北摂多田の歴史 

  多田庄の歴史散歩
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目次
1. 鰻畷(東多田)    2.舎羅連山   3.源氏屋敷   4. 多田満仲公御厩旧迹   5-1.多田上津城 正法寺  5-2.善源寺
  6.多田川 7.鼓ヶ滝 8.用水路「余溝」
9.塩ヶ平井  10.平野湯 11.多太神社と小野氏  12.東多田光遍寺  13. 経ヶ坂地蔵尊  14. 九頭大明神  15. 龍池山潮音寺   16.旧西村家住宅
17.山ヶ谷川の地蔵  18.岡本寺の苧蘿山人墓 19.新田城址   20. 多田庄三十三ヶ所観音霊場 21. 多田院の寿久井の地蔵尊と龍馬
22. 多田院村西方寺  23. 多田院村の間部の跡  24. 上司小剣の風景  25.西多田の浄徳寺と西多田邸  26.矢問の自然石の灯籠 27、「明治講御供田」碑


1.鰻畷 (牛谷堤共云う)と狸火 (東多田)
霊感スポット鰻野手に狸火が現れ、この火は人の容姿をして、ある時は牛を牽き、手には火を持っている。その火でたばこの火を借り、相語り合った。雨の夜によく出ると言う。

*「鰻畷火」東多田村?畷にあり、此火人の容を現し、或る時は牛を牽、手に火を携出、不知之人、其火を請て烟草を吹、相語る事尋常の如し、曾て不成態、知て欲計之遠く去れり、多は雨夜に出る火炎なり、狸火とも云り。


*「鰻畷(うなぎなわて)」東多田村にあり。所傳、道細して曲がるに因れり。土俗「鰻野手(のて)と云へり。また「牛谷堤」とも言われていた。

 
左右が堤になっていた。左図は上流 右図は下流。 かつて下流の川幅はもっと狭かった。大水が出るとこの辺りで水があふれて、水田が水没し。被害が出たので年貢をまけて欲しいと訴えたと言う。下流は水が溢れるように狭く造られていた。


*舎羅林山からの雨水は「牛谷堤」が建設されて、全て「つつみが滝」の方面へと流れるように作り替えられた。
*多田川の堤防が築かれて田畑が増えたために水が足りなくなって、多田院村鐘ヶ淵から用水が掘られ東多田村まで供給された。

*「上津」の城が築かれ、その下には代々の源氏屋敷があり、善源寺、正法寺(尼寺)があり、東の尾根にはテキトウ庵、蓮源寺があった。
*多田川の堤防が造られる前は「下滝、上滝、滝ノ上」当たりに「堤ヶ滝」があったものと考えられる。「つつみが滝」が「鼓ヶ滝」となったものであろうか。元々本流に滝はなかったのではないかと思われる。

『攝陽落穂集』


狸火之事 川辺郡東多田村のうなぎ畷に狸火といふ燐ひあり、此の火人のかたちをあらハしあるときハ牛を牽て火を携へ行くさまを成せり。是を人間と心得、其の火を仮てたばこをのミ、咄しなとしてゆくに、尋常の人に替る事なし。曽て害をなさず。雨夜には折々出るとぞ。世人是を狸火といへり。其の外、二階堂むらの二恨坊火或ハ別府むらの虎の宮の火など所々にままあるものなり。あやしと見てあやしむに足らず。



『摂津名所図会』二魂坊火(二恨坊火) 
むかし吹田村に日光坊という山伏あり。法力を争い互いに劔刀を振り一人の山伏を害す。その罪免れがたく□に処せらる。その怨念遺りて、雨夜には火の魂二つ出て野外に争い、樹上に止まって往来の人を脅かす。これを二魂坊あるいは日光坊が火ともいえり。これ虎宮の火□いえる如く地中の暑熱陰陽に剋してあらわれるなるべし。丘引の火も同じ事なり。恐るに足らず。

〈外部リンク〉「二恨坊火



『摂津名所図会』虎の宮の火
別府村田圃の中に虎の宮という神祠の古跡あり。この森より雨夜に火魂出て、その辺を飛びめぐり、片山村の樹上に止まるという。これに遇う人大いに恐れる。又、土人曰く、火縄を見すればたちまち消えるといえり。按ずること初夏より霖雨の後、湿地に暑熱籠りて、陰陽□し、自然と地中より火を生じ、地を去る事遠からず。往来の人を送り、あるいは人に先立って飛めぐるもあり、みな地中の隂火の発するなり。恐るに足らず。陽火ををつて向かう時は狐狸の火とても消えるなり。日中に現れざるにて知るべし。腐草化して蛍となるの火なる物なり。天文志にも見えたり。

〈外部リンク〉虎宮火








2. 「舎羅林山」の由来はかつてあった「沙羅林山石峯寺」の山号だった

『江戸名所図会』に次のような記述がある。
多田薬師堂 同所大川端にあり。玉島山明星院東江寺と号す。天台宗東叡山に属す。惣門に掲る所の玉島山の額は、韓人雪月堂李三錫の筆なり。本尊薬師佛の像は恵心僧都の作にして、多田満仲公の念持佛なりといへり。左右の脇壇に十二神将の像を置きたり。相伝ふ、村上帝御宇天徳二年、摂州多田郷に一宇の伽藍を造営ありて、沙羅連山石峯寺と号し、此の本尊安置す。其後文永の頃兵火に罹りて、諸堂悉く囘禄す。依って一山の大衆これを悲しみ、此本尊を石函に収めて山中に埋め奉りぬ。夫より後星霜を経て、慶長元年郷民等沙羅山中において此石函を穿出せり、蓋に沙羅連山石峯寺薬師の銘あり、郷民等奇異の思ひをなし、直ぐに一宇を営で是を安ず。同八年其庵主多田宗玄と云う者に、本尊告給ふ事ありて、京師五條の因幡堂に暫く安置し、又五條の橋詰東の方若宮八幡宮の邊に堂舎を建て、石峯寺と号す。宝永の頃、彼の寺は黄檗の千呆和尚深草に移す。其時故ありて本尊薬師佛を當寺に安置なし奉るといへり。』

【注】「沙羅連山石峯寺」となっていますが、本文の振り仮名は「しゃらりんざんせきほうじ」となっており、「連」を「りん」と振り仮名がうってあり、多田庄では[沙羅連山]を「沙羅林山」と書き改めて山の名前になっている。

玉嶋山明星院東江寺の『由来記』には次のように記されています。

『当山は玉嶋山明星院東江寺と号す。現在地へは昭和三年七月に、旧本所番場町(現墨田区東駒形)より移る。多田薬師東江寺は今を去ること約四二三年前、天正十一年江戸本所、隅田川のほとりに開かれた。現本堂の宮殿の恩深く御厨子に安置されている薬師瑠璃光如来及び法華経八巻は恵心僧都・源信のお作と伝えられている。この薬師如来像が多田満仲公の念持仏であったことから多田薬師と呼ばれていた。満仲公は恵心僧都に帰依し天徳二年、摂津多田の郷に沙羅連山石峰寺を建立。文永二年兵火にかかりお堂は灰燼に帰したが、本尊と法華経は八角の石櫃に収められ山中に埋めたものを慶長元年徳望家・多田宗玄が発見。仮安置をしたが同八年「もう少し広い所へ移り多くの人々を救いたい」という夢のお告げがあり、京都五條の因幡堂へ移し奉った。その後、同じく五条の橋詰・若宮八幡宮のほとりに堂を建て石峰寺と号し、そこへ安置申し上げたということである。その頃、徳川家康が江戸に幕府を開き、それにともない江戸に移る者多く、多田薬師も、堺の比丘・聖珊によって天正十一年東江寺に移されました。以来、上野東叡山寛永寺の末寺として江戸三百余年の間、安政の大地震やその他の火災・水害にも遭わず、多田薬師として信仰を集めた。大正十二年の関東大震災には本堂焼失。その大火の中、先々代住職及び前住職がご本尊及び法華経を背負って、難を逃れることができた。』
【注】現在では東江寺は天台宗比叡山延暦寺の末寺となっている。

東江寺
「多田薬師」の来歴はこの二つの資料から判明したが、多田薬師はお江戸でもその知名度は高く、山影冬彦氏著『漱石異説・坊ちゃん連想 多田薬師炙り出し』に於いて、その持論を次のように展開している。
 夏目漱石はその著『坊ちゃん』のなかで、「・・・是でも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。・・」と引用して、多田の満仲を「ただのまんじゅう」と読ませている。この「ただのまんじゅう」を「多田の満仲」と「ただの饅頭」とを引っ掛けた洒落噺が江戸には多くあったようで、次の例を挙げている。

その一、狂歌『江戸名所百人一首』などに歌われる。
「あふ事のたゞのやくしは中々に ねがひしよぐわんもきゝしざらまじ」
()薬師堂で待ち合わせをして、待ち人は来てくれるだろうか。お薬師さんは只では私の願いも諸願も聞いて下さらないのでは・・・
「ものゝふの多田の本尊の名にめてて つらをみたさすわたるかりかね」
()さすが武士の多田満仲公の名を愛でて、雁がねも連なって乱れず飛んで行くものかな。

そのニ、黄表紙 山東京電『江戸生艶気樺焼』戯作に多田薬師が登場する。


その三、俳句に見られる多田薬師
「秋風の吹き行く多田の薬師哉」 『一茶』
「多田の森の蔭まで年の迫りけり」 『夏目成美』

その四、川柳に見られる多田薬師

「多田の薬師まで伊勢屋連れになり」
「ただでない薬師と女房見抜いたり」
「誘い出す時まで多田の薬師なり」  多田薬師の近くに遊郭や岡場所があったことを踏まえている。

その五、江戸小咄と多田薬師

立川焉馬編『喜美談語』の中の『多田薬師』玉嶌舎作
『本所の多田の薬師へ「何卒忰が眼病平癒なさしめ給へ」と、七日の願参り、三日目の暁、薬師様が夢中の告あって「善哉汝忰が目病の祈願、たちまち平癒なすべし、去りながら、汝日頃大酒をすく事甚わるし、此後酒を禁ずべし」との給ふと見へて、夢はさめ「ハテ心得ぬ、目に障ゆへ忰に呑むなとの告ならば、尤な事だが、おれが呑のは邪魔に成そふもねへものじゃ、薬師様にも、ちとつまらぬ事でござります」と、お別当様に聞たれば「夫は其はづさ」「なぜでござります」「ハテまんぢうの守本尊」※満仲と饅頭を懸けている。

その六、古典落語と多田薬師
「宮戸川」「成田小僧」「業平文治漂流奇談」「塩原多助後日譚」「小雀長吉」「穴どろ」「双蝶々」等で、三遊亭円朝の作に多いらしい。
 多田薬師はこのように、洒落・風流・色事にも関わって江戸の庶民にとって何かと話題にのぼりやすい馴染みの場所だったと山影冬彦氏は述べている。

 江戸名所図会の多田薬師                 

<参考文献> 山影冬彦著『漱石異説・坊ちゃん連想 多田薬師炙り出し』

「沙羅林山石峯寺」の外に、舎羅林山の麓には「テキトウ庵」 (多田東小付近) と 「蓮源寺」 と云う地名も残っている。
舎羅林山の字山ヶ谷の上流には「蓮源寺」奥ノ院と云われている小滝があり、行場であると伝えられている。
 







3. 多田院東多田領に「多田源氏屋敷」があった


*『摂陽群談』に次の記述が見られます。「満仲公御所舊迹」平野村の下、東多田領にあり。新田城の他に、東多田村には多田満仲公の御所もあったと伝えています。「平野村の下東多田村の多田院領」とあるところから現在の「東多田字御所垣内」当りではないかと思われます。多田蔵人行綱公の代までここ御所垣内に屋敷があったと思われます。


 

『河邊郡誌』「新田城」の項
「源満仲の居城にして一に多田城と称せるものこれなり。所傳に今の神社の地は𦾔多田院のちなるが故、即ち多田城なりといふも當らず、城は今の新田村の山にありしものにて、第宅は東多田村にありしこと群談にも記するところなり。多田院は満仲剃髪して、天禄元年純然たる寺院として創建せしもの故全然城にあらざるを思ふべし。」とあり、第宅は東多田村にありとしている。






4.「満仲公御厩古迹」新田村西国海道端にあり。
「西国海道」は下図の松並木と思われ、新田村馬場当り、
猪名川(多田川)と塩川に囲まれた場所と思われる。









5-1. 平野上津にあったとされる「多田上津城」と「正法寺」と「観音寺」(後述)
「上津」には多田春正の居城「多田上津城」と「正法寺」があった。永禄十年(1573)八月十日、多田春正の上津城は伊丹親興に攻められ落城し春正は自害した。


鳥瞰図と
多田上津城址

正法寺
 『川西市史』に「頼光寺文書・平野村正法寺覚」「治安年中源頼家卿母儀法名善如尼公忍辱山正法寺御建立也」 「多田満仲公二十八代多田越中守永禄十年(1567)八月十日上津城落城ノ時忍辱山正法寺焼失」 「其後元和六年忍辱山正法寺一倉村ニ遷ス」 「寛文年中多田満仲公三十一代多田正三郎妻、法名寿清尼忍辱山正法寺再興」とある。


  正法寺本尊と位牌
「正法寺」の開基は「源頼光卿の御台所平惟仲卿息女だと云う。





5-2. 善源寺   
①天徳四年の頃、多田満仲公は父の経基王の菩提のために平野の上津に善源寺を建立した。経基王は出家して善源と号した。その後、永禄十年(1573)八月十日夜半、多田上津城が伊丹の軍勢に攻められた時に善源寺も焼亡したために、善源寺にあった源氏累代の石塔は満願寺に移された。

 「満願寺縁起」によれば、「神秀山満願寺」は神亀年間(724~728年)に聖武天皇の発願で勝道上人により創建された。「満願寺」はこの川西だけではなく諸国に建立された。多田満仲公一族は多田庄を開いた後に、この「神秀山満願寺」に深く帰依した。

 満願寺の「源氏七塔記」には次のように記されている。
「當山雖權輿干聖武帝勅願專観光干満仲公之外護所以及天禄比殿堂加輪燠是以源家之門葉寄信當山不為少矣、考満生朝臣者満仲公之末弟而竟為養君天暦四年為武蔵上総兩助經二十余年依病辭官間隠干當山、徳以天延年中剃髪号満生法師今其旧蹟在當山西大谷、逝去之後葬平野之上津云至若頼國朝臣之鳳兒龍孫終焉之後各遺命収骨當山、塔基七員記名如左

一 伊豆守源國房塔 頼国朝臣之次男満仲公四代孫也、天永二年卯八月二日寂す、
二 出羽守源光國塔 頼国孫而国房嫡也為出雲守者誤歟、満仲公之五代孫也、永久四申七月二日寂す、
三 下野守源明國塔 頼国嫡男三河守頼綱之長子也、号多田太郎、満仲公五代孫也、天治元辰二月四寂
四 下総守源仲政 頼綱次男称兵庫頭従四位下、満仲公五代孫也、天治三申四月廿二日寂す、
五 山縣三郎國直塔 頼国三男満仲公五代孫也、長治元申三月廿三日寂す、
六 摂津守源行國塔 多田太郎明国嫡男、満仲公六代孫也、久安五巳五月九日寂す、
七 兵衛大夫蔵人國基塔 山縣三郎国直之男、満仲公六代孫、

其外末々之多田家依先祖有尊崇多葬當山、離古墳存皆失霊名、痛哉、今俗所謂甲塚類是也、」

 この満願寺文書によれば満仲公の末弟満生法師(武蔵助源満正公・まんしょう公)は病を得て官を辞し、満願寺に隠棲して早世の後に、平野の上津に葬られたとある。そして、頼国の末裔達が終焉を迎えた時に、遺命により当山に収骨したとある。また、多田家の祖先が多く葬られたが、今となっては霊名がなく誰のものか分からなくなってしまったという。

②延久2年に頼仲は交野郡中津村に善源寺を建立
「延久二年(1070)庚戌、六月、頼仲諏訪神夢ヲ得玉、則河村秀友ヲ以代参、子孫必伯耆守タルヘシト、諏訪下社倭文神下照姫御体シトリノ御神ト申ス、七月十八日()頼仲百人ノ僧ヲ供養シ、祖父(頼光)五十回ヲ追福、但交野郡中津村ニ一寺ヲ建立、則号善源寺、夫ヨリ此村ヲ善源寺村ト改ム、且寺内二坊ヲ置、真乗坊・乗光坊ト号ス、廿四日、供養、導師ハ三井ノ頼豪且僧明永ヲ請フ、明永ハ大僧正明快カ弟子タリ、又曰、始平野ニ善源寺ヲ建立セラルゝ、十二月、円宗寺ヲ造ラセ玉イ、供養ニ行幸、頼綱大舎人・主殿助等ヲ率テ内裏ノ御門ヲ警固セラル、従フ輩二百人余、此比舎弟僧明円ニ禄ヲ賜フ、或説ニ明圓ハ三井寺ニ覚問シ、比円明寺ニ住スト云、」(高代寺日記)

『多田院文書』建武二年(1335) 足利尊氏は摂津国善源寺東方地頭職を多田院に与えている。

③塩川氏は善源寺を平野上津に造り替える
「傳曰、始永正十三年(1516)丙子二月十五日、正河院道慶公(不詳)ノ三十三回、且吉河ノ四百年忌(頼仲)ニテアタル故、善源寺ヲ造替シ且高代寺ヲ修覆セラル、安村加賀椽仲吉・三屋三四郎常定ヲ奉行トセラル、永正十二年ノ夏ヨリコト始リ、丙子ノ正月下旬ニ事成、此時双方ノ賄方ハ福武・次郎八・同次郎・右衛門以上四人トシ役之、此時善源寺住持ハ能州諸嶽山惣持寺内院自妙高庵來リテ舜源ト云リ、或永源ト号、則二月十五日、法事供養ヲ被行、其日ノ料現銭二十貫文ヲ以要用トス、一族中及家頼輩ヨリ令寄進所、現銭二十一貫文余ト米五石余タリ、其余参詣之参銭ハ不記、二丁之貢米ヲ以寺領トセラル、コレ其所ヲ不定、伯刕ノ領分ノ内イツレニテモ其年之豊田ヲ以是トス、且又住持ニ誓約セラレケルハ、當家安全ノ限ハ余檀有ヘカラス尤神儀立ラルマシト約束アリ、果テ其コトシ、或傳ニ右永源和尚ハ丹波永澤寺ニモ屡住セラレケルトナン云傳フ、正河院殿前中書賀山道慶大居士ト号ス、三十三回也、」

 平野上津の善源寺は、永禄十年(1567)八月十日に、多田上津城が伊丹親興に攻められ落城し、城主多田春正は自害した。その時に善源寺も焼亡したと思われる。

善源寺の塩川伯耆守国満の墓

塩川伯耆守国満は善源寺を笹部に再建する
「元亀二年(1571)辛未、六月、善源寺ヲ笹部ニ造替事始、寺領者物成現米ニテ回十石ツゝ寄付セラル、或曰、寺中二十人ノ造用ヲ賄タマフ、元亀三年(1572)壬去、四月、善源寺造畢、」





6. 猪名川は多田を流れるときには「多田川」と呼ばれた
 

字「上川原」「中川原」「下川原」は多田に堤防が出来るまでは河原と湿地帯であった所と思われ,
矢印のように水が流れていたとかんがえられる。集落は湿地帯より小高い場所にあった。堤防が造られた後は大水が出ると盛り土であったカーブの所が決壊して洪水になった。


上司小剣は次のように述べている。
「猪名川は多田を流れるときには多田川とよばれて、北西から曲がりくねって流れて来て、丁度多田院村の南西で東へ曲がり、多田神社総門の石段下から松並木の馬場先の外れまで流れて、そこで北東から流れてきた塩川と合流して南へ、そこからはもう曲がらずに鼓ヶ滝の急流を過ぎて猪名野に至る・・」

新田の桜ノ馬場の当りの多田川は「移瀬」と呼ばれています。『摂陽群談』には、「移瀬(うつるせ)多田院前にあり。所傳云、昔此所、八幡大菩薩影向の地、神像水に移り、沙黄金の光あるを以て、殺生を禁断せり。」とあります。昔子供の頃よく河原へ黄銅鉱を探しに行った記憶があります。また『摂陽群談』には多田川の淵について次の記述がありますが、今ではそれらの場所は特定出来なくなりました。

「唐櫃淵・東多田村の西にあり、所傳云。昔盗賊山寺に入りて、法服金銀等を奪ひ、櫃に入れて負出る。村民怪之、跡を追、盗賊知之、其櫃を、此淵底に沈蔵て遁去。日を経て、亦于爰来り、雖求之、終に不得探。是を以て、淵の号に残ると云へり。」

「鎌淵・西多田村にあり。所傳云。昔此淵底に悪魚在て、人民道路の煩と成。勇壮者鎌を携、水中に入、是を探得て割捨る。浮んとするに鎌なし。終に不知所有。時の人、号て鎌淵と云うと云えり。」

「鉈ガ淵・西多田村にあり。所傳不詳。樵夫、鉈を落し沈と云へる耳。」


「鐘淵・西多田村にあり。所傳云、昔盗賊寺に入て、鐘楼に登り、鐘を奪う。衆僧追之。其罪を遁んと、此淵底に投入、山谷に隠去。此鐘終に不得揚。水中に入者、今も龍頭を見る事ありと云えり。」 西多田村にありと書かれていますが、多田院村の鐘ヶ淵ではないかと思われます。

『摂陽群談』には次の記述も見られます。
「龍瀧・東多田村の水上、移瀬に近し。所傳云、昔於于是鯉魚天に登り、龍と化す。因って龍の瀧と称す。水底龍宮城に至るを以て、又云。」此の場所は現在定かではありません。






7. 鼓ヶ滝に滝がない

字「上滝」・字「下滝」に左図のような「滝」があったと考えられ、「つつみヶ滝」ではなかったかと推測している。堤防が造られると滝
は消滅し、地名だけが残ったものと思われる。




 現在は「つづみがたき」と発音していますが、実は「つつみがたき」ではないかと考えます。漢字で書くと「堤ヶ滝」、即ち、堤のそこかしこから水が流れ落ちていたのではないでしょうか。ではその堤の様な滝はいったい何処にあったのでしょうか。満仲公の時代に新田の山裾が切り開かれて、新田城や牧が造られて、その土で多田川の堤防補強工事が行われたと考えます。そして、牧から堤防伝いに馬場が造られて、堤防が絞め固められたと考えられます。満仲公以前は、現在の多田桜木町一丁目から二丁目と東多田一丁目(旧字上川原、中川原、下川原・等)辺りは湿地帯で、北からは塩川が流れ込んでいました。しかも昔は猪名川の水量はもっと多かったと考えられます。現在の「銀橋」と能勢電鉄「鼓ヶ滝駅」の間は旧字名を「字下瀧」「字上瀧」と云い、東多田の横山や舎羅林山から流れてくる小川で、深く抉れた谷になっていました。そのすぐ南面の旗指山の北斜面は「字瀧ノ上」と呼ばれています。その上瀧・下瀧と呼ばれる谷になった所に、堤のようになって、水が小瀑布のように流れ落ちていたのではないかと推測します。
 多田川の堤防工事と塩川を現在の位置に導くことによって旧上川原、中川原、下川原の水はひき、川も深く抉られて、滝が自然に消滅して「つつみがたき」と言う名前だけが残ったのではないかと、私は考えています。明治期に能勢電鉄の軌道と県道が併設された時には、地盤が悪い為に土盛りをして、能勢電鉄軌道と県道は一段高くなりました。現在はダイエーの駐車場から県営住宅・イズミヤ・多田駅西側は線路と同じ高さになっていますが、鼓ヶ滝駅の東側は現在も低いままで、水捌けが悪く、川西市によって排水施設が設けられており、県営住宅とダイエー駐車場の間の市道下にも排水施設があり、能勢電鉄東多田踏み切りの先の猪名川沿いの旧「鯰川」は猪名川の逆流を防ぐ為に水門が設けられています。今でもこの辺りは地下水位が高く、井戸を掘ればすぐに水が湧いてくる地域です。堤防の跡は字原図を見ても良く分かります。昔はこの堤防が塩川橋下流辺りで何度も決壊して現在の多田桜木町辺りは民家の屋根しか見えないくらいに水没しました。二箇所に水害記念碑が建てられています。この水害で水没した範囲が旧の湖と称されている部分で、その湖の水が堤を小瀑布のように流れ落ちていた処が字下滝・上滝と呼ばれていた場所だと考えます。


(西行法師と鼓ヶ滝) 鎌倉時代になって、西行法師が「音にきく つつみがたきをうちみれば かわべにさくや 白百合の花」と読み、「つつみがたき」を「鼓ヶ滝」としたのは、実は西行法師の歌ではなかったかとするのは私の考え過ぎでしょうか。和歌は濁音を清音にして書き表します。西行が「つつみがたき」と読んだのを、後世の人が「つづみがたき」として「鼓ヶ滝」の字を当てたのではないかと推理します。私達が子供の頃はただ単に「たき」と呼んだり、また濁らずに「つつみがたき」と呼んでいたような気がします。
 西行法師は藤原秀郷流・佐藤兵衛尉憲清と言い、鳥羽院に仕えた北面の武士でしたが、源平の戦いに無常を感じて(一説には、待賢門院ないしは美福門院に失恋したと云う白洲・瀬戸内ら女流の説もありますが)妻子を棄て出家いたします。
 平重衡が焼き討ちした東大寺を、後に源頼朝が再建いたします。『吾妻鏡』文治二年八月の項に、西行法師が東大寺再建のため奥州へ砂金勧進に赴く途中、鎌倉鶴岡八幡宮へ立ち寄ったところ、偶然にも頼朝の目に留り頼朝の御所に招かれて、請われるままに色々と話をし、別れ際に頼朝から銀製の猫を贈られたが、外で遊んでいた子供に与えたと云う話があります。
 
 西行法師が攝津国の「つつみがたき」を訪れた時期は、多田源氏直系の多田蔵人行綱公一族が鎌倉幕府から勘当になり多田庄を退って、森羅三郎義光の末裔である大内惟義が頼朝から多田庄を与えられた頃のことと推測されます。西行が摂津国の「つつみがたき」を訪れて「つたへ聞く つつみが瀧にきて見れば 沢辺に咲きし 白百合の花」と読みます。多田源氏の栄華も多田満仲公から八代で滅び去ってしまった。武家たるもの如何に強力な武威を以ってしてもいつかその栄華は滅び去るものだ。そんな人の世の煩わしさと無関係に自然の美しさは絶えることも滅びることもないと読んだ哀愁歌です。しかし、実際に西行法師が多田庄を訪れたと言う記録は見当たりません。又、実は西行法師の歌集の何処を探してもこの歌は見当たらないのです。

 
このお噺は、現在、一柳斎貞凰の講談や三遊亭圓窓の落語になって語り継がれているのみです。お噺では、西行が摂津の鼓ヶ滝を訪れて「つたへきく つつみかたきにきてみれば さわへにさきしたんぽほのはな」と歌をよみます。疲れて午睡した夢の中に老人が現れて「伝え聞く」を「音に聞く」と改め、次に老婆が「来て見れば」を「打ち見れば」と直します、それをまた孫娘が「沢辺」を「川辺」と直し、「音に聞く つつみか滝を打ち見れば 川辺に咲きし たんぽほの花」と改めたと云うお噺でございます。お噺では白百合がタンポポになります。また、「午睡の夢の中の話」としている場合と「その夜泊まった民家での話」としている場合があります。西行が「伝え聞く鼓ヶ滝」と読んだのは満仲公九頭龍伝説を伝え聞いたと解釈いたします。「滝」にかかる言葉として「音に聞く滝」と韻を踏み、「来て見れば」を「打ち見れば」と韻を踏みます。「沢辺」を「川辺」としたのは「鼓ヶ滝」が摂津国川辺郡にあるからでしょう。また、老人と老婆と孫娘は住吉明神と人麻呂明神と玉津島明神だっとするお噺です。

『川邊郡誌』は鼓ヶ滝について次のように述べています。
「鼓ヶ瀧・・歌に 音に聞く鼓が瀧に來て見れは唯山河の鳴るにそありけり  今もなほ音に聲えて津の国の鼓が瀧の名こそ高けれ 是等は正しく此瀧の滅失を歌へるものなるも、  津の国の鼓が瀧を打見れは岸邊に咲ける蒲公英の花 として西行法師が此瀧を詠ぜるものと世に傳へらるゝも、果して満仲多田院創建の時破壊せる瀧とせば西行焉んぞ此の瀧知るべきや、西行果して實地を詠ぜりとせば此瀧にあらずして有馬郡湯山町に今尚著名の鼓が瀧を歌ひしを明かなり。」(川邊郡誌)と、

有馬温泉にあるのが鼓ヶ滝(つづみがたき)で、こちらの鼓ヶ滝は「つつみがたき」ではないかと推理します。

『摂陽群談』に「西行法師假居古迹・多田領の上に在。諸国巡行の時、於于爰、假居するの古迹と云所傳也。」とあります。西行法師が度々多田ノ湯を訪れて仮住まいにしていた住居跡が多田領のかみにあると云っています。現在その場所は不明ですが、「平野の湯」当りだと考えます。

また『川西市史』に、多田院南無手踊りの歌として紹介されている歌に津の国の鼓ヶ滝を打ち見れば ただ谷川にたんぽぽの花 山伏が宿とりかねて歌をよむ・・・」と云うのがあります。





8. 余溝
猪名川堤防が造られ水田が増えると用水が不足したため、多田院村から鉱山掘削技術を用いて、延々と「用水路」が穿たれた。
  

  多田院鐘ヶ淵(ここで堰き止められて途中まで地下水路を流れて行く)、多田院鐘ヶ淵から新田へ、塩川を樋で跨ぎ、平野から東多田へと用水路が造られた。塩川を樋で越え、新田から平野へ続く。




『河邊郡誌』
「安永九年(1780)多田堰、多田院観音堂前にて多田川を堰き、多田神社の地下に長さ百六十間の隧道を穿ち、多田小学校前より以東に溝渠を設け感慨の便に供せるものなり」とある。




9. 「塩ヶ平井」は塩川氏の名の起り
「塩ヶ平井」は「塩我平江」ともいう


「傳曰、御祖母主代殿満仲卿ニヲクレサセ給ヒテ後、常ニ眩暈(めまい)ヲナヤミ玉フ、故ニ院内ノ薬師如来ヘ立願ナサレ七日参籠アル、満スル夜半ニ告夢、汝常ニワレヲ念スル故今是ヲ告ル、河水ヲ以テ塩ニ焼セ、其塩ヲ以行水ノ湯ニ入、百ヶ日ノ間行水ヲシ玉フヘシ、眩暈本復シ、長命タルヘシ、且子孫ノ称名ニモナルヘシト在リアリト告有、依テ近キ辺ノ江ニテ水ヲ汲セ、其水ヲ塩ニ焼セ玉フ、其水始ハ沸水ナルカ一七日焼セ給ノ内塩水トナレリ、其時又告曰、其水ヲ以直ニ行水ヲナスヘシト、此コトクニシ玉フテ御病本復在ス、始ハ近辺ノ沢ニテ汲セ玉フ、後ニ告有、御庭中ノ井ヘ塩水涌出タリ、其井ノ奉行ヲナセシ者ヲ本井ト名付玉フ、此本井ト云者ハ信濃國黒川ノモノニテ、松尾丸ト云、満仲童ワニシ仕玉フ者ナリ、今名ヲ改本井ト号、此時庄内ノ諸民貴賎無ク郡集シ来ル、村々ニ止宿セシメ、水塩トナリタルヲ見ル、多人集故ニ隼人ト云者奉行セシメ、此群且村々ヲ治ム、村ヲ能安ンスルト云理ヲ以テ安村ト号ス、其後御病癒テ件ノ井水佛水ナル故ニ江ノ本ニ反ンコトヲ祈ル、其時又亀甲山住僧ニ告在シ、彼井水ヲ反ンコトヲ加持ス、三日ノ内ニ本ノ井トナル、此所ニ水ヲヨリスルコト可ナリト云理ヲ、亀甲山ヲ吉河山ト付給ヒテ、其ヨリ子孫ノ血脉ヲ以吉河山高代寺ノ住持トス、彼江ニ塩水涌出ル所ヲ塩我平江ト名付、塩ヲ以ワレヲ平ニスル江ト云心()リ又井トモ書、且又河水塩ニナリタルト云理ヲ以テ、主代リ殿ヲ塩川殿ト号ス、又後室ノ御字ヲハ河味サマト申ス、河ニアチワイ出タリト云心ナリ、夫ヲ文字ニ直シ、上サマト云、塩川殿ノ上様ト申ハ満仲公ノ御台所ヲ申ナリ、天下ニ一本ノ称名故他人コレヲツゝシム、世俗満仲ノ塩川ト云ハ此理ナリ、」『高代寺日記』






10. 平野湯(湯ノ町)は江戸時代摂津三名湯の一つだった
現在分かっている旅籠名 (高垣定光著 『多田平野湯』より)
桝屋(土肥氏・最も大きい建物)  和泉屋(岡田氏)  山城屋(藪野氏)  大和屋(池本氏)    萬屋(福田氏)    多田屋(下中氏)    中野屋(中野氏)    河内屋(武山氏)    菊屋(下中氏)    大坂屋    平野屋    若狭屋    近江屋    京屋    丸屋    津村屋

『摂州多田温泉記』


 「右ゆもとみち」

「「多田みやけ」

                         
「摂津名所図会」



文化七年 村田伊予女・著 「摂播道中記」 に平野湯が出てきます。
「湯本 泉屋権右衛門 泊り   着後湯へ入翌日迄二度つづ入 九つ時過着いたし候得共大雨ふり此の処に逗留也 (旧暦四月)八日湯本出立」



桝屋・土肥氏の由来

 土肥氏は頼国流井上氏で、『高代寺日記』によれば、頼国の子・頼実が土佐国に配流になった時に、妻子を頼信に預けたとあり、頼実の子・頼季は頼信の養子となったものと思われます。頼季の孫・光平が信州井上に住し井上氏を名乗ります。光平二十代・井上景正は山崎合戦で敗北します。その子・宗長は叔父土肥氏をたより摂津国平野村に蟄居します。土肥宗長の孫・慈覚(法名香雲)は平野温泉を再興し、享保二十一丙辰年二月に逝去しました。桝屋は『摂津名所図会』で最も大きな旅籠で、大正初期に撤去されました。

多田満仲ー頼光ー頼国ー頼実頼季ー満実ー井上光平ー光長ー清長ー忠長ー経長ー長基ー長実ー実基ー頼綱ー泰貞ー頼貞ー*

*慶祐ー宗次ー次慶ー綱玄ー家次ー正次ー景次ー井上景正土肥宗長ー某ー土肥慈覚ー玄心ー義智ー義誼-亀之助
                                                                 *亀之助の母は大和屋・池本作左衛門女


平野湯温泉薬師堂
 


 




11. 多太神社と小野氏

 多田は古代「住吉神」の杣山の一角にあったが、いつの頃からか、大神郷(おおむちごう)と呼ばれ、「多太社・祭神大田田根子命」を氏神とする大神氏(おおみわし)が住んでいた。多田満仲公は住吉神の神託を得て、大神氏の末裔を滅ぼし、多田庄を開き、「多太社」を廃し、京師から「平野明神」を遷座し、小野氏を明神守護とした。

*民話では、満仲公は龍のような九頭の大蛇を滅ぼしたとされている。(それが間違って伝わり「九頭龍神」とされている。)

新撰姓氏録」は弘仁六年(八一五年)嵯峨天皇により編纂された古代氏族名鑑です。その『新撰姓氏録・摂津国神別』の条に、「神人。大国主命の五世孫、大田田根子命の後なり。」とあります。川西市多田はその昔大神郷(オオムチゴウ)と呼ばれていました。佐伯有清氏は「神人は舎人や宍人に似て、かつて在地にあって国造に準ずる有力者であり、その子弟が番を作って朝廷に上り、神祇関係の業務に服した」と述べています。

 東多田上ヶ芝・松ヶ芝古墳群は大神氏の一族と何等かの関係があるのでしょうか。平野地区には延喜式内社「多太神社」があり、現在は「たぶとじんしゃ」と呼んでいますが、本来は「ただじんじゃ」と呼ぶべきで、明治以降「多田院」が「多田神社」となった為に、あえて「たぶとじんじゃ」と読んで区別しているようです。この「多太社」は古く平安時代に編纂された延喜式神名帳(927年)に載っている「式内社」で、大神氏の氏神であったと考えられます。

上ヶ芝一号墳  小野氏の墓
                                        嘗てこの場所に「温泉薬師庵」があったものと思われる。

 現在の多太神社の祭神は「日本武尊(第十二代景行天皇の皇子)大鷦鷯(おおさざき)(みこと)(第十六代仁徳天皇)・伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞鳴尊・大田田根子命」ですが、古くは「大田田根子命」が主祀神一座と考えられ、「多太」の名前の由来になったと考えられます。『日本書記』では「大田田根子」、『古事記』では「意富多多泥古」と記されます。

 伊弉諾尊・伊弉冉尊―素盞鳴尊―大国主命―大物主命―事代主―大田田根子命は系図として繋がります。伊弉諾尊・伊弉冉尊が「筑紫ノ日向ノ橘ノ小戸ノ阿波岐原」で禊祓を行い産まれたのが天照大皇神・月讀三貴子命・素盞鳴尊で、素盞鳴尊の子が大国主命で、また其の子孫が大物主命で、大物主命の五世の孫が大田田根子命とされ、神人の三輪氏・大神氏・加茂氏の祖とされています。

『日本書紀』によると、

「三世紀、崇神天皇の七年に疫病と災害で国が治まらなかった。天皇は「天照大神」と「倭大国魂」の神々をお祀りしてもうまくゆかず、神浅茅原に行幸され、八十万の神たちを集められて占いをされた。このときに、神明倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り「天皇よ、どうして国が治まらないのを心配するのか。もしよく私を敬い祀れば、かならず平穏になる」と言う。天皇は神の教えどおりに大物主神を祀ったが、いっこうに効きめがなかった。再び大物主神に祈ると、夢のお告げで「私の子の大田田根子に、自分を祀らせれば、たちどころに平穏になるであろう」と言う。

 天皇はひろく天下に布告して大田田根子を捜させたところ、茅渟県の陶邑で大田田根子を見つけ出されて、大物主神を祀る神主とされ、奈良の三輪山に祀られた。大物主命は八岐大蛇を退治して草薙剣を得た出雲系の神である素盞鳴尊の子孫です。





 


 
                             「天龍石か満仲公腰掛石か ?」


「小野垣内」は
「小野氏屋敷跡」
『多田雪霜談』に、「平野邑氏神平野大明神 は、安和年中冷泉院の御宇多田満仲公多田御開闢後謹請なり、明神守護として御家人の内小野義太郎為氏を付置し後建武の頃は、小野為時是なり、今に御鎮座の守護と成源家嚢祖之氏神也」とあります。

 元文元年(1736)9月、並河誠所が調べたところ、地元民が平野明神と呼んでいる社は『延喜式』の「神名帳」に記されている多太社であるので多太社の社号標石を建てると大坂町奉行所から達しがあったと云う。其れまで小野氏が平安時代から守ってき多田源氏の氏神が「多太社」と改められて、平野村、新田村、東多田村、矢問村の氏神として祀られるようになったが、祭神は「大田田根子命」ではなく「伊弉諾尊・伊弉冉尊・素盞鳴尊・日本武尊大鷦鷯」に替えられてしまった。『延喜式』の「神名帳」に記されている多太社であるとするのであれば、祭神は「大田田根子命」でなければならないはず。京都葛野郡の平野大社は桓武天皇の創建で、祭神は「今木皇大神」「久度大神」「古開大神」「比蕒大神」の四神で、源氏・平氏・高階氏・大枝氏・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏八氏の祖神となっている。この多田地域の氏神御地主神(おとこぬしのかみ)はいったいどの神なのだろうか?因みに、西多田村と多田院村の氏神は六所権現である。
 それ以来、小野氏は多田から大坂道修町に移り住んで薬問屋を営み、今の「小野薬品工業」がそれである。






12.横超山光遍寺(東多田) 


『光遍寺来歴』によれば、旧東多田村の光遍寺の開祖空圓上人は右衛門尉二階堂幸藤と称し、甲斐国山梨郡牧庄を領地とする出羽守二階堂行藤の孫に当たります。二階堂氏は藤原南家武智麻呂流・工藤氏から分かれます。幸藤の叔父の出羽守二階堂道蘊貞藤は鎌倉幕府の政所執事で北条高時を補佐し、楠正成の千早城攻めにも参加した人物です。幸藤は父・宗藤が早世した為に、若い頃から叔父の貞藤
(道蘊)について弓馬兵法の道を教わりました。叔父・貞藤は鎌倉幕府滅亡後も建武の親政に参加しますが、謀叛の疑いをかけられて、建武元年(一三三四年)十二月二十八日、道蘊と子息一人、孫三人は六条河原で斬首されます。その時に、道蘊に従っていた二十七歳の二階堂幸藤は、出家すれば罪は問わないと処断され、縁あって多田庄の笹部村に草庵を結び、空圓と号したようです。その後、空圓は赤松筑前守貞範(播磨守護・赤松円心の次男)に会い、筑前守は懐かしがって、播州明石の大蔵谷に庵と領地を寄進し、光遍寺の末寺としました。

『太平記』巻十一金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事
「・・・二階堂出羽道蘊ハ、朝敵ノ第一、武家ノ補佐タリシカ共、賢才ノ誉、兼テヨリ叡聞ニ達セシカバ、召仕ルベシトテ、死罪一等ヲ許サレ、懸命ノ地ニ安堵シテ居タリケルガ、又隠謀ノ企有トテ、同年ノ秋ノ季ニ、終ニ死刑ニ被行テケリ。・・・」

「二階堂出羽守道蘊貞藤は執権北条高時の命で、阿曽・大佛・江馬・佐介・長崎等と五万余騎で金剛山を攻めるべく鎌倉から派遣されていました。しかし、幕府が滅びた後も、都を攻めようと南都に留まって様子を伺っていました。中院中将定平を大将に五万余騎と、楠正成に畿内勢二万余騎をもって追討に向わせたところ、遂に全軍投降し、阿曾らは捕らえられて斬首されました。しかし、二階堂出羽守は、朝敵の第一と言われ、高時の補佐役ではありましたが、その賢才の誉は帝の耳にも達していたので、死罪一等を許されて召抱えられることになり、懸命の地に安堵して居ましたが、陰謀の企て有りとして、建武元年秋の末に、終に斬首されました。」ここで言っている二階堂道蘊の「賢才ノ誉」とは

『太平記』(巻一資朝・俊基被捕下向関東附御告文事)によれば、
日野資朝・俊基が謀叛の罪で幕府に捕えられて処断されたが、執権北条高時のこれ以上の動きを静めるべく、帝の御告文を吉田中納言冬房が草稿を認めて、萬里小路大納言宣房卿が関東に持参した。その御告文を秋田城介が受け取り、相模入道高時が披いて見ようとした時、二階堂道蘊は、天子自ら武臣に対して直に告文を下されたことは、異国にも我朝にもいまだその例を承らず、文箱を開かずに勅使に返すべきだと言ったが、高時は何が苦しかるべきことがあろうと、斉藤利行に命じて御告文を朗読させた。斉藤利行は途中で目眩がして鼻血をだして退室し、その日より喉の下に悪瘡ができ、七日の内に血を吐いて死んだ」とあります。此の時の二階堂道蘊の言動を言っているのでしょう。

『金剛集第六巻裏書』
「一、出羽入道二階堂貞藤 山城入道藤兼 去廿八日、於六條河原被切候、誠以不慮外に候心事期後信候恐惶謹言」

『六波羅南北過去帳』
「建武元年十二月三十日、出羽入道六十八歳、子息一人、孫三人彼是五人同所六條河原被誅訖」

『蓮華寺過去帳』
「十二月三十日、出羽入道六十二歳、子息一人、孫三人、彼是五人同所被誅訖」


【二階堂氏系図】
藤原鎌足ー不比等ー武智麿ー乙麿ー是公ー雄友ー弟河ー高扶ー斎夏ー継幾ー工藤為憲ー時理ー時信ー継遠ー維兼ー維行ー行遠ー

ー行政ー行村ー行義ー行有ー行藤ー宗藤ー幸藤(空・初代)ー空賢ー空蓮ー空乗ー空因ー空玄ー空真ー空順ー賢通


圓笹部村に所縁ありて草庵をむすぶ
康安二年、44歳法橋良圓を招き身影を写さしめる
応安二年遷化、55歳 空賢継ぐ
応永廿三年 空賢遷化 71歳
宝徳二年 空蓮遷化 56歳
明応六年 空乗鼓滝の西の方山頂に移し、東ノ峰に一宇建立して、蓮如上人から「光遍寺」の寺号を給わる。
文亀元年 空乗遷化 64歳
天文年中 塩川伯耆守宗門に帰依し、古御坊の地をかぎり西は鼓滝を境とした横山を光遍寺に寄付し、永代御免地とする。
天正年中 織田信長公軍勢をつかわされし時笹部村に退く。塩川没落後横山に帰る。賢通の時、大坂本願寺に内通忠節、信長公横山の寺院を破却せられる。大坂静謐ノ後東多田に御堂を建てる。

上司小剣は住職二階堂退省師をモデルに、小説「ごりがん」や「老僧」を描いている。




13. 経ヶ坂地蔵尊(東多田)の由来
   



 このお地蔵さんは江戸時代には上の吉田村にあったが、廃仏毀釈により、明治五年大阪府布達「路傍地蔵妙見稲荷道祖神等小祠取除くべき事」により、打ち壊されることになり、東多田の村人達が貰い受けて遷座したものです。しかし、道路拡張のために現在の角の狭い場所に追いやられてしまった。この地蔵尊は霊験新かで、いつも綺麗なお花が供えられており、お守りしている人達は「皆口々にお願いを聞いてもらった」と言います。「左久安寺よし田  右池田道」と刻まれている。現在は右の狭い場所に追いやられてしまった。




14. 「九頭大明神」 (東多田)
 
 『満仲五代記』は、多田満仲公が住吉大社から矢を射て九頭の大蛇(オロチ)に当り、大蛇が暴れて湖水の水が流れ去り平地が出来たと言っています。この九頭の大蛇は鎮魂の為に神格化され「九頭大明神」として東多田村等多田庄内に祀られたと『摂陽群談』に記述されています。
「九頭社 川辺郡東多田村にあり、昔此処に化障あって、多人を悩し、民家戸を閉、往来も絶ばかり也、源満仲公白羽の矢を以って射之、其時山鳴動て地に落ちたり、祖形容龍の如にして頭九あり、則其地を穿埋て叢祠を置祀祭之。村民九頭大権現と称す。矢筈矢根の神石つね今猶側にあり。」(摂陽群談)
『九頭龍神社と呼ぶ名は、英雄神を祀れる多田神社を繞つて附近山地に多く祀られて居る。旧能勢郡山田村の九頭権現社、同余野村九頭神社、川辺郡東多田村九頭社等がある。皆其の縁起は源満仲の征した大蛇の精霊を祀れるものなりと伝へて居る。』(摂陽群談)
 旧能勢郡には山田村(能勢町西郷村大字宿野字九頭森)の「九頭権現社」と枳根庄(能勢町大西字奥畑)にも九頭社があります。余野村の「九頭神社」については、『摂津名所図会』に、「九頭森余野村にあり、神祠破壊して今神籬のみなり」とあります。『東能勢村誌』には、「九頭の森 同地字九頭の宮に遺跡存す。昔此所に九頭神社あり、後世頽廃して神?のみ残り九頭の森と称せしが、今は神?も伐払はけ只一小祠を存するのみなり、「九頭神社祭神枳根の摂社に同じ」と摂陽落穂集に見ゆ。」とある。「小戸神社」境内にある「白竜神社」は、この伝説が派生して、九頭の大蛇が複数おり、一匹は東多田の九頭明神に祀られて、もう一匹はこの白竜神社に祀られたとも言われている。この九頭の大蛇退治伝説は、源満仲公が住吉大神の杣山であった多田の地が、古代から大神郷(おおむちごう)と呼ばれ、「多太社」を氏神とする「大田田根子命」を祀る出雲系の大神氏の一族が住み、銀・銅を採掘して栄えていたものを、武力で平らげたとは言わず、正しく住吉大神の御威光で征したのだと言っているかのようです。「九頭龍神」とよく間違えられているが、龍ではなく大蛇(オロチ)です。村人は首から上の病気に霊験あらたかと云い、家を出て帰るまで知り合いにあっても無言でいることが必要としているが、霊験があったとは未だ聞いていない。




15. 龍池山潮音寺 (臨済宗妙心寺派)  川西市東多田2-14-1
 中村源左衛門は、源満政公の遠い子孫で、叔父の川崎屋木田高吉の店で働き、明国から大蔵経を輸入して、この地に寺を建立して納めた。天和三年(1683)十二月六日、長崎に行こうとして船に乗ったところ海が荒れて船が沈みそうになった。船頭が云うには「ああ大魚のひどいあばれようだ、若し誰かが命を魚に与えたならば、船はたすかる」と云うと、源左衛門は皆を救おうと終に海に身を投じた。皆は無事に長崎に着き、長崎の支那寺の僧千獃禅師が偈を書き弔った。天眞院智嶽玄性居士として祀られている。
 上司小剣は随筆『生々抄』の中で、四代前の住職義孝師をモデルに随筆「山寺の和尚さん」を書いている。




川崎屋当主木田高吉


千獃
和尚の偈





16. 東多田にある旧・西村家住宅  市が買い上げて文化財に指定するべきだ
 上司小剣の小説や随筆に度々登場する。



17. 山ヶ谷川の地蔵
 山ヶ谷川は舎羅林山の山ヶ谷から流れ出て、東多田村の北所・南所を通り、牛谷堤を経て「つつみヶ滝」から「多田川」へと流れています。山ヶ谷川上流には、「蓮源寺」や「奥ノ院滝」に「上ヶ芝村墓」があり、大水が出た時に、多分その辺りから昔の石塔が川に流れ出て、ゴロゴロと川を流れ下りったものと思われます。村人はそれらを川底から拾い上げて、お地蔵さんと称して屋敷内にお祀りしています。
 



18. 岡本寺(こうほんじ) の苧蘿山人の墓 (平野字谷ノ奥238番地)

 観竜山岡本寺は『岡本寺由緒書』によれば、元亨四年・正中元年(1324)に多田院政所沙弥持観なる者が地蔵堂を建てたのが始まりと言う。

 宇崎壽美子氏の『多田源氏の末裔 苧羅山人を追って』を紐解くと、苧蘿山人(ちょらせんじん)は本名を原康?または多田玄介と言い、享保十六年(1731)~天明八年(1788)享年の人で五十六歳で没したとある。父は石川県能登鳳至郡鵜河村の人で、加賀藩十村役(大庄屋)であったが、職を辞して金沢に移り澄み荻生徂徠の門人となった。玄介は三男で、金沢で育ち、儒学・絵画・篆刻(てんこく)を学び、後に京都で山脇東洋に医術を学んだ。明和の中頃に平野温泉に移り住み医者・として文化人として暮らした。多田蔵人行綱の末裔で、行綱は鎌倉幕府から勘当を受けた後に、越中国礪波郡鷹栖村に隠棲したと考えられていると述べている。

 『高代寺日記・下巻』享禄4年(1531)の項に、「院夜灯内ノ馬場タ田両所ニテ、鵜川源左衛門宗次寄進ス、閏同日、塩川九郎左衛門尉頼繁、寄之タ田ト若宮山年貢ニテ上ル、鵜川ハ加賀ノ者、近年來テ攝津ニアリ、」とあり、鵜川氏が登場するが、
これは鵜川多田氏と思われる。




19. 新田城址

「・・・・満仲公は鼓瀧を切り開き、盆地の湖水が乾いて田地が多くなったので、もとは「多太」と言ったのを「多田」と改め、領地として朝廷から賜り、盆地の北にある小山の麓に居城を築いて新田ノ城と称した。この新田ノ城の跡は、いまも足利以前の城塞の形を、朧げながら畑の間に残して、まんなかに瓦屋の竃がある。瓦を焼く土を採るために深く鍬を入れると、腐った鉄らしいものの出てくることがあるといふ。瓦屋の前に立つと、多田庄の殆ど全部が、眼下に眺められるほどの高臺で、背後に負ふた山を旗指し山といふ。左の方に深く堀の恰好をして流れている小川を塩川と言い・・・・」と、小剣は表現しています。


 廿八番字城山
住宅開発されて、現在は見る影もない。




20. 多田庄三十三ヶ所観音霊場(多田院別当尊光によって元禄六年につくられた)

第26番 「観瀧山平常院」千手大悲尊 平野村・現在は「岡本寺」と改名されている。

第27番 「観音寺」古城山聖観音 平野村上津にあったとされている。
(廃寺)

第28番 「摩尼山法泉寺」 十一面大悲尊 新田村
 初め、913年開基の「阿弥陀院」なり

第29番 「観音堂」  十一面観音  矢問村

第30番 「蓮生院」  十一面観音  多田院村
多田院の東にあった三ツ矢氏の屋敷に隣接している。初め、、ここに寺があったものか ? 平敦盛並びに蓮生房(熊谷直実)の遺跡とされている。
  

第31番 「観音堂」正観音 多田院村 福住()観音ト号ス
現在は「寿久井の地蔵尊」満仲公龍馬の墓とも言われ、ここに寺があったものか ?
 馬頭観音
かつて「馬頭観音」は多田院村の山の中にあった、現在は「西方寺」境内に移されている。龍馬と関係あるのだろうか ?

第32番 「観音堂」千手観音 多田院村 上寺観音ト号ス
    
満仲公造営、開基は満仲公の伯母「妙法院殿西岸壽林大姉」、元は多田院の東 (現在の笹部邸か?) にあったが、文和の頃、ここに移されたと言う。大変霊験新たかで、お祀りしているおばあさんは「おかげで達者に暮らせます」と話していた。


第33番  「鷹尾山多田院」十一面観音 多田院村




21. 多田院移瀬にある「寿久井の地蔵尊」と 龍馬
  龍馬に乗る満仲公
多田満仲公が龍女からもらった龍馬の駒塚と言われている。龍馬の頭の骨は宝塚市波豆にある「譜明寺」にあり、雨乞い神事に用いられていると言う。

源満仲公の龍馬伝説ともう一つの大蛇退治伝説
 『満仲五代記』によれば、「満仲公が能勢付近へ狩りに出かけられた時の事、夢の中に美しい龍女が現れ、龍女は河下に住む大蛇と何年間も争っているが、とうとうその大蛇に住む所を奪われた、見ると貴方には龍宮天宮の相が備わっているので、その大蛇を退治して欲しいと云います。そしてその龍女は天駆ける馬を一頭引いて来て満仲公に与えた。満仲公が夢から覚めると不思議なことにそこに一頭の馬がいました。満仲公は住吉大神の御加護により大蛇を退治したあと、その狩場に行ってみると滝があり、龍ヶ滝と名付けられました。」(現代語訳多田五代記)

 江戸時代に著された『前太平記』に「九頭明神事」と題して『満仲五代記』とよく似た話があります。
 満仲公の御夢に竜女が現れ、(ここでは摂津国兎原郡の淵に住む者としています) 我に多年の敵あり。彼の淵に住んで我を悩ます。我甚だ之を苦しむ。我が敵を討って此の苦しみを助けて賜ひ候へ。但し斯く申したりとも、一定誠とも思し食すまじければ、其験には竜馬一匹引き進らすべし。必ず明日摂州能勢山より、不思議の名馬出で来るべし。其こそ我が君の為に授与し奉る所の竜馬なり、と申すと見給ひて夢は覚めぬ。翌日の暮れに摂州能勢山より、竜馬なりとて、明二歳の駒進奏す。村上帝は、当時満仲公は左馬頭にてをはしければ、則ち満仲にぞ預け下されける。さてこそ満仲も、如何にもして彼の大蛇を滅ぼし、竜女が望みを遂げ、此の恩に報はんと心に念じをはしける故、今度(住吉大神に)七日の参籠にも、一つには住所、二つには此儀を祈り申させ給ひけるに、神慮忽ち納受あり、然も彼竜馬に駕して二つの所望一時に満足しぬ。さても彼大蛇の形を見るに、其長五十丈に余り、九の頭を連ね、十八ま眼は、鏡を並べて天に掛けたるが如く、十八の角は、冬枯れの梢枝を争ひ、周身の鱗は荷葉を並べ、紅の舌は炎を吐く。斯かる強盛不敵の者、唯一矢にて滅ぼされぬる、武威の程こそ有り難けれ。即ち彼大蛇の首を斬って、一つの叢祠を建て、九頭明神と祝ひつつ怨霊を宥め給ひける。」(前太平記)

鼓ヶ滝の九頭の大蛇退治伝説と似た話ですが、佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』によると、
 「神人氏の一族には、神人為奈麻呂がいる。為奈麻呂は『続日本紀』延暦四年(七八五年)正月癸亥の条に「摂津国能勢郡大領外正六位上神人為奈麻呂。」とみえるように、摂津国能勢郡の大領であったと述べています。『能勢町史』には「久佐々の地は、大宝元年(七〇一年)に、まず河辺郡郡衙の官舎が設けられ、十余年後の和銅六年(七一三年)には能勢郡々司の設置をみた由緒ある地である。そしてその際、郡司となったのが河辺郡の大神郷の神人氏と推測される。」とある。

神人の末裔であった人々を、多田満仲公が征して多田庄を開いたことが大蛇退治伝説として言い伝えられたと考えられます。九頭大蛇を九頭龍と呼ばれていますが、満仲公は龍に頼まれて大蛇を退治したのですから、「九頭の大蛇退治伝説」と言うべきです。このお話に出てくる美しい龍女は、三草山の美奴賣神を奉斎していたとされる能勢郡枳禰庄(枳根荘)の式内社「岐尼神社」に祀られている巫女「枳根命」であると言われている。美奴賣神は現在津国兎原郡(神戸市灘区岩屋)の「敏馬神社」に祀られている。

 『普明寺の龍馬神』 「宝塚の民話」によれば、宝塚市波豆にある源頼平公創建の「普明寺」には寺宝として龍馬の首なるものがあり、雨乞いの神事に用いられ、霊験があると言います。『川西の歴史散歩』によれば、多田院の北西の移瀬の地蔵尊がその駒塚であると言う。
 「普明寺」河邊郡波豆村にあり。山號慈光山と稱す、源満仲公御子、上総允満政公、剃髪法號満照法師、の開基、自ら千手大悲尊を一刀三禮に彫刻し玉て、金堂に安置す。春日神作の地蔵尊を、内道場に置り、龍女神、満仲公に與るの龍馬頭、寶蔵に納之、村民設之祈雨、即時淫雨洪水して、旱魃の愁を救こと甚奇なり。」(摂陽郡談)

 多田神社の御神体は、龍馬に乗る23歳の満仲公御影像
 『満仲五代記』は江戸時代慶長から元禄にかけて多田兵部元朝によって編輯された軍記物で、この中に満仲公が一刀三拝で御影像を手彫りされたと言う話があります。「弟の左馬助満政・満実・満季らが満仲公の御前に集って相談し、御影像を院内に安置して末代まで守り本尊として仰ぎ奉るので、満仲公お手ずから御影像を刻らせ給えと進言します。その御影像は甲冑を着け弥陀の利剣を帯び、愛染明王の弓と多聞天の鉾をさげ、龍馬に乗った二十四歳の姿である」と言います。

『摂津名所図会』には「満仲公の肖像は御歳廿四歳の時初て源の姓を賜り其の砌の御容を五十有余歳の時みずから彫刻したまふ神影で連銭葦毛の馬に騎り緋縅の鎧を着し金鍔鮫鞘の太刀を佩き御手の左右に弓箭を携えし尊き・・云々」

多田院では江戸時代に、この満仲公の騎馬像の御開帳があったそうです。上司小剣は小説『石合戦』のくだりで次のように述べています。
 「近松門左衛門の戯曲に「多田院開帳」といふのがあるほどだから、徳川時代には五十年目毎に行はれたここの開帳が、可なり聞こえたものであったらしい。両部時代の本尊といふべき満仲二十四歳の武装した騎馬の木像は、彼れ自身五十四歳のとき自ら刻んだものとして伝へられている。いまもそれがそのまま祭神の本体として、祭礼の神輿渡御には、八寸の鏡にこの木像を映した上、靈代として神輿におさめた。祭りの日の夕方、神輿が御旅所から静々還御になると、父は衣冠の威儀も正しく、八人の社家を随えて。物々しく練って帰る。先駆の武士に傘持ち、沓持ち、その後に社家の行列がつづくのである。社務所兼住宅の門前には、駕輿丁その他出役した村人が、それぞれの衣装のまま、両側へ二列に並び、旧領時代のしきたりで、土下座して迎える。」(上司小剣・石合戦より)




22. 多田院村「西方寺」
 



23. 多田院村の間部の跡
多田院甲斐村には山師が住み鉱山開発が行われていた。




24. 上司小剣の風景
小説「石合戦」に出てくる、「大国屋」と満願寺村に通じる海道と橋の跡
  


多田神社御社橋、左の建物は「梅之坊」の跡、現在は宮司邸






25、浄土真宗大谷派浄徳寺
 浄徳寺は明応元年(1492)に今井可蔵大夫慶順によって建立された一向宗の寺院で、慶順は蓮如上人の帰依した。周辺には今井氏、平井氏、中井氏、本井氏、西村氏ら井上氏一族(藤原仲光の一族)が屋敷を構えていた。この頃、塩川三河守三郎兵衛尉一家・伯耆守信氏らに多田塩川古城を奪われた塩川豊前守秀満・種満は「西多田邸」と呼ばれる屋敷に住んでいた。ここからは多田院が真北に仰ぐ事が出来る景勝地である。嘗て、西多田村には藤原仲光をお祀りする「田尻神社」があった。

 







26、矢問の自然石の灯籠
この自然石の灯籠は上司小剣の短編『髭』に子どもの頃の思い出に登場する。
特徴は
①自然石の灯籠の立っている四つ辻・・
②この灯籠に毎夜ともす灯、・・・夜になって雪隠へ行くと、(多田神社の神主邸の)窓から見えるここの灯が、ちらちらと瞬きをしてゐた。
③十幾年ぶりに見ると、・・・灯袋の障子は桟まで無くなって、中には子等の悪戯か、礫がいっぱい詰まってゐる。
④この灯籠に灯を入れに来るのを役目にしてゐたあの紺屋の老婆亡くなったのであろう。


 







「明治講御供田」碑  東多田

表「心誠 柳谷 明治講御供田」裏「明治三十八年九月建之 講元 肥爪和平 総講中」横に「田地発起人 西村右三郎 篠部義雄」「記念碑発起人 篠部国松 前野榮吉」と書かれている。日露戦争が明治三十七年二月に始まり、翌年明治三十九年九月に終わっている。日本は戦争に勝ったが、多くの兵隊が戦死し、戦費を賄うために軍事国債を発行した。この碑に関する史料は未調査だが、おそらく池田町、川西町、多田村、山下村、中谷村、六瀬村の有志等が「講」を造り戦死者を供養し、お金を出し合って田畑を買い上げ「御供田」としてそこから上がる年貢で国の戦費を支援したものと考えられる。以前は近くの場所にあったが、道路拡幅の為、肥爪氏の用地に移されている。
  

  







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