北摂多田の歴史 

多田上津城と上津多田氏


「攝陽群談」
満仲公御所𦾔迹、河邊平野村の下、東多田領にあり。
多田蔵人行綱第宅古迹、河邊郡多田村にあり。





 段丘の上が「上津」であり、段丘の下の「御所垣内」に「満仲公御所」と「多田蔵人行綱第宅」があった。右下の東上津の張り出た部分に「多田上津城」があったと思われる。城の東側はワキノ谷とワキ池で守られている。

上空から見た多田上津城址



上空から見た御所垣内と上津


字限図



御所垣内の字限図、御所垣内は二ヶ所に分かれている。






「上津多田氏略系図」 
 「上津多田氏系図」を「利兵衛系図」「大昌寺塩川氏系図」「かわにし川西市史」により改変。上津秀清の娘が多田蔵人行綱に嫁し、家氏を生み、多田行綱勘当の後、娘は家氏を連れて上津に帰り、家氏は上津家を嗣いだ。鎌倉時代は上津姓を名のったが、南北朝時代から多田姓を名のった。




多田兵部元朝(光義・多田庄兵衛)が著わした「多田満仲五代記」 右は「多田神社」東京都中野区によって復刻されたもの。
 


〈外部リンク〉多田神社 東京都中野区






『多田院御家人由来伝記』の上津兵部とは?

①『多田院御家人由来伝記』に、「鎌倉将軍惟康親王(1264~1326)の御代於三河国多田御家人江知行御加増在り、政所新田五郎家氏世良
田子孫、三州下向の時、上津兵部、福武美作同道して、八橋の杜若を取かへりしこと在り。」と記されている。

 世良田満義(1304~1368)は始め「孫次郎」と称した。新田義貞の鎌倉攻めに従い稲村ヶ崎にて安東聖秀を破る。義貞が越前で戦死すると世良田郷(群馬県太田市世良田)に戻った。(太平記) 鎮守府将軍頼信ー八幡太郎義家ー義国ー新田義重ー義季ー世良田頼氏ー教氏ー家時ー世良田三河太郎満義


『多田院御家人由来伝記』に登場する上津兵部とは何者かを考察すると、「上津多田氏系図」によると上津兵部上津源太郎正慶維康親王依御名建治元年二月鎌倉参向云々に比定できるが、系図には無いので上津正慶の兄弟とも考えられる。

正和五年(1316)の多田院三重塔完成供養警護図に塩河氏が筆頭で、多田姓は見当たらず、「上津村九郎次郎」の名がある。








正和五年(1316)の多田院三重塔完成供養警護図






②『三田市史』 「山口氏(多田御家人)について」に次のように書かれている。

 金仙寺は山口村の丸山城の南麓にある。丸山は山口五郎左衛門時角の城址でこの寺は山口氏の菩提所である。古来杜若(カキツバタ)で有名で、本尊観世音菩薩は杜若カキツバタを手にせられたと伝え、多田御家人山口氏が久しくこの地に住んでいた証としている。三河国八ッ橋の杜若を持ち帰ったのであろうか。

 多田御家人由来書に「またその後鎌倉将軍維康親王ノ御代於参河国多田御家人へ知行御加増有、尚新田家へ知行被宛行、則新田政所世良田五郎家氏公参州御下向ノ時、上津兵部、福武美作御供仕り、八ッ橋ノ杜若(かきつばた)ヲ取リカヘル由、後世マデノ印トシテ栄エアルナリ。」とある。 この上津兵部は多田の御家人にて多田庄上津の産にて山口氏の祖となっている有馬郡誌六一二頁 

 なお長尾村上津コウズ(神戸市北区上津)には上津城址(別名:茶臼山城)がある。上津氏の城と謂う。
 長尾村(神戸市北区)宅原えいばら(豊浦)に満仲松という老松あり、その下に宝篋印塔五輪塔一列に七、八基列び多田満仲の墓といい「満仲松」と称する。これは蓮花寺神戸市北区長尾町上津の墓所で蓮花寺は源頼信入道蓮心が菩提の為に建立したものであり、多田御家人が満仲頼光頼信等の供養所として建てたものであろう。多田源氏全盛時代の面影をのこしている。この塚の下に普門という氏の旧家があり、源家の公文所を置いた屋敷であろう。有馬郡誌六一四頁

 山口氏については多田満仲の子頼光の末裔、多田蔵人行綱の第二子に家氏があり多田満仲五代記には「多田上津住」とある。この家氏上津多田氏系図では家綱を一応上津兵部に比定しておく。以上。三田市史

上津家氏を上津兵部と比定しているが明らかに時代が合わない。



〈外部リンク〉丸山城

       上津城  こうずじょう 別名:茶臼山城







多田越中守春正(1525~1567)
 
多田越中守春正は多田満正(満生)公の遺児で源次丸こと多田満信(上津氏)と多田蔵人行綱の血脈である。永禄10年8月5日の夜半伊丹の軍勢に攻められ落城し、多田春正は自害した。多田家の菩提寺「忍辱山瑞藤院正法寺」「上津観音寺」「上津善源寺」は焼失した。





井上塩川氏系図



 塩川勘十郎頼重は大阪陣の後、東畦野の井上左近の聟となり井上氏を称した。井上重勝の母は「塩川信濃守(貞行)娘とある。井上氏系図にとると、井上重勝には嗣子が無く、上津多田氏の重次(重治)が嗣子となった。しかし、重治の子重教にも嗣子が無く、塩川信濃守吉大夫頼運の子頼尋の末裔塩川頼尚が(塩川氏系図参照)嗣子となった。


塩川氏系図






『忍辱山瑞藤院正法寺略記』



忍辱山瑞藤院正法寺の開基は善如大姉。善如大姉は源頼光公の北之政所で平惟仲公の御息女也。治安元年7月24日、源頼光公薨ず。「理正院殿正四位下鎮守府将軍兼前摂州太守頼慶大居士」。北之政所は剃髪し「善如大姉」と称し、上津城内に一宇を建立し、天台宗「千面堂」と称し、忍辱山正法寺を開基した。多田家は代々上津之城に在城。中興は「正壽院殿従四位下頼仲大居士。貞和5年8月5日薨ず。


多田越中守春正、宝壽院殿、永禄10年8月5日薨ず。「伊丹の一族夜半に襲来り放火故一族一戦之後越中守自害。その後廃城となる。春正の幼息後に「覚正院浄閑入道」は正法寺を一庫村に移し、禅宗となり、多田家代々の女を住職とする。


多田越中守五代多田兵部の娘禁裏御報公相願い、東山院様御代に召し出され「湊」と名付けられる。
多田兵部光義(元朝)は「多田満仲五代記」の著者。


「頼光寺」は「無常来迎庵」と称していたが、寛文11年、塩川五右衛門が新たに建立し頼光寺と名を改めた。


一庫村の真言宗「月光山普門寺」は元文年中、「千住院」と「慶積寺」となり、後に慶積寺は「宝珠院」となった、現在は慶積寺となっている。






鯖江藩植田家文書

京都に住んでいた「多田満仲五代記」の著者多田兵部光義(元朝)は新井白石に呼ばれ間部塩川氏の由緒を尋ねられる。

新井白石から間部詮房に宛てた手紙(福井鯖江藩植田家文書)

京都のはつれ九條辺に多田兵部と申すもの有之候。身上よき楽浪人にて候。これハ多田の院御家人衆と申し候中ニて満仲已来の御家人ニて八幡侍、加茂侍などと申すやうなるものニて、田地等もち候て、地侍と相聞え候、かの兵部方ニ色々ふるき文書等有之と承候て、なにとなく召よひ、色々さやうの物なと見候うちニ、細川の管領晴国より塩川


弥九郎殿へと有之候感状有之候。此塩川ハなにものぞと承候えば、まつ多田院御家人の中に塩川と申すは藤原仲光の後胤にて頭たちたる家にて候。その子孫塩川伯耆守と申すは京都将軍の末つかた信長時代ニかくれもなきものにて候。さて此弥九郎と申すハその伯耆守猶子ニも仕られし様にて候。そののち同国六瀬と申す所ニ山問左京亮と申すもの反逆の事ニ付管領より


伯耆守等の大和の国人に仰せて御うち候時此弥九郎かの大将左京亮をうちとり候に付晴国大に感じ給ひ感状を給り候時ニ弥九郎も無比類高名いたされ候と存せられ候故か本氏にかへてマナベ弥九郎へと御書のせ給候やうニとねがひ申され候えとも陣中の事故か又伯耆守申す旨も候ひしか塩川弥九郎としるし給セ候故弥九郎何のせんもなき感状にて候とてうちすてられ候と承及候さてそののち慶長五年関ヶ原の陣の時山川六左衛門と申すものと申し合せ両人うちたられ候か六左衛門ハ手負ヒ


帰国ののち相果候弥九郎ハそれより本国へハ帰らず本国へもありつれ候か音つれとても無之これニより弥九郎居屋敷ハぬしなしニ罷り成候ニ付すなはち某が家ニてももとめ得候て只々某が第にて候ものの居住とはなり候それ故ニ弥十郞うちすてられ候感状なとも此方ニ有之候事にて候由しハ扨其弥十郎と其方の家とは親族歟とたつね候へはなにのゆかりもなく候と申候さて又マナベとはいかがしるし候か真鍋ともしるし間部ともしるし候歟いつれのかたと候歟とたつね候へばされば其事ニて候惣而多田の院が家人と申すは満仲の御時の御家人の子孫共にて子孫ひろがり候


故に家数も多くわかれ候就中多田院御家人馬引帳と申して御祭礼の時恒例ニて神馬と称し候次第の帳面ふるきものにて多田院ニ候その帳面の中ニマナベと申す名字ハ無之候所ニてもマナベ屋舗とはかり申す事ニて百姓地侍等文盲ものどもの口にて申傳へたるハかりニて候間名字の文字は存せす候かマナベ屋敷と申す事ハあまねく皆々申す事すなはち某第の住所にかと但し塩川伯耆守名字をもくれられ候事にて候へば一族の中しかるべき人とは存せられ候彼馬引帳の中に名名字をしるさずして政所待田政所としるし候が有之候大かた此両政所の中一つがマナベの家ににて可有之をその職名


ハかり申し傳ふる様にて候由申候扨此感状ハそなたの家の物にてもなし主なしものにて候晴国の判の物を我等いまだもち候ハぬ間くれ候ハん哉と申候へば某が家の事ニてもなく候間入り申さす候御望ならは御とめ候へと申候間もらゐ候て置候間此度進之候 右 先年貴公様御初官時御家姓を御たつね候き其時ニ藤原にても可有之歟と申入候と承候へばはたして藤原仲光の御後胤にて候歟よき事承り出し候某先年の口もあひ候て大悦此事にて候其証拠のため晴国感状進申候但しかの弥九郎と申す人関か原ののち


東照宮駿府へ御うつりの節ニ御家へ出られ候而御奉公も候ハはもしハ貴公様御先祖にても候ひしやらむその段ハはかりしりからく候間壱通の事迄ニて候ただただマナベは塩川の一族也塩川か仲光已後嫡々の家と申せはマナベ氏仲光の後胤とはたしかに相聞く候此処が秘蔵の事ニて候と存候事ニて候 又 かの多田兵部至極田舎侍のりちぎものと相見え口上もよからす其上田地沢山ニもち金銀有候而本国を出候て京ニて楽人にて大勢くらし候て居候ものにてすこしも気つかひなき男にて候其上其身の事ニも無之やくにたたぬ晴国の感状ニて入候ハバ


くれ候ハんとてくれ候てとり候へばさる人の先祖の事を我等存候醫者のとりもち候て書付なと作り候て進候例とは似申さぬ事第一ニ此感状マナベとは見へず塩川とみえ候へば少しもいやなる事もなきものニて候間我等もなにとなく晴国の判物かめつらしく候とてもらひ候間進候する事ニ候畢竟の珍重の所は御名字ハ藤原氏とこれニてたしかにしれ候所か肝要の所と可被思召候事候帰府之のち可申上候如此の事承り出候事も今度不忽ニ上洛候上の御恩故と珍重ありかたき事ニ候 正月十六日

細川晴国の感状







同じ日付の細川晴国の感状が猪名川町の仁部家にもあるという。天文三年の「小舟山合戦」の時のものという。(猪名川町)





【間部家略系図】
藤原鎌足ー不比等ー房前ー魚名ー鷲取ー藤嗣ー高房ー山蔭ー中正ー安親ー茂季ー季髄ー塩川満任ー季詮ー満詮ー満信ー満親ー 塩川刑部大輔惟親ー三郎満国ー伯耆守満直ー満資ー満貞ー満長ー三河守満永ー兵部少輔満宗ー三河守満重ー刑部少輔満一ー伯耆守一宗ー宮内少輔為宗ー三河守満家ー伯耆守孫太郎信氏ー三郎兵衛信行ー間部弥九郎詮光ー孫十郞詮則ー彦兵衛詮𠮷ー星野詮清ー西田詮貞ー間部詮房







 明応三年頃、塩川三河守満家は一家と改名して、摂州多田の一蔵城を築城し入部する。
享禄四年、塩川伯耆守孫太郎信氏は細川高国に身方して敗れ、多田を出奔して三河国の松平清康に仕えた。
天文四年、松平清康は尾張に出陣し、家臣安部弥七郞に斬り殺され、塩川信氏と信行父子は尾州守山ノ陣から三州岡崎へ帰る途中、伊田にて合戦、三郎兵衛信行は討死した。その時、嫡男弥九郎詮光は五歳であり、泉大津の母の実家である真鍋主馬兵衛貞詮に引き取られて育ち、間鍋姓を名乗った。塩川孫太郎信氏は弘治元年2月22日に逝去した。
 塩川伯耆守孫太郎信氏が多田庄を出奔した後、塩川山城守満定が塩川伯耆守政年を名乗り、一蔵城主となった。同時に、末弟の塩川吉大夫国満も伯耆守を名乗った。 しかし、天文11年、塩川伯耆守政年も「太平寺合戦」で敗れ、多田庄を出奔した。天文18年には三好宗三政長が一蔵城に逃げ込んだ。



 
一蔵城(左)と獅子山城(右)



 真鍋弥九郎詮光は祖父塩川伯耆守信氏と父信行の勲功により徳川家康に召出され浜松城にて家康に勤仕した。天正十年、徳川家康は武田討伐の軍功で信長から駿府城を与えられ、五月中旬、真鍋弥九郎は安土城での戦勝祝いの際に家康に供奉した。安土での祝賀が済み家康は泉州堺へ向かい、廿九日、信長と信忠は上洛し、家康一行は泉州堺での遊興を終え再び京に向かっていた。その節、弥九郎は家康から京の信長に使いに出され、六月朔日夕刻に妙覚寺近くに宿をとった。翌二日の黎明に本能寺の変が起こり、真鍋弥九郎詮光は織田方に加勢して討死したという。

 真鍋弥九郎詮光の子息真鍋詮則は西三河にて流浪した。詮則の子息真鍋詮吉は三河から美濃に移り住んだ。詮吉の子息真鍋詮清は美濃から伊勢山田に移り住み、星野家の養子となり星野姓を名のり、後に江戸に出て明暦三年春の大火にあい再び伊勢山田に帰ったが、再び江戸に住み、寛文十年七月十四日、八十歳で亡くなり浅草九品寺に葬られた。星野詮清の子息星野清貞は武州忍に住み、後に西田姓を称し、猿楽師として甲府宰相徳川綱重に召出だされ江戸に移り、甲府藩邸桜田御殿において小十人組格を仰せつかった。
 延宝六年
(1678)、甲府宰相綱重は兄の四代将軍徳川家綱に先立って死去し、綱重の子息綱豊(17)が甲府藩主となった。延宝八年(1680)四代将軍徳川家綱が逝去すると綱重の弟綱吉が五代将軍となった。
 真鍋清貞の子息詮房は寛文六年
(1666)五月、武州忍で生まれ猿楽師であったが、貞亨元年(1684)19歳の時、甲府宰相徳川綱豊(家宣)に召出だされ、桜田御殿において御小姓として250俵の俸禄を得た。宝永六年(1709) 五代将軍徳川綱吉が逝去すると、綱豊が家宣と改名して六代将軍となった。詮房は家宣の命により姓を真鍋から間部に替え間部詮房と名のり、六代将軍徳川家宣・七代将軍徳川家継に仕え、御側御用人・江戸幕府老中格となり、徳川吉宗が将軍になると御側御用人を罷免された。その間、上野高崎藩主から越後村上藩主となった。弟詮言を嗣子とし、間部詮言は越後村上藩二代藩主となり、後に越前鯖江藩に移封された。

矛盾
 天文3年10月2日、塩川伯耆守吉大夫国満は塩川新左衛門、田中中務丞ら六瀬衆を率いて小舟山合戦(大舟山合戦)に出陣して、10月18日、細川晴国から感状を与えられた。しかし、天文5年(1536)7月29日に細川晴国は討死しており、真鍋弥九郎詮光は父塩川三郎兵衛討死の時(天文4年)5歳であるので、僅か5~6歳の塩川弥九郎が細川晴国から感状を与えられるとは到底考えられず、塩川弥九郎の年齢が間違っているか、或いは「多田家文書」の記述が間違っていることになる。又、「間部家譜」には真鍋弥九郎詮光は本能寺の変の時に討死したとあるが、「多田家文書」を見た新井白石は「慶長五年関ヶ原合戦の時、真鍋弥九郎は山川六左衛門と共に出陣し、山川は疵を負い帰国して死に、弥九郎は本国へは帰らず」とありこれも「間部家譜」と「多田家文書」では違っている。しかし、真鍋弥九郎詮光は享禄4年(1531)生まれで、関ヶ原合戦の時には70歳であり、関ヶ原合戦に参陣したとは到底思えないのである。これらの史料は全て写本であり白石が持ち帰ったという「多田家文書」の信憑性が問われる。多田兵部左衛門光義(元朝)は元禄4年(1691)に『満仲五代記』を刊行した人物であり、多田源氏に関する史料を集め自分なりに研究していた人物であると思われ、新井白石が持ち帰ったという真鍋弥九郎に関する史料と感状は多田兵部元朝が捏造した可能性が高く、それを大事そうに持ち帰った新井白石の姿を想像するとなんとも滑稽である。



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