超常現象  


①「煉獄」マリア・シンマの体験談 ②聖母マリアの御出現 ③大天使聖ミカエルの出現 ④マザーテレサ ⑤解離性同一性障害(DID) ⑥サイコパス ⑦解離性健忘 ⑧前世を記憶する子供たち ⑨臨死体験について





煉獄  マリア・シンマの体験談

この本は「人がなぜ苦しまなければならないのか」を明確に解き明かしている。この本を読むと、もっと、もっと苦しみたくなる。

シスター・エマヌエル著           マリア・シンマ著

 『煉獄の霊魂の叫び』によれば

マリア・シンマは1915年(大正4年)2月5日、オーストリアのソンタクという町に生まれました。両親と兄弟姉妹8人家族で、家は貧しく、男の子は労働者として、女の子は子守として働きに出なければなりませんでした。マリア・シンマは幼い頃から信心深く、教会に通い公教要理を学び将来は修道女になろうと考えていました。しかし、修道院に入ったものの身体が弱く「役に立たず、迷惑をかけるだけ」と三度も修道院から帰されました。25歳のときから煉獄の霊魂達が彼女を訪れるようになりました。そして、38歳のときから償いの苦しみによって煉獄の霊魂を助けるようになりました。59歳のとき父が亡くなり一人で父の持ち家に住み、庭師として細々と生計を立てています。

なぜマリア・シンマはこのようなことが出来るのか、それは彼女が「私の心と身体を捧げます」と聖母マリアに自らを奉献したからです。この世の人が霊魂を呼び出すことは堅く禁じられています。マリア・シンマを訪れる霊魂は「聖母マリアからマリア・シンマの所に行くように」と促されたと言います。

『煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣』はシスター・エマヌエルがマリア・シンマに質問した内容が書かれています。それによると、煉獄とは、霊魂が天国に行き神に抱擁される前に自分の心に溜まった垢を荒い清めるために自ら行く場所だと言う。また、天国で神の御前に出るときに自分の中にほんの少しの汚れたシミがあると顔向けできず、そのシミを洗い流すために行く場所であるという。煉獄の霊魂は神を愛し、人々を愛しているのですが、自らの汚れを恥じて神の前に出られないのです。特に、愛徳に反する罪、隣人への悪口、中傷、恨み、敵意、欲と妬みによる不平や告げ口が自分自身の心を傷つけているのです。人を非難し、嘲笑しないようにするべきです。すべての人に対して愛徳に満ち、善良であってください。愛は無数の罪を償います。「汝の敵を愛す」ことこそ本当のクリスチャンの態度です。煉獄の苦しみは想像を絶する苦しみですが、聖母マリアは度々煉獄を訪れ、彼らが「生前多くの善行をした」と言っては彼らを勇気付けられます。

死んで直接天国に入るためには、常に謙虚でへりくだった者でなければなりません。そのためには煉獄の霊魂を救うために彼らに代わって罪を償わなければなりません。貴方が死を迎える時、悪魔サタンが地獄へ引きずり込もうとやって来ます。その時、大勢の集団が天国から貴方を助けにやって来ます。彼らは貴方が償って救われた霊魂たちです。マリア・シンマは言います「直接天国へ行けるのは、神への愛と謙遜と自己犠牲です」と。なぜ死者のためにミサをあげるのか、それはミサの中でキリストが私たちの罪を贖うためにご自身をお捧げになるからです。また、葬式の時に大勢の人が来て涙を流してもそれは死者のためには何もならず、神への祈りだけが死者の助けになるという。貴方がこの世での断食、苦行、節制、病苦などの肉体的、精神的苦しみを神に捧げれば多くの霊魂が救われます。憐れな霊魂を救い出すために苦しみを受け入れることは愛につながります。忍耐は並外れた力を持ちます。捧げられた苦しみは来世では貴重な宝物となるのです。また、キリストが私たちのために贖われた苦しみを熟考することはキリストのようになりたいと渇望させると共に自分自身の回心にも繋がるのです。ロザリオの祈りを唱えることは多くの霊魂を煉獄から救うことにつながります。

この世で生きている間は私たちの犯した罪は悔い改めれば許されますが、煉獄の霊魂たちはもはや自分自身のためには何も出来ないのです。『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』とあるように、罪を悔い改めて許されるのはこの世に於てのみであり、この世でのみ霊魂を進化させることが出来るのです。死んでしまえば霊魂の進化(霊格を高めること)は天使でさえも出来ないのです。しかし、反面この世の苦しみは憎しみに変わることもあります。苦しみが人を憎み、神を呪うことにもなりかねません。その苦しみを神に捧げないからです。祈ることが愛を実践することにつながるのです。この世の苦しみを罰や懲らしめと捉えず、恵みとして捉えることです。苦しみは神の愛の最大のたまものです。その苦しみを聖母マリア様に捧げましょう。人は死ぬとき自分を完全に神に委ね、自分のすべての苦しみを神に捧げ、神の御心と完全に一致することです。謙虚でありなさい。プライドを捨てなさい。煉獄へ行って苦しむよりも、「死んで天国へ行くために必要とされている最大限の苦しみを今私にお与え下さい」と祈りましょう。この世で三時間苦しむことによって煉獄の二十年間の苦しみを免除されます。煉獄での苦しみは霊魂の犯した罪を清めるためだけにあるのですが、地上では恵みが与えられており、自らの犠牲、悲嘆、失敗、病気などの苦しみを神に捧げることによってその苦しみは霊魂を救う大きな力となり、キリストのパッシヨンに結びつく大きな愛となるのです。

その恵みとは、人は高度に発達した大脳皮質を与えられています。聖書や本を読むことによって知識を得ることもできますし、様々な人と交流し学ぶこともできます。しかし、死後の世界は自分自身の僅かの経験と記憶だけしかありません。神の英知もなく過去の経験と記憶だけで自分自身を高めることは至難の業です。では先天的に大脳皮質に障害を持った人やダウン症の人は一見アンフェアーだと思えますが、彼ら彼女らは心が元々ピュアーであり、この世で罪を犯すことがなく、且つ神の使命を持ってこの世に生まれ、死後は必ず神の元へ帰ることができるのです。子供や目の見えない人や聾唖者も同様です。






聖母マリアの御出現

    ルルドでの聖母マリアの御出現

フランスとスペインの国境、ピレネー山脈の山中にルルドの町があり、フランス領ホートピレネー県に属している。1858年(安政五年)2月11日から7月16日の間に、カーブ川沿いのマッサビエルの洞窟で、聖母マリアはベルナデッタ・スビルー(1844~1875)という清貧で礼儀正しい純粋無垢な14歳の少女を選ばれて、18回に亘ってご出現になりました。

 

第1回目のご出現 2月11日 木曜日

ベルナデッタと妹のマリーと隣家のジャンヌは3人で薪拾いに出かけた。マッサビエルの洞窟まで行き、妹のマリーとジャンヌは冷たい川を渡り対岸で薪拾いをしていた。身体の弱い喘息持ちのベルナデッタは冷たい川を渡るのを躊躇していたところ、風の音のようなもの(使徒行伝二―二)が聞えたのでうしろを振り返ると、洞窟の右側の三メートルぐらいの高さのところにある暗いほら穴にやわらかい光が射して、その光りの中に白い着物を着た美しい若い貴婦人が微笑んで立っているのが見えた。ベルナデッタはポケットからロザリオをとり出し、跪いて祈りを唱えると、貴婦人もロサリオを指で繰り祈られた。やがてベルナデッタが祈り終えると貴婦人はほら穴の奥へ姿を消された。妹のマリーが何をしていたのかと問い詰めるので、ベルナデッタは誰にも話さないという約束で一部始終を打ち明けた。家に帰るとマリーは姉から聞いたことを得意げに母に喋ってしまった。母は何か悪い煉獄の霊魂でも見たのではないかと心配して「もう二度と行ってはいけない」とたしなめた。

 

第2回目のご出現 2月14日 日曜日

噂は忽ち広がり、ベルナデッタの母は悪いものにでも取り憑かれたら大変なことになるので二度と洞窟へ行かないようにと強く言った。しかし、ベルナデッタはあの優しい貴婦人にもう一度会いたいと思う一心から母を説得し、夕刻の祈りの時間に間に合うように帰るという約束で許しを得た。近所の子供達も興味津々で、誰かが悪いものであれば聖水をふりかけたら逃げるだろうと言い、子供たちは聖水を持って行くことにした。洞窟に着くとベルナデッタがロザリオの祈りを唱え終えると貴婦人は現れ、ベルナデッタは「いまあそこにおられる」と、小さな胴穴を指さしたが子供たちには何も見えなかった。ベルナデッタは身動きもせず顔は白蝋のように血の気がなく、失神状態で死んだように見えたので、子供たちは驚いて逃げてしまったが、ベルナデッタのことが心配でならなかった。丁度その時、サヴイの水車小屋の親父とニコロ夫人がやってきたので一緒にベルナデッタの様子を見に崖を降りて行った。サヴイはベルナデッタを引っ張ったがビクとも動かなかった。その時のベルナデッタの姿を見たニコロ夫人は「その美しさと尊さといったら天国の聖人のようだった」と述べている。

 

第3回目のご出現 2月18日 

ミレー夫人は洞窟の話を聞き、ベルナデッタに詳しい話を聞こうとアントワネット夫人とスビルーの家を訪ねた。ベルナデッタは、洞窟の一件はもう忘れるようにと母から強く言われていたが、ベルナデッタの母は二人の夫人にこの件を任せることにした。翌日、二月十八の早朝ミサのあとで、二人の夫人はベルナデッタを連れて洞窟に行くことにした。アントワネット夫人は蝋燭と紙とペンを用意した。ベルナデッタは駆け足で洞窟に着くとロザリオの祈りを唱えた。二人の夫人も遅れて洞窟に着くとロザリオの祈りを唱えた。貴婦人が御現れになったとベルナデッタは言ったが、二人の婦人には何も見えなかった。アントワネット夫人はベルナデッタに紙とペンを差し出して「貴婦人のお名前とご希望を書いてくださるように」と言う。ベルナデッタは言われた通りにすると、貴婦人は「紙に書くまでのことはありません。貴女はこれから15日間ここへ来ると約束しなさい」と仰せられた。ベルナデッタは祈り続け、貴婦人と話していたが、二人の夫人には貴婦人の姿も見えず、声もきこえず、ベルナデッタは貴婦人と話しているようだったが、ベルナデッタの声も聞くことは出来なかった。

 

第4回目のご出現 2月19日 金曜日

ベルナデッタの母はまだ悪魔か煉獄の霊ではないかと疑っていたので、姉のベルナルドと真相を確かめるために洞窟に行くことにした。それを知った7、8名の人が3人に付いてきた。母と伯母は貴婦人と話しているベルナデッタの美しい姿を見て真実であると悟った。後で貴婦人と何を話したのかとベルナデッタに尋ねると、ベルナデッタは「貴女に幸せを与える。しかしそれはこの世ではなく、後の世であると述べられた」と答えた。

 

第5回目のご出現 2月20日 土曜日

ベルナデッタは早朝、母と共に洞窟へ行くとすでに30人位の人たちが集まっていた。ベルナデッタの母は、右手に蝋燭を持ち、左手にロザリオを持って貴婦人と話している娘の姿を見て感激した。この日、ベルナデッタは貴婦人から一つのお祈りを教えてもらった。

 

第6回目のご出現 2月21一日 日曜日

洞窟の出来事は周辺の村々にも広まり、様々な憶測が飛び交った。ルルドに住む医者のドズー博士はこの事件を科学的に解明しようと考え出現に立ち会った。百人位の人たちが集まっていた。博士はベルナデッタの様子をつぶさに観察し、後でベルナデッタに御出現の様子を事細かに尋ね、ベルナデッタも詳しく答えた。無神論者である博士は、これは超自然的な出来事で科学では解明できないと感じた。この日、貴婦人は悲しい顔をされて「罪人のためによく祈りなさい」と仰せられたとベルナデッタは博士に話した。

 

第7回目のご出現 2月23日 火曜日

町中がマッサビエルの洞窟の話で持ちきりになり、ルルドの警察署長は騒ぎを鎮めようとベルナデッタを呼び出し尋問し、洞窟には行かないように説得したが、説得は失敗に終わった。次に心配して外で様子を見ていたベルナデッタの父親を呼んで脅し、ベルナデッタを洞窟へ行かせないよう約束をさせた。2月22日、この日、ベルナデッタは諦めて学校へ行き、昼ご飯を食べに家に帰る途中、貴婦人との約束を守らねばという思いに強く駆られ急いで洞窟に行ったが、貴婦人は御現れにならなかった。翌23日、ベルナデッタは早朝洞窟に行くとすでにルルドの著名人を含む300人ほどの人が来ていた。中でも税務管理局長のエストラードはベルナデッタの祈る姿を見て神の存在と偉大さを強く感じ回心して熱心な信者になった。ベルナデッタは「今日は私だけに限る三つの秘密を知らせてくださいました。これは告白する神父様にも打ち明けることが出来ません」と言った。

 

第8回目のご出現 2月24日 水曜日

ベルナデッタは早朝、いつものように洞窟へ行った。見物人は益々増えて150人位になっている。ベルナデッタは御出現の途中で悲しみに打ち萎れ涙をいっぱいためていた。この日、貴婦人はベルナデッタに「多くの人が神様に背いた償いをしなければなりません」「罪人の回心のために神様に祈りなさい」と述べられた。彼女は自分の心の醜さと人々の犯す罪について深く考えた。そして、償いこそこれから歩むべき自分の道であると悟った。

 

第9回目のご出現 2月25日 木曜日

ベルナデッタは早朝、洞窟へ行くと、もうすでに350人位の人々が集まっていた。いつものように御出現があり、貴婦人が「泉へ行って水を飲み、顔を洗いなさい」とおっしゃった。ベルナデッタは貴婦人が指し示された所を掘ると水が湧いて出た。泥水であったがその水を飲み、顔を洗い、ネコノメ草の葉を食べた。夕方、ベルナデッタは検事に呼ばれて洞窟行きを固く禁じられた。

翌26日、ベルナデッタは洞窟行きをためらっていたが、ベルナルド伯母に促され洞窟に急いだ。洞窟には600人位がすでに集まっていた。ベルナデッタはいつものようにロザリオの祈りを唱えたが、貴婦人は現れなかった。

 

第10回目のご出現 2月27日 土曜日

この日の御出現はいつもよりも長かった。貴婦人はベルナデッタに「この地に聖堂を建てるように神父に伝えなさい」と述べられた。ベルナデッタは早速、ペラマール神父にこのことを伝えに行ったが、神父は「貴婦人が誰であるか分からない限りそのようなことは出来ない」と取り合わなかった。

 

第11回目のご出現 2月28日 日曜日

この日、ベルナデッタは日曜の晴れ着を着て伯母と一緒に洞窟に現れた。すでに1000人余の人たちが集まっていた。御出現のあとベルナデッタは伯母と教会の日曜ミサに行った。この日、心ある人たちが、泉の水を皆が飲めるように囲い、洞窟へ降りる道も整備した。この日、白内障を患っていた石工が泉の水で目を洗ったら視力が恢復するという奇跡が起きた。

 

第12回目のご出現 3月1日 月曜日

ルルドから7キロの村に住んでいたカトリーヌは妊娠九ヶ月の身重でありながら幼い2人の子供の手を引きマッサビエルの洞窟にやってきた。彼女は2年前、木に登り豚の餌のどんぐりを取っていて木から落ち、腕を脱臼して指が動かず満足な仕事が出来ず、生活に困窮していた。洞窟の泉の水に手をひたすと不思議と元通り動くようになった。カトリーヌは聖母に感謝の祈りを捧げると、急いで来た道を引き返した。家に着くと陣痛が始まり男の子を生んだ。後にこの子は司祭になった。マッサビエルの洞窟に現れる貴婦人は聖母マリアであるという噂が広まり、熱心な信者たちは朝から晩まで洞窟に参詣した。

この日、ベルナデッタはポーリン夫人に頼まれて夫人のロザリオでロザリオの祈りを唱えた。すると貴婦人は「それは貴女のロザリオではありませんね」と仰せられた。ベルナデッタは自分のロザリオを取り出し貴婦人に示した。それを見た観衆も自分のロザリオを取り出し同じように祈った。この日、若い一人の神父が初めて参列した。

 

第13回目のご出現 3月2日 火曜日

この日の御出現で貴婦人は再びここに聖堂を建てるようにと仰せられた。ベルナデッタは伯母とペラマール神父を訪ね貴婦人の望みを伝えた。神父は、その貴婦人が聖母マリアであるという何か証拠を見せるか、観衆の目の前で奇跡でも起こすのであれば信用して望みがかなうように尽力しようと言った。神父は、その貴婦人が聖母マリアであればこのような小娘ではなくこの地方の教会の権威を代表する自分に現れるはず・・・だが本当にその貴婦人が聖母マリアであればこうしてはおれない・・・、自分は取り返しのつかない失態をしていると自分自身の信仰心について自問自答していた。

第14回目のご出現 3月3日 水曜日

この日は3000人の人々が洞窟に集まった。ベルナデッタはいつも通り早朝洞窟に行き、跪きロザリオの祈りを唱えたが貴婦人は現れなかった。ベルナデッタは正午頃に再び洞窟に行った。すると貴婦人は御現れになった。ベルナデッタは今朝方どうして御現れにならなかったのか尋ねると、集まった群衆の中に淫らな振る舞いをして洞窟を汚した者があったからですと仰せられた。夕方、ベルナデッタは司祭館へ行き、神父に聖堂建設の願いを伝えたが神父は取り合わなかった。

 

第15回目のご出現 3月4日 木曜日

3月4日はベルナデッタが貴婦人と約束した15日の最終日であった。マスコミが洞窟事件を競って取り扱ったので、この日の群衆は8千人とも2万人とも伝えられている。ベルナデッタはいつものように跪いてロザリオの祈りを唱え、貴婦人と言葉を交していたようだが、終わると無言で立ち去った。人々は最終日に何か起きるのではないかと期待していたが何事もなかった。人々はベルナデッタの家を幾重にも取り囲み順番に家に入り、ベルナデッタに聖母マリアへの取りなしを頼むのであった。ベルナデッタは数時間に亘り親切に対応した。その日もベルナデッタは司祭館へ行き聖堂建設の嘆願をした。ペラマール神父は貴婦人が誰か分からないのなら願いはかなえられないと繰り返した。

その後、マッサビエルの洞窟には祭壇が設けられて、聖母マリア像が安置され教会の認めないまま礼拝所となり、泉の水を瓶につめて持ち帰り、多くの人々が礼拝に訪れるようになった。

 

第16回目のご出現 3月25日 木曜日

この日は「受胎告知の祝日」であった。前日の夕食後、ベルナデッタは「明日、洞窟へ来なさい」という囁きを感じた。ベルナデッタが洞窟に着くとすでにかなりの人たちが集まって洞窟は蝋燭で光り輝いており、その中に貴婦人が微笑みながら立っておられた。ベルナデッタはいつものようにロザリオの祈りを唱え、「今日は何卒お名前をお聞かせください」と何度も申し上げた。すると貴婦人は「私は汚れなき宿りです」と答えられた。そして、集まった周りの人たちにも伝えた。人々は皆「聖母祝詞」を唱え喜び合った。ベルナデッタはペラマール神父にも伝えたが、神父は「それならば司教にそのように伝えよう」と述べただけであった。ベルナデッタには「私は汚れなき宿りです」の意味が分からなかった。ベルナデッタは夕方税務管理局長のエストラード氏のところへ行ったときに「汚れなき宿り」とは聖母マリアのことであると知った。

4月7日、火曜日に第17回目のご出現があり、7月16日に第18回目の最後のご出現があった。

 1860年(万延元年)7月、ペラマール神父はドミニケット女史の助言で、ベルナデッタをヌヴェール修道会が経営する病院へあずけた。それは洞窟の体験を詳しく聞くためと聖母マリアに祈ってもらうために国中から熱狂的な支持者が押しかけてきてベルナデッタや家族の日常生活を脅かしているためであった。ベルナデッタは病院と同じ建物内にあるシスターの学校へ通うことが出来たが、そこでも特別に許されて訪れてきた大勢の人に聖母マリアの賛美を伝えねばならなかった。

洞窟は1864年(元治元年)4月4日に正式に聖なる場所とされ、1866年(慶応二年)5月9日に1万人収容の地下聖堂が建てられ、次いで1876年(明治九年)7月に洞窟の上に大聖堂が建てられた。そのほかに、ロザリオの聖堂、正面広場の地下に2万人収容の地下聖堂が建設された。

ベルナデッタは、1866年(慶応二年)7月4日にはヌヴェールのサン・ジルダール修道院に入り「シスター・マリー・ベルナルド」となったが、子供の時からの喘息に加え、肺炎と結核の病状が悪化し半年間病床に伏した。1867年2月2日に回復すると、同年10月、誓願式の後に本部の看護助手となったが、度々喀血し病状が悪くなり病床に伏した。1870年5月から病状は回復したが、1872年の冬、再び体調が悪化して入院し、亡くなるまでその繰り返しであった。ベルナデッタはその苦しみを聖母マリアに奉献した。ベルナデッタは自分自身の病気の治療のために洞窟の泉の水を飲もうとは一切考えなかった。そして亡くなる4ヶ月前から亡くなる日まで肉体的な苦しみは続いた。1879年(明治十二年)4月16日水曜日、午後3時頃二人の看護婦とシスター・ナタリーに見守られ、共に「アヴェ・マリアの祈り」を唱えながら息を引き取った。満35歳であった.4月19日、ヌヴェールのルロン司教のもと葬儀が行われ、修道女たちはグレゴリオ聖歌『サルヴェ・レジーナ』を歌った。





A TREZE DE MAIO — procissão das velas em Fátima







 ファティマでの聖母マリアの御出現

ポルトガルの首都リスボンの北55㎞にある寒村ファティマに住む、ルチア(10)とその従弟妹フランシスコ(9歳)とヤシンタ(7歳)の三人の羊飼いの子供に1916年の春・夏・秋の三回に亘り天使が現れ、1917年(大正6年)、5月13日、6月13日、7月13日、8月13日、9月13日、10月13日の六回に亘り聖母マリアが御出現になった。

 

第1回目天使の出現 1916年(大正5年) 

三人はカペソの丘で羊の群れの番をしていると、小雨が降ってきたのでいつもの洞窟で雨宿りをしていた。すると突然強い風が吹いて、オリーブの木の上に水晶のように透き通った光り輝く天使がいた。その天使は14、5歳の少年で「平和の天使」と名のり、三人にお祈りの言葉を授けた。「ああ、神様、私はあなたを信じ、礼拝し、希望し、愛します。私はあなたを信じないもの、礼拝しないもの、愛さないもののために、ゆるしを願いします」「この通りお祈りしなさい。イエス様とマリア様のみ心はみなさんの祈りの声に感銘なさるでしょう」と言い姿を消した。三人は毎日繰り返しこの祈りを唱えた。

第2回目の天使の出現 同年夏

暑い夏の昼寝の時刻、三人はルチアの家の井戸端の木陰で遊んでいると、再び天使が現れ「何をしているのですか、もっともっと祈りなさい。イエス様とマリア様のみ心は、みなさんの手を借りて、特別の憐れみの業を行われようとしておられます。神様に対しておかされるたくさんの罪を償うために祈りと犠牲を捧げなさい」と言い姿を消した。

第3回目の天使の出現 同年秋

三人がワリニヨスの丘で羊の番をしていると天使が現れた。カリス(聖体拝領のときに用いられる葡萄酒を入れた杯)の上にフォスチア(聖体として用いられる円形の薄いパン)が見えて、フオスチアから真っ赤な血がカリスの中に滴り落ちていた。天使はカリスとフォスチアを空中に残したまま、私たちと次のように祈った。「父と子と聖霊にまします三位一体の神よ、私たちは心からあなたを礼拝し、主イエス・キリストが全世界の聖櫃の中でお受けになる侮辱を償うために、主の御血と御身を捧げます。主イエス・キリストの御血の功徳と聖母マリアの汚れなき御心の御取り次ぎにより不幸な罪人に回心のお恵みをお与えください」。そして、フォスチアをルチアに、カリスをフランシスコとヤシンタに授け、この祈りを三回みんなで唱えると天使は姿を消した。

 

第1回目の聖母マリアの御出現 1917年5月13日

三人はコーワ・ダ・イリアの丘で遊んでいると稲妻が光ったので雷雨が来ると思い羊の群れを下の方へ移動させていた時、再び稲妻が光ると、光輝く貴婦人が柊の木の上に現れた。貴婦人は「驚くことはありません、わたしは天国から参りました。みなさんこれから六回、毎月十三日、この時間にここへ来て下さい。6回目に私の名前と望みを皆さんに教えます。皆さんは罪人の回心のために進んで犠牲を捧げ、これから与えられる苦しみを喜んで耐え忍ぶことを約束してください」と言い、合掌していた手をお開きになると、光が束になって放たれて、三人は光に包まれた。貴婦人は「世界が平和になり、戦争(第一次世界大戦)が終わるように、毎日ロザリオの祈りを唱えなさい」と言うと大空に消えていった。

 

第2回目の聖母マリアの御出現 1917年6月13日

 三人が11時頃コーワ・ダ・イリアに行きロザリオの祈りを唱えていると突然貴婦人が柊の木の上に現れた。この日は見物人が数人いた。貴婦人は「地獄に行く多くの霊魂のために祈りと犠牲を捧げるように」と言い、ルチアに「ヤシンタとフランシスコは神に召されますが、あなたには聖母の汚れ亡き御心を世に広める使命を与えます。そのためにあなたは長寿を全うするでしょう」と述べられ、次の戦争を避けるために、ロシアを汚れ亡き聖母の御心に捧げること、罪の償いのために毎月、初土曜日に聖体拝領することを求められた。そして、両手をお開きになると、光が束になって放たれた。

 

第3回目の聖母マリアの御出現 1917年7月13日

 人がコーワ・ダ・イリアに着くと大勢の人が集まっていた。三人がロザリオの祈りを唱えると貴婦人は現れ「戦争を終わらせ全世界に平和をもたらすため、毎日ロザリオの祈りを唱えて下さい。そうすればわたしはあなたがたを助けることができます。10月には、わたしの名前と希望を申し上げます。みなさんは罪人の回心のために苦行と犠牲を捧げなさい」。貴婦人はこう言い終えると三人に地獄の光景を見せた。

貴婦人が両手を広げると、左右の手から光があふれ出て大地に入り込むと、火の海が見え、人間の形をした悪魔と悪人がカンカンに燃え立った炭火のように真っ赤に焼け、真っ黒に焦げて、火の海に溺れ、もだえ苦しんでいました。たちまち起こった大鳴動と共に、彼らは吹き上がった火炎のために、空高く吹き飛ばされ、大火災の火の粉のように四方へ散らばって、ぐるぐると回転しながら、苦悩と絶望に怒り、わめき狂って、かわいそうに、再び火の海に落ちていきました。悪魔は恐ろしい、見たこともない、いやな、きたならしい動物の形をして、燃えさかる炭火のようにすき通って見えました。

 三人が恐怖のあまり助けを求めると、貴婦人は悲しみの表情で仰せられた「あなたがたは罪人が苦しむ地獄の光景を見たでしょう、これらの罪人を救うために、主はわたしの汚れなき心に対する信心を広めるように求めておられます。このことが実行されれば、たくさんの霊魂が救われるでしょう。しかし、人類が神の存在を認めず、神を冒涜するのであれば、次の教皇の時、もっと不幸なことが起きるでしょう。ロシアは謬説(神を否定した唯物論)を広め、飢饉や戦争(第二次世界大戦)が起こるでしょう。あなた方はロザリオを唱えるとき、次の祈りを付け加えなさい「主イエス様、わたしたちの罪をゆるし、地獄の火から逃れさせて下さい。全ての霊魂を天国へ導き、最もあわれみを必要とする霊魂をお助けください。そして、次の13日にまたここへ来て下さい」と言うと東の空へと去って行かれた。

 大勢の人たちがコーワ・ダ・イリアに集まるようになり、郡長は三人を呼んで「もうコーワ・ダ・イリアに行かないように」と言ったが、大勢が三人を訪ね、聖母マリアへのとりなしを頼んだので、郡長は暫く三人を牢獄に監禁した。

 

第4回目の聖母マリアのご出現 1917年8月15日

三人は8月15日に牢獄から解放されたので、13日にはコーワ・ダ・イリアには行けなかった。その日遅くにルチアはバリニヨスと言うところへ行くと、フランシスコもやって来た。御出現の直前ヤシンタも走ってやって来た。貴婦人は柊の木の上に現れ「来月の13日にはコーワ・ダ・イリアへ来て下さい。罪人のために毎日ロザリオの祈りを唱え、犠牲を捧げて下さい。多くの霊魂が地獄に落ちて行きます。誰も彼らのために犠牲を捧げる者がいないからです。」と言い去って行かれた。

 

第5回目の聖母マリアのご出現 1917年9月13日

この日、三人はコーワ・ダ・イリアへ行くと大群衆に取り囲まれ、皆が口々に不幸を訴えて聖母マリアへの取りなしを頼んだ。群衆と共に柊に木の前でロザリオを唱えると貴婦人は現れ「ロザリオの祈りを続けて下さい。主はあなたがたの犠牲に満足されています。10月には全ての人が信じるように奇跡を行いましょう」と述べられた。ルチアは母も来ていたので、母を信じさせるために今何か奇跡を起こして母に見せて下さいと貴婦人に頼んだが聞き入れて貰えなかった。また、ルチアの母はコーワ・ダ・イリアの農園の作物と牧草が群衆に踏み荒らされて収入が減ったために羊を全部売ることになり二度嘆いていた。

 

第6回目の聖母マリアのご出現 1917年10月13日

この日は朝から雨が降って寒かった。コーワ・ダ・イリアには1万人程の群衆が集まっていた。午後1時頃雨はやみ、晴れて、太陽はベールに包まれたように薄灰色に見え、ルチアは群衆に傘をたたんで下さいと言った。するといつものように貴婦人が現れた。ルチアが「あなたのお名前とお望みをお聞かせ下さい」と言うと、貴婦人は「わたしはロザリオの聖母です。いつもロザリオの祈りを唱えて下さい。みなさんは罪を犯して主の御心を悲しませないように生活を改めって下さい。悔い改めて償いを果たさなければなりません。わたしのためにここに聖堂を建てて下さい。」と言うと、かざした手を開き、太陽をさすような手振りをしながら、太陽の方へと昇って行かれた。ルチアは「太陽をご覧なさい」と言った。ルチアは聖母が空中に見えなくなったとき、太陽のそばに聖ヨセフに抱かれた幼いイエスと白衣の上に青いマントを着けた聖母マリアが見えた。次に主イエスと悲しみの聖母を見た。最後に幼子イエスを抱いたカルメル山の聖母を見た。この時、その場にいた全員が太陽の奇跡を見た。人々は口々に「奇跡だ」と叫んだ。この現象は十分間位続き、神の実在を実感した。翌日新聞もこの事件を大きく報道した。



  

  

 ロザリオの聖母の預言通り、フランシスコは1919年(大正8年)4月4日、スペイン風邪から肺炎に罹り10歳で死亡した。僅か10歳の少年フランシスコが言った「ぼくらはもう、どんな罪も犯してはならない」という言葉が大変印象的である。

ヤシンタもスペイン風邪から化膿性肋膜炎に罹り手術をしなければならなかった。聖母は度々ヤシンタに現れ、励まされた。「今日また聖母マリア様がおいで下さり、わたしの死ぬ時間をおしえてくださった。もう少しも苦しくないわ。聖母マリア様が私の苦しみを取り除いてくださった」。「聖母マリア様は悲しいようすで、最も多くの霊魂を滅亡の淵におとしいれる罪は肉欲の罪です。人々は邪淫の罪を捨てて、これとまったく縁を絶たなければいけません。これまでのように汚らわしい罪におぼれてはいけません。どうしても大きなつぐないをしなければいけません、とおっしゃいました。」また、ルチアに「私はもうすぐ天国へ行きますが、あなたは長く生きて、人々が悔い改めて一人も地獄に行くことがないように、聖母マリアの汚れなき御心に対する信心を広めてください。お願いします」と言った。そして、1920年2月20日、夜10時頃に亡くなった。享年9歳でした。僅か9歳のヤシンタが聖母マリアから教えられた次の言葉は大変印象的である。

 

*人々が永遠とはなにかを知ったなら生活を改めるためにどんなことでもするでしょう。

*人々が自分の犯した罪を悔やむなら主はおゆるしになります。しかし、人々が生活を改めないならば天罰がくだるでしょう。

*富を求めることをやめて清貧と沈黙を愛して下さい。

*だれに対してもわけへだてなく意地悪な人々にさえも愛徳を励み行ってください。

*だれおも非難してはいけません。また、他人の悪口を言う人々から遠ざかるようにしてください。

*忍耐深い人であってください。忍耐は人を天国へ導きます。

*苦行と犠牲はとてもイエス様のお気に召します。

*霊魂も肉身も非常に純潔でなければなりません。肉身が純潔というのは貞潔を守ること。霊魂が純潔というのはどんな罪も犯してはならないこと。ながめてはならないものをながめないこと。盗みをしないこと。うそをつかないこと。どんなつらい場合でもいつも真実を言うこと。

 ルチアは1935年修道院に入り、1935年から41年まで手記を書いた。ルチアの手記によるとファティマの聖母の預言は三部に分かれている。


第一部は前述した「地獄のビジョン」です。

聖母マリアは「あなたたちは、あわれな人々の魂が落ちていく地獄を見ました。罪人を救うために、神はわたしの汚れない心に対する信心を世に広めるよう望んでおられます」と述べられた。

 

第二部「聖母マリアの汚れなき御心」について

「人々が神に背くのをやめないなら、ピオ11世が教皇である間(1922~1939在位)に、もう一つの、もっとひどい戦争(第二次世界大戦)が始まるでしょう。ある夜、まだ見たことのない光が闇を照らすのを見たなら、それは、戦争や飢餓、教会と教皇に対する迫害による世の罪のために、今まさに神が世を滅ぼそうとしておられる大いなるしるしであると悟りなさい。それを防ぐために、わたしの汚れない心にロシアを奉献すること、償いのために毎月初めの土曜日に聖体拝領をするようわたしはお願いにまいります。もし、わたしのこの願いを受け入れるならロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇はロシアをわたしに奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう」と聖母マリアは述べられた、と手記にある。


   

第三部(前半部) 教皇殺害を預言している。

「すでに述べたあの二つの啓示のあと、わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。しかしその炎は、マリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触れると消えるのでした。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。「悔い改め、悔い改め、悔い改め」。それからわたしたちには計り知れない光―それは神です―の中に「何か鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで」白い衣をまとった一人の司教が見えました。「それは教皇だと感じました」。そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が険しい山を登っていました。その頂上には、樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は、そこに到着なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂の為に祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到着し、大十字架のもとにひざまずいてひれ伏されたとき、一団の兵士達によって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、そして様々な階級と職種の信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の二つの腕の下にいた二人の天使は、おのおの手にした水晶の水入れに殉教者たちの血を集め、神に向かって歩んでくる霊魂にそれを注ぐのでした。 トゥイにて 1844年(昭和19年)1月3日

第三部(後半部) 人類滅亡を預言している。

第三の預言は第三次世界大戦と人類滅亡の預言であり、ルチアの要望により1960年まで公表しないことになっていました。1960年(昭和35年)に教皇ヨハネ23世(1958~1963在位)によりルチアの手記は開封されました。それは、世界が第二次世界大戦の戦後復興と多くの植民地独立で人々は生活の安定と社会建設に向けて努力しているさなかにあり、「人類滅亡の危機が迫っている」などと絶望的なことを言うと混乱を招くだけであり、再び封印されました。教皇パウロ6世(1963~1978在位)になって、アメリカを中心とする資本主義とソ連を中心とする共産主義との対立(東西冷戦)により戦争の危機が高まったので原文を和らげた表現に書き換えて発表されました。

  「二十世紀の後半において、次の大きな試練が人類の上に下るであろう。民は神の恩恵を足蹴にし、各地において秩序が乱れる。国家の最高部をサタン(悪魔)が支配し、世相はサタンによって導かれる。教会の上層部にもサタンが入り込む。殊にサタンは学者の頭を混乱させる。全人類の大半を数分のうちに滅ぼすほどの威力を持つ武器(核兵器)が造り出されるカルジナル(枢機卿)はカルジナル(枢機卿)に、司教は司教に戦いをいどむ。神の罰は洪水(ノアの大洪水)の時よりも悲惨である。偉大な者も小さい者も同じく滅びる。二十世紀後半において大いなる戦争(第三次世界大戦)が起こる。腐ったものは堕ちる。堕ちたものはもうこれを支える力がない。火と煙が降り、大洋の水は蒸気のように沸き上がる。その艱難によって地上の多くのものが破壊され、無数の人が滅びる。生き残ったものは死んだものを羨むほどの艱難に襲われる。もし最後の時が近づいて、人類が自ら改心しなければ、世の苦しみはいっそう深刻化する。善い者も悪い者も、牧者はその信徒と共に、世の支配者はその民と共に滅んで行く。到る処で死が勝利の歌を歌う。荒れ狂った者が凱歌をあげる。彼らは唯一の支配者サタン(悪魔)の配下である。これらがすべて終わった後、世は神に立ち帰り、聖母マリアは御子イエスのあとに従った者の心を呼び起こす。キリストは単に信じるのみでなく、キリストのために公の場所で、その勝利を勇敢に宣言する人を求めている。よき信徒、よき司祭は彼らの兄弟から軽蔑され、攻撃されるだろう。隣人に向かって真理の言葉を告げる者のみが真の愛を持っている。」

 ルチアは2005年(平成17年)2月13日、97歳で亡くなりました。2021年の今日、この預言の「大いなる戦争」は回避されたようですが、猶予が与えられたに過ぎません。



スペイン風邪 Spanish Flu (influenza) は、1918-1920年に世界各国で多くの死者を出したインフルエンザによるパンデミックの俗称です。第一次世界大戦時に中立国であったため情報統制がされていなかったスペインでの流行が大きく報じられたことに由来する(スペインが発生源という訳ではない)。19181月から192012月までに世界中で5億人が感染したとされ、これは当時の世界人口の4分の1に相当する。その中には太平洋の孤島や北極圏の人々も含まれた。死者数は1,700万人から5000万人との推計が多く、1億人に達した可能性も指摘されるなど人類史上最悪の感染症の1つである。近年の研究により、スペインかぜはH1N1亜型インフルエンザウイルスによるものと判明した。Wikipedia) 日本では大正7年頃から感染拡大し、49万人が死亡した。終息まで3年かかった。原首相、皇太子、ぎんさんも感染したという。原首相は回復するまで3年かかったという。回復した翌年暗殺された。対策はマスクとうがい。3年間で4波あった。病原菌は確定されておらず、流行性感冒とされた。

 鳥インフルエンザとはトリに対して感染性を示すA型インフルエンザウイルスのヒトへの感染症です。人におけるほとんどの感染者は、 感染した家きんやその排泄物、死体、臓器などに濃厚な接触があります。日本では発症した人は確認されていません。感染症法では、A(H5N1)及びA(H7N9)の鳥インフルエンザは
 2 類感染症に、それ以外の亜型の鳥インフルエンザは 4 類感染症に位置づけられています。A型インフルエンザウイルス( HN 亜型)は2003 年以降、 東南アジアを中心に、中東・アフリカの一部地域などで報告されています。人が感染した場合には、重篤な症状となることが多く、多くの患者が直接的又は間接的に家きん等との接触があったことが報告されています。また、これまでのところ、ヒトからヒトへの持続的な感染は確認されておりません。A型インフルエンザウイルス( H7N9 亜型)は2013  3 月以降、中国において患者が報告されています。 多くの患者が直接的又は間接的に家きん等との接触があったことが報告されています。また、 これまでのところ、ヒトからヒトへの持続的な感染は確認されておりません。(厚生労働省)

SARS(重症急性呼吸器症候群)とは IDWR 2005年第6号)国立感染症研究所
 中国南部の広東省を起源とした重症な非定型性肺炎の世界的規模の集団発生が、2003年に重症急性呼吸器症候群(SARS: severe acute respiratory syndrome)の呼称で報告され、これが新型のコロナウイルスが原因であることが突き止められた。わが国においては、同年4月に新感染症に、ウイルス が特定された6月に指定感染症に指定され、2003115日より感染症法の改正に伴い、第一類感染症としての報告が義務づけられるようになった。前回 の集団発生は20021116日の中国の症例に始まり、台湾の症例を最後に、200375日にWHOによって終息宣言が出されたが、32の地域と 国にわたり8,000人を超える症例が報告された。

 SARS20021116日に、中国南部広東省で非定型性肺炎の患者が報告されたのに端を 発し、北半球のインド以東のアジアとカナダを中心に、32の地域や国々へ拡大した。中国では初期に305人の患者(死亡例5人)が発生し、20033月 の始めには旅行者を介してベトナムのハノイ市での院内感染や、香港での院内感染を引き起こした。同年312日にWHOは、全世界に向けて異型肺炎の流行 に関する注意喚起(Global Alert)を発し、本格的調査を開始した。315日には、原因不明の重症呼吸器疾患としてsevere acute respiratory syndromeSARS)と名づけ、「世界規模の健康上の脅威」と位置づけ、異例の旅行勧告も発表した1

その後、流行間期の20039月にシンガポール、12月に台湾と続いて孤発の実験室内感染が報告され、20041月に入り、中国広東省において3例の 市中感染が疑われる症例が報告された。さらに、20044月に中国北京および安徽省において、実験室内感染と思われる例をきっかけに、合計9例(死亡1 例)の患者発生が確認されたが、大規模な拡大はくいとめられた。

 SARS-CoV流行の中心は院内感染であったこともあり、症例のほとんどは成人で小児の患者数は少ない。20035月末における中国のデータでは、罹患率は20?29歳で最も高く、人口10万人当たり2.92、次いで40?49歳(2.15)、30?39歳(1.87)の若年成人に高く、50歳以上の 年齢群ではすべて1.8以下、10歳未満は0.16であった2。発症者の約80%は軽快し、およそ20%が重症化したが、予後は年齢や基礎疾患の有無により異なっていた。男女差や人種差は、各集団 発生が生じた地域の状況によって異なり、疾患特性を指摘することは難しい。(国立感染症研究所)

MERS中東呼吸器症候群(Middle East Respiratory Syndrome)は、2012年に初めて確認されたウイルス性の感染症です。原因となるウイルスはMERSコロナウイルスと呼ばれています。ヒトコブラクダがMERSコロナウイルスを保有しており、ヒトコブラクダとの濃厚接触が感染リスクであると考えられている。また、家族間、感染対策が不十分な医療機関などにおける限定的なヒトーヒト感染も報告されており、これらは、咳などによる飛沫感染や接触感染によるものであると考えられている。

 流行国はアラブ首長国連邦、イエメン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、ヨルダン このほか、ヨーロッパ(イタリア、英国、オーストリア、オランダ、ギリシャ、ドイツ、トルコ、フランス)、アフリカ(アルジェリア、エジプト、チュニジア)、アジア(韓国、タイ、中国、フィリピン、マレーシア)、北米(アメリカ合衆国)及び中東(イラン、バーレーン、レバノン)からも患者発生の報告があります

 主な症状は、発熱、せき、息切れなどです。下痢などの消化器症状を伴う場合もあります。MERSに感染しても、症状が現われない人や、軽症の人もいますが、特に高齢の方や糖尿病、慢性肺疾患、免疫不全などの基礎疾患のある人で、重症化する傾向があります。中東地域からMERSの確定患者としてWHOに報告された者のうち、症状が悪化して死亡する割合は、約35%とされています。(国立感染症研究所)

 新型コロナウイルスCOVID-19
  20191212日から29日までの間に、中国湖北省武漢市において原因不明の肺炎患者が確認された。2023/4月の時点で、全世界に感染が広まり、感染者は6億7657万人、死者は688万人と推定されている。

 これらは人類に与えられた試練である。「神の心を知るには御心にかなった生活をせねば神の御心は分かりません。」

 






 ガラバンダルでの聖母マリアの御出現 スペインの寒村ガラバンダルにおいて、マリ・クルス(11歳)、マリ・ローリ(12歳)、ヤシンタ(12歳)、コンチータ(12歳)の四人の少女に、1961年(昭和36年) 6月18日、大天使聖ミカエルが現れ、聖母マリアのご出現を告げた。そして、7月2日、日曜日午後6時、出現の場所に行くと、聖母マリアが御出現された。左右には大天使聖ミカエルと別の天使が控えていた。聖母は雪のように純白に輝く服を着てその上に青いマントをはおり、小さな星で飾られた冠をつけ、長い栗色の髪が肩の上で波打っていたという1年(昭0年)11月まで出現があった。 ガラバンダルの聖母マリアのメッセージ

*たくさんの犠牲と償いをしなければならない。

*もっと度々聖体訪問をしなればならない。

*しかし、それよりも先に、ひじょうに善人にならなければいけない。

杯はう溢れようとしている。もし、回心しないなら大きな罰がやってくる。

*多くの司祭、司教、枢機卿が滅びの道を歩んでいて多くの霊魂を共に滅びへと導いている。

*ご聖体は益々無視されている。

*人類の上に迫っている神の御憤りを避けるために大きな努力を払わねばならない。 

 ファティマの聖母とガラバンダルの聖母のメッセージは教皇の殺害とカトリック教会内部の腐敗を指摘している。考えられる事件としてはヨハネ・パウロ1世の急性心不全による突然死とヨハネ・パウロ2世の2度亘る殺害未遂事件があげられる。「腐ったものは堕ちる。堕ちたものはもうこれを支える力がない」と聖母は忠告している。今も猶、卿・司教等を操っているという。これは今に始まったことではなく、中世の教会内では不正が蔓延した結果、マルチンルターやカルビンによる宗教改革が起こった。今もなお、原点に返り聖書を正しく理解しようという人たちが新教を広めている。そう言う私も自問自答しながら隠れ切支丹と称して理解を深めようと勤めている。しかし、洗礼を受けてからというもの益々サタンの誘惑が強くなり、その誘惑に屈しては再び御神に立ち戻ろうと努力する日々が続いている。

ヨハネ23世      在位:1881~1963     享年81歳     イタリア出身
パウロ6世      在位:1963~1978     享年80歳     イタリア出身
ヨハネ・パウロ1世 在位:1978年8月26日~9月28日死亡、享年65歳、在位僅かに33日、イタリア出身、パウロ6世からバチカン改革を託されていた。以降、バチカン内部の事情に疎い外国からお飾りのような教皇が選ばれている。
ヨハネ・パウロ2世 在位:1978 ~2005 享年85歳  ポーランド出身 バチカン内の改革には手を付けず専ら世界を飛び歩いた。
ベネデクト16世   在位:2005~2013   自らの意志により退位  ドイツ出身
フランシスコ      在位2013~現在    アルゼンチン出身

 1978年のハネ・パウロ1世の急性心不全による突然死は殺害された可能性が考えられる。
 1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はバチカンのサン・ピエトロ広場でトルコ人のメフメト・アリ・アジャから銃撃された。銃弾は2発命中し教皇は重傷を負ったが奇跡的に一命を取り留めた。2005年にヨハネ・パウロ2世は自身の著書で「犯行は共産主義者によるもの」と発表した。
Wikipedia

 ほとんどの宗教にはサタンが入り込んでいる。聖母マリアは「腐ったものは堕ちる。堕ちたものはもうこれを支える力がない」と言っている。読者よ悟れ。



  

イタリアのモンテキアリでの聖母マリアの御出現

 1947年(昭和22年) ヨハネ23世在位(1881~1963)の時、イタリアのモンテキアリで御出現があった。同年春、看護婦ピエリナに御現れになった。聖母の胸に3本の剣が突き刺さっていた。同年6月13日には聖母は胸に白、赤、黄金のバラを付けておられた。同年10月22日、11月16日、11月22日に御現れになった。同12月7日、聖母は「くすしきバラの聖母」への信心を望みます。特に聖職者の回心を望みますと言われた。聖母の白いマントの裾の左右にファティマのヤシンタとフランシスコが控えていた。同年12月8日、聖母はこの日を主のお恵みを祝う「くすしきバラの聖母の日」とするようにと言われ、時期が来れば再び出現すると言って去って行かれた。

 預言通り、1966年(昭和41年) パウロ6世在位(1963~1978)の時、4月17日、5月13日、6月9日、8月6日の4回に亘りイタリアのフォンタレーネで看護婦ピエリナにご出現があった。聖母はパウロ6世の働きに期待されていた。



幼い頃の思い出

 四歳の頃、その日は朝から伯母に連れられて近くの町にある祖父の姉の家に連れて行かれた。朝鮮学校があり米兵も見かける駅前の繁華街の路地を一歩入ったところの日も差さない二階屋で、祖父の姉は一階に一人住まいで二階を人に貸していた。伯母は私一人残して帰って行った。私は遊ぶ玩具もなく、祖父の姉はタバコを吹かしながら私を見守って居るだけで、遊んでくれるわけでもなく、唯々長い一日を我慢して過した。二階の女性が時々用足しに出入りするので、私が二階に通じる階段で遊んでいると「上にあがったらあかんよ・・」とガラガラ声で叱られた。日も暮れかかる頃やっと伯母が迎えに来てくれた。何故か祖父の姉も一緒に家路についた。駅を降りて暫く歩いたが眠たくなり途中で伯母の背中に負われて家に着くと、何やら騒がしく大勢の人が来ていた。襖を開けると宴会をやっている。すると女性が近づいてきて「この子どこの子ですの、可愛いね・・」と言われた。すると祖母が「お母ちゃんやないか、挨拶せな・・」と言われた。後で分かったのであるが、その日は父の再婚の祝言の日だったのである。義母は、相手は再婚で二歳になる子が一人いると聞いて嫁いできたそうで、祝言が終わるまで私の存在は隠されていたのであった。

 四歳から六歳のに母親が居ないというのは本当に辛いものである。 実母は祖母とは母方の従姉妹で町の質屋の末娘だった。考えてみれば甘やかされて育った質屋の末娘が経験もない農家の嫁が務まるわけがなく、結婚は四年で破綻し協議離婚し家を出て行った。その結果、父は分割で慰謝料を払わねばならなくなり更に負担が増えた。その後すぐに義母が嫁いできた。義母も町の大地主の娘だったが、不思議と苦労もいとわず受け入れられる人だった。私には愛情はくれなかったが、心の内は察していたらしく「また、その内良い事もあるわいな・・」と言われたことがある。別れた実母は連れ子が二人あるサラリーマンと再婚し一子をもうけたが、73歳で肝臓癌で死去した。義母は101歳で今も健在ある。同じ町娘でも心の持ち様が寿命まで左右するようだ。

 私は小学六年の三学期に自転車に乗り三キロ程離れた町に行き聖書を購入した。マタイ伝のイエス・キリストの誕生の物語を読み神の不思議な御力に感動し聖書をお守りの様にいつも手にしていた。聖書を持っているだけで何かに守られているように感じた。 中学生になると、放課後夕方まで陸上部で汗を流し、市の連合体育大会の砲丸投げで優勝した。また毎週土曜日は部活のあと夜の九時まで剣道教室にも通い家のことはあまり省みなくなった。高校は某県立高校に入り、このときの級友K君、H君、I君等とは未だに付き合っている。高校では引き続き剣道部に入った。1970年代テレビでは「心霊現象」「除霊」「霊視」「霊感」「超能力」などのテレビ番組が流行して、丹波哲郎、宜保愛子、木村藤子、下よし子、ユリ・ゲラー、細木数子らが活躍していた。農学、園芸学、昆虫学、生態学、生物学の本も読んだが、「臨死体験」「前世を記憶する子どもたち」「転生した子どもたち」「子どもは親を選んで生まれてくる」「リモートビューイング」「マインドトレック」「神智学」「死後の世界」などの本を読み漁った。「24人のビリ・ミリガン」「ジェニーのなかの400人」等の多重人格症に関する本、「ミニアコンカ奇跡の生還」「たか号漂流27日間の闘い」等の実体験本、「占星術」「四柱推命」等の占いに関する本や隅本確、高橋信次、高橋佳子、大川隆法等の霊界や神理的な本や講演のテープが売られ、バブルの時代に、これらの興味をそそる本が出版され、この世界で金儲けを企画していた人が大勢居たことは確かである。1972年から1995年まで、アメリカ政府はリモート・ビューウイングによるスパイ活動の研究を行っていた。私はこれらの本を徹底的に読み漁ったのである。西田幾多郎、梅原猛、大西良慶選集、シュヴァイツァー選集等の形而上学的な本も読んだ。勿論、聖書の他に「ルルドの聖母」「ベルナデッタ」「ファティマの聖母」「メジュゴルイェ」「ガラバンダルの御出現」「アシジの聖フランシスコ」「ピオ神父と守護の天使」など、聖母マリアの出現に関する本やマザー・テレサに関する本、吉本伊信の「内観への招待」、立花隆、シスター鈴木秀子の「臨死体験」「死んで私が体験したこと」「死後の真実」「光の世界」「天使体験」等読み漁り、最近では「脳神経外科医が見た死後の世界」「霊障医学」「人は死なない」「サイコパス」「解離性同一性障害」等の本も読んだ。中でも、有能な人達が麻原彰晃の本を読んでオーム教団に入り、マインドコントロールが解けずに法を犯し死刑になった。実はこれらの本には恐ろしいマインドコントロールが潜んでいるものがあり、一歩間違えると大変な事になる事を当時の私はまだ理解していなかったのである。

        

「神の英智は無限なり」        1990(平成2) 61日 聖ミカエルの出現

   私はある霊能者M氏の本を何度も繰り返し読み耽り、講演を録音したカセットテープを会社の行き帰りの車中や暇を見ては何度も繰り返し聞いていた。講演の中でM氏は、人類が地球にやって来て以来自分は転生輪廻を繰り返して来たと述べ、大天使、釈迦、最澄の生まれ変わりであると述べて、講演では不思議な現象を聴衆に見せて、その現象を見た聴衆は忽ち入信していたようである。私が興味を持った時には、M氏はすでに亡くなっており、後継者の女性が会を主催していた。死後M氏は大天使として神の世界にいるものと誰もが信じていた。私は何の疑いもなくM氏の宗教論を信じていたが、今思えば、その頃すでにマインドコントロールにかかっていたのである。

 ある日、あろう事かM氏の声が聞えて「今日から僕が直接君を指導してやろう」と言う。私は感激し、暫く色々な指導を受けていたが、段々とM氏と対話している内に、尊敬していたM氏の言うことに矛盾が生じるようになり、「貴方は天使ではなく悪魔だろう」と言うと、遂に正体を現わし「お前が呼んだから来てやったのだ」「お前の行動は逐一観察させてもらっているが、あまり褒めたものではないな・・・」と言う。

 私は恐れて、離れてくれるように何度も頼んだが「儂を呼んでおいて、今度は離れてくれとはあまりにも身勝手ではないか」と言う。 ・・・だが、これ以上詳しく書くことが出来ないことをお許し頂きたい。M氏の悪口を書くと私の身辺に不幸が起きる可能性があるからである。現在もM氏の娘さんが団体を率いて宗教活動をしている。

  私は信号機の故障で交通事故を起こしマイカーは大破した。しかし、幸いにも怪我はなかった。車が身代わりになってくれた。妻は体重が五三キロから三五キロまで痩せ細って病院で診察を受けたが何処も悪いところはないという診断を受けた。私の言うことを聞けば緩めてやると言う。相談するところもなく、

『ヨハネの黙示録』で悪魔サタンを退治したという大天使聖ミカエルにお願いするしかないと二人で一心に祈った。すると祈りが通じたのか、大天使聖ミカエルが現れ、ミカエル様にお仕えする巫女と名のる美しい女性の声が聞えてきたのである。

始め、大天使聖ミカエルから想念で伝わっってきた言葉

一、夫婦は二人三脚で歩みましょう。

二、常に向上心を持ちましょう

三、自然を愛しましょう。

四、過去の過ちを改めましょう。

五、神の愛を受け入れましょう。

六、神の使命を受けましょう。

次に、大天使聖ミカエルに仕えるみこ (御子・巫女)と名のる女性の爽やかな聲で八日間に亘って毎日導きがあった。

一日目「神はいろいろお教えになります。しかし、神の心を知るには御心にかなった生活をせねば神の御心は分かりません。ただ神に祈りそうするように努力をなさる方には必ずわかるようになさいます。それが分かるのに期間は問題ではありません。たゆまぬ努力こそ神理を体得する早道と言えましょう。」

二日目 1990年6月2日「男一人でもがいてもサタンに勝てぬ。また女一人で苦しんでもサタンには勝てぬ。二人が一体になって力を発揮してこそサタンの支配から抜け出られる。一心同体でサタンの支配から抜け、神の御支配に入りなさい。何か思いあぐね、わずらっている時は感謝の心を忘れている時です。すべては神の御心でうごかされているのです。」

三日目 1990年6月3日「滅びゆく地球から神が用意された新しい地球へ行ける者は、自然を正しく司り、神の御心で生活できる者たちです。ノアの時と同じようにすべて生き物は一対でまいります。子供は幼いうちはすべて神の子で、そのまま神の御心にかなっているのですが、大人の悪い感情を植え付けられるうちに、しだいに神の御心から遠ざかってしまうのです。自分の子どもたち家族全員が神の御心を行えるよう、両親が神の御心を実行し、指導するのです。」

 四日目 1990年6月4日「何も案ずることはありません。あなた達は、ただ神の御心に添った生き方をすればよいのです。サタンがどうの、悪霊がどうのと不安に思うことはないのです。神の御手にすべてをゆだねるしかないではありませんか。」

五日目 1990年6月5日「これ位で良いという気持ちは神の御心ではありません。怠惰と適切な休養とは心がまるっきり違うのです。いろいろなことが起こっている時は無事な一日を感謝して過しますが、それが続くと当たり前になり感謝がなくなり、向上しなくなります。毎日のちょっとした向上が十年経つと、考えてもいない向上となるのです。一日で豹変する者は又一日で悪へも豹変する者です。地道な実行こそが向上への早道です。夫婦お互いがよりよく向上するため、聖書から学んだ神の教えを教え合えば良いのです。くるぐれもマンネリ怠惰とならぬよう一日一日をお送りなさい。地球での・・・・時はどんどん過ぎ去っていっているのです。聖書をお読みになる時は文字を追わず、御心を読みなさい。御教えをお読みなさい。そしてそれらを実行なさい。するとそれらはあなたの大きな力となるでしょう。」

六日目 1990年6月6日 「自分に不幸と思われる事が起こった時逃げてはなりません。一時逃れられたかに見えても根は残っているのです。物事を中途半端にしておくのと、それを解決するための努力をし、結果的に一時棚上げにしておくのとは違うことなのです。いやな過去の出来事を思い出して自分を乱れさせるのは無駄なことですが、二度起こさないための反省と対応は学ばねばなりません。一日の反省の時、朝起きてからの各々の行動を神の御心になって反省なさり、次の日の努力点と致しましょう。」「子供はあなた達の私有ではありません。将来成人して世に独立する時までの間、神の子をお預かりしているのです。子達の心は、もとはすみきったものです。親が口でいくら教育しても、親の姿、周囲の者の姿勢を見て育てばそれを体得します。神の子としての教育をなさいますように。」

七日目1990年6月7日(この日の巫女様の言葉の内容がいつもと違う・・・ 「夫婦はいつもお互いに信頼し合い愛し合いなさい。しかし、結婚して互いの性格が分かり愛せなくなった時にはそれはもう真の夫婦とは言えません。そんな時は返って益々悪い結果になってしまうでしょう。この広い世には赤い糸で結ばれた真の伴侶が必ずいるはずです。・・・・・・」何か変だ。巫女様が変なことを言い出した。巫女様と言うがサタンではないのかと思った。

「しかし、結婚して互いの性格が分かり愛せなくなった時にはそれはもう真の夫婦とは言えません。そんな時は返って益々悪い結果になってしまうでしょう」と云うこのサタンの言葉は大変よく分かる。こうなった時に夫婦喧嘩になり離婚してしまう夫婦は多い。その時に、子供は犠牲者である。サタンが後で夫婦お互いの心を煽り立てているのである。そこで悔い留まらなければサタンの思う壺である。

 しばらくしてサタンがいなくなると・・・・・「声は一緒なのですよ・・・・・私を必要としないのであれば、私は帰ります。必要なことはすべて聖書に書いてあります。聖書をお読みになり、それを日々の生活で実践なさい。」と声があった。悪魔サタンが声色を使って話していたのである。「あなたの神は創造を絶する力をおもちになられています。神を信じ自分の実践すべきことを誠心で行い、悪い点は即座にお詫びしましょう。神に呼びかけ指導をお願いするのです。するとその方にあった適切なご指導をいただけます。聖書の中から自分に必要だとされる教えを悟らせていただけます。神を信じ神に依ることを実行するのです。小さな善意だからとて神はないがしろにはなさいません。あなた達夫婦が誠心誠意一心同体で努力なさることを望んでおられるのです。結果として偉大な事をなさるかもしれませんが、足元からまずこつこつと積み上げねばいつまでたっても同じこととなりなす。大切なのは基本となるべき心です。神を信じる心です。」
「感謝をなさることです。神に感謝、夫に感謝、妻に感謝、両親に感謝、子どもに感謝、あなたのまわりにいらっしゃる方々に深く、深く感謝なさることです。」

八日目 1990年6月8日 「平和な心が皆を明るくしなごませるのです。自然を愛し慈しむ心が人をやさしい美しい心に知らずに変化させるのです。物言わずともかもし出すものが人の心をなごませるのです。心からなる感謝で一日が終われますように。」と言い、巫女様は去って行かれた。十五~十六日頃から、私たち夫婦に、互いに悪口を聞かせ、イタズラ電話や人を使って我々夫婦に嫌がらせをし、こちらの心を乱していたのである。なぜなら、サタンはこちらの心が安らかであると、こちらの姿が見えないからである。また、数日前に、私の身近にいる二人の人が相次いで車両の下敷きになって、一人は脳死状態で入院し、もう一人は即死だったと言う。これも私に恐怖感を与えるためだったと後になって感じたことである。今考えると、他にも四人が亡くなり、三人が全身不随か半身不随になっている。



ついに正体を現す

 平成二年六月十九日午後のことである、私たちに憑いていた悪魔サタンが現れ、同情を誘うようなことを言った。「生きている間は、これは正しいと信じて会をつくって活動していたが、今は地獄の帝王となって、生きている者、死んでいる者合わせて五億人を支配している。彼らは儂の言うことは何でも聞く。死ねと言えば死ぬし、殺せと言えば殺しもする。生きていた時には、死後は神の国へ行けるものと信じて人々に神の道を説いていたが、死んで地獄に来るとは夢にも思っていなかった。・・・・・「生きていた時に一度だけ縁ある人と間違いを起こしたことがある」と言って去って行った。あとで分かったのであるがそれは近親相姦であった。

 彼には生前から強力な二人の悪魔彼は守護霊と呼んでいたが憑いており、彼は人々を信じさせるために度々講演会で奇跡や除霊を行い、人々を驚嘆させていた。それは彼に憑いていた悪魔が裏で行っていたのである。生きている人が罪を犯した場合は、主イエス・キリストの御血の功徳によって許されるが、死んで地獄に落ちた霊魂はもう救いようがない。だから生きている今、自分自身が神の支配なのか、悪魔サタンの支配なのかによってもうすでに死後の行き先がすでに決まっているのである。ただ、生きている誰か縁者が一心に地獄に落ちている霊を救うために、神様に救いをお願いし、代わって苦難を受けることによって救われることがあるようだ。イエス・キリストの苦難がそれである。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』(マタイ伝) 霊能者と称する人には必ず強力な霊が憑いており、予知・病気治療・霊言・除霊・摩訶不思議な現象を起こし人々を信じさせる。神として崇めさせ金銭を要求する。霊能者と言われる「拝み屋さん」のほとんどはこの類いであるが、それらの多くが途中で金儲けに走り、憑いている「かみさま」と不和に成り霊能力を失ってしまっている事例が多い。死後はこれらの霊によって地獄に引きずり込まれるのである。霊感スポットと言われる神社やお寺にはこの類いの霊がおり、標的を物色している場合が多い。中には害のない力のある霊魂もいるが、何時豹変するか分からない。

自動書記  何者かが妻に想念で「今すぐ紙とペンを用意せよ」と言う。用意するとペンを持つ妻の手が自然に動いて次の文章となった

○自分のまわりに起こりし事はすべて自分の行動の反省点として、神から注意を促されていると知り、注意を怠らぬようにする。

○むやみに人の相談にのらぬ。自分の能力を過信し受け入れてやると、相手についている悪霊がこちらにのりうつり、今に身動きがとれぬ状態になる。

○人から過小評価されるのを恐れ、あれこれ迷わず、神そして自分の心に照らし合わせ、これでよしとした時、断固これを実行するべし。

○自分の心に悪しきもの食べさせられた時もはやく消化し、すみきった水となれ。

○自分の守れる範囲を神から授かり、むやみにやたらと他人の範囲をおかさぬようにする。

○常に心明るく神の光が入る家族となれ。この世のことを軽く考えその努力を怠るとあの世でも同じ事の繰り返しとなる。

○常にこの世からあの世に行ける準備を怠らず、後に悔いを残すな。

○理屈に走りすぎず、感情に走りすぎず、己の心をいつも即平常に保てる修行をつむべし。

○頭で理解せず、もろもろの体験により一つずつ体得せよ。

○人の行動をとやかく思わず、悪しき心又行いを見たときは自分の姿を見せてもらったのだと、常に反省の心を持ち向上せよ。

○百万の説教より一回の善行が尊いと思い、その積み重ねをせよ

○夫婦の間でもめごと起こりし時は心にかげをつくらず、相手を生涯の友と考え、相手にさらけ出し、共に反省し合い、あとをひきずらぬよう早期の解決をせよ。争いの種を残すことによりそれが女体の中でどんどん増幅していくことを知るべし。

○心の平和とは己自身の中にあり、他にそれを求めてもなきものと思え。自分が神の導きに率直についていっている時は、心は平和なのである。

○悪しき心を起こせし時はすぐにそれを反省し、神の愛をさんさんと受けている自分を心に描き、静かに感謝の心を持て。

○信仰とは己自身の行動である。いくら他人が手助けしようと自分のものにならないのである。

○自分の悪癖を、これは一生治らぬと開き直らず、神から忠告を受けたる時は率直に反省し感謝の心を持つことである。

○人に甘えず、己を厳しく見つめ、一日の反省を必ずせよ。明日に持ち越さずその日の内に反省せよ。

○人をかいかぶったり、みさげたりせず、相手の善き所を自分に生かせ。それが積もり積もると大きな愛になる。中心となる。

○己の基地となるべき所をしっかり決めてふらふらと迷うな。

○人の甘言に惑わされ、自分を見失いおどらされるな。

○女難あるいは男難の歴史ある家に生まれし者は特にこれに注意し、自らそれらを招き入れてはならない。

○人間の身体は神が授けしものなれど、それの使い方によっては道をまちがう恐れありと自覚し注意を怠らぬこと。

○神の子としてこの世に生まれ出たことを感謝し、神の御心に添う己を確信し、清き心を持て。

○何事によらず夫婦は助け合い一つの心となれるよう日々努力をする。それにより自分の人生の目的を達成し、良き霊となり我のもとに来たれ。

○間違いを悟った時は子供大人の違いなく、神にすべてをゆだね自分の心を反省する。

○子供の時の心に立ち返り、常に下から上を見上げるごとく、新たなる気持ちで一日を送れ。

○子供の時に思いし数々の悪口を思い出し、それらの人々にお詫びせよ。

 筆を持つ手が自然に動いて書かれた文章である。すべてに亘り私の欠点が掲げられており、私たち夫婦の子供の時からの心の中が誰かによってつぶさに観察されていたことが分かったのである。驚きと共に恐怖を感じた。妻の父は既に他界していたが熱心な宗教家であったが、結核で亡くなった。

 東京の妻の親戚に行くと、必ず四谷の「サンパウロ」と「ドン・ボスコ」と「ピエタ」に行くのだが、今度東京へ行く機会があったら四谷の「ピエタ」へ行って、ペアーの十字架を買おうと妻と約束していた。東京へ行く機会があり二人で「ピエタ」へ行った。店内を見て回ったがペアーの十字架は見当たらないので、シスターに「夫婦ペアーの十字架はありませんか」と尋ねると、「ありますよ」と言う。「昨日ローマから届いたばかりで、まだ店内には陳列していません」と言って、奥から品物を出してきた。見ると丁度私たちが探していた十字架であった。偶然と言えば偶然だが、正に神様が私たち夫婦に下さるために用意されていたものであると確信した。


 ゴルバチョフ暗殺未遂事件 昭和60年(1988)3月、ゴルバチョフ氏はソ連共産党書記長に就任すると、翌年、ペレストロイカ再建を推し進め、ソ連共産党の体制改革に着手した。同年日にチェルノブイリ原発事故をきっかけにグラスノスチ情報公開も行った。1987年12月には米国レーガン大統領と中距離核戦力全廃条約を締結。1989年10月にはソ連最高幹部会議議長に就任し、1990年3月にはソ連大統領に就任した。同年6月にエリツイン氏もロシア共和国大統領に就任した。19908月、ソ連KGB議長、副大統領、首相等ゴルバチョフ氏の側近達のクーデターによりゴルバチョフ氏はクリミアの別荘に軟禁された。モスクワではエリツインロシア共和国大統領と市民等が抵抗しゴルバチョフ氏は助け出されたが、ソ連共産党は活動を停止し、1990年12月、ゴルバチョフ氏はソ連大統領を辞任した。 『1990117日 革命記念日、モスクワの赤の広場で軍事パレードが行われていたとき、ゴルバチョフ氏暗殺未遂事件が発生した。労働者のデモンストレーションの最中、行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進がレーニン廟(この講壇上にソ連の指導者が並んでいた)に近づくと、ゴルバチョフ氏めがけて2発の銃弾を放った。しかし、弾は外れた。シモノフがライフル銃を取り出してすぐに護衛に発見され、狙いを定めている間、将校が走ってきて銃身を殴ったため、弾は空に逸れた。シモノフはデモに参加していた群衆に取り伏せられ、すぐさま逮捕された。』出典フリー百科事典『ウィキペディア

 
 1990年の9月か10月の頃、私たちは白昼夢を見た。妻と手を繋いでゴルバチョフ氏の頭上に浮かんでいた。見れば、私たちと同じ翼を持った無数の聖霊達が光を放ってゴルバチョフ氏の頭の周囲を天使の輪のように円形に取り巻いているのである。私達はそれらの一員であった。

 


ペルーワラル事件

1991年712日、ワラル事件が起きた。ペルーの郊外ワラルにある日本の支援で建設され、野菜栽培技術の専門家が派遣されていた。その「野菜栽培研究センター」をゲリラが襲撃し三人の日本人技術者を殺害した。ワラルは日系人が住み着いた町で農業が盛んであり、日本政府はワラルに野菜育種の研究所と試験農場を建設し、アマゾンから水源を引く灌漑工事を支援事業として行っていた。この事件は当時のフジモリ政権にゆさぶりをかける犯行であり、当時日系人が大統領になることなど前代未聞であり、メスティーソ達の反感をかった。事件は共産主義者「センデロ・ルミノソ」の犯行とされて、十三人の犯人たちは全員捕らえられ収監された。現在は全員刑期を終えて出獄している。しかし、消息筋では、「センデロ・ルミノソ」犯人説は当時のペルー政府のでっち上げで、実は反フジモリ派の政府高官が真犯人であり、実行犯は政府要人のボディガードだという説もある。ペルーはカトリックの国で死刑はなく、民族和解から刑期も短く設定されており、凶悪犯は逮捕時に射殺されることが多い。新聞では「日本人処刑」とか「日本人射殺」と書かれているが、実際はそんな生易しいものではなかった。中西氏の遺体は頭蓋骨が陥没して、小鼻が両方とも裂けていた。そして、死因は頭から顎にかけての貫通銃創である。散々に暴力を受けて痛めつけられて気を失って倒れたところを銃で頭を撃たれてとどめを刺されたのである。それでも遺体の説明では「中西氏の遺体は抵抗していないので比較的綺麗だ」という説明だった。抵抗した一人は手足の骨が折れて生きたまま片眼をえぐり取られていたと言う。





弟の死後に起きた超常現象

 年714日の朝方我々は弟が神に召されていく姿を見た。黄金の無数のバラの中心に顔が浮かびあがり、それが渦を巻いて天上に昇っていったのである。妻が「神様のもとに行ったのですか」と尋ねると「天使が迎えに行って連れて来られました」と想念で返ってきた。

 私たちは、同年10月の末、弟浩と霊界通信が出来た。

問い「今どんなところにいるのか。

答え「神の世界にいる。」

問い「今までの私たち家族の至らなかったことを許して欲しい。」

答え「過去のことはすべて消え去った。後のことは家内の好きなようにさせてやって欲しい。故郷を捨てて独立しようと思っていたが、心の中では捨てていなかった。」

問い「墓は実家の墓地でいいのか。」

答え「どこにあろうとそんなことは関係ない。」

問い「何れ私たちもそちらへ行くから、又会おう。」

答え「姿はこちらから見えている。いつでも会っている。行こうと思えばどこへでも行ける。兄貴は姉さんをもっと大事にしてやれよ。理屈に走らずまず実行すること。理屈は後から付いてくる。」

問い「そちらで妻の父と会ったか。」

答え「会ったよ、少しお堅い人のようだね。」

問い「東京でペルーにたつ前にホテルで食事したこと覚えているか。」

答え「覚えている。人々がみんな仲良く平和に暮らせたらいいな。言っても分からない人はほっといたらいい。こういうことは良くないからもうやめよう。分かってくれてありがとう。本当にありがとう。」

 彼は生前、西田幾太郎の哲学書や武士道の「葉隠れ」等を読んでいたが、宗教には無関心で神の存在は否定的で「神の国」など信じていなかった。そして、ペルーに視察に行ったとき「兄貴の家には怪現象が起きているから」と言って、土産に、ペルーの神様像を買ってきてくれた。だが「今、神の国にいる」と言って、実際に『神の国』の実在を私たちに教えてくれたのである。更に「亡くなった私の妻の父と出会ったか」と聞くと「会ったよ、少しお堅い人の様だね」と言った。妻の父はP教団の幹部で戒律に厳しい人だった。そして、今我々と話しているが「今話している君は何処にいるの」と尋ねると、「具体的に聞くナー」と言った。そして「こんなことは善くないことだからもうやめよう」と言って去って行った。そして、後で分かったのであるが、彼の愛した祖母は三年前に亡くなっている。彼は霊界で祖母を探しまわったが何処にもいない。そして、ついに祖母は自宅の井戸端の隅に地縛霊となっていることが分かると、祖母の手を引き天国へ連れて行った。

このワラル事件はサタンの私達夫婦に対する報復だったのか?









  

マザー・テレサ(1910~1997)

 1910年(明治43年) 8月27日、マザー・テレサはユーゴスラビアの東南部スコピエで生まれた。当時スコピエはアルバニアの領土だった。三人兄妹の末子で、名をアグネスと言う。18歳で洗礼を受けクリスチャンネームをテレサと言い、ロレット修道会のシスターとなった。

 1929年(昭和4年) 1月6日、カルカッタ(コルカタ)へ派遣され、聖マリア高等学校で地理の授業を受け持ちます。1946年(昭和21年) 9月10日、ダージリンへ向かう汽車の中で進むべき「声」を聞いた。それが「神の愛の宣教者会」の始まりだった。声を聞いたのです『病める人、死にゆく人を助けよ、飢えた人、裸の人、家のない人に神の愛を行動にして示すように』とマザーは述べている。「神は静けさの中で、私たちの心に話しかけられます。神に選ばれた者はその声に目覚めます。言葉では説明出来ません。しかし、悟るのです」 

 1948年、ロレット修道会を離れ、修道院の外で働くことを認められた。願い出てから2年たった、38歳の時であった。たった5ルピーほどポケットにあっただけ。「道端で男の人を助けました。体中にウジ虫がたかり、ものすごい悪臭を放っていました」。「貧困を作ったのは神ではありません。我々人間です。分かち合わない我々に責任があります。神は善を行うよう強制はしません。我々自身が善い行いを選ばねばなりません」。

 かつての教え子達がマザーの活動を聞いて集まって来ました。不思議と建物の部屋を無償で提供してくれる人や食べ物を提供してくれる人たちが現れた。「物事の結果には神の御意志が現れます。大切なのは祈ること。結果を信じることです。我々は神に導いていただくだけ。主にお任せすればうまくやってくださいます」。

 「カルカッタで私たちは砂糖がなくなっていました。その時、四歳になるヒンズー教徒の子供がマザー・テレサは砂糖がなくて困っていると聞き、その子は家に帰り、ぼく、今日から3日間砂糖はいらないから、ぼくの砂糖をマザーにあげる、と親に言いました。3日たってから両親がその子を私たちの家に連れてきました。その子は砂糖の入った小さなビンを手にしていました」。

 「ある日、若いヒンズー教徒の男女が私たちの家にやって来ました。そしてお金をくれたのです。私は、どうしてそんなにたくさんのお金を下さるのですかと尋ねました。2人は、2日前に私たちは結婚しました。結婚する前に、お互い新しい服を買わず、結婚披露宴もしない。結婚のために貯めていた金を恵まれない人に寄付すると2人で決めたのです、と言いました。彼らは結婚生活をこんなに美しく始めました」。

 「あるヒンズー教徒の貧しい家族子供8人がもう何日も食べていないと聞き、私はお米を持って訪ねました。その子供たちを見るとひどく飢えているのが分かりました。母親は私の手からお米を受け取ると、半分に分けてどこかへ持って行きました。私は帰ってきた母親に、どこへ行ってきたの、と聞くと、隣の子供たちも何も食べていないので・・と答えました」。

 「貧しい人々を理解するには貧しさを知らなくては。政府の補助金や公的援助は受けません。我々の労働はすべて無償の奉仕です」。ある人に「援助は募らないで。我々の名で援助を要求しないように。神の仕事です。すべて神の意志に頼るのみ。必要なものは神が与えてくださいます」。

 「私たちはお金の心配をしたことがありません。私たちのために時間や労力をさいてくださる方も大勢おられます。神様はいつも思わぬところで私たちを助けてくださいます。資金調達や日々の糧に困ることはありません。神の御心がいつも私たちの上にあるのを感じます」。

 「子供は神がつかわされた美しい命です。家族への最高の贈り物です。私たちは病院に、中絶する患者が来たら子供は私たちが育てるから産ませてくださいと頼んでいます。里親捜しで中絶と闘っています。私たちの精一杯の愛情も両親にはかないません。とても無理です」。「愛することを知らずに神や愛を語る人がいますが、愛は行動を伴わなければなりません」。「人はよく職業と天職を取り違えます。天職は神が与えてくださるもの、イエスにつながる仕事です。天職は種と同じ。肥料をやって育てなければなりなせん。天職は神から与えられるもの。シスターたちは手をふれる相手に神を見ています。貧しさにあえぐ人は姿を変えたキリストです。私たちは毎朝ミサをあげ、聖体を拝領します。主なしでは何も出来ません。主と共にあればすべて可能です。私たちは誓願をたて、キリストと結ばれて一つになるのです。主と結ばれるのです。人は自分の立場に対して清くあるべきです。私は神に与えられた仕事に清くあろうと努めています。私が特別なのではありません。人は誰もが聖なるべくして生まれてくるのです。主は私たちを平和の道具となさいました。憎しみのあるところに愛をもたらし、不正のあるところに許しをもたらすように、疑いのあるところに信頼を、悲しみのあるところに喜びを、自己を忘れることによって人は真理を見出し、人を許すことによって自らも許されます。人は死によって永遠の命にあずかるのです」。



サタン(悪魔)は多くの人々に影響を与える宗教家・政治家・資産家の心の隙間に入り込み人類を支配しようとしている。

 
1965年(昭和40年)に「神の愛の宣教者会」はカトリックの修道会の認可を受け、今では全世界に145カ国に支部があり、4800人以上のシスターがいる巨大な組織となっている。1978年(昭和53年)に日本にも支部が開設された。1979年、マザー・テレサはノーベル平和賞を授与され、1997年(平成9年) 9月5日に87歳で亡くなると列福され、2016年(平成28年) 9月4日に列聖された。

 マザーを賞賛する人は多いが、マザーは組織が巨大になるにつれて、組織全体を統括することが困難になり、問題点を処理できず、様々な批判を受けたという。亡くなる前にマザーは書簡や手紙等を処分するように頼んでいたが、死後書簡集として出版されてしまい、その手紙には「マザーは何十年にもわたって神から切り離されている感覚を持っていたこと、神の愛の宣教師会を創始するために励むことができた若い頃の情熱を失っていることを訴えている」という。
 
当然のこと悪魔は放っておくわけがなく組織の弱点を突き、様々な攻撃を仕掛けてきたものと思われる。特に世界各地から集まる莫大な資金提供や献金の中には犯罪や闇のお金が混ざっており、当然それらの人たちや独裁者と言われる人々とも交流があったと批判されている。また、コルカタのホスピス「死を待つ人の家」では、「苦しみは美徳である」とされ、医師がおらず、修道女は医学の専門知識もなく、心のこもった看護は受けられたが、適切な医療を望んでも受けられず本当に死を待つだけの施設だったと批判されている。それは資金が足りなかったからではなく、彼女が「苦しみと死に関して独特の信念」を持っていたからだという。「苦行と犠牲はとてもイエス様のお気に召します」という聖母の言葉を何もわからぬ死に瀕した人々に強要したのである。又、弱体化しつつあるカトリック教会がメディア・キャンペーンで彼女の崇高なイメージを作り上げた結果、彼女の隠れた善行が表沙汰になり、サタンの攻撃の的になった。

 ほとんどの宗教にはサタンが入り込んでいる。読者よ悟れ。

Krithika Varagur クリティカ・ヴァラグール ハフポストUS版「What's Working」プロジェクト アソシエイトエディター。インド出身

2016年の94日にマザー・テレサが聖人に列せられる。これは驚くことではない。2003年に彼女は福音に列し、列聖への道を一直線に進んでいるようだ。だが、彼女は聖人ではない。

マザー・テレサの列聖は、彼女の問題だらけの伝説に蓋をすることになる。改宗の強制、独裁者との疑わしい関係、収益の不適切な管理、それに、質の悪い医療などだ。最悪なのは、彼女が慈善の金を第三世界に浪費した典型的な白人だったこと。こうした理由で誰もが知る彼女のイメージが形成され、インド独立後の精神を深く傷つけ、分裂の根源となった。

2013年、オタワ大学の研究で、マザー・テレサを取り巻く「人のために尽くした寛容な行為の神話」は覆えされた。彼女の崇高なイメージは事実と違い、基本的に弱体化したカトリック教会がメディア・キャンペーンを強要した結果だったと結論付けている。

彼女はその生涯に、100カ国で計517の慈善活動を行ったが、研究では、医療を求めた者はほとんど診療してもらえなかったという。医師は不衛生な、「適していない」環境で診療しなければならず、食料も不十分で、鎮痛剤もなかった。資金が足りなかったわけではない。マザー・テレサの呼びかけは海を越えていたからだ。研究者らによれば、診療環境が十分でなかったのは、彼女が「苦しみと死に対する独特の信念」を持っていたからだという。

「キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています」。マザー・テレサはかつて、ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンスが投げかけた疑問に対し語った

キリスト教では忍耐を神聖視しているとはいっても、どんなひねくれた考え方をしたら、そんな考え方になるのだろう。

彼女の活動場所から、その答えはすぐ分かる。人種差別的な植民地主義だ。100カ国で活動し、アルバニア生まれであるにもかからず、マザー・テレサはインドのマザー・テレサとされ、インドは「コルカタの祝福されたテレサ」を生んだ。彼女はその地で、歴史学者のヴィジャイ・プラシャドが言う「黒い体を誘惑と過ちから救うために働く、植民地の典型的な白人女性のイメージ」となった。

彼女のイメージは植民地の論理に完全に縛られている。世界で最も貧しい褐色の肌の人々を救う、輝く光を持った白人というイメージに。

マザー・テレサは殉教者だった。インドや南半球の貧しい人のための殉教者ではなく、白人とブルジョワのための殉教者だ(プラシャドは、それは「貧困を生み、維持する力に真に立ち向かう」のではなく、その反対の役割を果たしたと言う)。

では、彼女はどうやって褐色の人々を救ったというのか? 仮に救ったとしても疑わしい。彼女にはいつも「思惑」があった。インドの最も貧しく、病気の人々をキリスト教に改宗させることだ。ヒンドゥー教のNGO指導者2015年に語っている。彼女とその修道女が死にそうな人に洗礼を施した例が数多くある。

彼女を何か特別なものにしようとする教会の熱烈なキャンペーンもあった。

このキャンペーンは彼女の存命中にスタートした。中絶反対を唱えるイギリス人ジャーナリストのマルコム・マゲリッジが、大きな十字架の前で祈るパブリック・イメージを作りだし、マザー・テレサのイメージを広めた。最初は1969年の聖人伝ドキュメンタリー、次は1971年の著書だ。彼は人々に、マザー・テレサは歴史上ではなく「神話の域」にあると位置づけた。

彼女は死後、(聖人に次ぐ)福者の地位になったが、、それはルールを破っても捕まりたくない人が熱烈に支持したからだ。教皇ヨハネ・パウロ2世は通常、必要な死後5年というプロセスを放棄し、死後1年で手続きを開始した。

素晴らしい功績があるとされるひとりの女性には、非難されることなどないと思っているかもしれない。だが、マザー・テレサは生前、悪名高き独裁者と親交があった。ハイチのジャン・クロード・デュヴァリエ(マザー・テレサに1981年、レジオンドヌール勲章を授与した)と、アルバニアのエンヴェル・ホッジャ労働党第1書記だ。

こうしたものはどれも特に目新しくはない。ほとんどは彼女が列福した2003年に浮上した。クリストファー・ヒッチェンスの著述と、タリク・アリのドキュメンタリー「地獄の天使」の中で示されている。これは死者の悪口を言うためのものではない。

しかし、マザー・テレサが時間を経ずして聖人になるのはかなり腹立たしい。私たちは神を想像し、自分たちに似た人の中に神聖さを見いだす。この中で、マザー・テレサのイメージは西側至上主義、白人至上主義の残像として映る。彼女の栄光はインドの精神の犠牲の上に成り立っている。また、10億人のインド人と、分離した人々の犠牲がある。彼らは、自分たちを助ける白人は特別で優秀だとの概念を強制的に植え付けられた。改宗など大したことではないと思わされた。ノーベル賞を受賞した5人の「インド人」のひとりが病気の人を死なせる女性だったという、とんでもない事実を受け入れざるを得なかった。貧困は美しくない。マザー・テレサは時を経て白人にとっての聖人となっても、褐色の肌にとっての聖人とはならないだろう。

この記事はハフポストUSに掲載されたものを翻訳しました。




人格崩壊

 

正常な人格

幼い頃から現在まで記憶が途切れずにある。自分を守ってくれる守護天使がいる。間違った道を行くと自己反省で修正してくれる。両親の愛情を受け、温かい家庭に育った。両親も、その又両親も温かい家庭に育っている。生まれて12歳までに大脳が成長する。その間に両親の温かい愛情が無ければ完璧に成長しない。父母が離婚し、祖父母や養護施設で育てられると感情を司る大切な大脳の成長が不完全で、性格異常をきたし、イジメや犯罪、時にはサイコパスの引き金になる。学校教育もさることながら、家庭環境が大切である。

 

解離性同一性障害(DID)、多重人格障害(MPD)

解離性同一性障害は多重人格症とも言われ、一つの体の中に多くの人格が存在し、その人格が代わる代わる体を支配する。他の人格はその間の記憶がない。解離性記憶喪失、解離性健忘もその一例である。

 

『24人のビリーミリガン』

原本は1981(昭和56)にアメリカで出版された。著者はダニエル・キース。日本語版は1992(平成4)に出版された。多重人格者の青年ビリー・ミリガンが1977年に強盗強姦の罪を犯したにも関わらず精神障害と診断されて無罪となった顛末を詳しく調べ上げた実話である。当時、「解離性同一性障害」という診断はなく、「自我同一性を喪失し、自我境界はきわめて曖昧な急性精神分裂病と診断された。「何かをしろと命じる声が聞え、応じないとその声は彼に向かってわめきたてる。地獄からやってきた人々の声だと信じている。また、定期的に彼の身体に侵入し、悪い人間達と戦う良い人間達もいると語っている」という。

この青年の肉体には24人の人格が宿っている。主人各はビリー・ミリガンであるが、それとて不確かである。勿論重罪を犯したのは別人格である。人格が入れ替わるとその時の記憶は通常その人格だけしか持っていないので、主人各や他の人格達はその時の記憶がないので。ビリー・ミリガンは無罪とされたのである。しかし、ビリー・ミリガンでさえ生まれた時からビリー・ミリガンであったかどうかは分からない。

この青年の人格を紹介する。①ビリー・ミリガン、26歳 ②アーサー、22歳、イギリス人 ③レイゲン、23歳、ユーゴスラビア人、④アレン、18歳、⑤トミー、16歳 ⑥ダニー、14歳、⑦デイビッド、8歳 ⑧クリステン、3歳の少女 ⑨クリストファー、13歳、クリステンの兄 ⑩アダラナ、19歳、女性 ⑪フィリップ、20歳、乱暴者 ⑫ケビン、20歳、犯罪者 ⑬ウォルター、22歳、⑭エイプリル、19歳の女性、ビリーの養父の復讐心を燃やしている。⑮サミュエル、18歳、⑯マーク、16歳、⑰スチーブンソン、21歳、多重人格という診断を受け入れない。⑱リー、20歳 ⑲ジェイスン、13歳 ⑳ロバート、17歳 ㉑ショーン、4歳 ㉒マーテイン、19歳 ㉓テイモシー、15歳 ㉔教師、26歳、23人の人格が統合され、ビリー・ミリガンも消え、教師が肉体を支配し、他の人格も消え去ったという。

ビリー・ミリガンの実父が自殺した結果、ビリーは父親の愛情を失い、且つ母が再婚し、8歳~9歳の頃に養父から抗しきれないサデスチックで性的な虐待を受け続けた。そのために何度も人格の解離が起こった。

 

『ジェニーの中の400人』

原書は1989(昭和64年・平成元年)に出版された。著者はジュデイス・スペンサー。日本語版は1993年に発行された。

この女性に宿っている人格。①ジェニー、生まれたときの人格。7歳から34歳まで自分の世界に閉じこもり、恐怖に怯えている。②セリーナ、17歳、ジェニーに代わり教団の儀式の肉体的苦痛に耐える存在。 ③サンデイ、34歳、5歳の時に出現、ジェニーに代わり教団のオカルト儀式を受け入れた。 ④フリーシャ、28歳、2歳の時に出現 ⑤バーバラ、34歳 ⑥マーシー、31歳、2歳の時に出現 ⑦パム、18歳 ⑧ライザ、12歳 ⑨スー伯母さん 84歳 ⑩ワーノラ、年齢不詳 ⑪ヒルダ、34歳 ⑫ジャステイン、57歳、男性 ⑬ベッキー、7歳 ⑭ヴェラ、インディアン女性 ⑮ペニー、幼女 ⑯トッド、6歳、男の子 ⑰オータム、34歳、女性 ⑱トランダ、14歳 ⑲キャシー、34歳 ⑳アビー、9歳 ㉑ニーナ、15歳、15歳の時に出現 ㉒マインド、ジェニーの心の支えになっている存在 ㉓ボブ、ジェフ、フィル、テリー、男性人格の破片 ㉔ブレア、醜い雄の生き物 ㉕ブリジット、18歳 ㉖ミンドリーン、角を生やした血まみれの身体の悪魔 ㉗ルーアン、12歳 ㉘キーシア、8歳の少女 ㉙アマンダ、17歳 ㉚おでぶちゃん 抽象化された母親 ㉛グラデイス、抽象化された母親 ㉜エイラ、若い女性 ㉝父、教団の司祭で角が生えている ㉞ケイラ、5歳、ジェニーの核のような存在、常に心の中にいて記憶がある。㉟メリッサ、10歳、㊱その他破片だけの人格を合わせると400人を超える。

ジェニーは私生児として生まれ、母親が働いていたので優しい祖母に育てられた。ジェニーには父親の異なる兄がおり、ジェニーの祖母と母親と兄の4人は母親の姉の家に同居していた。愛する祖母はジェニーが二歳のときに亡くなると、ジェニーの母親は仕事を辞め、捨てた男に対する怒りと、自分の置かれた不幸な境遇から鬱状態と情緒不安定になり、ジェニーに対して育児児放棄と幼児虐待に陥った。ジェニーは母親から虐待を受け、二歳ですでに人格解離を起こしていた。5歳のときから母親にサタンを崇拝するオカルト教団に連れて行かれ、黒ミサに生け贄として捧げられ肉体的苦痛や性的な虐待を受け、更に人格解離を起こしていた。最終的にジェニーは専門家のセラピーを受け、別人格のセリーナとマインドの働きにより統一を果たそうと努力した結果、ジェニーとセリーナの二人まで統一された。「統一は別人格達が死ぬわけでもなく、消えてしまうわけでもない。みんな統一された人の一部になる」という。

本書の翻訳者小林宏明氏も小学校3年生のころから父親に虐待を受けていたと告白されている。幼い頃に感情的、身体的、性的虐待のいずれか、あるいは複数の虐待を受けて、愛されることや、人を愛することを知らないで成長したことが多重人格症やサイコパスを引き起こす原因になるという。多重人格障害は男女で起こるが、特に女性に多く、男性では次に記す「サイコパス」が多いという。そして「解離性記憶喪失」は男女で起きることが多いようである。

 

日本での解離性同一性障害者の例

日本での例はないかと「解離性同一性障害」で検索するとTwitter FacebookYouTubeで「みのうら議事堂」と見つかった。 「みのうら議事堂」さん合、「みずたま研究所」というページもある。

主人格はなく、70人の交代人格で箕浦某(女性)をやっているらしい。①あられちゃん ②白猫たん ③尋丞たん ④あほの箕浦 ⑤葵ちゃん ⑥夢野さん ⑦朝日ちゃん ⑧龍ヶ崎たん ⑨なずなさん ⑩蒼丞たん ⑪隅田川たん ⑫虎ちゃん ⑬チェシャ猫 ⑭谷中トド ⑮椿ちゃんなど70人で、交代が激しいので「議事堂」とか「シェアハウス」とよんでいる。人格が多いので統合は今のところ考えられないようだ。
 特に悪い人格はなく、皆で訳が分からず、混乱しながらも何とかやっている。彼女の場合は幼いときのトラウマを思い出したくないので、詳しい原因は分からないが、三歳から幼稚園のころに「親のしつけ」や「周囲のいじめ」がトラウマになって発症したらしい。幼児期のしつけについて「人格が固まっていないのに教育なんてありえない」と言っている。(こんな)自分がなぜ生まれたのか」。「平和とは・・」「存在意義」について疑問をもっている。彼女のすべての人格が迷っている。

 

「湖本とうこ」さん(女性)の場合

自分の経験を生かして「解離アドバイザー」として解離性同一性障害者の相談にのっている。14人位の交代人格がいるが、主に5人位で「湖本とうこ」をやっている。特に悪い人格はなく、主人格は「とうこ」、交代人格は①あき(とうこに混ざっている) ②ちひろ(記憶担当) ③ひずみ() ④せら()5人に統一されつつあるが、統合すると交代人格が消滅するのではないかと不安になるという。解離性同一性障害の治療は統合であるが、湖本とうこさんは交代人格に支えられて生きているので、交代人格たちと仲良くやっていきたいと考えている。この5人の他に⑥いくちゃん(10歳位の子供で、初めは赤ん坊だったが、10歳位まで成長したという。湖本とうこの肉体は生まれたときは「いくちゃん」の身体だったという)。⑦はるか(いくちゃんと一緒にいる。傷ついている)。⑧ひさかず(小学生くらいからとうこを見ていた)。⑨ちせい(ちひろ双子、かたわれ、心の中の記録担当) ⑩数名のかけら(人格を増やさないために名前をつけていない)
 10年くらい前は「多重人格障害」で病院へ行ったが、笑われたり、理解されなかった。現在「湖本とうこ」をやっている人格は主人格ではなかった。週一回しか出られないときもあり、130分しか出られないときもあり、今度目覚めたときにはおばあちゃんだったり、このまま消えてしまうのではないかと不安だったという。だから統合せずに5人位で仲良くやっていきたいと考えているという。解離性同一性障害になった原因については、「いくちゃん」が虐待を受けたのが原因と思われるが、よく分からない。

解離性同一性障害、多重人格症の原因は幼児虐待とされているが、その親も解離性同一性障害者であった可能性が高く、虐待の恐怖から逃れるために客観的に自分を見るようになったときに他の人格が肉体に入り込む。その機会が多ければ多いほど、虐待が激しいほど解離の可能性が高いと考えられる。神が造られたシステムをサタンが壊している。





  

サイコパス

人の大脳は0歳から12歳頃までに形作られ、12歳頃から思春期に入り20歳まで肉体が作り上げられる。男の子は男らしく、女の子は女らしく成長する。ところが、幼児期に親から過剰な体罰や、性的虐待や、もう死んでしまいたいと言う様な精神的に堪えられないショックを受けると、繊細な人格を持ったマインドは逃避しようとするために、他の人格が入り、解離を起こすが、虐待されても何とか自分で対応できるマインドは解離を起こさずにすむが、大脳前頭葉の発育障害が起こり、情緒不安定になり、人に対する同情感がなくなり、死をも恐れない人格が形成される。解離はなく、幼い頃から現在まで記憶が途切れずにあり、意志が強いので虐待に堪え抜いて自分独特の世界を作り上げ、社会のリーダーになり成功する勝ち組と、冷酷な殺し屋や犯罪者になる負け組があるという。これも、神が造られたシステムをサタンが壊している。

サイコパスの特徴

魅力的。不安を感じない。罪悪感がない。信頼できない。不誠実。自己中心的。親友ができない。失敗から学ばない。一喜一憂しない。他人の迷惑を考えない。人生の計画性がない。一見魅力的。人より優れていると思っている。虚言、偽り、騙し。感情の欠落、良心の呵責と罪悪感の欠如、冷淡、共感性欠如、無責任、衝動的に刺激を求める。すぐに飽きる。退屈しやすい。行動をコントロールできない。勝手気ままな性行動にはしる。幼少期に問題行動がある。人をいじめる。非行少年、犯罪歴がある。離婚を繰り返す。サイコパスは幼少期の家庭環境が造り出した情動障害で病気と言える。救いの手を差し伸べるのはかなり難しい。戦争や貧富の差、非民主的な政治や非社会的・非人道的な政治の産物であり、サタンの社会を具現している。




記憶喪失、解離性健忘

TBSテレビ番組で「緊急!‘20春公開大捜索」で3人の記憶喪失者の身元捜索が行われた。

    新井武志(仮名)自称49歳、20万円ほど持ちテントと寝袋を持ち2019年まで伊豆半島を放浪していた。昨年静岡市に助けを求めた。現在は1990年と思っていたが2020年と分かり驚いたという。現在は産業廃棄物関係の仕事に従事している。
寄せられた有力情報:父親であると思われる方から「行方不明の息子のようだ。息子の職業はフリーカメラマン」。

    岡山花子(仮名)」自称30歳、岡山県の西川駅で記憶をなくした。岡山市の生活保護を受給中。現在デイサービスのお手伝いをしている。福岡県の私立飯塚高校をなんとなく覚えている。
寄せられた有力情報:小中学校の同級生と名乗る女性から有力情報。お兄さんと名乗る人物から、間違いなく妹である。昨年
4月から行方不明。年齢は2223歳。地元は飯塚市。

    小泉諒さん(仮名)自称27歳、現在は岡山のデイサービスに勤務。幼少期の記憶がある。岡山市内の河川敷でホームレスをしていて、201811月に岡山市役所に助けを求めた。子供の頃、父母の記憶は無く、広島県呉市で叔母の小泉順子さんと二人暮らしをしていた。叔母は厳しい怖い性格で、外出禁止で学校にも行かせてもらえなかった。叔母がやっていた新聞配達の仕事を手伝わされていた。13歳の頃、叔母が忽然と姿を消した。10年間新聞配達で生計をたててきたが、ある日勤務先が倒産して誰もいなくなり、岡山にやって来たという。
寄せられた有力情報:母親と名乗る女性から「間違いなく息子。身内に小泉順子はいない。実家は北海道で岡山の大学に進学。現在は
28歳。

これらから推察すると、三人は解離性健忘で、解離性障害(多重人格)の疑いが強い。特に新井武志さんと小泉涼さんは交代人格であり、解離性同一性障害の一種と考えられる。また、「性同一性障害」や「重篤な精神病」も解離性同一性障害の一種と考えられる。







「前世を記憶する子供たち」


①バージニア大学医学部精神学科の研究

Dr. Ian Stevenson 「Children Who Remember Previous Lives」


Jim B. Tucker M.D. 「A Scientific Investigation of Children`s Memories Of Previous Lives」
 

Tom Schroder 著 Dr. Ian Stevensonに同行して取材したジャーナリスト 「Old Souls:The Scientific Evidence For Pastlives」


池川明 著 「子どもは親を選んでうまれてくる」


大門正幸著  中央大学大学院国際人間学科・人間力創成総合教育センター教授、バージニア大学医学部客員教授 「生まれ変わりを科学する」
 





②船戸結愛の場合
  2018年3月、当時5歳だった船戸結愛ちゃんが東京都目黒区のアパートでなくなった。結愛ちゃんの義父:船戸雄大による虐待死だった。結愛ちゃんは骨と皮になるまで痩せ細って、全身に打撲傷があり、敗血症と栄養失調だった。行政も宗教も結愛ちゃん母子を救えなかった。この報道を聴いた日本国民は怒りと悲しみに包まれた。 

         

船戸優里さんが獄中出版した本と結愛ちゃんが義父に宛てて綴った文章。船戸雄大を納得させるために優里さんが手直ししたという。
 

 優里さんは同級生の男と結婚して結愛ちゃんが生まれたが、その男は結婚後仕事を辞め、優里さんがデリヘルで働いて養っていたという。やがて、最初の夫は他の女と一緒になり出て行った。優里さんは同じデリヘルで働いていた船戸雄大と再婚した。結愛ちゃんが好きだった「じいじ、とばあば」は前夫の両親だという。雄大の生立ちは両親が喧嘩ばかりしたあげく離婚し、父母の愛を知らずに育ったようで、サイコパスの可能性がある。優里さんの両親も家庭愛の薄い環境で育ったようである。全員が完全にサタンの餌食になっている。雄大と優里さんとの間にできた子供もいるようだが、この子も犠牲者で父母の愛を知らずに育つことになる。国は何も出来なかったのであるから、せめて優里さんだけでも釈放して第二子と暮らせるようにするべきである。

 結愛ちゃんは生まれ変わり、今三歳半、東京でクリスチャンの両親と最近生まれた弟と四人家族で幸せに暮らしている。リンゴ、ミカン、桃、メロン、イチゴなどの果物やキュウリ、ブロッコリーなどの野菜が好きで、食べるのが速く、最近 肥満気味になっているという。最近人の心を読むようになった。何故かバイキンマンのものまね「ごめんなさい、もうしません」が口癖になっている。






死後の世界

 人は死後皆お花畑に行くことになっている。大変心地良くて、美しくて、安らかな場所であるというから、何の心配も無く、不安に思う必要も無い。肉体は脱ぎ捨てたが霊体はあるので互いに個人の認識は出来る。過去の人生は過ぎ去った出来事であり、元には絶対に戻れないので振り帰る必要はない。貧乏とはもうおさらばだ。病気で死んでも


臨死体験

















 
copyright©2021 the passion