北摂多田の歴史 

   多田 牛谷鹿嶋氏



『牛谷鹿嶋系図』



①牛谷氏の初見
『高代寺日記』に、「基満夫妻が多田院に参拝し、牛谷某宅に行き、申を待ち翌日帰る」とある。

「正保四年(1647)丁亥、三月朔日、基満夫婦住吉ノ浦ニ遊フ、金田一族奔走アリ、堺所々順参シ、同月八日多田ニ皈、五月九日、基満斉女共ニ多田院ニ牡丹花ヲ見ル横川従、八月二十七日、基満夫婦共ニ多田院ニ参、牛谷某宅行申皈、九月十日比ヨリ斉女不食眩暈発、」


【参照】「申を待つ」とは、「庚申」の日に身体に災いをもたらすと言う三尸(さんし)の虫が身体に入ってこないように夜が明けるまで寝ずに朝まで起きている。「庚申待ち」とも言う。「見猿、言わ猿、聞か猿」は庚申信仰からきている。

「庚申」



 延宝七年(1679)の東多田村の検地帳に牛谷「弥兵衛」の名が見られる。「弥兵衛」は「1649年生まれ」とあることから、この時31歳である。その他「次郎左衛門」「新右衛門」が牛谷氏、「七郎兵衛」が鹿島清七となったと考えられる。その他、木田中村氏・井上氏・西村氏・来田氏・当家中西姓が古文書と過去帳で判明している。



②多田牛谷氏の出自
 牛谷氏がどのようにして東多田に住むことになったのかはよく分からないが、神保基満夫妻とは昵懇であったことがわかる。丹波の神保氏・別所氏・須知氏・養父井氏の縁者ではないかと想像される。江戸時代になって禄を失い、江戸時代前期に丹波から東多田に移り住んだのではないだろうか。兵庫県は全国3番目牛谷姓が多く130家位あるという。特に宍粟市に牛谷という地名があり、県内でも牛谷姓が多いという。現在の牛谷重治郎家の当主が兵庫県のあるゴルフ場に行ったとき、名盤に牛谷姓があったので、クラブの支配人に尋ねると丹波の人だと言うことであった。
 牛谷氏が清和源氏の末裔かどうかはよくわからないが、当時、大金持ちであったようで、多田院御家人株を買って、後に、「多田院長谷川侍」株も手に入れたようだ。牛谷家の家紋は「三柏」だという。




江戸時代(寛政8年1896)、多田院の長谷川侍になっている。東多田では中西五郎右衛門・牛谷利右衛門・西村喜兵衛の三人が選ばれている。(川西市史)





東多田に「牛谷堤」別名「鰻縄手」という場所がある。「牛谷堤」というからには牛谷氏が尽力して土木工事が行われたと思われる。

鰻畷 (牛谷堤共云う)と狸火 (東多田)
霊感スポットか(?)『攝陽落穂集』に「鰻野手に狸火が現れ、この火は人の容姿をして、ある時は牛を牽き、手には火を持っている。その火でたばこの火を借り、相語り合った。雨の夜によく出る」と言う。

「鰻畷火」東多田村鰻畷にあり、此火人の容を現し、或る時は牛を牽、手に火を携出、不知之人、其火を請て烟草を吹、相語る事尋常の如し、曾て不成態、知て欲計之遠く去れり、多は雨夜に出る火炎なり、狸火とも云り。


鰻畷」東多田村にあり。所傳、道細して曲がるに因れり。土俗、野手と云へり。また「牛谷堤」とも言われていた。

上流 下流
 左右が堤になっていた。左図は上流 右図は下流。 かつて下流の川幅はもっと狭かった。大水が出るとこの辺りで水があふれて、水田が水没し。被害が出たので年貢をまけて欲しいと訴えたと言う。下流は水が溢れるように狭く造られていた。

 
東多田の舎羅林山からの雨水は全て「つつみが滝」方面に流れるように作り替えられた。 中央のウナギ状の部分がそれである。

③多田牛谷家は系図によると、本家「牛谷理右衛門家」、分家「牛谷重治郎家」、分家「牛谷弥兵衛家」、分家「鹿嶋清七家」、「下り酒問屋江戸鹿嶋家」「酒問屋大坂鹿嶋家」があった。本家「牛谷理衛門家」は代々多田院長谷川侍や庄屋、戸長を務めた。鹿嶋清七家も代々東多田一ツ橋領の庄屋を務めた。


④江戸と大坂の酒問屋鹿嶋家

 牛谷弥兵衛が伊丹の白雪小西家の援助で、江戸は芝に出て清酒の販売を手懸けた。はじめは「多田屋」と名のっていたが、港区芝にある「御穂鹿島神社」に因んで屋号を「鹿島」とした。仕事が軌道に乗ると、二人の甥、清右衛門と清兵衛呼び寄せた。
 やがて自分は大坂天満今井町で清酒の製造を始め、清兵衛には江戸の本店を任せ、清右衛門は大坂に支店を開いた。江戸二代目清衛門は多田牛谷家から養子を迎え、それぞれ二代目までは順調だったが、三代目江戸本店には母方の東山山脇家から養子を迎え、大坂店も伊丹の小西家から養子を迎えた。次の江戸本店四代目は大坂店三代目清右衛門の三男と四男を招き、三男を江戸本店清兵衛とし、三男の利右衛門には江戸に中店を出させた。
 大坂の清酒製造業の鹿嶋弥兵衛家も孫の三代目弥兵衛が清酒製造に失敗し、大坂店の小西家からの養子鹿嶋清右衛門の末弟に鹿嶋弥兵衛を嗣がせた。実子弥兵衛は安兵衛家となったと言う。商売は三代目で苦労すると言われている。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳がある。是により、大坂と江戸の鹿嶋家と弥兵衛家、全て伊丹の小西家の血筋となってしまったことになる。

 多くの御店(おたな)は、実子の適当な子供が居なければ、商売熱心な番頭に跡取り娘を娶せ身代を譲ったものだが、親類縁者から養子を迎えることも多かった。江戸鹿嶋家も大坂鹿嶋清右衛門の次男政之助に跡取り娘の乃婦を娶せ、政之助を八代目清兵衛を名のらせた。この時の大坂鹿嶋清右衛門は江戸の分家新川の鹿嶋家からの入り婿であった。大坂鹿嶋家は文明開化の波に乗れず、この頃は倒産して一家で江戸に戻っていた。

 江戸鹿嶋家に入った鹿嶋清兵衛はというと、乃婦との間に12人の子供をもうけたが、商売に身が入らず、商売は乃婦と番頭に任せて、当時流行の写真にのめり込んだ。英国人から写真の技術を学び、財力のものを言わせて性能の良い高額のカメラをイギリスから輸入し、今の銀座に大規模な写真館を建設し、弟の清三郎をイギリスに留学させ写真技術を学ばせて、写真館の経営を任せた。自分は好きな写真撮影に夢中になっていた。当時売り出しの芸者ポン太ををモデルに写真を撮っていた。写真では当時の東京ではかなり有名になっていた。
 やがて、家を出てポン太と同棲し13人の子供をもうけたが鹿嶋家からは離縁される羽目になり、ポン太と正式に夫婦になった。生活はポン太が長歌や三味線を教え生活を支えたが、実際には乃婦が清兵衛の実家の家族を含め、全ての面倒を見るという乃婦は太っ腹な女傑であった。
 昭和38年、東京都中央区新川の日清製油本社ビル改築工事中に、土中から大量の天保二朱銀や小判が発見された。現在の価格では10億円は下らないという。その場所は終戦まで酒問屋を営んでいた鹿嶋家の屋敷跡である事が分かり埋蔵金は鹿嶋家に引き渡された。乃婦が清兵衛の放蕩に持ち出されまいと、埋めて隠していた財産であったという。


外部リンク
「鹿嶋清兵衛」(1866/慶応2年 ~1924/大正14年)

「御穂鹿島神社」



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