北摂多田の歴史

多田蔵人行綱公 と 多田氏の研究



多田蔵人行綱(1140~1189)
蔵人 左衛門尉 建久二年八月下鎌倉謁源頼朝公叙正五位下摂津守(中川史料集)
保延六年(1140)、四月、太郎生、后ニ行綱ト云、 保元三年(1158)元服、(高代寺日記)
長寛二年(1164) 八条院蔵人 嘉応元年(1169)五月、行綱長子生太郎、后ニ行盛 (高代寺日記)
鹿ケ谷ノ変(安元3年・1177)の時には37歳、一ノ谷合戦(寿永3年・1184)の時には44歳、となる。
文治5(1189)1124日没、享年50(讃岐多田氏系図)


『高代寺日記』によれば摂津守多田頼盛の嫡男太郎行綱は保延元年
(1140)4月に生まれたとあることから、平治の乱(平治元年・1159年)には19歳、鹿ケ谷の変(安元3三年・1177年)のときには37歳、一の谷合戦(寿永3年・1184年)のときは44歳、鎌倉幕府から勘当されたとき(元暦2年・1185年)には45歳であったことになります。没年は「讃岐多田氏系図」に、文治5年(1189)11月24日とあることから、享年50歳と言うことになります。

多田満仲公「安和の変」以来、清和源氏は摂関家と結びつきその勢力を拡大したが、保元・平治の乱で摂関家も清和源氏もその勢力を失った。白河上皇と鳥羽上皇の院政と結びついた伊勢平氏が台頭した。摂関家と清和源氏の台頭を嫌った白河上皇は伊勢平氏である平正盛を重用し、鳥羽上皇も正盛の子・忠盛を重用した。摂政忠実は白河上皇に遠ざけられ、忠実に仕えていた多田行国は佐渡に左遷され、源頼親は平正盛に追討された。一方、平忠盛は得長壽院を造営した功績で、『高代寺日記』には
但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス」とある。安田元久氏は『武士世界の序幕』で次のように述べている。「平氏が中央政界に頭角を現したのは、清盛の祖父正盛の時代からである。正盛は桓武平氏の一流である伊勢平氏の嫡流を自認した。しかし、桓武平氏に直接つながるという点については、これを疑えばいくらでも疑う余地がある」とその正統性を疑っている。

 天仁元年(1108年)戊子、正月廿九日、出雲国ニテ平正盛(清盛祖父)()義親(義家子)ト合戦、義親伏誅、同郎従四人首上洛ス、傳曰、去亥ノ十二月初太宰権師大江匡房日早使上洛、義親悪逆止サル申ヲ訴フ、故ニ平正盛右衛門尉ニ任シ、追討使下著、(高代寺日記)

 長承元年(1132年)壬子、二月十三日、得長壽院成ル、故十三日供養、導師地主権現ノ應化ナリ、平忠盛(正盛子・清盛父)奉行ス、故ニ但馬ヲ賜リ、昇殿ヲ許サルゝト云リ、忠盛卅六才、白鳥二代ノ天気ニ叶其家ヲ起ス、(高代寺日記)

 平清盛の出自は『平家物語』によれば、平忠盛の嫡男ですが、母は祇園女御(一説には女御の妹)とされています。『平家物語』は読み物であるため脚色されている可能性があるので推測の域を出ませんが、祇園女御が白河上皇の寵愛を受けて産んだ子が清盛だと言われています。祇園女御は後に平忠盛に下賜され、忠盛は女御の子であった清盛を、上皇の皇子と承知の上で嫡男としたようです。これで伊勢平氏を自認する忠盛も立派な王統である確信を得るに至ったと思われます。

平清盛は平治の乱の後、後白河上皇の院政に、二条帝・六条帝と続き、藤原基実が形だけの摂政となり、清盛は大納言になります。基実が急死すると弟藤原基房が摂政となります。平滋子の産んだ後白河上皇の皇子・憲仁親王(後の高倉帝)が立太子になると、清盛は春宮大夫となり、内大臣から太政大臣となります。やがて六条帝から高倉帝に譲位すると後白河上皇と清盛も共に出家します。平家は主要な官位を独占するようになり、多くの荘園を管理し、福原に都を造営して、大和田の泊りを開き、宋との交易を盛んにし、栄華を極めるようになります。しかし建春門院滋子が亡くなると、清盛と後白河法皇院政派との対立が激しくなります。

 

鹿ケ谷の変 と 加賀国鵜川にある叡山末寺
『高代寺日記』によれば、治承元年(1177)5月29日、多田蔵人行綱公(37歳)は西八条の平清盛邸を訪れて、鹿ケ谷山荘において、藤原成親・僧西光(藤原師光)・法勝寺執行俊寛僧都・平判官康頼・藤原成経・近江中将入道蓮浄俗名源成正・山城守中原基兼・式部大輔雅綱・惟宗判官信房・新平判官資行らが平家打倒の陰謀を企てていると清盛に密告したとされています。行綱公は八条院蔵人・院の北面武士に任じられており、その武力を成親卿に請われて密会に加わったとされています。その結果、成親卿は備前国に配流、西光は斬首、俊寛・平康頼・藤原成経らは鬼界ヶ島に配流されました。世に言う「鹿ケ谷の変」です。西光は保元の乱で失脚した少納言信西の乳母子で藤原家成の養子となり藤原師光と名乗り、出家して左衛門入道西光と名乗っていました。

鹿ヶ谷の密会後、行綱公が清盛に密告する前に、後白河帝と山門との間に争いごとが起こりました。入道西光の子で加賀守藤原師高と云う者がありました。その弟で藤原師経が目代を勤めていましたが、加賀国鵜川にある叡山の末寺との間で合戦をして寺を焼き払ったと言うのです。『高代寺日記』に次のように記しています。

安元二年(1176年)四月、賀刕鵜河ノ僧国司ト間アリ、云々、七月、加賀国司藤原師高山徒ト云分アリ、師高カ弟ヲ師経ト云、目代トシ在国シ、山門末寺鵜河ノ僧ト相論シ、坊舎ヲ焼合戦セリ、」(高代寺日記)

「治承元年四月十三日、山門衆徒依白山之訴、加賀守師高並父西光法師、本左衛門尉師光雖訴申此両人、無裁訴之間、奉具神輿、参陣、依官軍禦神輿、後日、射神輿下手人禁獄、日吉祭延引、四月廿八日、夜、自朱雀門北至于大極殿、小安殿、八省院及神祇官焼失、火起樋口冨小路、京中三分之一灰燼、世人稱日吉神火、五月四日以後、座主明雲付使廳使被譴責、大衆張本之間、衆徒弥忿、五日、明雲座主解所職等、配流伊豆國之間、衆徒五千余人下會粟津□、奪取座主登山、已朝威如無、六月一日、六波羅相國禅門召取中御門、大納言成親卿已下祇候院中人々、召問世間風聞之説、其中西光法師、依有承伏之子細、忽被斬首畢、成親卿已下、或處遠流、或解官停任、叓起院中人々相議可誅平家之由、結搆之故、云々」(帝王編年記巻廿二)

 末寺は叡山に訴えて、叡山山門は院に師経と師高兄弟の処分を求めて強訴しました。院は師経を備後国に配流しますが、山門はそれでも不承知で、さらに国司師高を尾張国に配流することになりました。ところがあろうことか洛中から火の手が上がり大極殿や関白基房邸ら多数の家屋敷が焼亡すると云う事態になったのです。院はお怒りになり天台座主明雲を解任し伊豆国に配流することになりました。源頼政公に命じて明雲を伊豆に連行する途中、近江国粟津で僧兵等が明雲を取り戻します。その直後のこと、くだんの行綱公の密告があり事態が急変したと言うことです。この結果、首謀者たちは流罪になり、藤原師光コト西光だけが斬首されます。行綱公の密告により西光に仏罰が下ったと考え、行綱公を介抱したと考えらる。


一ノ谷の合戦    「鵯越の逆落とし」は源義経ではなく多田蔵人行綱が行った。
『吾妻鏡』は搦め手の大将軍源九郎義経に従う人々として次の名前を挙げている。
「搦手の大将軍は源九郎義経である。その義経に従う人々は次の武者達二万余騎で、多田蔵人行綱公の名前はありません。

遠江守安田義定(甲斐源氏)    大内右衛門尉惟義  山名三郎義範   斎院次官親能

田代冠者武田信綱        大河戸太郎広行    土肥次郎実平   三浦十郎義連
糟谷藤太有季          平山武者所季重    平佐古太郎為重  熊谷次郎直美
同小次郎直家          小河小次郎祐義    山田太郎重澄   原三郎清益

 
平家はこの事を聞き、新三位中将資盛卿・小松少将有盛朝臣・備中守師盛・平内兵衛尉清家・恵美次郎盛方をはじめとする七千余騎が、摂津国三草山の西に到着した。源氏もまた同じ三草山の東に布陣した。


九条兼実公の日記『「玉葉』を引用すると、一ノ谷の合戦で多田蔵人行綱公・安田義定・大内惟義等は山手より真っ先に攻め込んだと記しています。

「二月八日丁卯天晴、未明、人走来云、自式部権少輔範季朝臣許申云、此夜半許、自梶原平三景時許進飛脚申云、平氏皆悉伐取了云々、其後午刻許、定能卿来、語合戦子細、一番自九郎許告申、搦手也、先落丹波城次落一谷云々 次加羽冠者申案内、大手自濱地寄福原云々、自辰刻至巳刻、猶不及一時、無程被責落了、多田行綱自山方寄、最前被落山手云々、大略籠城中之者不残一人、但素乗船之人々四五十艘許在島邊云々、而依不可廻得、放火焼死了、疑内府等歟云々、所伐取之輩交名未注進、仍不進云々、剣璽内侍所安否、同以未聞云々、」

 (現代語訳)「二月八日(一ノ谷合戦の翌日)未明に式部権少輔朝臣の許から人が走り来て言うには、此の夜半、梶原平三景時の許から飛脚が来て言う、平氏は皆恙なく討取られてしまいました。その後、午刻頃に、定能卿来たりて合戦の子細を語る。一番に九郎義経のことより告げ申す。九郎は搦め手なり、丹波ノ城を先に落とし、次に福原に寄せ云々と、次に蒲冠者範頼について申しあげる、大手濱地より福原に寄せ云々と、辰ノ刻に至り、巳ノ刻に到って一時たっても猶攻め落せず、多田行綱が真っ先駆けて山手を落とし云々、大略籠城中の者共一人残らず討取られ、空船が四五十艘ばかり島邊に在りしが、それを廻すことも出来ずに、火を放って焼け死んでしまい云々と、内府等は討取られし輩の名も未だ注進する者もなく事態が飲み込めず、剣璽内侍所の安否も未だ分からず云々と。」

 
戦いが膠着状態にあるとき、多田蔵人行綱公が山手から寄せて前線に躍り出て、突破口を開いたと述べており、『吾妻鏡』『平家物語』の解釈とは全く異なっています。『平家物語』などは源義経の鵯越の逆落としで勝利したと語っていますが、『玉葉』は多田行綱公が山手より攻め寄せて突破口を開き、勝利したと語っています。 



古寺山多門寺
 神戸市北区唐櫃に古寺山(海抜634m)があり、当時はこの山の山頂に清盛が開いた「多聞寺」があったとされている。また、神戸市北区山田町の丹生山は古来水銀を求めて渡来した丹生氏が開いた山で、丹生山明要寺は百済の王子が開いたとされる寺で、帝釈山とも称される。清盛はこの丹生山を再興して日吉山王権現を遷座し清盛は度々参詣したと言う。福原からこの地域までの海道がすでにあったと思われる。福原ではこの方面からの進軍を当然想定していた。多田行綱公は古寺山多聞寺の僧兵をまず討ち取ったと言われている。ここで義経と別れ鵯台へと向かった。義経ら鷲尾氏の案内で山田町から藍那へ向かいさらに西の木戸口へ向かったようだ。(斉藤豊和・古寺山クラブ)

 『高代寺日記上巻』に長保五年(1003年)癸卯、正月、安村主計允有馬郡クラモトノ庄ヘ入部ス、とあることから、神戸市北区山口町倉本は多田庄の一部だったことが分かる。



多田蔵人行綱 勘当
定説では、鎌倉幕府から勘当され、多田庄は大内惟義に与えられたとされている。異説として、「中川資料集」には 「建久二年(1191)八月下鎌倉謁源頼朝公叙正五位下摂津守」とある。
(大昌寺文書)

「多田ノ蔵人は奇怪(きく王以)によって勘当仕りたるなり、されば、多田をば預け申すなり。下し文奉る。とく知り給へし、ただし、かたがた沙汰せんことは、静かに先例を尋ねて、沙汰あるべし。さては多田ノ蔵人が親しき者などは、どうして愛おしくすることやある、侍共は愛おしくして、元の様に使い給へし、多田ノ蔵人が弟にてある者逃げ上りたるなり、奇怪の事なり、勘当せんするなり、大内殿・・」元暦二年(1185)六月八日  (八月十四日文治に改元)

 『高代寺記』に、
「保元平治之乱之後、平清盛公再寺領ヲケツラレ、わずかニ五十石ニ罷成候処ニ承久ノ乱之後火事出来、一山寺社坊中盡炎焼シ、其時寺務之法式且経文皆焼亡シ退転ス、時之住持色々御訴訟申トイヘ共、鎌倉殿御許容ナク、寺領盡ク空亡セリト申伝フ、」

とあり、鎌倉幕府は経基王の菩提寺である「高代寺」を復興することもなく、承久の乱では大内氏をはじめ多田源氏は上皇方についたために、北条氏は多田庄を得宗家の領地として、その後、北条得宗家は鎌倉極楽寺の良観房忍性を多田院別当に任じて多田院復興に取り組んだが、高代寺は復興されなかった。この時に高代寺を守護していた吉河氏は越中国に逃げ、鎌倉幕府が滅んだ後に吉河仲頼が越中国立川から戻ってくることになる。



多田蔵人行綱公の行方は・・・加賀国か・・讃岐国か・・

①前述したように、行綱公の鹿ケ谷の密告で、西光は清盛により斬首されます。叡山は行綱公失脚後鵜川に招き介抱したと考えられます。
②「徳島小蓑山多田氏系図」に、行綱公は鹿ケ谷の密告の恩賞として清盛から讃岐国に知行六万石を賜り、屋島ノ城に移ったとある。

「治承元年丁酉五月廿九日注進ス平家追討ノ企於清盛江、清盛怒恨同六月朔日断罪西光・師高・師経ヲ、成親ヲ備前国江流、成経・康頼・俊寛ヲ鬼界嶋江流、其後成経ヲ於備前国ニ被誅セ、治承元年六月八日多田行綱従清盛殿於讃岐国ニ賜知行六万石、同六月十五日讃岐屋嶋ノ城ニ移ル、云々」



【小蓑山多田氏系図】
多田行綱ー繁綱ー義継ー國継ー頼範ー頼顕ー勝頼ー為義ー為信ー為親ー行安ー行綱ー行家ー滋誠ー頼継ー義継(天正2年卒)・・・

【多田中西氏系図】
多田行綱ー重綱ー義継ー國継ー頼範ー頼顕ー中西伊勢三郎頼任(新田幕下竹之下出陣)四郎忠春(多田ニ住ス)図書頼久ー忠久ー忠景ー頼清ー清高ー久国ー清治ー頼貞(織田信長ト九年取合利ヲ失フ)ー頼秉(大坂陣討死)・・・


【多田上津城主 多田春正系図】
多田行綱ー家氏ー氏久ー仲久ー仲正ー正慶ー光久(八幡山に籠る)ー景光(信濃守)ー基康ー長行ー行成ー行信ー国範ー国伴ー国之ー定之ー安伴ー憲安ー義元ー義運ー多田春正(永禄10年上津城落城自害)・・・

   
   多田上津城址                想像図

【徳島宮田屋多田氏系図】
多田行綱ー行治ー行盛ー行俊ー行輝(仕新田義貞)ー行安ー安友(仕信長)ー安成(属秀吉)ー行政(大坂討死)ー行春(水野志摩守養子)ー安次ー宮田屋初代多田久衛門義勝(寛永7年卒)・・・


【中川塩川氏系図】
多田行綱ー明綱ー重綱ー長重ー重国ー中川清深(多田太郎秀国)ー多田太郎秀綱ー多田太郎秀重(塩川摂津守)ー塩川伯耆守孫太郎重房


【高代寺日記・鵜川多田氏】
多田行綱・・・・・・・鵜川某(永正8年舟岡山合戦討死)ー鵜川源左衛門宗次(享禄4年多田院寄進)ー鵜川兵衛


【多田行綱末裔苧蘿山人】
多田行綱・・・・・多田綱村ー行村ー重村ー治村ー範村(鵜川多田家五世、加賀藩十村役、後ニ荻生徂徠門人)ー多田玄介(苧蘿山人・明和年中多田へ来住)

『鳳至郡誌』によれば、多田玄介 字は士龍蘭洲と号し、又は学海と号す。童名喜五郎、後源介又は玄介に改む、一に文淵ともいふ。母は桜井氏にして範村の三男なり。寛延元年金沢鏡屋十二郎の養子となる。宝暦三年離縁の後彭城百川(名眞淵号蓬洲、加州の人又俳諧を能くす)の門に入り、書善くし又篆刻に妙を得たり。同十年加藩の国老横山山城守に仕へ、秩禄十口を給せられ、文学篆刻の技を以って其職とす。性豪放磊落、常に髪を梳り入浴することを嫌う。人あり其蓬頭にして垢衣無袴なるを咎むれば、傾城遊君にあらざる限り、他人の為めに身を装ふの必要なしとて聴かず。時の藩侯前田重教其居室に書画を作らしむ。玄介殿中に在るや、日日髪を結び袴を着けざるべからざるを憂ひ、書筆を執ること終に一日、夜窃に金沢を脱して摂津多田郷に赴く。時に明和四年七月なり。多田郷は有馬温泉の在る所にして、浴客の為めに医師を備へしが、偶々祖缺員あるに際す。因りて聘せられて従事す。蓋玄介医術の嗜ありしを以てなり。彼則ち本業の傍一郷の子弟を集め、文学書画を授く。天明八年五月十二日歿す。享年五十七。蘭洲士龍と謚し、其地に葬る。死後門人相謀りて石碑を建設し、現に存す。今尚多田家に玄介の描きし神農図・菅公立像の二軸、並に山脇道作より兄周平を通じて篆刻を依頼せし書、横山家より受けし辞令等存す。」

多田六右衛門 名は重村、通称六郎右衛門、如棘と号す。童名三十郎。云々、実は河北郡南中條村杉本十郎左衛門の三男にして母は杉本氏なり。多田氏三世行村の養子となり、元禄十年二月三日鵜川村に来る。寛永七年三月四日養父行村の遺跡を相続して十村役を拝命す。云々」 

多田六蔵 諱は治村、通称六蔵、思文又は蘿月斎と号す。幼名銀三郎。実は北村敬蔵の第三子にして、伯父多田六右衛門の後を襲ぎしなり。云々」

多田家 鵜川の多田家は蔵人源行綱の末裔と伝ふ。其祖前田氏に仕へ、二代利長の越中に隠棲するや、之に随ひて亦越中にあり。偶々君側の奸を除かんと欲し、他の十七人と党を結びて之を殺害し、為に罪を獲て浪人となり、同國に於いて帰農す。寛文中その裔綱村の時に至り鵜川に移る。これを鵜川多田の第一とす。然れども前田氏を憚り、一時故らに原氏を冐ししことありといふ。爾来十村役、扶持人十村役等勤めしが、第五世範村に至り、自ら十村役を辞し、書を送りて荻生徂徠の門に入り、又金沢に行きて勉学し、後子弟を集めて教授せり。」




多田行綱公伝説

①天草地方の多田蔵人行綱公伝説  九州天草の一帯には、多田蔵人行綱公が平家の落人として落ちてきたと云う言い伝えがある。
 其の一つは「大堂家古文書目録・中田村史資料集」に、「大堂家は蔵人行綱の子孫であり、多田蔵人平行綱主従は平家の落人で、壇ノ浦から四国足摺岬・日向から山を越え薩摩・八代海を渡って天草島大道村まで落ちてそこで亡くなった」と言う話があります。旧大道村に行綱公をお祭りする神社があります。また龍ヶ崎の松ヶ鼻には夫人・松より姫の碑がある。

其の二は、龍ヶ崎の対岸の島・御所ノ浦町には行綱公夫妻を祀った「若宮様」があると言う。

その三は、蔵人行綱公と云う殿様が薩摩から天草の深海と云うところへ落ちて、そこで亡くなった。後からその殿様の奥方の「松より姫」と云う方が殿様を追って海を渡り天草の龍ヶ崎まで来て力尽きて亡くなった。一説には姫の着物があまりにも立派なために、船頭達が姫を殺して着物を奪い、龍ヶ崎の松ヶ鼻の浜辺に死体を埋めたそうです。ある日、深海の漁師の娘の枕辺に蔵人行綱と名乗る人が立って、松ヶ鼻の浜辺にわしの妻がいるので一緒に祀っておくれと言います。村人達はさっそく舟をしたてて松ヶ鼻に行き、娘の言うところを掘ったら骨が出てきたので持ち帰って、蔵人行綱公の傍らに一緒に産めたと言うことです。其処に社が建てられて「多田神社」と呼ばれているそうです。この深海と云う地は、天草水軍の本拠地で、文徳帝の第一皇子・惟高親王の末裔の木地師の里でもあります。
 『多田五代記』と『平家物語』に、惟高親王と維仁親王(清和帝)の皇位継承をめぐって、太くて逞しい左兵衛佐名虎とやさ男の能雄ノ少将が相撲を取って皇太子を決めることになり、やさ男の能雄が勝って、維仁親王が即位し清和帝となったと云う話がある。

「どんくのつぶやき」

「天草御所の浦島の若宮様」
  


②『源平布引の滝』江戸時代に作られた歌舞伎『源平布引の滝』は『名作歌舞伎全集』によれば、「寛延二年十一月二十八日に初日の大坂竹本座に初演された浄瑠璃である。木曾義賢の最後と義賢の娘・待宵姫と多田行綱の恋物語と平家打倒の話である。」
 多田蔵人行綱公の夫人が木曽義賢の娘で名を「待宵姫」と言い、天草の伝説の「松より姫」と名が似ていることに大変興味を感じる。木曽義賢は正しくは源義賢であり、父の源為義と兄義朝が対立して、義賢は大蔵の合戦で長兄悪源太義平に討取られてしまいます。享年三十歳と言われています。都にいた長男仲家は源三位頼政に引き取られ養子となり、次男義仲は木曽に逃げ、義賢の一人娘(或は義仲の娘共)の宮菊姫は北条政子の猶子となります。待宵姫なる人物は見当りません。

多田蔵人行綱公の室
多田満仲ー満正(長男・早世)ー満信(源次丸)ー満秀ー満国ー秀満ー国俊ー秀清ー女子(行綱ニ嫁ス)


多田蔵人行綱公夫妻と中山観音寺「鐘の緒」伝説



多田氏


【油屋多田氏系図】
多田満仲ー頼光ー頼国ー明国・・・・・・・・・・多田五郎政明(河合藤左衛門宣久・朝倉家ニ仕、後ニ河合村に住ス、蓮如ヲ支持、後ニ討死)ー河合藤左衛門虎春ー藤左衛門才覚ー藤左衛門満春ー坪野屋源六頼久ー坪野屋藤左衛門仲政ー油屋与助信光ー油屋九郎右衛門満久ー油屋九郎右衛門頼晴・・・

多田五郎政春 野村昭子氏著『五葉松が語る多田家五百年の歴史』
加賀多田家初代五郎政春は室町時代の応仁の乱の時期に摂津国にいて、一向宗の蓮如に協力していた。蓮如が比叡山の宗徒に追われて越前国朝倉氏の協力で越前国吉崎に道場を開いた頃に、五郎政春は越前朝倉氏に仕えたが、何故か朝倉氏の禄を辞して、加賀国能美郡河合村に来て、河合藤左衛門宣久と名乗り、子の右京介虎春と住むようになった。」


【山崎多田氏系図】
多田満仲ー頼光ー頼国ー明国・・・・・・・・・・多田佐渡守政豊(姉川ノ合戦ニ敗レ山崎ニ退去)ー次郎左衛門尉頼秀ー政清ー頼彦・・・

【龍野圓光寺多田氏】
多田祐全ー祐忻-祐妙ー祐恵ー祐應-祐仙ー祐山ー祐栄ー祐顕ー祐欣ー祐明ー慶祐・・・

「圓光寺は、摂津多田の住人である初代当主多田祐全が、蓮如に仕え、姫路英賀の三木徳正らの求めにより蓮如により英賀へ派遣された。文明16(1479)年、一向道場を建立、一向宗の拠点として布教を行ったのが起こりとされ、のちに播磨六坊の一寺圓光寺と称され、一向宗の播磨における拠点寺院の一つとなりました。その後、秀吉によって英賀を追われ、天正6(1578)年、龍野に寺を移し、本願寺の東西分裂以後は、この地方における真宗大谷派の中心寺院として今日に至っています。圓光寺6代住職多田祐仙の弟多田頼祐(半三郎)は、武芸者として武蔵と交流があり、武蔵は圓光寺に滞在し、圓明流を門弟たちに指南、頼祐に圓明流の免許を与えたとされています。大伯父頼祐の養子となった多田祐久は、頼祐の弟子三浦源七延貞から圓明流の免許を受け、圓明流武芸者として龍野藩に仕え、のち広島藩(安芸・浅野家)に召抱えられるようになった。多田家は代々、多田圓明流の師範として、幕末まで広島藩に仕えていました。」(圓光寺文書)


【高代寺日記・多田氏】
多田満仲ー頼光ー頼国ー国房ー光国ー源全(多田禅師)・・・・・・多田新介頼輝( ? ~1520)ー中務丞頼国(1495~1561、富松城代)ー筑前守元継(1536~1577、茨カ岳合戦討死46歳)ー茂助ー庄九郎


【行綱公の弟達、判官代多田二郎知実と皇嘉門院蔵人能勢三郎高頼

【野間多田氏】
多田頼盛ー三郎高頼ー資国―資氏―頼貞―貞綱

【大和多田氏】
多田頼盛ー三郎高頼ー経実―義実―春守―宥実―順実―実春→【大和多田氏】


 『平家物語』巻四「源氏揃え」に、源三位頼政公は以仁王が令旨を出されたなら平家に不満を持つ諸国の源氏が大勢集まるであろうと述べて、摂津国では多田蔵人行綱は言うに及ばず。弟の多田二郎知実、手嶋ノ冠者高頼、太田太郎頼基がいると述べている。
 三郎高頼の子孫は能勢の野間に住します。多田頼貞が『太平記』に登場する多田入道であるとする説がある。多田入道頼貞の嫡男・頼仲は能勢氏を名乗り足利氏に仕え、その子孫・能勢又五郎頼吉は備前岡山藩池田家に仕えたとされている。またもう一人の頼貞の子とされる多田貞綱は新田一族金屋兵庫助と共に南朝方として行動したとされている。
 
 三郎高頼のもう一人の子の経実は多田満仲の九代の後胤で、多田に住していましたが、大和国都介郷に移り、大和の来迎寺を菩提寺としています。来迎寺の記録では経実を中村伊賀守経実とあり、中村姓に改名します。大和多田氏は多田四郎常胤の代に豊臣秀吉の小田原攻めに加わり全員討ち死にし、以降、大和来迎寺は寂れ無住となり、数多ある五輪等は無縁仏となっていると云うことです。

【津軽の多田氏】
多田杢助貞綱・・・・多田采女(唐牛氏)・・・・多田玄蕃

 建武2年(1334)4月北畠顕家に従い陸奥国多賀城に下る。顕家の命で下野国小山城を攻める。顕家と再び上洛し、顕家死後は北畠顕信と再び奥州に下向する。子孫は津軽地方に残り、唐牛氏を名乗る。「多田院文書」に、多田貞綱の親族沙弥蓮性なる者が貞綱の武運長久を願って田畑を寄進している。



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