北摂多田の歴史 

   光遍寺二階堂氏



横超山光遍寺 二階堂氏

『横超山光遍寺来歴』によれば、東多田村の真宗大谷派横超山光遍寺の開祖空圓上人は二階堂右衛門尉幸藤と称し、甲斐国山梨郡牧庄を領地とする二階堂出羽守行藤の孫に当る。二階堂氏は藤原南家武智麻呂流工藤氏から分かれた。幸藤の叔父二階堂出羽守道蘊貞藤は鎌倉幕府の政所執事で北条高時を補佐し、千早城攻めにも参戦した人物である。幸藤(空圓)は父宗藤が早世した為に若い頃から叔父の貞藤(道蘊)について弓箭の道を教わった。

 叔父貞藤は鎌倉幕府滅亡の後、赦されて建武の親政に参加したが謀叛の疑いをかけられて、建武元年
(1334)十二月二十八日、道蘊と子息一人、孫三人は六条河原で斬首された。その時に道蘊に従っていた二十七歳の二階堂幸藤は「出家すれば罪は問わない」と処断され、臨済宗の禅僧夢窓国師に弟子入りし空圓という名を受けた。

 後に親鸞聖人の『教行信証』を読み忽ち改心して浄土真宗に帰依し、その後、縁あって多田庄笹部村に草庵を結んた。空圓は赤松筑前守貞範に会い、筑前守は懐かしがって播州明石の大蔵谷に庵と領地を寄進し光遍寺の末寺とした。

『太平記』巻十一金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事
「二階堂出羽道蘊ハ、朝敵ノ第一、武家ノ補佐タリシカ共、賢才ノ誉、兼テヨリ叡聞ニ達セシカバ、召仕ルベシトテ、死罪一等ヲ許サレ、懸命ノ地ニ安堵シテ居タリケルガ、又隠謀ノ企有トテ、同年ノ秋ノ季ニ、終ニ死刑ニ被行テケリ」とある。

「二階堂出羽守道蘊貞藤は執権北条高時の命で、阿曽・大佛・江馬・長崎等と共に五万余騎で金剛山を攻めるべく鎌倉から派遣されていた。しかし、幕府が滅びた後も都を攻めようと南都に留まって様子を伺っていた。朝廷は中院中将定平を大将に五万余騎と、楠正成に畿内勢二万余騎にて追討に向わせたところ、遂に全軍投降し阿曾らは捕らえられて斬首された。しかし、二階堂出羽守は朝敵の第一と言われ高時の補佐役ではあったが、その賢才の誉は帝の耳にも達していたので死罪一等を許されて召抱えられることになり、懸命の地に安堵されていたが、陰謀の企て有りとして建武元年秋の末に終に斬首された」。

 ここで言っている二階堂道蘊の「賢才ノ誉」とは『太平記』(巻一資朝・俊基被捕下向関東附御告文事)に「日野資朝・俊基が謀叛の罪で幕府に捕えられて処断されたが、執権北条高時のこれ以上の動きを静めるべく帝の御告文を吉田中納言冬房が草稿を認めて萬里小路大納言宣房卿が関東に持参した。その御告文を秋田城介が受け取り、相模入道高時が披いて見ようとした時、二階堂道蘊は天子自ら武臣に対して直に告文を下されたことは異国にも我朝にもいまだその例を承らず文箱を開かずに勅使に返すべきだと言ったが、高時は何が苦しかるべきことがあろうと斉藤利行に命じて御告文を朗読させた。斉藤利行は途中で目眩がして鼻血をだして退室しその日より喉の下に悪瘡ができ、七日の内に血を吐いて死んだ」という。

建武元年(1334)に正二位権大納言西園寺公宗の陰謀が露見して、陰謀に加担していたとして二階堂道蘊父子は六条河原で処刑された。西園寺公宗の陰謀とは、当時、天皇家は持明院統と大覚寺統の二流があり、北条氏の調停により交代で天皇を出すことになっていた。持明院統の花園帝の次に大覚寺統の後醍醐帝が即位し、次は持明院統の光厳帝が即位することになっていたが、後醍醐帝の帝位への執着と建武の親政の失敗から西園寺公宗が後醍醐帝を山荘に招き暗殺し、帝位を持明院統に戻そうと企てたのである。企ては異母弟西園寺公重の密告で発覚し、二階堂道蘊も企てに加わったとして処刑された。

【光遍寺二階堂氏系図】と年表  

藤原鎌足―不比等―武智麿―乙麿―是公―雄友―弟河―高扶―斎夏―継幾―工藤為憲―時理―時信―継遠―維兼―維行―行遠―行政―行村―行義―行有―行藤―宗藤―幸藤(空圓・初代)―空賢―空蓮―空乗―空因―空玄―空真―空順―賢通

建武二年(1335)空圓笹部村に所縁ありて草庵をむすぶ

康安二年(1362)空圓四十四歳法橋良圓を招き、身影を写さしめる。

応安二年(1369)空圓遷化、五十五歳 空賢継ぐ

応永廿三年(1416)空賢遷化 七十一歳

宝徳二年(1450)空蓮遷化 五十六歳

明応六年(1497)空乗鼓滝の西の方山頂に移し、東ノ峰に一宇建立して、蓮如上人(14151499)から「光遍寺」の寺号を給わる。

文亀元年(1501)空乗遷化 六十四歳

天文二年(1533)癸巳、四月五日、光遍寺跡職沢亘方ヘ扶持セラル、(高代寺日記)

天文年中(15321554)塩川伯耆守宗門に帰依し、古御坊の地を限り西は鼓滝を境とした横山を光遍寺に寄付し永代御免地とする。

天正年中(15731591)織田信長公軍勢をつかわされし時、笹部村(現在の光福寺)に退く。賢通の時、大坂本願寺に内通忠節、信長公に横山の寺院を破却せられる。塩川没落後横山に帰る。大坂静謐ノ後東多田に御堂を建てる。天正年中には横山村にあったが、神保元仲の頃には東多田村に移された。

天正年中には横山村(古坊ノ下)にあったが、江戸時代になって「寺垣内」に移された。






【エピソード1】
上司小剣氏は光遍寺住職二階堂退省師をモデルに小説や随筆を書いている。『ごりがん』『老僧』『思い出の僧の群像』『僧家の兄弟』である。

『ごりがん』 春陽堂版 「明治大正文學全集」第三十二巻
 




『ごりがん』筑摩書房「現代日本文学大系」
 




『生々抄』
 


『大法輪』「僧家の兄弟」
 





































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