北摂多田の歴史 

『平家物語 剣之巻 』
髭切・膝丸




 沛公(劉邦)は貴坊が属鏤を伝えて、白蛇の霊を斬って、天帝の名をいでんことをえたり。始皇帝は荊軻のひ首をとって燕氏の使いをたって、聖明の運をいでん事を全うす。をよそ、白旄黄鉞の徳より馬矢石の勢い、五戈の計ごと、四義のしな、これらは彼の術をおさむる位を保つ基なり。もっとも賞翫せらるべきものは刀剣の類いたり。

 そもそも日本に多く剣あり。いわゆる宝剣、十束の剣、引田の膝丸と申す名の髭切、膝丸と申す二つの剣の由を尋ぬれば、百王五十六代の帝、清和天皇と申しける。皇子あまたまします。中にも第六の皇子をば貞純親王、その嫡子多田の満仲上野守はじめて源氏の姓を給い、天下を守護すべきよしの勅宣をぞ被りて、満仲のたまいけるは、天下を守るべきものは良き太刀をもたずばいかがせんとて、くろがねをあつめ、鍛冶を召し、太刀をつくらせてみたまふに、心につく太刀なかりきが、いかがすべきと思はれいるところに、ある者申やう、筑前国に三笠郡土山といふところにぞ、異朝よりくろがねの細工亘って数年候と申しければ、すなはち、彼を都に召しのぼせ、太刀を多くつくらせてみ給へども、ひとつも心につかず、むなしく(筑紫に)くだるべきにてありけるが、かの鍛冶おもひけるやうは、われ筑紫よりはるばると召さるるかひもなく、まかり下りなば、細工の名を失しなはんとぞ心うけれ、昔より今にいたるまで、仏神に申事のがれ得ばこそ祈祷ということもあるらめとて、八幡宮参りてつつ、帰命頂礼、八幡大菩薩、願わくは心に叶う剣つくりいださせて与え給べきやうならば、大菩薩の御器者とまかりなるべきと、願書をまいらせて、至誠心にぞ祈りける。七日に満する夜の御指南に曰く、汝の申ところ不憫なり、かくまかりいでて六十日のあいだ、くろがねを鍛ふ、つくれ最上の剣、二つ与ふべしと文明に御夢想ありけるが、さいさいよろこびて社頭をいでにけり。その後、よくかねをわかし、鍛え給い、六十日にてつくりたり。まことに最上の剣二つつくりいだす。長さ二尺七寸の、漢ノ皇祖の三尺の剣とも言いつべし。満仲、大いに喜びて二ツの剣にて憂き端の者を斬らせてみ給ふに、一の剣は肘を加えて斬ってければ、髭切と名付けたり。ひとつをは膝を括って斬りければ、膝丸とぞ申しける。満仲、髭切、膝丸、二ツの剣をもつて、天下をしょうし給ひけるに、なびかぬ卒もなかりけり。




 この嫡子摂津守頼光の代となりて、不思議、様々多かりけり。中にも一ツの不思議には、天下に人多く死する事ありし、死しても失せず。座敷に連なって集まりいいたる中に、立ってし見えず、かき消すようにぞ失せしける。行く末も知らずありと、知るも聞かずありけれは、恐ろしと言う計りなし。上一人より下万人にいたるまで、騒ぎ恐るる事申すにおよばず、これを詳しく尋ぬれば、嵯峨天皇の京にある公卿の娘、あまりに嫉妬深くして、貴船の社に詣でつつ、七日籠もりて申すやう、帰命頂礼、貴船大明神、願わくば七日籠もりたり。しるしに我を生きながら鬼人になし給い給へ。妬ましと思ひつる女をとり殺さんとぞ祈りける。明神哀れとや思しけん。まことに申すところ不憫なり。鬼になりたくば姿を改めて、宇治の河瀬に行きて、三七日浸たれと示現ある。女房よろこびて都へ帰り、人無き所に立て篭もりて、丈長の髪をば五つに分け、五つの角にぞつくりける。顔には朱をさし、身には丹をぬり、鉄輪をば垂らして、鉄輪の三つの足には松をともし、松明をこしらえて、両方に火をつけて、口に咥えつつ、夜更けて静まりて、大和大路へ走り出で、南をさして行きたれば、かたへより五つの火もとあかり、眉ふとく、ねくろにて、面赤く、身も赤ければ、さながら鬼人の姿にことならず。これを見る人、肝魂を失い、倒れ、臥し、死すといふ事なかりけり。かくのごとくして、宇治の河瀬に行きて、三七日ひたりければ、貴船の社のはからひにて、まことの鬼とぞなりにける。宇治の橋姫とはこれなるべし。さて、妬ましきと思う女、その縁、われを荒ぶ男の親類兄弟、上下をも選ばず、男女をもきらはず、思うやうにぞとりうしなふ。男を見んとては女に扁心し、女をと見んとては男に扁心して人をとる。京中の貴賤、申の時より酉のはじめにいたるまで、人を通さず、門戸を閉じてそ侍ける。




 そのころ摂津守頼光の御うちに、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武とて四天王をぞつかはれける。中にも綱はその髄一たり。武蔵国の美田と言うところにて生まれたりけれは、美田の源二とぞ申しける。一條大宮なるところに頼光いささかの用事ありければ、綱を使者につかはさる。夜陰にをよびければ、髭切をはかせ、馬に乗せてぞつかはしける。かしこに行きて訪ね、問答して帰りけるに、一條堀川の戻り橋を渡りけるとき、東の詰めに齢二十余りと見たる女の肌へは雪のごとくにて、姿は掠れおりけるが、紅梅の打着せにまほりかけて、佩帯した袖に経を持って、人目せず、唯一人、南へ向きて行きける。綱は橋の西の詰めを過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、何処えおはするぞ、われらは五條辺りに侍る。しきりに夜ふけて恐ろし、送りて給ひなんやと、なれなれしげに申しければ、綱はいそぎ馬よりとびおり、御馬にめされ候へと申したれば、よろこばしくこそと言う間に、綱は近く歩みよつて女の腹をかき抱いて、馬にうち乗せて、堀川の東の詰めを南のかたへ行きけるに、正親町へいま一二段がほどうち出でぬと思うところに、この女ぱら、うしろへ見かへりて申けるは、まことに五條辺りにはさしたる用事も候はぬ、我が住むところは都のほかにて候也。それまで送り候いぬ。何処までもおはします所へ送りまいらせ候べしと言うを聞いて、やがて美しかりし姿を変えて、恐ろしげなる鬼になつて、いざ、我が行くところは愛宕山ぞ、と言うままに、綱がもとじりを掴んで飛び続けて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず、くだんの髭切をさつとぬき、空さまに鬼の手をふつと斬り、綱は北野の社の回廊の屋根の上にどうと落つ。鬼は手を斬られながら、愛宕へぞ光ゆく。さて、綱は回廊よりおどり降りて、もとどりにつきたる鬼が手を取りて見れば、雪のかたちはひき変えて、黒き手かぎりなく、白髪ひまなく覆ひ茂り、しろかねの針を立てたるがごとくなり。これを持ってまいりたりければ、頼光大きに驚き給い、不思議のたりと思ひ給ひ、晴明を召せとて播磨守安倍晴明を召して、「如何にあるべし」と答ひければ、綱は七日のいとまを給いて慎むべし、鬼の手をばよくよく封じ置き給ふべし。「来たらねば人王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行われける。




 既に六日と申しける黄昏どきに、綱が宿所の門をたたく。何処よりと尋ねれば、綱が養婦、渡辺にありけるが、のぼりたりとぞ答えけり。かの養婦と申すは、綱のためには伯母たり人、して如何、悪しようにに思え給う事もやとて、門のきわまで立ち出でて、「たまたまのおのぼりにて候らへども、七日のものいみにて候が、今日で六日になりぬ、明日ばかりは如何なる事候とも、かなうまじや、と召され候べし。明後日になりたれば、つれまいらせ候べし」と申しければ、母これを聞いて、さめざめとたち泣きて、力なよはす候なり。さりながら、わどのを母が生みおとしてより、受け取りて、養い育てし志、いかばかりと思うらん。夜とてもやすく寝もせず、たまたま寝るとても濡れにしところにわが身臥し、乾けるところにわどのを抱き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、いつか我が子の成人して、人に優れてよからんことをも、見ばや、聞かばやと思いつつ、夜昼、願いしかありて、摂津守殿の身内に、美田の源次と言いつれば、肩を並ぶる人もなし。上にも、下にも褒めくれぬれば、喜びとのみこそ思いつれど、悲れう遠の道なれば、常にのぼる事もなく、見えばや、見ばやと恋しと思うこそ、親子の中の嘆きなれ。これほどうち続き、夢見も悪しなえ侍れば、おぼつかなく思われて、渡辺よりのぼり来れども、門の内へも入れくれず、親とも思はれぬ我が身の事、恋しく思う事こそはかなけれ。綱は道理に責められて、門を開いて入れにけり。母、喜びにて、うたた行く末の物語し、さて、「七日の物いみと言いつるは、何事にしてありけるぞ」と答いければ、隠すべき事あらねば、ありのままにぞ語りける。母これを聞き、「さては重き慎みにてありけるぞや、さほどの事とも知らず、怨みけるこそくやしけれ。さりながら、親は守りにてありければ、別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは如何なるものにてあるやらん、見ばや」、とてぞ申されける。綱、答えて曰く、「やすき事にて候えども、堅く蓋して侍れば、七日過ぎては叶うまじ、明くる暮れて、とく見参に入れ申すべし」。母の曰く、「よしよくさては見ずとても、ことのかくべき事ならず、我はまたこの暁は夜をこめてくだるべし」と恨み顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出し、養母の前にぞを置きりける。母なをも怨み顔にて、すこし立ち、そば見たるふぜいにて、うちかへし、うちかへしこれを見て、「あなおそろしや、おにの手といふものは、かかるすさましきものにてありけるや」と言いて、さしおくやうにて、立ちさまに、「これは我が手なれば取るぞ」と言うままに、恐ろしげなる鬼になりて、空にあがりて、破風の下を蹴破りて、雲をわけてぞ入りにける。それよりして、渡辺党の家をつくるには、破風をうたずして、東屋つくりにするとかや。綱は鬼に手を取りかえされて、七日の物忌み破ると言えども、仁王経の力によつて、別の子細はなかりけり。この髭切をば鬼の手斬ってのち、鬼丸と改名す。




 同じき年の夏の頃、頼光、瘧へいをし致し、如何におとせども落ちず、後には毎日に起こりけり。しかるに、起こりぬれば、頭痛く、身に邪気出でて、天にもつかず、地にもつかず、中にうかれて、なやまれけり。かやうに逼迫する事は三十余日にぞ及びける。ある時、又大事には、のち申するやうに、おこり上下たまたま意識を失うところにて、失しけんに見えさせ給ふなれば、四天王の者にも、看病かひなくなりなれば、何れも休めんとて、すこし引きのきて、休みおり、頼光すこし夜更け方のことなれば、かすかなる灯火の影より、丈七尺ばかりなる法師、するすると歩みよつて、縄を持って頼光につけんとす。頼光これに驚いて、がばと起き、何者なれば頼光に縄ばつけんとするぞ、憎きやつかなとて、枕に立てて置かれたる膝丸を引き取りて、はたと斬る。四天王共も聞きつけて、われもわれもと走り寄り、「何事にて候」と申しけれは、しかじかとぞのたまひける。灯台の下を見ければ血こぼれたり。手に火を灯して見れば、つま戸より簾のうへに血こぼれたり。これを追い行くほどに、北野の後ろに大なる塚あり。かの塚へ入りたりければ、すなはち塚を堀くずして見るほどに、四尺ばかりなる山蜘蛛にてぞありける。からめて参りたりければ、頼光やすらかざる事なれ、これほどのやつに誑かされ、三十余日が間、悩まされけるこそ不思議なれ。大路にさらすべしとて、くろがねの串に刺し、河原に立ててぞ置きにける。




北野天満宮の側「東向観音寺」にある「土蜘蛛灯籠」







 これより膝丸を蜘蛛切丸とぞ申しける。頼光の代より、出羽守頼基の手にわたる。天喜五年、頼光の弟河内守頼信の嫡子、予守頼義、奥州の牢人、栗谷河次郎、安倍貞任、鳥海の三郎、同宗任、兄弟、謀反のよしぞの聞こえありければ、彼の討手に下さるる時、兼陸奥守に成し、源氏重代の剣、鬼切丸、蜘蛛切丸、頼基の元にありけるを、宣旨にて召し出ださる。頼義の朝臣の給わりてけり。頼基の曰く、この剣は祖父多田の満仲より三代相伝の太刀なり、嫡々相承の剣にて候へば、如何でか身をば離し候べきと申しけれども、御用いなければ力及ばず出しけり。頼義これを給て、奥州に下向し、九か年の間、戦いつつ、常に戦にうち勝ち、貞任が首をとり、宗任をば生け捕りて、上洛す。貞任が丈九尺五十、宗任ははるかに劣りて六尺四寸ぞありける。頼基の宿所にありけるを、敬称人かくはきこしめし、東の戎、さぞはおかしく侍りめ、いざゆきて見んとて、梅花を一枝たおりて、「宗任これはいかに」と、答いければ、宗任とりあへず 我が国の梅の花とは見たれども 大宮人は如何に言うらん と申したりければ、皆しらみてぞ帰りける。さて宗任は筑紫へながされたりけり。子孫繁昌して、今にあり。松浦党とはこれなり。

 鬼丸、蜘蛛切、二つの剣をば、頼義の朝臣より嫡子八幡太郎義家に譲りけり。ここに出羽国に仙北金沢の庄に立て篭もりたる武衡、謀反の由、聞こえければ、国中の乱撃を鎮めんが為に、義家は馳せ向かう、猛き兵なりければ、さうなく落ちず、三ヶ年に滅びにけり。頼義の九ヶ年の戦いと、義家の三年の戦を、合わせて十二年の合戦とは申すなり。いつれも剣の德によつて、敵をばとりてけり。義家子ども多くありけれども、嫡子対馬守義親は出雲国にて謀反の聞えあるによつて、因幡守正盛を追討使にくだされて、彼の国にて討たれぬ。二男河原の判官義忠、三男式部の大夫義国、これらにも譲らず、四男六条判官為義に譲り給ふ。十四の歳、伯父美濃守義治、謀反の由風聞す。為義討っ手にぞ向かいける。義治は甥の為義向かうと聞て髻切り、降を乞うて上洛す。これも剣の用とぞ思しける。又、十八歳にて南都の衆徒朝家を怨み奉りて、数万人の大勢京へ攻めのぼりしを、為義十六騎にてくりこ山にはせ向かい追い返す。同じく剣の德とぞ聞こえける。その時、山法師一首の三し(三十一文字)をぞたてたりける。

 「奈良法師、くりこ山までしぶりきて いか物の具をむきぞとらるる」と読みたりければ、奈良法師やすからぬことにして、いかにもこの答え読み返えさんと、立やすらふところに、阿波の上座と言う者に計られて、山法師禁獄せらるるなり。法師くりこ山の答えにぞ読みたりける。 「比叡法師、阿波の上座に計られて 厳しく獄につがれらるかな」とぞ読みたりける。さて、為義は十四にて伯父を生け捕りにせし顕彰に、左近将監になさる。廿八にて左衛門、三十九にて検非違使になさる。その後、陸奥を望み申しけれは、為義が為には不吉也。祖父頼義は九ヶ年の合戦し、親父義家が三ヶ年の戦を、意趣残る国なりけり。為義、国司になりなば、又、国の狼藉出来せん。他国を給うはらんと仰せありければ、先祖の国を給はらずば、受領しても何かせんとて、ついに受領せざりけり。為義は、腹々に男女四十六人あり。熊野御参詣の時、この山には別当ありやと御尋ねありけるに、未だ候はずと申しけれは、如何でかさる事あるへき、別当の器量を尋ねらる。ここに、宇井党、鈴木党と申すは、権現摩伽蛇国よりわがしやうへ飛びわたり給ひしとき、左右の翼となりて渡りしものなり。これによつて、熊野をばわがままに管領して、又、人なくぞふるまひける。ありしも権現の御前にそなへて籠もりたる山伏を別当になすへき由、鈴木計らい申しけれは、我が身その器量不足とて、教真別当の始めなり。

 教真別当、この剣ぎを得て、これは源氏重代の剣なり。教真が持つべきにあらずとて、権現に参らせけり。さて為義、一組に持ちたりける剣を失うて、片手のなきやうに思われければ、播磨国より鍛冶をめしのぼらせ、獅子ノ子を手本にして、すこしも違えず作らるる、最上の剣なりければ、喜び給ふ事限りなし。目抜きにカラスをつくれば、子烏とぞ名ずけたり。為義は獅子の子に烏とて一組秘蔵しけるが、今の子烏二分ばかり長く作りけり。ある時、二の剣を抜いて、障子に寄せかけて置かれたりけるが、人も触はらぬに、カラカラと倒れる音聞こえければ、如何に剣こそ転ぬ。損傷しつらんとて、取り寄せて見給へば、日頃は二分ばかり長しと思いつる子烏が、獅子の子と同じやうにぞなりにける。不思議かな、さるべきやうやある。斬れたるか、折れたるかとて、先を見れども、切れとも折れもせざりけり。怪しんで柄を見るに、目抜き折れてなかりけり。抜いてこれを見れば、柄の中に二分ばかり新しく切れて、目抜きを突き抜いて、下がりたりと見えたり。一応、獅子の子が斬りきりたる由と心得て、獅子の子を改名して、友切りと名付けたり。その後、御歳長け、齢衰えたり。今は剣持ちても、何かせんとて、かの友切り、子烏、二つの剣を嫡子、下野守義朝にぞ譲られける。

 さりしほどに、保元ノ合戦いできたり、義朝が内裏に召され、為義は院の御所へ召され、子供六人相具して院の御所へぞ参りける。保元の年、七月十一日、寅の刻に戦始まりて、辰の時には戦果ててけり。ただ三時に戦敗れて、新院負け給ふ。その時、為義は天台山に馳せ登り、出家し、義法坊とぞ名付けにける。子なれはよもや見放じとて、義朝がもとへ下りけり。けれども、朝敵なればかなはず、やがて義朝受け給はりて斬り伏しこそ無残なれ。義朝、保元の顕彰に、播磨守になりにけり。舎弟六人召し出だされ、五人は斬られぬ。為朝一人はお落ちりけるが、ほどをへて、九州、田の祢と言う所より召し出だされて、伊豆国へ流されたり。ついにはこれも斬られにけり。子供四人も斬られぬ。義朝ばかり残りたりけれども、平治元年に、悪右衛門頭信頼に騙らはれて、謀反を起こし、子供多く持ちたりしかども、三男右兵衛助頼朝とて、十三になりけるを末代の大将とや見給ひたる。薄金といふ鎧を着せ、友切りと言う剣佩かせ、先に打ち立てけり。されども、朝敵なれば、早戦くさに打ち負けて、義朝は都を落ちて、西近江比良と言う所に留まりて、よもすがら八幡大菩薩をぞ怨みたてまつりける。昔はこの剣を持って、敵を攻めしに、靡かぬ草木もなかりしに、世の季になりて、剣の聖も失せぬるかや。大菩薩も捨てさせ給ひたりか、是ほどに戦にさうなく、負けるべきにあらねども、義朝が大祖爺義家は八幡大菩薩の御子として八幡太郎と名を付け、七代までは、如何でか捨て給ふべき。義朝までは三代なりとて、よどろみたる御子孫に曰く、我汝を捨つるにあらず、持つところの友切り丸と言う剣は満仲が時、俄に与えし剣なり。髭切、膝丸とて始めのままにてあらば、剣の威勢あるべきに、次第に名を付け替ゆるによつて、剣の聖も弱きなり、ことさら友切と言う名をつけられて、敵をば従えしとて、友切となりたるなり。宝剣にて為義が斬られ、子供も皆滅びし、友切と言う名のあるゆへなり。この前、戦にきり負けしども、友切と言う剣の名の德なれば、全く我を恨むべからずと、昔の名に返したらば、季は繁昌すべきなりと、新たに給し剣ありければ、義朝、夢覚めて、誠にあさましくぞ覚えける。この事を受け給はるに、悪しくつけられたりけるものかな、さては、昔に返すべしとて、髭切とぞ呼ばれけり。さて、比良を出でて、高島を通りけるに、頼朝、馬上にて少しまどろみて、父兄弟にも遅れたり。そのへんの者ども七八十人馳せ合わせて、生け捕らんとしたりけるに、頼朝驚いて、髭切りを抜いてたち払いければ傷をかうむ被る者多く、又、死する者もその数知らずぞ多かりけり。髭切に改名しける印とぞ聞こえける。



 その夜は塩津の庄司のもとに宿して、夜半ばかりに、道知る人を得て、東江州へ移りにけり。藤川、不破の関も塞がりて、京より討っ手の下ると聞こえければ、義朝は雪の山に分け入りにけり。頼朝は幼き身なれば、大雪を分け難くて、山口に泊まりにけり。悪源太は一人離れて、飛騨の国へ落ちぬ。義朝は朝長ばかりを相具して、美濃の国青墓のがもとに留まりて、裏伝いして、尾張の国辰巳の住人長田庄忠致が宿にして、平治二年正月一日の早朝に主従二人討たれにけり。忠致は義朝の郎従正清が舅なり。相伝の主と婿を討って、世にあらんと思うこそ討たせけれ。忠致は主従二人の首と子烏と言う太刀たちとをば、都にのぼせ、平家の見参に入てけり。兵衛佐頼朝は山口に捨てられたりしが、東近江草野の庄司と言う者に助けられおはしまし、天井に隠れいたりしほどに、頼朝、おさなれども、賢き人なりければ、つらつら篤しけるは、我、隠れいてありとも、始終に現れなん身こそはさて恥ずとも、源氏重代の剣を平家に取られん事こそ、憎くらしけれ、如何にしてか、隠すべき、と思ひつつ、庄司に語りて曰く、この日頃やしなはれたてまつるも、前世のことにこそ侍りめ。今は一考親方と頼むなり。尾張の熱田の大宮司は頼朝のためには母方の伯父なり。それまでこの太刀を持ちて下り、申さるべきやうは、頼朝はしかじかの所に深く忍びて候らへども、ついには逃るべきにあらず。たとひ頼朝こそ殺さるるとも、この太刀失なはじと存知候。しるべくは、熱田の社に込め置いてたまひ給へとのたまへば、庄司、尾張にくだり、大宮司にこの由を申ければ、すなはち、宝殿に納めてけり。さるほどに、清盛の舎弟三河守頼守は平治の合戦の顕彰に、尾張守になり、しかるに候、中に弥平兵衛宗清に目代にてくだりけるが、上洛の時、兵衛佐隠れておはしましけるを聞つけて、探し取りてのぼりにけり。やがて宗清預かりにけり。死罪に行なはるべかりしを、池の尼御前のしきりに申し受けて、伊豆の北条蛭ヶ小島へぞ流がされける。二十一年の星霜をへて、卅四と申ける。治承四年の夏の頃、高倉の令旨、ならびに一院の宣旨を給つて、謀反を起こされし時、熱田の社に込められし髭切を申し出して帯しけり。



 さてこそ、日本五畿七道をばうち従え給ひけれ。平治の合戦の時、常磐腹の子に牛若とて、その後,、九つの歳、鞍馬寺の一の阿闍梨東光坊真圓の弟子覚圓坊阿闍梨圓乗に従て学問し、後には、遮那王ことぞ申しける。十六と申しける。承安四年の春と言う、金商人に相友して東国に下りける道にて、自らお男になりて、九郎源義経と名のり、奥州の権太郎秀衡に対面す。かくて、しばらくは徘徊し程に、兵衛佐の謀反の企てと聞えければ、義経喜びは馳せ上り、金沢と言う所にて兄に見参す。昔今の物語し、互いに喜び給ふ事斜めならず。信濃国の住人木曽の冠者義仲、これも高倉の宮の令旨を給いて、謀反を起こする間、信濃、上野を始めとして、北陸道七ヶ国討ちなびかし、都に上り、平家を攻め落として、天下をわがままにする間、今は院の御所法住寺殿に押し寄せて、月卿雲客(公卿殿上人)に、ところもをかず合戦して、破壊し、焼きけりぬ。しかのみならず、院をも五条の内裏に押し込めまいらせ、公卿殿上人をも官職を留めて、追い込めらる。これによつて、公家より関東に御使いありて、ことの仔細を仰せらるるあいだ、兵衛佐大きに驚き、舎弟蒲の冠者範頼、九郎冠者義経を大将として、六万余騎をさしのぼす。元暦元年正月廿日、都に入り、木曽左馬頭を攻め落として、大津の粟津にて、首を取る。その後、平家追討のために、摂津国一ノ谷に発向するところに、熊野の別当教真が子息五人をば、本宮、新宮、那智、わ田(若田)、の辺(田辺)、五ヶ所に分けて置く。この内に、いずれも長じたらん者を、別当を継がすべしと、遺言したりけるが、その頃、田辺の湛増、長じたりければ、別当申しけるは、源氏は我らの母方なり。源氏の代となさん事こそ、よろこばしけれ。兵衛佐頼朝も、湛増がために親しきぞかし。その弟範頼、義経、佐殿の代官にて、木曽追討し、平家攻め下らるる由、その聞こえあり。源氏重代の剣、もとは、膝丸、蜘蛛切、今は吼丸とて、為義の手より、教真にてまいらせたりしを、申し受けて、源氏に与え、平家を討たせんとて、権現に申し給いて、都に上り、九郎義経にわたしてけり。義経ことに喜びて、うすみどりと改名す。そのゆへは、熊野より春の山をわけて、出たれば、うすみどりと名付けたり。この剣を得てより、日頃は平家に従いたる、山陰、山陽の輩、南海、西海の兵、源氏につくこと不思議なれ。二月三日、源氏は都を出でて、一ノ谷に向かう。軍兵を二手に分けて、範頼大将軍にて、五万余騎、摂津国より押し寄す。後詰大将軍義経、三草山より発向す。大手、からめて、同心に、七日の卯のときより、巳のときに至るまで、さんざんに戦う。源氏戦にうち勝って、平家はかけ負け、思い思いに、落ちにけり。平家の大将軍越前の三位通盛以下八人まで討たれにけり。



 同十三日、一門の首ぞ、のぼりの首共大路をわたして、獄門の木に掛く。その恩賞には、八月六日に、九郎御曹司は左衛門尉になり、やがて、つかいの宣旨を被りて、五位尉にとどまり、大夫判官とぞ申しける。蒲の御曹司範頼は三河守になされけり。同じき二年二月十一日に、又、平家攻めにわたらんとて、渡辺、神崎にて、舟揃えをしけるとき、九郎判官と梶原平三景時と、逆櫓をたてる、たてじの口論して、中不和になりにけり。されども、義経は大風にも恐れずして、わずかに舟五十艘ばかり押し渡し、ただ五十騎ばかりにて、はせ渡る。梶原はこの意趣にやきけん、大風にや恐れけん。あくる日にぞ渡しける。義経、然るに、案内者をしるべにて、屋島の館を焼き払い、三月廿二日には、長門国赤間関にはせ向かう。範頼は九国の軍兵を相具して、豊前国門司の関に向かい、平家を中にとりこめて、互いにかぎりとぞ戦いける。ついに平家攻め落とされて、先帝をば二位殿負いまいらせて、海に入らせ給ひけり。前のおほい(大臣)殿 以下、三十八人生け捕られけり。判官殿、在々処々にて、多くの戦いしけれども、一所も傷を被むらじ。まいどの戦に打ち勝って、日本国に名をあげしことも、ただこの剣の力なり。義経、南海、西海をうち従え、平家の生け捕り共相具して、三種の神器もろともに都へ返し入り奉りけり。ただし、三種の神器の内、宝剣は失せしけり。内侍所と神璽ばかり都にのぼせ給ふ。



 さて、九郎大夫の判官義経は平氏の生け捕り共相具して、関東へ下向ありけるが、梶原平三が諫言によって、腰越に関を据えて、それより鎌倉へ入いられず、判官、本意なき事に思われ、色々のことを書き記して、他意なくまいらせらるる。とは言えども、もちいずして、その後、都に上りける時、箱根の権現に参りて、兄弟の中、如何にも純塾するやうにとて、うすみどりの剱をまいらせらるる。その後、土佐坊正けん、都に上り、謀り討たんとしけれども、判官心得ておはしければ、ついには討ち損じて、鞍馬の奥、僧正ヶ谷に籠もりたりけるを、鞍馬法師、昔のよしみありければ、すなはち、絡め取って判官に奉つる。務丞とも国に仰せて、六条西の朱雀にて誅せられけり。関東より、かさねて討って上洛の由、聞こしければ、義経五百余騎を召し具して、西海に赴き給へども、津ノ国大物ノ浦を過ぎて、悪風に驚されて、数多の舟共吹き散らされ、ついに、静と言う白拍子を召し具して、吉野山に入り、その内、北陸道にかかり、奥州に下り、秀衡入道を頼みて、二三年ありて、文治四年四月廿九日、五百余騎にて攻めけるに、判官泰衡に向かって戦してども、だめとて、女房廿二、若君四歳、当歳子の姫君、我が身三十一と申しけるに、本意をも遂げずして、ついに自害してこそ失せにけれ。中も治らぬもの故に、剣を権現に参らせけるも、運の尽き始めとぞ仰しける。建久四年五月廿八日の夜、相模国曽我十郎祐成、同じき五郎時致が、親の敵祐経を討ちけるとき、箱根の別当行実が手より、兵庫鎖の太刀を得たりければ、思うように敵をぞ討ったりける。この太刀は九郎判官の権現に参らせたりし、うすみどりと言う剣、昔の膝丸これなり。親の敵、心のままに討って、日本五畿七道に聞こえ上げ、上下万人に褒められけるも、この剣の威徳とて聞こえける。その後、かの膝丸、鎌倉殿に召されけり。髭切、膝丸、一具にて、多田の満仲、八幡大菩薩より給つて、源氏重代の剣なれば、しはらく中絶すといへども、ついには一所にあつまる事、貴台の不思議、天下おさまるべきゆへとかや。










はいこう(沛公)はきはう(貴坊)がしょくろう(属鏤)をつた(伝)へて、はくじゃ(白蛇)のれい(霊)をきって、天てい(天帝)の(名)をいでんことをえたり。しくわう(始皇帝)はけいか(荊軻)のひしゅ(ひ首)をとってゑんし(燕氏)乃つか(使)をたって、聖明のうん(運)をいでん事をまった(全)うす。をよそ、はくほうくわうえつ(白旄黄鉞)のとく(徳)より馬矢石のいきほひ、五戈のはかり(計)ごと、四義のしな、これらはくわ乃(彼の)じゅつ(術)をおさむるくらゐ(位)をたもつもとい(基)なり。もっともしやうくわん(賞翫)せらるべきものはとうけん(刀剣)乃たぐひたり。そもそも日本におほく(多く)つるぎあり。いわゆるほうけん(宝剣)とつかのけん、ひけたのひざ丸と申す(名)のひげきりひざまると申すふたつのつるぎのゆい(由緒)をたつぬれば、百わう(桃王)五十六代のみかど(帝)せいわ天王(清和天皇)




清和天皇と申しける。わうじ(皇子)あまたましますなかにも第六のわうじ(皇子)をばさだすみ(貞純)のしんわう(親王)そのちゃくし(嫡子)多田の満仲かうつけ乃かみ(上野守)はじめてげんじ(源氏)のしゃう(姓)を給ひ、天下をしゅご(守護)すべきよしのちょくせん(勅宣)をぞこうふりて、まんちう(満仲)のたまいけるは、てんかをまもるべきものはよきたち(太刀)をもたずばいかがせんとて、くろがねをあつめ、かち(鍛冶)をめし、たち(太刀)をつくらせてみたまふに、心につく太刀なかりきが、いかがすべきとおもはれいるところに、あるもの申やう、ちくせんのくに(筑前国)にみかさのこほり(三笠郡)つち山(土山)といふところにぞゐてうより、くろがねのさいく(細工師)わたって(亘って)すうねんさふらふと申しければ、すなはち、かれをみやこにめしのぼせ、たちをおほくつくらせてみ給へどもひとつも心




心につかずむなしく(筑紫に)くだるべきにてありけるが、かのかち(鍛冶)おもひけるやうは、われつくし(筑紫)よりはるばるとめさるるかひもなく、まかりくだりなば、さいく(細工)の(名)をうしなはんとぞ心うけれ、むかしよりいまにいたるまで、仏神に申事のかれへばこそきたう(祈祷)といふこともあるらめとて、八まん宮にまひり(参り)てつつ、きみやうちやうらい(帰命頂礼)八まん大ほさつ(八幡大菩薩)、ねがわくは心にかなふつるぎ(剣)つくりいださせて、あたへ給べきやうならば、大ほさつ(大菩薩)の御うつわもの(御器者)とまかりなるべきと、くわんしよ(願書)をまいらせて、ししやう心(至誠心)にぞいのりける。七日にまんする夜の御しなん(御指南)にいはく、なんちの申ところふびんなり、かくまかりいでて六十日のあいだ、くろがねをきたふ、つくれさい上(最上)のつるぎ(剣)二つあたふべし、とふんみょう(文明)に御むさう(夢想)ありけるが、さいさいよろこびてしゃとう(社頭)をいで




いでにけり。そののち、よくかねをわかし、きたい(鍛え)たまひ、六十日にてつくりたり。まことにさい上のつるぎ二つつくりいだす。長さ二しゃく七寸の、かんのかうそ(漢ノ皇祖)の三尺のけん(剣)ともいひつべし。




まん中(満仲)おほきによろこびて二のつるぎ(剣)にてうきは(憂き端)のもの(者)をきらせてみ給ふに、一のつるぎ(剣)はひじ(肘)をくはへてきつてければ、ひげきり(髭切)となつけたり。ひとつをはひざ(膝)をくくつてきりければ、ひざ丸(膝丸)とぞ申しける。まん中(満仲)ひげきり、ひざまる、二(ツ)のけん(剣)をもつて天下をしやうし給ひけるに、なびかぬ卒もなかりけり。このちやくし(嫡子)せつつのかみ(摂津守)らいくわう(頼光)の代となりて、ふしぎさまさまおほかりけり。中にも一(ツ)のふしぎには、天下に人おほく(多く)しする(死する)事ありし、してもうせず(失せず)。ざしき(座敷)につらなつてあつまりゐいたるなかに、たつて(立って)し見えず、かきけすやうにぞうせ(失せ)しける。ゆくすえもしらずありと、しるもきかずありけれは、おそろしといふ(言う)、はかり(計り)なし。上一人よりしも(下)万人にいたるまで、さはぎおそるる事申(す)におよばず、これをくはしくたつぬれば、さが乃天わう(嵯峨天皇)のきょう(京)にあるくきやう(公卿)のむすめ(娘)あまりにしつとふかく(嫉妬深く)・・




あまりにしつとふかくして、きふねのやしろ(貴船ノ社)にまうでつつ、七日こもりて申すやう、きみやうちやうらい(帰命頂礼)きふねの大みやう神(大明神)、ねがはくは七日こもりたりしるしに、われをいきながらきじん(鬼人)になしてまひ給へ。ねたまし(妬まし)とおもひつる女をとりころさんとぞいのりける。みやうじんあはれ(哀れ)とやおほしけん。まことに申すところふびんなり。「おにになりたくばすがたをあらためて、うち(宇治)の河せ(河瀬)にゆきて三七日ひたれ」としけん(示現)ある。女房よろこびてみやこへかへり、人なきところにたてこもりて、たけながのかみ(髪)をば五つにわけ、五つのつの(角)にぞつくりける。かほ(顔)にはしゆ(朱)をさし、身にはたん(丹)をぬり、かなわ(鉄輪)をばたらひ(垂らし)て、(鉄輪の)三つのあし(足)にはまつ(松)をともし、たいまつをこしらへて、両はうに火をつけて、口にくはへつつ、夜ふけ人しつまりてのち、やまとおほち(大和大路)へ・・




やまとおほち(大和大路)へはしりいで、みなみをさしてゆきたれば、かたへより五つの火もとあかり、まゆ(眉)ふとく、ねくろにて、おもて(面)あかく、身もあかければさながらきしん(鬼人)のすがたにことならず。これを見る人きも(肝)玉しいをうしなひ、たふれ(倒れ)ふし、しす(死す)といふ事なかりけり。




かくのごとくして、宇治のかわせ(河瀬)にゆきて、三七日ひたりければ、きふね(貴船)のやしろ(社)のはからひにて、まことのおに(鬼)とぞなりにける。宇治のはしひめ(橋姫)とはこれなるべし。さて、ねたましきとおもふ女、そのゆかり(縁)、われをすさふ(荒ぶ)おとこ(男)のしんるいきやうたい(親類兄弟)、上下をもえらばず、なんによ(男女)をもきらはず、おもふやうにぞとりうしなふ。おとこ(男)を見んとては女に扁心し、女をと見んとてはおとこ(男)に扁心して人をとる。京中のきせん(貴賤)、さる(申)のときより、とり(酉)のはじめにいたるまで、人をもとをさす(通さず)、もんこ(門戸)をとちてそ侍ける。そのころせつつのかみらいくわう(摂津守頼光)の御うちに、つな(渡辺綱)、きんとき(坂田金時)、さたみつ(碓井貞光)、すえたけ(卜部季武)とて四天わう(四天王)をぞつかはれける。中にもつな(綱)はそのすい一(髄一)たり。むさしのくに(武蔵国)のみた(美田)といふところにてむまれ(生まれ)たりけれは、みたの源二とそ申しける。一でう大宮(一條大宮)なるところにらいくはう(頼光)いささかのようじ・・




ようじありければ、つな(綱)をししや(使者)につかはさる。夜ゐん(夜陰)にをよびけれは、ひけきり(髭切)をはかせ、馬にのせてぞつかはしける。かしこにゆきてたつね(訪ね)もんたう(問答)してかへりけるに、一でうほり川(一條堀川)のもとりはし(戻り橋)をわたりけるとき、ひがしのつめによわひ(齢)はたちあまりと見たる女のはた(肌)へはゆき(雪)のごとくにて、すがたはかすり(掠れ)おりけるが、こうはい(紅梅)のうちきせ(打着せ)にまほりかけてはいたいの(佩帯した)袖にきやう(経を)もつて、人もくせず(目せず)、たたひとりみなみへむきてゆきける。つな(綱)ははしのにしのつめをすぎけるをはたはたとたたきつつ、「いつちへ(何処え)おはするぞ、われらは五でうわたり(五條辺り)に侍る。しきりに夜ふけておそろし、おくりて給ひなんや」となれなれしげに申しけれは、つな(綱)はいそぎ馬よりとびおり、「御むま(御馬)にめされさふらへ」と申したれば、「よろこはしくこそ」といふあひだに、つな(綱)はちかくあゆみよつて女・・




女はらをかきいだひて馬にうちのせてほり川(堀川)のひがしのつめをみなみのかたへゆきけるに、おほきまち(正親町)へいま一二だむ(段)がほどうち出でぬとおもふところに、此(の)女ぱら、うしろへ見かへりて申けるは「まことに五でう(五條)わたりにはさしたるようじも候はぬ、わがすむところはみやこのほかにてさふらふなり(候也)、それまでをくり候ぬ」。「いつく(何処)までもおはします所へをくりまいらせさふらふ(候)べし」といふを聞きて、やがていつくし(美し)かりしすがたをかへて、おそろしげなるおに(鬼)になつて、「いざ、わがゆくところはあたご(愛宕)山ぞ」といふままに、つな(綱)がもとじりをつかむて(掴んで)飛びつつけて、いぬい(乾)のはうへぞとびゆきける。




つな(綱)はすこしもさはがず、くだんのひげきり(髭切)をさつとぬき、そらさまにおに(鬼)の手をふつときり、つな(綱)はきたの(北野)のやしろ(社)のくわいらう(回廊)の屋(根)のうへにどうとおつ。おに(鬼)は手をきられながら、あたこ(愛宕)へぞひかりゆく。さて、つな(綱)はくわいらう(回廊)よりおどりをりて、もとどりにつきたるおに(鬼)が手をとりてみれば、ゆき(雪)のかたちはひきかへて、くろ(黒)き手かぎりなく、しらが(白髪)ひまなくおひしげり、しろかねのはり(針)をたてたるがごとくなり。これをもつてまいりたりければ、らいくわう(頼光)大きにおどろき給ひ、ふしぎ(不思議)のたりと思ひ給ひ、せいめい(晴明)をめせ(召せ)とてはりまのかみ(播磨守)あべのせいめい(安倍晴明)をめして、「いかにあるべし」ととひければ、つな(綱)は七日のいとまを給いてつつしむべし、おに(鬼)の手をばよくよくふうじをき(封じ置き)給ふべし。「きた(来た)らねば人わうきやう(人王経)をかうどく(購読)せらるべし」と申しければ、そのままにぞおこなはれける。すでに六日と申しけるたそがれどきに、つながしゆく(宿)所・・




つな(綱)がしゅく所のもんをたたく。いつく(何処)よりとたつね(尋ね)れば、つな(綱)がやうふ(養婦)わたなべ(渡辺)にありけるが、のぼりたりとぞこたへけり。かのやうふ(養婦)と申すは、つな(綱)のためにはをば(伯母)たり人、していかがあしきやうに思えたまふ事もやとて、もんのきはまで立ちいでて、「たまたまのおのぼりにて候らへども、七日のものいみにて候が、けふで六日になりぬ、あすばかりはいかなる事候ともかなふまじやとをめされ候べし、明後日になりたればつれまいらせ候べし」と申しければ、母これをききてさめざめとたち(泣)きて、ちからなよはすさふらふ(候)なり。さりながらわどのを母がうみ(生み)おとしてより、うけとりて、やしなひそだてしこころざし(志)いかばかりとおもふらん。よる(夜)とてもやすくねもせず、たまたまねる(寝る)とてもぬれ(濡れ)にしところにわが身・・




ぬれ(濡れ)にしところにわが身ふし(臥し)、かは(乾)けるところにわどのをだき、四つや五つになるまでは、あらき風にもあてじとして、いつかわが子のせい人して、人にすぐれてよからんことをも見ばや、きかばやと思いつつ、よるひるねがひしかひありて、せつつのかみどの(摂津守殿)のみうちに、みたの源次といひつれば、かたをならふる人もなし。かみにも、しもにもほめ(褒め)くれぬれば、よろこびとのみこそおもひつれど、(悲)れうえん(遠)のみちなれば、つねにのぼる事もなく、見えばや、見ばやとこひ(恋)しとおもふこそ、おやこの中のなげきなれ。これほどうちつつ(続)き、ゆめ見もあし(悪し)なえ侍れば、おぼつかなくおもはれて、わたなべよりのぼりくれども、もんのうちへもいれくれず、おやともおもはれぬわが身の事、こひしくおもふ事こそはかなけれ。




つな綱はたうり(道理)に(責)められて、かと(門)をひらひて入れにけり。母よろこびにて、うたた、ゆくすえのものがたり(物語)し、さて、「七日の物いみと(言)ひつるはなに事にしてありけるぞ」ととひければ、かくすべき事あらねば、ありのままにぞかたりける。ははこれを聞き、「さてはおもきつつしみにてありけるぞや、さほどの事ともしらずうらみけるこそくやしけれ。さりながらおやはまほり(守り)にてありければ、べつの事はよもあらじ。おにの手といふなるはいかなるものにてあるやらん、見ばや」、とてぞ申されける。つな(綱)こたへていはく、「やすき事にてさふらへども、かたくふたして侍れば、七日すぎてはかなふまじ、明(く)るくれて、とくけんざんに入(れ)申(す)べし」。母のいはく、「よしよくさては見ずとてもことのかくべき事ならず、われはまたこのあかつきは夜をこめてくだるべし」とうらみかほ(顔)に見えければ、ふうじたりつるおにの手をとりいだし、やうぼ(養母)の・・




ふう(封)じたりつるおに(鬼)の手をとりいだし、やうぼ(養母)のまへにぞをきたりける。はは(母)なをもうらみかほ(顔)にて、すこした(立)ち、そば(見)たるふぜいにて、うちかへし、うちかへしこれを見て、「あなおそろしや、おにの手といふものはかかるすさましきものにてありけるや」と(言)ひて、さしおくやうにて、(立)ちさまに、「これはわが手なればとるぞ」といふままに、おそろしげなるおに(鬼)になりて、そら(空)にあがりて、はふ(破風)のしたをけやぶりて、くも(雲)をわけてぞいりにける。それよりして、わたなべたう(渡辺党)のいゑ(家)をつくるには、はふ(破風)をうたずして、あつまや(東屋)つくりにするとかや。つな(綱)はおに(鬼)に手をとりかへされて、七日のものいみやぶるといへども、仁わうきやう(仁王経)のちからによつて、べつのしさい(子細)はな・・




仁わうきやう(仁王経)のちからによつて、べつ(別)のしさい(子細)はなかりけり。このひげきり(髭切)をばおに(鬼)の手きつてのち、おにまる(鬼丸)とかいみやう(改名)す。おな(同)じきとし(年)のなつ(夏)のころ、らいくわう(頼光)ぎやくへい(瘧へい)をしいたし、いかにおとせどもおちず、のちにはまい(毎)日におこりけり。しかるに、おこりぬれば、かうべ(頭)いたく、身にじやき(邪気)いでて、てん(天)にもつかず、地にもつかず、ちう(中)にうかれて、なやまれけり。かやうにひつぱくする事は三十余日にぞおよびける。あるとき、又大事には、のちもう(申)するやうに、おこり上下たまたま(意識)をうしなふところにて、(失)しけんに見えさせ給ふなれば、四天王のものにも、かんびやうかひなくなりなれば、いつれ(何れ)もやす(休)めんとて、すこし引きのきて、やすみおり、らいくわう(頼光)すこし夜ふけかたのことなれば、かすかなるともし火のかげより、たけ(丈)七しやく(尺)ばかりなる・・




すこし夜ふけがたのことなれば、かすかなるともし火のかげより、たけ七しやくばかりなるほうし(法師)するするとあゆみよつて、なわ(縄)をもつてらいくわう(頼光)につけんとす。らいくわう(頼光)これにおどろひて、がばとおき、なにものなれば羅いくはう(頼光)になわをばつけんとするぞ、にくきやつかなとて、まくらにたててをかれたるひざまる(膝丸)をひつとりて、はたときる。四天わう(王)どもききつけて、われもわれもとはしりより、「なに事にて候」と申しけれは、しかじかとぞのたまひける。




とうだい(灯台)の下を見ければち(血)こぼれたり。手に火をとぼ(灯)して(見)れば、つまとより(簾)のうへ(に)(血)こぼれたり。これををひゆく(追行く)ほどに、きた(北)野のうしろに大なるつか(塚)あり。かのつか(塚)へ入りたりければ、すなはちつか(塚)をほりくずしてみるほどに、四しやく(尺)ばかりなる、やまくも(山蜘蛛)にてぞありける。からめてまい(参)りたりければ、らいくはう(頼光)やすらかさる事なれ、これほどのやつにたぶらか(誑か)され、三十余日があひだ、なやまされけるこそふしぎなれ。おほち(大路)にさらすべしとて、くろがねのくし(串)にさし、かわら(河原)にたててぞ(置)きにける。




これよりひざまる(膝丸)をくもきり(蜘蛛切)丸とぞもうしける。らいくはう(頼光)の代より、ではのかみよりもと(出羽守頼基)の手にわたる。天き(天喜)五年、らいくはう(頼光)のおとと(弟)かはち乃かみよりのぶ(河内守頼信)のちゃくし(嫡子)伊よのかみらいぎ(伊予守頼義)、あふしう(奥州)のらう人(牢人)くりやかはの二ろう(栗谷河次郎)、阿べのさだとう(安倍貞任)、とり乃うみの三ろう(鳥海三郎)、おなじきむねたう(同宗任)、きやうだいむほんのよし、そのきこえありければ、かの(彼の)うちて(討っ手)にくださるるとき、かねみちのくに乃かみ(兼陸奥守)になし、げんじちうだい(源氏重代)のつるぎ、おにきりまる、くもきりまる、よりもとのもと(頼基)にありけりを、せんじ(宣旨)にてめしいださる。らいぎのあそん(頼義朝臣)の給わりてけり。よりもと(頼基)のいはく、このつるぎはそふただ乃まん中(祖父多田満仲)より三代そうでんのたちなり、嫡嫡さうせう(嫡男相承)のつるぎにてさふらへば、いかでか身をばはなし候べき・・




と申しけれども、御もちゐなければちからをよばず、いだしけり。らいき(頼基)これを給てあふしう(奥州)に下かう(向)し、九か年のあひだ、たたかひつつ、つねにいくさにうちかち、さだとう(貞任)がくびをとり、むねとう(宗任)をばいけどりて、じょうらくす。さだとう(貞任)がたけ九尺五十、むねたう(宗任)ははるかにおとりて六尺四寸ぞありける。らいき(頼基)のしゅくしょにありけるを、けいしやうにん(敬称人)かくはきこしめし、あつまのえびす、さぞはおかしく侍りめ、いざゆきて見んとて、梅花を一えだたおりて、「むねたう(宗任)これはいかに」と、とひければ、むねたう(宗任)とりあへず わがくにの梅の花とは見たれども おほみや人(大宮人)はいかにいふらん と申したりければ、みなしらみてぞかへりける。さてむねたう(宗任)はつくし(筑紫)へながされたりけり。




しそんはんじやう(子孫繁昌)して、いまにあり。まつらとう(松浦党)とはこれなり。おにまる(鬼丸)、くもきり(蜘蛛切)二つのつるぎをば、らいぎ(頼義)のあつそん(朝臣)よりちゃくし八まん太郎よしいゑ(八幡太郎義家)にゆつり(譲り)けり。ここにではのくに(出羽くに)せんぼくかなさわのしやう(仙北金沢庄)にたてこもりたるたけひら(武衡)むほんのよしきこえければ、こく中(国中)のらんけき(乱撃)をしつめんがために、よしいゑ(義家)はせむかふ、たけきつはものなりければ、さうなくおちず、三かねん(三カ年)にほろびにけり。らいき(頼義)の九か年のたたかひと、よしいゑ(義家)の三年のいくさを、あわせて十二年のかせん(合戦)とは申すなり。いつれもつるぎのとくによつて、かたきをばとりてけり。よしいゑ(義家)子どもおほくありけれども、ちゃくし(嫡子)つしまのかみよしちか(対馬守義親)はいつものくに(出雲国)にてむほんのきこえあるによつて・・




いなばのかみまさもり(因幡守正盛)をついとうし(追討使)にくだされて、かのくににてうたれぬ。二男かわらのはんぐはんよしただ(河原判官義忠)、三男しきぶのたゆうよしくに(式部大夫義国)、これらにもゆつらず、四なん六でうのはんぐはんためよし(六条判官為義)にゆつり給ふ。十四のとし、をち(伯父)みののかみよしはる(美濃守義治)むほんのよしふうぶんす。ためよし(為義)うつてにぞむかひける。よしはる(義治)はおい(甥)のためよし(為義)むかふと聞てもとどり(髻 ) きり、かう(降)を、かふ(乞う)て、上らく(洛)す。これもつるぎのよう(効用)とぞおほしける。又、十八さいにてなんと(南都)のしゆと(衆徒)、てうか(朝家)をうらみたてまつりて、(数)万人の大せい(勢)、京へせめのぼりしを、ためよし(為義)十六(騎)にてくりこ山にはせむかひ、おひかへす。同じくつるぎのとく(德)とぞきこえける。その時、山はうし一首の三し(三十一文字)をぞたてたりける。




ならほうし(奈良法師)くりこ山までしふりきて いかもののぐをむきぞとらるる とよみたりければ、ならほうし(奈良法師)やすからぬことにして、いかにもこのこたへよみかへさんと、立やすらふところに、あは(阿波)の上座といふものにはかられて、山ほうし(法師)きんこく(禁獄)せらるるなり。法師くりこ山のこたへにぞよみたりける。 ひゑほうし(比叡法師)あは(阿波)の上(座)にはかられて きびしくごく(獄)につがれらるかな とぞよみたりける。さて、ためよしは十四にておち(伯父)をいけどりにせしけんしやう(懸賞)に、さこんのしやうげん(左近将監)になさる。廿八にてさへもん(左衛門)、三十九にてけんびゐし(検非違使)になさる。そののち、みちのく(陸奥)をのぞみ申しけれは、ためよし(為義)がためにはふきつ也。




そふ(祖父)よりよし(頼義)は九か年のかせん(合戦)し、親父よしいゑ(義家)が三か年のいくさ(戦)を、いしゆ(意趣)のこるくになりけり。ためよし(為義)こくし(国司)になりなば、又、くにのらうぜき(狼藉)出来せん。たこくを給うはらんとおほせありければ、せんぞのくにをたまはらずば、しゆりやう(受領)してもなにかせんとて、ついにしゆりやう(受領)せざりけり。ためよし(為義)は、はらはら(腹々)に男女四十六人あり。くまの(熊野)御さんけい(参詣)のとき、この山にはべつたう(別当)ありやと御たつねありけるに、いまださふはずと申しけれは、いかでかさる事あるへき、べつたう(別当)の(器量)をたつねらる。




ここに、ういとう(宇井党)、すすきたう(鈴木党)と申すは、ごんげむ(権現)、まかたこく(摩伽蛇国)よりわがしやうへ、とびわたり給ひしとき、さう(左右)のつばさ(翼)となりてわたりしものなり。これによつて、くまの(熊野)をばわがままにくわんれう(管領)して、又、人なくぞふるまひける。ありしもごんげんの御まへにそなへてこもりたるやまふしを、べつたう(別当)になすへきよし、すすき(鈴木)はからひ申しけれは、わが身そのきりやうふそく(器量不足)とて、けうしんべつたう(教真別当)のはじめなり。




けうしんべつたう(教真別当)このつるぎをえて、これは源じちうたい(げんじ重代)のつるぎなり。けうしん(教真)がもつべきにあらずとて、ごんげん(権現)にまいらせけり。さてためよし(為義)一く(一組)にもちたりけるつるぎをうしなふ(失う)て、かたて(片手)のなきやうにおほは(思われ)ければ、はりまのくに(播磨国)よりかち(鍛冶)をめしのぼせ(登らせ)、ししの子(獅子ノ子)をほん(手本)にして、すこしもたがへず、つくらるる、さいじやう(最上)のつるぎなりければ、よろこび給ふ事かぎりなし。めぬき(目抜き)にからす(カラス)をつくれば、こからすとぞ名つけたり。ためよし(為義)はししのこにからすとていちくし(一組)ひざう(秘蔵)しけるが、いまのこからす二分ばかりながく(長く)つくりけり。あるとき、二のつるぎをぬひて(抜いて)、しやうじ(障子)によせかけてをかれたりけるが、人もさはらぬに、カラカラとたをるをと(倒れる音)きこえければ、いかにつるぎこそころびぬ。そんしや(損傷)しつらんとて、とりよせて見給へば、日ころは二ぶばかりながしとおもひつるこからすが、ししのことおなじ・・




ししのことおなじやうにぞなりにける。ふしぎかな、さるべきやうやある。きれたるか、をれたるかとて、さきをみれども、きれともおれもせざりけり。あやしんでつかをみるに、めぬきおれてなかりけり。ぬひてこれをみれば、つかの中に二ぶばかりあたらしくきれて、めぬきをつきぬひて、さがりたりと見えたり。一ちやう(一応)ししのこがきりたるよしと心えて、ししのこをかいみやう(改名)して、ともきりと名つけたり。そののち、をとし(御歳)たけ(長け)、よはひおとろへたり。いまはつるぎもちても、なにかせんとて、かのともきり、こからす、二つのつるぎをちやくし(嫡子)、しもつけのかみよしとも(下野守義朝)にぞゆつられける。さりしほどに、ほうげんのかせん(保元ノ合戦)いできたり、よしともがだいりへ(内裏)めされ、ためよしはゐん(院)の御所へめされ・・



ためよし(為義)はゐん(院)の御所へめされ、子ども六人あひぐして、ゐん(院)の御しよへぞまいりける。ほうげん(保元)のとし、七月十一日、とらのこくにいくさはじまりて、たつのときには、いくさはててけり。ただ三時(みとき)にいくさやぶれて、しんゐん(新院)まけ給ふ。そのとき、ためよし(為義)は天だいさん(天台山)にはせのぼり、しゅつけ(出家)し、きほうはう(義法坊)とぞ名つけにける。子なれはよも(や)見はなさじとて、よしとも(義朝)がもとへくだりけり。けれども、てうてき(朝敵)なればかなはず、やがてよしとも(義朝)うけ給はりてきりふしこそむざんなれ。よしとも(義朝)、ほうげん(保元)のけんしやうに、はりまのかみ(播磨守)になりにけり。しやてい(舎弟)六人めしいだされ、五人はきられぬ。ためとも(為朝)一人はおちたりけるが、ほどをへてきうしう(九州)田の祢といふところよりめしいだされて、いつのくに(伊豆国)へながされたり。ついにはこれもきられにけり。こども四人もきられぬ。よしとも(義朝)(ばかり)のこりたりけれども・・




よしとも(義朝)(ばかり)のこりたりけれども、平治元年に、あくうえもんのかみのぶより(悪右衛門頭信頼)にかたらはれて、むほんをおこし、子どもおほくもちたりしかども、三男うひやうえのすけよりとも(右兵衛助頼朝)とて、十三になりけるをまつだい(末代)の大しやう(大将)とや見給ひたる。うすかね(薄金)といふよろひ(鎧)をきせ、ともきりといふつるぎはかせ、さきにうつたてけり。されども、てうてき(朝敵)なれば、はやいくさにうちまけて、よしとも(義朝)はみやこをおちて、にしあふみひら(西近江比良)といふところにとどまりて、よもすがら八まん大ぼさつ(八幡大菩薩)をぞうらみたてまつりける。むかしはこのつるぎをもって、かたきをせめしに、なびかぬ草木もなかりしに、世のすえになりて、つるぎのせいもうせぬるかや。大ぼさつ(大菩薩)もすてさせ給ひたりか、是ほどにいくさにさうなく、まく(負るけ)べきにあらねども、よしとも(義朝)がおほち(大祖爺)よしいゑ(義家)は八まん大ぼ・・




よしいえは八まん大ぼさつの御子として八まん太らうと名をつき、七代までは、いかでかすて給ふべき。よしともまでは三代なりとて、よどろみたる御しそんにいはく、われなんちをすつるにあらず、もつところのともきりまるといふつるぎはまん中がとき、にはかにあたへしつるぎなり。ひげきり、ひざまるとてはじめのままにてあらば、つるぎのゐせいあるべきに、しだいに名をつけかゆるによつて、つるぎのせいもよはきなり、ことさらともきりといふ名をつけられて、かたきをばしたがへしとて、ともきりとなりたるなり。ほうけんにてためよしがきられ、子とももみなほろびし、ともきりといふなのあるゆへなり。このまひ、いくさにきりまけしども、ともきりといふつるぎのなのとくなれば・・




ともきりといふつるぎのなのとくなれば、まったくわれをうらむべからずと、むかしのなにかへしたらば、すゑははんじやうすべきなりと、あらたに給しけんありければ、よしともゆめさめて、まことにあさましくぞおぼえける。この事をうけ給はるに、あしくつけられたりけるものかな、さては、むかしにかへすべしとて、ひげきりとぞよばれけり。さて、ひらをいでて、たかしまをとをりけるに、よりとも馬上にてすこしまどろみて、ちち、きやうだいにもをくれたり。そのへんのものども七八十人はせあはせて、いけどらんとしたりけるに、よりともおどろひて、ひげきりをぬひてたちはらひければきずをかうむ・・




きずをかうむるものおほく、又、しするものもそのかずしらずぞおほかりけり。ひげきりにかいみやうしけるしるしとぞきこえける。




そのよはしほつのしやうしのもとにしゆくして、やはんばかりに、みちしる人をえて、ひがし江しうへうつりにけり。ふちかは、ふはのせきもふさがりて、京よりうちてのくだるときこえければ、よしともはゆきの山にわけ入にけり。よりともはおさなきみなれば、大ゆきをわけがたくて、山くちにとまりにけり。あじゅげん太はひとりはなれて、ひだのくにへおちぬ。よしともはともながばかりをあひぐして、みののくにあうはかのちやうがもとにとどまりて、うらずたひして、おはりのくにたつみのちう人おさだのしやう忠むねがしゆくにして、平治二年正月一日のさうてうにしうじう二人うたれにけり。ただむねはよしとものらうじうまさきよがしうとなり。さうでんのしうとむこをうつて、世にあらんとおもふこそうたせけれ。ただむねはしうじう二人のくびとこからすといふたちとをば、みやこにのぼせ、へいけのけんざんに入てけり・・




ひやうえのすけよりともは山くちにすてられたりしが、ひがしあふみくさののしやうしやうしといふものにたすけられ、おはしまし、天じやうにかくれいたりしほどに、よりともおさなけれども、かしこき人なりければ、つらつらあつしけるは、われかくれゐてありとも、ししうにあらはれなん身こそはさてはつとも、げんじちうだいのつるぎをへいけにとられん事こそ、にくろうけれ、いかにしてか、かくすべきと思ひつつ、しやうしにかたりていはく、この日ころやしなはれたてまつるも、ぜん世のことにこそ侍りめ。いまは一かうおやかたとたのむなり。おはりのあつたの大ぐうじはよりとものためにはははかたのおちなり。それまでこのたちをもちてくだり、申さるべきやうは、よりともはしかじかのところにふかくしのびてさふらへども、ついに・・




ついにはのがるべきにあらず。たとひよりともこそころさるるとも、この太刀うしなはじとぞんじ候。しるべくは、あつたのやしろにこめをひてたまひ給へとのたまへば、しやうし、おはりにくだり、大宮じにこのよしを申ければ、すなはち、ほうでんにをさめてけり。さるほどに、きよもりのしやてい、みかわの守よりもりは平治のかせんのけんしやうに、おはりのかみになり、しかるにさふらひの中に弥平兵衛むねきよにもくだいにて、くだりけるが、上らくの時、ひやうゑのすけかくれておはしましけるを聞つけて、さがしとりて、のぼりにけり。やがてむねきよ、あずかりにけり。しざいにをこなはるべかりしを、いけのあまごぜんのしきりに申うけて、いつのほうでうひるがこじまへぞながされける。二十一年のせいさうをへて、卅四と申ける・・




申けるちせう四年のなつのころ、たかくらのれうじ、ならびに一ゐんのせんじを給つて、むほんをおこされしとき、あつたのやしろにこめられしひげきりを申しいだして、たいしけり。




さてこそ日本五畿七だうをはうちしたがへ給ひけれ。平治のかせんのとき、ときははらの子にうしわかとて、そののち九つのとし、くらまでらの一のあじやりとうくはうばうしんえんのでしかくえんはうあじやりえんぜうにしたがひて、がくもんし、のちには、しやな王ことぞ申しける。十六と申しける。せう安四年の春といふ、かねあきんどにあひともしてとうごくにくだりけるみちにて、身つからおとこになりて、九らうみなもとのよしつねと名のり、あうしうのごん太らうひでひらにたいめんす。かくて、しばらくははくわいをしほどに、ひやうえのすけのむほんのくはだてと聞えければ、よしつねよろこびはせのぼり、かねさはといふところにて、あににけんざんす。むかし今の物かたりし。たがひによろこび給ふ事なのめならず。しなののくにのちう人きそのくわんじやよしなか、是もたかくらの宮のれうじを給ひてむ・・




むほんをおこするあひだ、しなのかうつけをはじめとして、ほくろくどう七かこくうちなびかし、みやこにのぼり、平けをせめおとして、天下をわがままにするあひだ、今は院の御所ほうちうじどのにをしよせて、けくけいうんかくに、ところもをかすかつせんして、はうくわし、やきけりぬ。しかのみならず、ゐんをも五でうのだいりにをしこめまいらせ、くぎやう殿上人をもくわんしよくをとどめて、おひこめらる。これによつて、くげよりくわんとうに御つかひありて、ことのしさいをおほせらるるあひだ、兵衛のすけ大きにおどろき、しやていかばのくわんじやのりより、九らうくはんじゃよしつねを大しやうとして、六万よきをさしのぼす。げんりやくぐはん年正月廿日、みやこに入、木そさまのかみをせめ・・




せめおとして、大津のあは津にて、くびをとる。その後、平家ついたうのために、せつ津のくに一のたににはつかう(発向)するところに、くま野のべつたうけうしん(教真)が子そく五人をば、ほんぐう、しん宮、なち、わたなべ、五かしよにわけてをく。このうちに、いつれも長じたらんものを、べつたうをつがすべしと、ゆいごんしたりけるが、そのころ、わたなべのたんぞう、長じたりければ、べつたう申しけるは、げんじは我らのははかたなり。げんじの代となさん事こそ、よろこばしけれ。ひやうゑのすけよりともも、たんぞうがためにしたしきぞかし。そのおととのりより、よしつね、すけどののだいくわんにて、木そついたうし、平けせめにくだらるるよし、そのきこえあり・・




そのきこえありけり。げんじちうだいのつるぎ、もとは、ひざまる、くもきり、いまはほえまるとて、ためよしの手より、きうしん(教真)にてまいらせたりしを、申しうけて、源じにあたへ、へいけをうたせんとて、ごんげんに申し給て、みやこにのぼり、九郎よしつねにわたしてけり。よしつねことによろこびて、うすみどりとかいみやうす。そのゆへは、くまのより春のやまをわけて、出たれば、うすみどりとなつけたり。このつるぎをえてより、日ころは平家にしたがひたる、せんをむ(山陰)せんやう(山陽)のともがら、なんかい(南海)、さいかい(西海)のつはもの、げんじにつくこと、ふしぎなれ。二月三日、源じはみやこをいでて、一のたににむかふ。ぐんひやうを二手にわけて、のりよし大しやうぐんにて、五万よき、せつつのくによりおしよす・・




せつつのくによりをしよす。うしろつめの大しやうぐんよしつね、みくさ山よりはつこうす。大手。からめて、同心に、七日のうのときより、みのときにいたるまで、さんざんにたたかふ。源じいくさにうちかつて、へいけはかけまけ、おもひおもひに、をちにけり。平家の大将軍ゑちせむの三位みちもり以下八人までうたれにけり。




同十三日、一もんのくびぞ、のぼりのくびども大ちをわたして、ごくもんの木にかく。そのおんしやうには、八月六日に、九郎おんざうし左衛もんのせうになり、やがて、つかひのせんじをかうふりて、五位のせうにとどまり、大夫判官とぞ申しける。かばの御ざうしのりよりはみかはのかみになされけり。おなじき二年二月十一日に、又、平家せめにわたらんとて、わたなべ、かんさきにて、ふねそろへをしけるとき、九らう判官とかちはら平三かげときと、さかろをたてう、たてじのこうろんして、中ふわになりにけり。されども、よしつねは大風にもおそれずして、わずかに舟五十そうはかりをしはたし、ただ五十きばかりにて、はせわたる。かちわらはこのいしゆにやきけん、大かぜにやおそれけん。あくる日にぞわたしける。よしつね、然に、あんないしゃをしるべにて、やしまのたちをやきはらひ、三月廿二日には、ながとのくに、あかまのせきにはせむかふ・・




あかまのせきにはせむかふ。のりよりは九こくのぐんぴやうをあひぐして、ぶぜんのくににもんじのせきにむかひ、平家を中にとりこめて、たがひにかぎりとぞたたかひける。ついに平家せめおとされて、せんていをば二位どのおひまいらせて、うみにいらせ給ひけり。さきのおほいどの以下、三十八人いけどられけり。はうくわんどの、ざいざい、しょしょにて、おほくのたたかひしけれども、一しよもきずをかふむらじ。まいどのいくさにうちかつて、日ほんこくに名をあげしことも、ただこのつるぎのちからなり。よしつね、なんかい、さいかいをうちしたがへ、平家のいけどりどもあひぐして、三しゆのじんぎもろともにみやこへかへし、入りたてまつりけり。ただし、三しゆのじんぎのうちほうけんはうせしけり。ないしどころとしんじばかりみやこに・・




みやこにのぼせ給ふ。




さて、九らう大夫の判官よしつねは平しのいけとりどもあひぐして、くわんとうへげかうありけるが、かちわら平三かがむけんによって、こしごえにせきをすへて、それよりかまくらへはいれられず、はうくわんほんいなき事におもはれ、いろいろのことをかきかきしるして、たひなくまいらせらるる。とはいへども、もちいずして、そののちみやこにのぼりける時、はこねの・・




はこねのごんげんにまいりて、きやうだいの中いかにもしゆんしゆくするやうにとて、うすみどりの剱をまいらせらるる。そののち、とさはう正けん、みやこにのぼり、たばかりうたんとしけれども、判官心えておはしければ、ついにはうちそんじて、くらまのおく、そう正がたににこもりたりけるを、くらまほうし、むかしのよしみありければ、すなはち、からめとつて、はう官にたてまつる。つかさのせうともくににおほせて、六でうにしのしゆしやくにて、ちうせられけり。くはんとうより、かさねてうつて上らくのよしきこしければ、よしつね五百よきをめしぐして、さいかいにをもむきたまへども、つのくに大もつのうらをすぎて、あくふうにおどされて、あまたのふねどもふきちらされ、ついに・・




ついに、しつかといふしらびやうしをめしぐして、よしの山に入、そのうちほくろくだうにかかり、あふしうにくだり、ひでひら入だうをたのみて、二三年ありて、文治四年四月廿九日、五百よきにてせめけるに、はうぐわんやすひらにむかつていくさして、ともためとて、女はう廿二、わかきみ四さい、とうさい子のひめぎみ、わが身三十一と申しけるに、ほんいをもとげずして、ついにじがいしてこそうせにけれ。中もなをらぬものゆへに、つるぎをごんげんにまいらせけるも、うんのきはめとぞおほしける。建久四年五月廿八日の夜、さがみのくにそがの十郎すけなり、おなじき五らう時むねが、をやのかたきすけつねをうちけるとき、はこねのべつたうきやうじつが手より、ひやうごくさりの太刀をえたりければ、おもふやうに、かたきをぞうつたりける。このたちは九郎・・




九郎はうぐわんのごんげんにまいらせたりし、うすみどりといふつるぎ、むかしのひざまるこれなり。おやのかたき、こころのままにうつて、日本五畿七だうにきこえあげ、上下万人にほめられけるも、このつるぎのいとくとてきこえける。その後、かのひざまる、かまくら殿にめされけり。ひざきり、ひざまる、一ぐにて、多田の満仲、八まん大ほさつより給つて、源氏ちうだいのつるぎなれは、しはらく中絶すといへども、ついには一所にあつまる事、きたいのふしぎ、天下おさまるべきゆへとかや。



【エピソード1】

「童子切安綱」

 源頼光公が酒呑童子退治で用いたとされる源家の名刀で、「童子切安綱」の太刀は天下五剣の一つとされ、足利将軍家から信長・秀吉・家康と伝えられ、現在は東京国立博物館に所蔵されていると言う。安綱は平安初期の大同年間(806810)に活躍した名前が確認される日本最古の伯耆国の刀工です。

「安綱作・鬼切」

出雲鍛冶「安綱」作・名刀「鬼切」は、『多田五代記』によると、頼光公が伊勢神宮に参拝した時に神夢に御神が現れて授けられたもので、そもそも坂ノ上田村麻呂が伊勢神宮に奉納した太刀です。この太刀で信濃国戸隠山の鬼を退治したことから「鬼切」と名付けられたと言う。

京都北野天満宮には最上家から奉納されたと云う「安綱作・鬼切」が所蔵されている。

(重要文化財)太刀 銘・安綱 (号鬼切) 京都・北野天満宮蔵



 この「鬼切」は『太平記』によれば、新田義貞が佩刀していたもので、最上家に伝わったものと言われている。「鬼切」は安綱作であるが、どう言う訳かその銘の「安」の字が「国」に変えられて、「国綱」となっている。義貞は「鬼丸」と言う太刀も佩いていたと言う。
「鬼丸」は北条時頼が京の粟田口国綱を鎌倉に呼び寄せ作刀させたものであるとされている。







外部リンク

【平家物語剣之巻】国立国会図書館デジタルコレクション





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