途中、義助は高野山へ立ち寄り参詣します。多田入道も脇屋軍に加わります。四国へ渡った脇屋義助は突然病死してしまいます。代わって金屋経氏を大将に細川頼春を攻めますが、多田入道らは敗れて僅か十七騎になり備後へと落ちます。

備後に落ちた多田入道は備前国・浜野や網浜で近隣の南朝方と呼応して軍勢を整え、赤松勢と戦いますが、興国四年八月ついに敗れて網浜で自刃します。

岡山市浜野の「松寿寺」「妙勝寺」
その時に、摂津国にいる嫡男・頼仲に「当家は古より未だ武家に仕えたことが無い。もし足利将軍に仕えるなら氏を能勢に変えて仕えよ」と書き送ったと伝えられております。後に足利尊氏はこの話を聞き武士の鑑と感じ入り、頼仲の能勢の所領を安堵し、備前国にも十七ヶ郷の領地を与えたと伝えられています。能勢郡倉垣の能勢氏と岡山藩池田家に仕えた能勢勝右衛門が子孫であると言われています。

「松寿寺」


「妙勝寺」の大覚大僧正の墓碑と右の小さい墓は能勢頼吉のもの。



多田院御家人・高橋茂宗・森本為時
『川西市史』によれば、多田院御家人の高橋彦六茂宗は足利尊氏軍に属し、箱根竹之下で新田義貞軍を破り都に攻め上ったとあります。また尊氏が北畠顕家に負けて都から丹波篠村に敗走し、三草山・印南郡・播磨から兵庫に出て西宮浜で楠正成と戦った時にも高橋茂宗は足利方で戦ったとあります。多田行綱末裔の中西伊勢三郎頼任が新田幕下で足利尊氏追討のため出陣したと中西氏系図にありますので、多田御家人は敵味方に分かれて戦ったことになります。

尊氏が九州で軍勢をたて直し都へと攻め上った時に、森本左衛門次郎為時・野間左衛門尉仲重らが尊氏方として戦ったとあります。また、四條畷の合戦の時に、森本為時は高師泰の陣に属していたとあります。多田院御家人らが尊氏の軍勢催促により尊氏方として戦った恩賞として多田庄を尊氏から安堵されたと『川西市史』は述べています。

ここで、源頼朝に多田庄から追放された多田行綱一族と行綱と親しい郎従達は、皇室方である南朝に仕え戦ったのに対して、多田庄に留まった高橋氏・森本氏ら多田源氏の被官達は足利氏に仕えたのは注目に値します。


東多田の光遍寺二階堂氏 『光遍寺来歴』によれば、旧東多田村の光遍寺の開祖空圓上人は右衛門尉二階堂幸藤と称して、甲斐国山梨郡牧庄を領地とする出羽守二階堂行藤の孫に当たります。二階堂氏は藤原南家武智麻呂流・工藤氏から分かれます。幸藤の叔父の出羽守二階堂道蘊貞藤は鎌倉幕府の政所執事で北条高時を補佐し、楠正成の千早城攻めにも参加した人物です。幸藤は父・宗藤が早世した為に、若い頃から叔父の貞藤(道蘊)について弓馬兵法の道を教わりました。叔父・貞藤は鎌倉幕府滅亡後も建武の親政に参加しますが、謀叛の疑いをかけられて、建武元年(一三三四年)十二月二十八日、道蘊と子息一人、孫三人は六条河原で斬首されます。その時に、道蘊に従っていた二十七歳の二階堂幸藤は、出家すれば罪は問わないと処断され、縁あって多田庄の笹部村に草庵を結び、空圓と号したようです。その後、空圓は赤松筑前守貞範(播磨守護・赤松円心の次男)に会い、筑前守は懐かしがって、播州明石の大蔵谷に庵と領地を寄進し、光遍寺の末寺としました。今も光遍寺の檀家には当時の二階堂氏の家臣であった家があると聞く。

「光遍寺」


当時多田庄の笹部村を領していた塩川氏の所縁で笹部村に草庵を結んだと考えられます。塩川三河守満永は足利尊氏に属して、鎌倉幕府の六波羅探題を討つに当りその先頭を進むとあり、以後塩川氏は足利氏に仕えて建武の中興の時に功があったようです。

『太平記』巻十一金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事

「・・・二階堂出羽道蘊ハ、朝敵ノ第一、武家ノ補佐タリシカ共、賢才ノ誉、兼テヨリ叡聞ニ達セシカバ、召仕ルベシトテ、死罪一等ヲ許サレ、懸命ノ地ニ安堵シテ居タリケルガ、又隠謀ノ企有トテ、同年ノ秋ノ季ニ、終ニ死刑ニ被行テケリ。・・・」

「二階堂出羽守道蘊貞藤は執権北条高時の命で、阿曽・大佛・江馬・佐介・長崎等と五万余騎で金剛山を攻めるべく鎌倉から派遣されていました。しかし、幕府が滅びた後も、都を攻めようと南都に留まって様子を伺っていました。中院中将定平を大将に五万余騎と、楠正成に畿内勢二万余騎をもって追討に向わせたところ、遂に全軍投降し、阿曾らは捕らえられて斬首されました。しかし、二階堂出羽守は、朝敵の第一と言われ、高時の補佐役ではありましたが、その賢才の誉は帝の耳にも達していたので、死罪一等を許されて召抱えられることになり、懸命の地に安堵して居ましたが、陰謀の企て有りとして、建武元年秋の末に、終に斬首されました。」

ここで言っている二階堂道蘊の「賢才ノ誉」とは

『太平記』(巻一資朝・俊基被捕下向関東附御告文事)によれば、

日野資朝・俊基が謀叛の罪で幕府に捕えられて処断されたが、執権北条高時のこれ以上の動きを静めるべく、帝の御告文を吉田中納言冬房が草稿を認めて、萬里小路大納言宣房卿が関東に持参した。その御告文を秋田城介が受け取り、相模入道高時が披いて見ようとした時、二階堂道蘊は、天子自ら武臣に対して直に告文を下されたことは、異国にも我朝にもいまだその例を承らず、文箱を開かずに勅使に返すべきだと言ったが、高時は何が苦しかるべきことがあろうと、斉藤利行に命じて御告文を朗読させた。斉藤利行は途中で目眩がして鼻血をだして退室し、その日より喉の下に悪瘡ができ、七日の内に血を吐いて死んだ」とあります。此の時の二階堂道蘊の言動を言っているのでしょう。

『金剛集第六巻裏書』

「一、出羽入道二階堂貞藤 山城入道藤兼 去廿八日、於六條河原被切候、誠以不慮外に候心事期後信候恐惶謹言」

『六波羅南北過去帳』

「建武元年十二月三十日、出羽入道六十八歳、子息一人、孫三人彼是五人同所六條河原被誅訖」

『蓮華寺過去帳』

「十二月三十日、出羽入道六十二歳、子息一人、孫三人、彼是五人同所被誅訖」

『光遍寺来歴』には、「塩川伯耆守は天文年中に東多田横山を光遍寺に寄付し、東は吉田村の西方今の古御坊の地から西は鼓滝までを永代御免地とした」とあります。織田信長が大坂石山本願寺攻めのときに、末寺であった光遍寺も焼かれて、後に現在の東多田村に再建されました。江戸時代、寛永年中に十一歳の八兵衛と申す子供ら三人が手習いしているときに鳴動が二回ほどあり、障子を開いて見たが何事もありません。ところが翌日の夜半になって失火して伽藍が灰燼に帰したのです。ご本尊は抱きかかえて避難して無事でした。不思議なことに、空圓上人の御影は猛火の中を飛び出して古御坊の松の枝にかかっていたと『光遍寺来歴』は伝えています。

旧若宮村 後醍醐帝が花山院に幽閉されやがて都を脱出し笠置へと移られる時に、後醍醐帝の幼い皇子が都を逃れ、現在の若宮地区に隠棲されたので若宮と云う地名になったと云うことです。若宮に付き従った従者達は大向氏・大中氏・田中氏・福岡氏・福西氏・福下氏の六家で、今日でも「六軒株」と云われている家々です。宮は幼くしてお亡くなりになられたと云うのですが、宮のお名前も母方の姓も判りません。墓所の場所は他言無用と云うことになっており、今では誰も知る者がありません。大向氏に聞くと、若宮地区には昔、豊臣秀吉が建立した「紫金山西光寺」と言う寺があり、若宮地区にあった秀吉時代の間歩で亡くなった人達を供養した寺だそうですが、その寺の場所に宮の墓地もあったのではなかろうかと云う事です。西光寺は現在廃寺となっています。

後宮の女性達
 大覚寺統・後醍醐帝には多くの中宮・女御・更衣がございました。中宮・西園寺実兼の娘・藤原禧子の産んだ懽子内親王は持明院統・光厳帝の妃とならっしゃいました。光厳帝の御母君もまた西園寺公衡公の姫君でございました。もう一人の中宮として持明院統・後伏見帝皇女の珣子内親王がございました。後醍醐帝が隠岐島に流された時に同行した阿野廉子は恒良親王・成良親王・義良親王らを産んでおります。源師親の娘・親子は大塔宮護良親王・懐良親王らをお産みになり・二条為世の姫・為子様は尊良親王・宗良親王らをお産みになりました。

大塔宮護良親王は尊氏と争って負け、鎌倉に幽閉されて殺されます。阿野廉子は大塔宮が幽閉された時に、後醍醐帝が尊氏に命じて止めさせることも出来たにもかかわらず、阿野廉子が我が子を皇太子に就けようと考え、大塔宮の幽閉を帝に認めさせたとも言われております。その結果、廉子が産んだ義良親王が南朝の後村上帝となられるのでございます。その他に新田義貞が賜った勾当内侍がございました。

塩冶左衛門尉高貞は後醍醐帝が隠岐から出て船上山に入られた時に御身方として駆けつけた者の一人でございました。その恩賞として出雲・石見の守護に任じられ、後醍醐帝の後宮随一の美女と言われた弘微殿三位局・顔世御前を賜わります。 

観応元年(一三五〇年)・顔世御前のあまりの美しさに高師直が横恋慕いたし、塩冶判官を無実の罪で謀反人に仕立て上げ、尊氏の命で山名氏が追討いたします。塩冶判官はそれを知り顔世御前と子供らを連れて弟と数名の家臣に守られて出雲の領地めがけて都を脱出いたします。途中の加古川の手前で追手に追いつかれ、家臣ら七名が追手を喰い止めますが殺されてしまいます。顔世御前と子供達は播磨国蔭山まで逃れますが、最早是までと自害いたします。塩冶判官高貞一人が出雲に逃げ帰り、軍勢を整えて仇討ちをいたしますが敗死いたします。

加古川市「称名寺」には家臣七名の供養塔があり、姫路市「圓通寺」は顔世御前自害の地として史跡となっております。この話は江戸時代になって赤穂浪士の仇討ちの話を塩冶判官の話に置き換えて「仮名手本忠臣蔵」として今に語り伝えられております。浅野内匠頭が塩冶判官に、吉良上野介が高師直に置き換えられて、塩冶家筆頭家老が大星由良助で架空の人物、足利直義・顔世御前が実名で登場します。







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