北摂多田の歴史  

①信州「猿猴ノ牧」  ②信州小諸の塩川氏  ③富士宮の塩川氏


①信濃国の「猿猴ノ牧」

「傳曰、重貞病ト称シテ、世ニ密シヒソカニ東国武者修行ス、其次手ニ先祖ノ預リ所ニテコトサラ謂有旧所ナレバ、信濃国猿猴ノ牧ニ順著ス、此ヱンコウノ牧ト申スコトハ名馬出ル所ナリ、往昔馬ハ猿ノヒキタル古事有、コレニヨッテ自ラ其名ヲ猿猴ノマキト号、満仲卿左馬寮ノ頭タルトキ、藤原中務ヲ信濃ニ遣シ、此ヱンコウ牧支配サセ給フ、後仲光ヲ主代殿ニ置タマ()キ、其号塩河ト改タマイシ、比ヨリ仲光カ妻ノ弟紀四郎ト云者又塩河ノ牧ヘ遣シ、終ニ其辺ニ一庵ヲ立、猿猴ト云字ヲ音ニ合テ、前ノコトク塩河寺ト付ラルゝ、又或説ニ中務(貞信)馬芸ヲ大ニ得タル故年老ノ比遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧ニ赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一庵ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云、代々此ヱンコウノ牧ヘハ順行セラレケルトソキコヘシ、コレ當家名字発起ノ牧ナリト云傳、」(高代寺日記)

藤原中務仲光 (猿猴ノ牧主代殿)・・・・・其号塩河ト改タマイシ
「紀ノ四郎(藤原仲光カ妻ノ弟)ト云者又塩河ノ牧ヘ遣シ、一庵ヲ立、猿猴ト云字ヲ音ニ合テ、前ノコトク塩河寺ト付ラルゝ」(高代寺日記)
藤原仲光の妻は紀氏

「又或説ニ源中務貞信 馬芸ヲ大ニ得タル故年老ノ比遊興ニコトヨセ此猿猴ノ牧ニ赴、ツイニ心ヲスマシ念仏サンマイトナリ、一庵ヲ立猿猴寺ト号シ、後字ヲ塩河ニ改ムト云」(高代寺日記)

猿猴ノ牧 → 塩河ニ改ム  「コレ當家名字発起ノ牧ナリ」(高代寺日記)
「塩河」の名はエンコウと云う音にあわせて「猿猴」から来たと云う、

信濃の塩河氏
『吾妻鑑』承久三年四月小二十二日の条に、 承久の乱の時、鎌倉から京都に向けて進発した北条泰時に従った十八騎の中に「塩河中務丞」と云う武士がいます。これは『高代寺日記』にある信濃国塩河牧の塩河氏であると考えられます。したがって、「承久の乱」では攝津国では塩河氏と能勢氏が鎌倉方として、多田庄の大内氏は上皇方として分かれて戦ったと考えられます。

「二十二日乙巳、曇り、小雨がずっと降っていた。卯の刻に武州(北条泰時)が京都に出発した。従う軍勢は十八騎である。すなわち、子息の武蔵太郎時氏、弟の陸奥六郎有時、また北条五郎(実義)、尾藤左近将監(景綱)、関判官代(実忠)、平三郎兵衛尉(盛綱)、南条七郎(時員)、安東藤内左衛門尉、伊具太郎(盛重)、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎(家盛)、葛山小次郎(広重)、勅使河原小三郎(則直)、横溝五郎(資重)、安藤左近将監、塩河中務丞、内島三郎(忠俊)らである。京兆(北条義時)はこの者たちを呼んで皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)、前武州(足利義氏)、駿河前司(三浦義村)、同次郎(泰村)以下が出発した。式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発した。」(現代語訳吾妻鑑)

『高代寺日記』は、信濃国小県郡塩河牧(上田市丸子町)へは藤原(長光)仲光の妻の弟の紀四郎が遣わされ、代々塩河氏を名乗ったと言っています。この塩河牧は木曽駒で有名な所で、彼の木曽義仲もこの木曽駒を多いに重用したと言われている。

『高代寺日記』に「信濃国小県郡塩河牧へは藤原仲光の妻の弟紀ノ四郎が遣わされ塩河牧を支配なさしめた、又、吉河中務丞貞信が住みついた」と述べている

『長野県の地名』によれば、『吾妻鏡』文治二年(一一八六)に「荘園領主が源頼朝に貢税の未進を訴えた「注進三箇国庄々事」の左馬寮領、信濃廿八牧のうちに塩河牧とみえる。延喜式の信濃一六牧にはみえないので、平安中期以降に設けられた牧であろう」とある。

『吾妻鏡』文治二年(一一八六)三月十二日庚寅の項に「塩河牧」あり。

「関東御知行の国のうち、年貢未納の庄園の一覧がくだされそれが今日到着した。下家司を呼んで催促するように銘じられたという。信濃国 佐馬寮領 笠原御牧 宮所 平井□ 岡屋 平野 小野牧 大塩牧 塩原 南内 北内 大野牧 大室牧 常盤牧 萩金井 高井野牧 吉田牧 笠原牧 同北条 望月牧 新張牧 塩河牧 菱野 長倉 塩野 桂井 猪鹿牧 多々利牧 金倉井」

『吾妻鑑』承久三年(一二二一)四月小二十二日の条に「塩川中務丞」の名がみられる。

「二十二日乙巳、曇り、小雨がずっと降っていた。卯の刻に武州(北条泰時)が京都に出発した。従う軍勢は十八騎である。すなわち、子息の武蔵太郎時氏、弟の陸奥六郎有時、また北条五郎(実義)、尾藤左近将監(景綱)、関判官代(実忠)、平三郎兵衛尉(盛綱)、南条七郎(時員)、安東藤内左衛門尉、伊具太郎(盛重)、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎(家盛)、葛山小次郎(広重)、勅使河原小三郎(則直)、横溝五郎(資重)、安藤左近将監、塩河中務丞、内島三郎(忠俊)らである。京兆(北条義時)はこの者たちを呼んで皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)、前武州(足利義氏)、駿河前司(三浦義村)、同次郎(泰村)以下が出発した。式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発した。」(現代語訳吾妻鑑)

『承久記』にも「塩川三郎」の名がみられる。

「東山道に懸て上ける大将、武田五郎父子八人・小笠原次郎親子七人・遠山左衛門尉・諏訪小太郎・伊具右馬入道・南具太郎・浅利太郎・平井三郎・同五郎・秋山太郎兄弟三人・二宮太郎・星名次郎親子三人・筒井次郎・河野源次・小柳三郎・西寺三郎・有賀四郎親子四人・南部太郎・逸見入道・轟木次郎・布施中務丞・甕中三・望月小四郎・同三郎・祢津三郎・矢原太郎・塩川三郎・小山田太郎・千野六郎・黒田刑部丞・大籬六郎・海野左衛門尉、是等を始として五万余騎各関の太郎を馳越て陣をとる。」(承久記)

 この塩河中務丞(塩川三郎)は「塩河牧」に住居した武士と考えられ、恐らくそれは現在の上田市丸子町塩川と推測される。丸子町塩川に隣接する「藤原田」は藤原氏を祖先とする藤原塩河氏の領地があった場所と考えられる。現在の上田市丸子町を訪ねたところ、塩川氏の末裔は一人も居らず、『丸子町史』の見解は「隣接する長瀬村の長瀬氏が塩川牧の中心的人物ではないか」としている。富士宮から富士川を遡ると甲斐に着き、甲斐から佐久街道を北上すると小諸に行き着く。現在この地に塩川氏の末裔は居らず、富士宮の西ノ塩川氏はこの塩河牧の塩川氏が移り住んだものと思われる。

上田市丸子町の「塩河牧」は古くからは条里制が敷かれていた。町内に「塩川氏」はいない。千曲川と衣田川と塩川沢に囲まれているところが「塩河牧」。塩川沢の上流に「藤原田」がある。

 

塩川氏の居館「古城跡・芝宮砦址」がある。横に流れているのが「塩川」。「松葉」は「馬ツ場」の変形。「市の町砦址」も塩川氏の城址と考えられている。


丸子町の古城址・『丸子町誌』より。「古城館跡」とあるのは長瀬氏の館跡。



『丸子町誌』によれば、条里制が敷かれる前から「芝宮城址」はあったとある。

 



②信州小諸の塩川氏ともう一つの塩川牧

吉沢好謙『四隣譚藪』に、「信濃御牧佐久郡方角」と言う絵図に塩川牧の場所が示されており、「耳取村の北に塩川牧あり」としている。『小諸町史』では「丸子町の塩川牧とは別なものと考えられる」としている。塩川牧は二箇所あったようである。

信州上田の隣町小諸には塩川姓が多く、小諸市の郷土史家塩川友衛氏に話を聞くと、小諸の塩川氏は新田氏の末裔であると言う。塩川友衛氏から戴いた資料『塩川氏一族先祖精霊供養塔』と「塩川家墓碑」に次のように記されている。

「小諸の塩川氏は新田源氏の末裔にして、戦国時代に原美濃守入道左衛門尉信虎は武田氏に属し、その子源左衛門昌胤は武田氏滅亡後、信濃国佐久郡小原村字上塩川の地に帰農し、地名の塩川を名のった。後に、塩川源左衛門一族は小原村西小原の字越後堀から移る。源左衛門の嫡流二十数代を数え、子孫は夫々分家し塩川家八十余戸となる」という富士宮の東ノ塩川氏の祖である野村氏は武田信義の末裔であり、信濃の塩川氏と混同され、口伝が変化していったものと思われる。

「塩河牧」



塩川氏一族精霊供養塔






③ 富士宮の東ノ塩川氏は塩川伯耆守信氏と真鍋弥九郎詮光の末裔という

 名古屋大学の塩川教授から富士宮市には塩川姓が多いと聞いたので、早速富士宮市の教育委員会と図書館に連絡をとり、図書館にある史料の複写を送っていただき、本家塩川寿平氏を紹介してもらい富士宮を訪問した。塩川寿平氏は故塩川正十郎氏とも親交がある著名な教育者であり、初対面の私にも親切に対応して頂き、念願の「富士宮東ノ塩川氏系図」を見せて頂いた。現在、富士宮市には「西ノ塩川氏」と「東ノ塩川氏」という二流の塩川氏がある。「静岡県富士郡大宮町誌」大宮町(大宮町は富士宮市の昔の地名)によれば、塩川惣右衛門尉政治の項に「鎌倉時代の人、野中に住居し、子孫今に在し之を西ノ塩川といふ、東ノ塩川は昔信州塩川村より出で、豊臣氏に仕へたる塩川伯耆守の関ヶ原に敗れて旧里に遁れる途次、野中に匿れ子孫遂に此地に留りたりといふ。」

東ノ塩川氏
 系図によれば、武田信義の末裔で、武田信義の孫の光昌が野村氏を名乗った。 野村新兵衛時重は間部刑部詮清の次男甚七郎朝保を嗣子に迎えたとある。
「岳南朝日新聞」一九八五年六月十三日付「家門と郷土」に、「東ノ塩川の源流をたどると、信州塩川村に行き着くという。初代は豊臣家に仕え、関ヶ原の戦いに敗れたあと、信州に帰る途中、立ち寄ったのが野中の地、以来、水があり、静かで、眺めもいいこの地にとどまったといわれる。「大宮町誌」によると、この地にとどまった東ノ塩川家第一代は塩川伯耆守とある。本家に残る系図によると、この伯耆守の嫡孫が野中の地での初代とされる甚七郎
(明暦三、一六五七年没)。甚七郎は同一族中で唯一大居士の戒名がつけられている。甚七郎の長女梅野のもとへ、羽鮒村の野村家より養子にきたのが二代目萬右衛門朝信。以来、塩川家と芝川地区及び近隣の旧家との縁は深い。」とあると言う。

「朝保 塩川伯耆守信氏嫡孫藤原詮清間部刑部次男」とある。この代から姓を野村から塩川に改めた。





西ノ塩川氏
 様々な言い伝えがあり厳然としないので、「東ノ塩川氏」本家である富士宮市野中保育園の塩川寿平氏を訪ね系図を拝見した。その「東ノ塩川氏系図」によれば、甲斐武田氏の傍流野村新兵衛時重が塩川伯耆守孫太郎信氏六代真鍋詮清の次男朝保を嗣子とし、以降、塩川氏を称したとある。東ノ塩川は「昔信州塩川村より出で、豊臣氏に仕えた塩川伯耆守が関ヶ原合戦に敗れて旧里に遁る途中、野中に留った」というが、
塩川伯耆守が豊臣秀吉に仕えたとか、関ヶ原合戦に参陣したという記録は他に見当たらないのでこれらの口伝は信憑性が薄い。一方、西の塩川氏の元祖塩川惣右衛門尉政治(鎌倉時代の人)が信州の塩河牧の塩川氏ではないかと思われる。西と東の塩川氏双方の口伝が互いに入り乱れてここまで変化していく形が面白い。西ノ塩川氏は鎌倉時代から富士宮に居住したようだ。

 富士宮に行き塩川寿平氏にお会いすると、氏は元静岡県立大学の教授で野中保育園のオーナーであった。頂いたファックスに「以前、塩川正十郎大臣から我が家の系図を見せてくれと頼まれ、見ていただいたところ、塩川伯耆守の末裔だとお墨付きをいただきました」と書かれていた。正確には「一蔵城主・塩川伯耆守信氏」の末裔である。

東ノ塩川氏系図と墓地
 

真鍋弥九郎詮光の子息真鍋詮則は西三河にて流浪した。詮則の子息真鍋詮吉は三河から美濃に移り住んだ。詮吉の子息真鍋詮清は美濃から伊勢山田に移り住み、星野家の養子となり星野姓を名のり、後に江戸に出て明暦三年春の大火にあい再び伊勢山田に帰ったが、再び江戸に住み、寛文十年七月十四日、八十歳で亡くなり浅草九品寺に葬られた。星野詮清の子息星野清貞は武州忍に住み、後に西田姓を称し、猿楽師として甲府宰相徳川綱重に召出だされ江戸に移り、甲府藩邸桜田御殿において小十人組格を仰せつかった。延宝六年(一六七八)、甲府宰相綱重は兄の四代将軍徳川家綱に先立って死去し、綱重の子息綱豊(十七歳)が甲府藩主となった。延宝八年(一六八〇)四代将軍徳川家綱が逝去すると綱重の弟綱吉が五代将軍となった。真鍋清貞の子息詮房は寛文六年(一六六六)五月、武州忍で生まれ猿楽師であったが、貞亨元年(一六八四)十九歳の時、甲府宰相徳川綱豊(家宣)に召出だされ、桜田御殿において御小姓として二百五十俵の俸禄を得た。宝永六年(一七〇九) 五代将軍徳川綱吉が逝去すると、綱豊が家宣と改名して六代将軍となった。詮房は家宣の命により姓を真鍋から間部に替え間部詮房と名のり、六代将軍徳川家宣・七代将軍徳川家継に仕え、御側御用人・江戸幕府老中格となり、徳川吉宗が将軍になると御側御用人を罷免された。その間、上野高崎藩主から越後村上藩主となった。弟詮言を嗣子とし、間部詮言は越後村上藩二代藩主となり、後に越前鯖江藩に移封された。



『鯖江藩植田家文書』の中に、新井白石が間部詮房に宛てた手紙の中に 「・・・そののち慶長五年関ヶ原の陣の時山川六左衛門と申すものと申し合わせ両人うちたられ候か、六左衛門は手負ひ帰国ののち相果て候、弥九郎はそれより本国へは帰らず、本国へもありつれ候か、音つれとても無之候、これより弥九郎居屋敷はぬしなしに罷り成り候に付、すなはち某が家にてもとめ得候・・・」とあり、,間部弥九郎詮光は関ヶ原合戦後多田には帰らなかったと言う。



富士宮の塩川氏の口伝は様々な伝説が入り混じって伝わっているのが興味深い。



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