北摂多田の歴史 

河内の塩川氏と畠山氏


河内塩川氏

【渋川郡足代の塩川氏】


①小寺美濃守高仲は天正5年2月15日に通りすがりの織田信長を攻め討死にした。『高井田誌』
②太田亮は塩川道喜が聖源寺を建てたとしており、『布施町史』は小寺高仲を道喜としている。正徳6年(1716)の聖源寺棟板写に「抑当時者天正十三年禰道喜隠之草創也」とある。道喜とは小寺與八郞のことであろうか、與八郞は天正12年卒とあるが・・?。或は、後の縁者が小寺高仲の菩提を弔うために建てたものか。
小寺宗右衛門政家は故あって母方の姓塩川の改称した。
④塩川正三氏は塩川正十郞氏の父である。『塩川正三傳』によれば「塩川家の始祖は藤原鎌足の末子多羅尾吉通の孫吉俊の子佐大夫である」という。又、塩川家の『粉河寺縁起』の写しの後書きに「紀州粉河寺第一の別当法俊俗名佐大夫といひし長者の一千年の遠祖」とあるという。

【参考史料】『塩川正三傳』、太田亮『姓氏家系大辞典』


【河内郡水走の塩川氏】


①塩川家の古文書「塩川家由緒記」によれば「塩川家は赤松氏の末裔」とあるが・・。
②塩川佐左衛門重長以降は母方の姓塩川に改姓した。

③過去帳に「国廣」とあり、塩川佐左衛門重長(道清)のことか?
④過去帳に「道永は国廣の五男」とある。
⑤小寺与八郞入道道喜と小寺美濃守高仲の関係は?
⑥塩川滋之以降代々「多田右衛門」を名乗っている。

水走塩川家過去帳の「運想軒光国(頼国)の命日」は「慶長19年2月15日」とあり『高代寺日記下』と同じであり、『高代寺日記』の信憑性を裏付けるものと言える。

水走の塩川家過去帳

 名前 解説   逝去の年 同西暦 命日  解説 
 仲章  吉河塩川氏中興  応永20年  1413  4月18日  
 秀仲  仲章の孫  寛正2年  1461  3月15日  
 秀慶  中川塩川氏 慶秀  文明16年  1484  2月15日 高代寺日記」に永正13年2月15日正河院道慶公33回忌ニアタルとある。
 秀満  慶秀の嫡男  明応9年  1500  7月14日  
 種満  秀満の嫡男  天文9年  1540  5月3日  
 国満  種満の嫡男  天正4年 1576  12月14日   
 国光  国満の長男運想軒光国  慶長19年  1614  2月15日  頼国トモイウ
 国廣    元和6年  1620  4月13日  塩川佐左衛門重長(道清)のことか。
 道永    寛永12年  1635  8月10日  過去帳には国廣の五男とある。
 長太郎    慶安元年  1648  7月16日  
 長次郎   延宝5年  1679 5月15日    
 政友    元禄14年  1701  6月28日  
 せん    正徳2年 1729  3月20日  夫は聟養子深江の塩川政久
 政春    正徳2年  1712  7月25日  
 政之    享保9年  1724  11月18日  
 滋之    寛政7年  1795  12月5日  塩川多田右衛們滋之


【考察】過去帳には吉河流塩川仲章・秀仲を祖先としているが、塩川秀満・種満・国満・国光光は中川塩川氏と考えられ、疑問が残る。


【高安郡竹渕・たこち の塩川氏】

由緒は不明だが、河内の守護畠山総州家に仕えた塩川伯耆守為満の末裔ではないかと思われる。



【参考史料】これらのメモは浜田氏から頂いた『くさか史風2号』『くさか史風3号』『河内塩川家過去帳』を私なりに整理してまとめたものである。

歴史学者浜田昭子氏から河内塩川氏に関する論文掲載の「くさか史風」を頂きました。



河内と紀伊の守護 畠山氏

【畠山総州家】
畠山満家------持国------義就------義豊------義英------義堯------在氏------尚誠

【畠山尾州家】
畠山満家------持富------政長------尚順------稙長------政国(弟)------高政------政慶------政光------重宗----東洞------南涯

 畠山氏は室町幕府の三管領の一家であったが、畠山義就と政長とが家督争いをi行い、 細川家の家督争いにも巻き込まれた。満国流塩川家も塩川宮内少輔為宗は畠山政長に付き、弟の塩川伯耆守為満は畠山義就に見方した。
 総州家は戦国末期に滅び、尾州家の畠山高政の家督を継いだ弟の政頼(昭高)は将軍足利義昭から河内半国を与えられたが、豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康に高家として召し抱えられた。浅野幸長は関ヶ原ノ戦いで功を挙げ、紀州37万石を与えられると畠山氏の一族が浅野家に召し抱えられた。元和5年に福島正則が改易になると、浅野長政は大坂ノ陣の功績により改易となった福島正則の旧領安芸国42万石を拝領すると、畠山氏の一族も安芸国に移った。

 畠山高政の子畠山政慶は河内の医者吉益美笑斎に匿われ、吉益姓を称した。その子政光は広島に居を移したが浅野家には出仕せず、政光の子重宗、重宗の子為則は周助となのり、後に吉益東洞という山脇東洋からも賞賛される名医となった。



吉益東洞

岩渓嵩台


『建殊録』は吉益東洞(1702~1773)の医療処置録を弟子の岩渓嵩台(?~1812)がまとめたものである。

 岩渓嵩台(いわたにすうたい)は号であり、名は恭、字は敬甫、帯刀と称した。播州赤穂の塩問屋に生まれ、医学を志し京に上り、吉益東洞に医術を、武田梅龍から儒学を、絵画を池大雅から学んだ。京で私塾を開いていたが、安永7年(1778)頃に福知山藩主朽木綱貞(1750~1802)から250石で招聘された。福知山の円応寺に墓地がある。


【参考史料】『摂州多田塩川氏と畿内戦国物語』『建殊録』
【お礼】岩渓嵩台の写真は「潮音寺」先代住職夫人から頂いたものであり、夫人は岩渓嵩台の御子孫に当たります。


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